>やおろず《雛の段》




 大学生活の何が嬉しいって、春休みがやたらと長いことだろう。あたしは去年の受験地獄を思い出しては、しみじみと現在の喜びをかみしめていた。ひとり暮らしをはじめてもうすぐ一年となる二月下旬。その日、部屋に戻るまではあたしは確かにしあわせだった。
 そう、その荷物を受け取るまでは。
 マンションの入り口で隣に住む大家さんに声をかけられて、何かと思えば留守の間に宅配便を預かっていたという。ありがとうございますとお礼を言って、なにやら大きいけれど重くはないダンボール箱を受け取った瞬間、あたしの耳を甲高い悲鳴が攻撃した。
「信じられませんわ! 貴方はどこまではしたないのッ!」
「うわあ!?」
 取り落としそうになったのは当然のことだろう。だがなんとか持ちこたえたところで引きつった顔を上げれば、大家さんは驚きながらも心配そうな顔をしている。
「ど、どうしたの。重かった?」
「いや、軽いんですけど……あの。今の、聞こえません、でした?」
 まさかまさかまさか。あたしはとてつもなく動揺しているが大家さんは不思議そうに首を振るので、これはいかん平静を装わなければと瞬間的に判断する。あたしは何でもないと笑みを作ってひらひらと手を振った。正直、この荷物ともオサラバしたい気分だけど。
 あたしはまだキイキイと騒いでいるダンボール箱を部屋まで持ち込み、厳重に鍵をかけるとワンルームの中央に駆け込んだ。送り主が実家の住所になっている送り状を引っぺがし、ちぎれんばかりの勢いでガムテープも引きはがす。そしてその箱のふたを開けたとたん。
「もうようございます! 新しい奥様でもなんでも好きに見つけていらっしゃい!」
「主に向かってその言い草はなんじゃ! ああそなたなぞもう知らぬ!」
 一組のひな人形が痴話げんかをしていた日には、春先のしあわせなんて一息で吹き飛んでしまった。



「家神さん家神さん出てきてっつかさっさと出てこい!」
「なんじゃなんじゃ、騒がしいのう」
 窓際に置いた手製の祠を叩いたところで、わが部屋の《家神》はあくびをしながら現れる。毎度毎度、そのカラーボックスの上にあぐらをかくのはやめてよと言いたいのだが、今はそれどころではない。
「見りゃわかるでしょ、大変なのよ。なんかおひなさまが! ケンカして!」
「おお、夫婦喧嘩か。なんだ楽しそうじゃないか」
 窓ガラスが割れそうなほどの大声で口論されて、何が楽しそうなのか。あたしはにやにやと着流しの袖をまくる神さまを睨みつけた。

 この国にはやおよろずの神々がいるという。やおよろず、とは八百万と書くがこれは厳密な数ではなく、途方もなくたくさんの、という意味をもつらしい。ようするに一千万だろうが一億だろうが存在する可能性があるということで、考えただけで気が遠くなりそうな話だ。ちなみにあたしはおばあちゃんが「やーろず」と訛って言うのを聞いていたから、ついこの間まで「やおろず」だと勘違いしていた。ついでに言えば本当にそんな神々がいるだなんて、真剣に信じてはいなかったのだが。
 一年前、その間違いを正す事態があたしの身に起こってしまう。大好きなおばあちゃんの葬儀の夜、あたしはもうすぐ壊されるおばあちゃんの家の庭で、小さな祠を見つけたのだ。古びたそれはあたしが生まれるずっと前からこの家にあるもので、これももうすぐ壊されてしまうのかと何気なく手を触れた時。
「ほう。今度の当主は町住まいか」
 祠の上で、そいつはにやりと笑みを浮かべた。
「いや、今ではなくいずれそうなるという話だ。お前が跡を継ぐのだろう?」
 一瞬、どこかで見たことがあると思ったのは気のせいなのか、それは今でもわからない。
 若い姿に似合わない年寄りじみた言葉と表情。異形というにはあまりにも人間らしい顔立ち。
 この家の《家神》は、楽しむように笑って言う。
「ならばわしがお前の家を守ってやろう。安心して暮らすがいいぞ、澄香」
 その瞬間、あたしは神さまに“取り憑かれた”。
 比喩ではなく本当に取り憑かれたというしかない。何しろその日を境に、あたしにはやおよろずの神々が見えるようになってしまったのだから。

 そして今日もまたその取り憑かれの弊害が起きている。あたしは他の人たちには聞こえないはずの人形の声にうんざりと耳をふさぐ。ついでに愉快そうに笑うばかりの家神の姿も消せればどんなにすっきりするだろう。こいつは仮にもこの部屋の守り神のくせに、いまいち真面目に仕事をしない。
「まあ腹立たしい! そんな顔見とうございませんわ、はやくあちらを向いてちょうだい!」
「なんという口じゃ! そなたこそあちらを向けい。ええいらちがあかぬ。澄香! 澄香や!」
「呼ばれた!」
 箱の中からいきなり名指しで本気で驚愕してしまう。家神を見ると「行け行け」と笑顔で手を振っていて、本当にあんたはなんのためにいるのかと殴りたくなってくる。澄香、澄香と馴れ馴れしく呼ばれる中、あたしは部屋を見回して味方がいないか捜してみた。だが《かまどの神》も《便所の神》も《米びつの神》も《寝具の神》もみな持ち場を離れようとせず、目をそらしたり口笛を吹いたりと人間らしいことこの上ない。
「夫婦げんかは犬も食わんというからのう」
「あんたの管轄でしょうが家神さんよぉお」
 泣きたい気分でしかたなくダンボール箱へと近づいた。
「おお、澄香よくぞ来た。まろを外に出してくれ」
「……あたしには一人称がまろの知り合いはいないはずですが」
 ひい、とわざとらしいまでの驚愕の声。上からでは梱包材と紙に包まれてわかりづらいが多分お内裏さまらしきものは、よよよと泣きそうな雰囲気で嘆きはじめる。
「なんと、まろのことを忘れたか。ああ恩知らずなことじゃ。なあお前」
「知りませんわ。どうぞご勝手に」
「知らぬとはどういうことじゃ! これは大事な……」
「はいはいはいわかったから! 出すからちょっと静かにしてよ!」
 送り状に記されていた「内容物:ひな人形」がこんなにも恐ろしく思えるなんて、人生は何があるかわからない。あたしは厳重に包まれた人形の片割れを、そろそろと持ち上げた。薄白い梱包材を剥がし、顔を包む古びた和紙をくるりと外したところで現れたのは、細面のお内裏人形。ちょこんと座ったポーズのそれは、最近のまばゆく輝きそうに豪勢なものではなく、よく言えば落ち着いた雰囲気であり、悪く言えばほこり臭い。年代もののそれは、間違いなく母が子どものころから使っているお下がりのおひなさまだった。小さい頃から三月にはこれをずっと飾ってきたものだ。今年からはひとり暮らしということで、縁がないと思ってたんだけど。多分お母さんあたりがせっかくだからと送ってくれたのだろう。
 懐かしさを感じたところで目の前に見知らぬ男の姿をみつけて、あたしは思わず人形を取り落としそうになった。
「おお! 危ないではないか。これ、慎重に扱え」
「お、おおおおおお内裏さま……!?」
 ひな人形そのままの衣装を着た、あたしよりも大きな人間。いや、人間の男に見えるがこれは《ひな人形の神》なのだ。わかってはいるがいきなり登場されてしまうと腰が抜けてしまいそうで、あたしは彼の白く塗りたくった顔面をひたすらぽかんと見つめてしまう。バカ殿に似てますねって言ったらやっぱ怒られるかな。
 お内裏は手にしたしゃくを振ってみたり、袖を引いたりくるりと回転してみたり、と大きくなった体を試しているようで、最終的には鏡を見て「ううむ」とうなってみたりする。あんたちょっとは気を使ってよなにひとりで遊んでんの。珍客に驚いたのか、《鏡の神》まで裏面に逃げてしまった。
「これ、きちんとまろを映さんか。そうじゃそうじゃ……ううむ、やはり時代が違うのう」
「あの、話が見えないんですが」
 《鏡の神》を引っつかんでまで何をするのかこの人は。そもそもどうしてこんなにも偉そうなのだろう。お内裏は細い目を弓形にして笑う。
「聞いておったじゃろう。まろはあやつを離縁することにしたのじゃ」
「はあ!?」
 部屋中の神々が一気にざわめいた気がした。あたしはみんなの代弁者として彼に問う。
「ちょ、離縁って、えええ?」
 だが家神だけは面白がる顔で膝を叩いた。
「そうか、思いきったものだのうお内裏よ」
「ほほほ。時代は今自由な夫婦構成を求めておるのじゃ。いわゆる熟年離婚というやつじゃの」
「そんな中途半端に現代用語を入れられても!」
 しゃくを口に当てて笑う姿がいかにも楽しそうなので、あたしはまたもや混乱する。だがとりあえず一方的はよくないと考えて、あわててもう一体の人形を取り出した。はらりと紙をはがしてやれば、出てきたのは薄く微笑む十二単のおひなさま。だが首元にくすんだ茶色のごみのようなものがついている。何気なく指先で剥がしてみると、その下にはかすかな傷がついていた。
「……うわ、痛そう」
「ご心配なさらないでくださいな。今はもう平気ですの」
 ふわりとお香の匂いがしたかと思うと、真正面に十二単の女の人が座っているのでびくりとする。
「あ、あ、そうだよね。びっくりしたー……」
 まあ当然おひなさまも人間サイズで現れると覚悟はしていたはずなのだが、何しろお召し物が十二単である。八畳のワンルームにはあまりにも荷が重い。じゅうたんを敷いたフローリングはおひなさまの着る鮮やかな赤い衣でまぶしいほどに明るくなった。
 しかし、彼女はえらそうなお内裏とは違って、ただ座っているだけの物腰もたおやかに見えていかにも雅という感じだ。哀しげにうつむいている首筋には、本体と同じ鋭い傷跡。大きくなればよけいに痛々しく思えるが、白塗りの面立ちや、手に持つ華やかな絵柄の入った扇、それになにより古くても豪華に見える十二単には女の子としての魂を揺すられるものがある。
「きれーだねー……」
 ほう、とため息をついて言うと、おひなさまは驚いたように顔を上げる。
「ほ、ほんとう?」
「うん。その大きさもだし、人形タイプもきれい。やっぱおひなさまはいいなあ」
「……ああ、嬉しゅうございます」
 金の冠を倒してうつむいた、かと思うとほろほろと涙を流したのであたしは悲鳴をあげたくなった。おひなさまは恥ずかしそうに扇で顔を隠しながらもかすかな嗚咽をもらしている。
「わ、わたくしは、わたくしは……」
「ふん。ただのお世辞ではないか。何を本気にしておる」
 冷ややかな声に十二単の肩が揺れた。おひなさまは赤く腫らした目をつり上げて叫ぶ。
「あ、あなたは……もう、知りませぬ。はやく出ていってくださいませ!」
「はじめからそうすると言っておろう。ささ、澄香や。まろを外へ出しておくれ」
「ごめんなさい本気で話がつかめません。なに、もう出してるじゃん」
 しゃくで手招かれてもこれ以上どうするべきか分からない。首をかしげたい気持ちでいると、家神がとんでもない説明をした。
「澄香よ。お内裏殿はこの家の外へ出せと言っておるのだ」
「はあ!? なに、外に出て何しろって言うの!?」
 第一この人形をもってしずしずと道端を歩けというの? そしてそれでどうしろと!
「新しい嫁探しに決まっておるだろう。ほれ、行かぬか。ああそうじゃその前に姿を変えてしまいたいの。これでは時代遅れとぎゃるに笑われてしまうわ。ほれ、まろを現代風にしておくれ」
「ぎゃるってなんだ! 何を嫁にするつもりよ!?」
 だがツッコミも虚しくお内裏は瞬時に現代若者らしい平服に変化していた。そう、あたしの考え方次第で神々の姿は変わるのだ。二〇〇〇年製造のトイレに宿る神は幼い姿、おばあちゃんの家から連れてきた口うるさいかまどの神は、いかにも頑固な老人へと。そして今回もまたちょっと想像してみただけで、お内裏は大量生産品らしきシンプルなシャツとジーンズ姿になってしまった。部屋の隅にユニクロのチラシが落ちているからいけないんだ!
「ほう。これもなかなか似合うのう」
「あああああ……自分が憎い」
「澄香はええ子だのう」
 どうしてそう近所のおじいちゃんみたいな笑い方をするのか家神。外見が和装の青年なだけあってなんだか不思議な感じがする。ところでお内裏、顔が白塗りのままなんですけど。しかもおちょぼ口な上に眉は丸くてぽちりとしている。間抜けだが、本人は気に入っているようでふふんとおひなさまに胸を張って、無視されていたりする。なんとなくざまあみろだ。
「まあよい。さ、街へゆくぞ」
「誰が! なんであたしがそんなことしなきゃなんないの」
「いいじゃないか、行ってやれ。ちゃんとお供をつけてやるから」
 そう言って笑う家神は、どこから見ても事態を楽しむ顔をしていて本当に腹立たしい。
「……なに。あんたがついてきてくれるの?」
「いいや。もっと適確な人材がおるだろう。のう“満潟の”?」
 家神は窓に向けて何気なく呼びかけた。まさか、とあたしが言う前にベランダに人影が飛んでくる。奴は窓をすり抜けて満面の笑みで叫んだ。
「呼ばれて飛び出て道祖神ー!」
「出やがったー!!」
 きゃあきゃあとまるで子どものように笑う、黄色いパーカー姿の男。深くフードを被っているので顔立ちはあまり見えないが、ちらちらと覘く目はいつでもどこでもはしゃぐように笑っている。ミチカタこと《満潟の道祖神》は相変わらず無駄に明るく現れた。
「よう高原の! 話は聞かせてもらったぜ」
「盗み聞きじゃんそれ! ちょっと!」
「なに言ってんの、このあたりの情報は常にオイラの耳の中さ! で、どこに行く?」
「誰が行くって言った!? ミチカタ、あんたそれ管轄外でしょ。ちゃんと仕事しなくていいの」
「道祖神は地域の結界。悪いものが入り込まないよう守ったりするんだけど、最近ほんっとヒマでさー。ほら、あと地域の平和を守るのが道祖神の仕事だし?」
「明らかに後付けくさい……」
 満潟というのはこのあたりの地名で、ミチカタはそこを守る道祖神というわけだ。ちなみに奴はうちの家神のことを「高原の」と呼んでいるが、これはあたしの名字が高原だから。最近は信仰心の薄れから家神の数も減ってきているそうで、ミチカタはこの数少ない家神や他の神々を、貴重な友としてしょっちゅう遊びに現れる。
 相変わらず落ち着きなく手足を振るミチカタを、家神がフォローする。
「満潟のはこのあたりに詳しいからな。案内してもらえ。それに、夫婦げんかは道祖神の管轄だろう?」
「そうそう。道祖神は夫婦和合の象徴だぜ? オイラに任せりゃ一発よ!」
「夫婦和合、ねぇ」
 馬鹿にした笑い声。かすかなそれに、ミチカタの顔色が変わった気がした。フードに隠れて見えないが、神経質にお内裏を見る。
「何。なんか文句でもあんの?」
「いいや。……まあお願いするとしよう。澄香、まろを運べ」
 瞬時にミチカタとお内裏の間に緊張が走ったけれど、それはすぐに消えてしまった。ミチカタがまたにこにこと笑い出したからだろう。お内裏は相変わらず偉そうな態度でしゃくをこまねいている。
「……どうするよ」
「行ってやれ。お内裏殿もそれで満足するだろう」
 家神は笑うだけでちっとも守る気配がない。ミチカタといい、どうしてこの神々はちゃんと仕事をしないのだろう。あたしはため息をつき、仕方なくお内裏人形を持ち出すための準備をはじめた。





へいじつや

やおろず《雛の段》
作者:古戸マチコ
掲載:へいじつや
製作:2005年3月