←前へ 森から大きく離れた場所で、ロドニオンは足を止めた。 奥さんは背を降りる。カゴの中身を確認するのを見届けながら、ロドニオンは二足歩行の姿に戻る。奥さんはその様子にふと気付き、こちらをじっと見つめ始める。 「すごいわねぇ。私もそんな力欲しいなぁ」 「あんたはそれだけでも十分凄いよ。……全く」 疲れ混じりのため息をつき、ぞんざいに頭を掻く。奥さんは嬉しそうににっこり笑った。 「ありがとう。そうだロン君、ステーキは骨付きとそうじゃないのどっちが好き?」 ロドニオンは首を傾げ、少し悩んで素直に答える。 「骨付きだけど」 「そう。それじゃ明日はとびっきりの生肉を用意するわ。お楽しみに〜」 「え、俺」 ふふ、と楽しそうな笑みをもらし、奥さんは家とは別の方へ向かう。ロドニオンは慌てて彼女を目で追うが、返って来たのはぶんぶんと振られる手。 「じゃあまた明日ね! 今日はほんとありがと〜!」 そして彼の話を聞かず、アグルスさんちの奥さんは、どこかに去っていってしまった。 ロドニオンは複雑そうに口をつむる。だがその端は、少しずつ緩んでいった。 「……しょーがねーなー、ったく」 自宅に向かって歩きながら、誰に言うでもなく呟く。 言葉とは裏腹に、どこか明るい声だった。 翌日の二十四時少し前、ミイラ男のアグルス邸。広いそこは古いながらも小奇麗に整えられて、適度に汚れた客人好みの食器たちがずらりと並ぶ。 ロドニオンはテーブルの上を見て、思わず小さく息をもらした。 一つ一つの椅子からしてまちまちだ。背の高いものに低いもの、広いものに細いもの。木製からプラスチック製のものまで何一つ同じではない。席には全て、客人の名前が書かれた小さなカードが添えられている。 「お゛ー、よかったー、よごれてもだいじょうぶだねー」 ゾンビが嬉しそうにとろけつつ、プラスチックの椅子に座る。幅は広く受け皿のようになっていて、溶けた体も床に落ちない。テーブル上には大好物のミミズサラダに生きたミミズの踊り食い。 背のない者には高い椅子、のっぽすぎるガイコツには座りやすくも低い椅子を。腐臭を嫌う若い魔女をゾンビから遠ざけて、彼のサイドは鼻の効かないバンシーたちに囲ませている。 喧騒から離れた席に、ロドニオンは無言で座る。旨そうな骨付き肉を気にしつつ、てきぱき動く奥さんをぼんやり眺めた。 忙しいのが嬉しいのか、それとも何でも楽しく感じてしまうのだろうか。小さなトモカ奥さんは、くるくると踊るようにあちこちの準備を進める。二十四時、五分前。 ギィ、と古びた音がして、部屋の奥の扉が開いた。ほぼ集まった客人たちが一斉に目を向ける。 「……ようこそいらっしゃいました」 くぐもった音は厚く巻かれた包帯の内部から。人間の妻を娶ったここの主、ミイラ男のアグルス氏がゆっくりと現れた。 体の線を雑にぼやかす白い包帯。一体何を恥ずかしがるのか、何重にも巻かれていると思われる。 客人はそれぞれに挨拶をする。もっとも、わざわざ席を立つ者もいないのだが。礼儀やマナーはあまり重んじられない村だ。アグルス氏は会釈をするが、小さく開いた目鼻や口の隙間からは表情が窺えない。喜んでいるのかどうなのか、一体何を思っているのか解らない男だった。 大時計が二十四時ちょうどを指した。奥さんが旦那の隣に座り、ぐるりとみんなを見回した。 嬉しそうに表情をほころばせる。嬉しそうな明るい声で、改めて挨拶をした。 「みなさん、本日はご足労頂きまして、本当にありがとうございます。お料理はまだまだお持ちしますので、どうぞごゆっくりお楽しみ下さい!」 ぱたぱた、びちゃびちゃ、ほわんほわん。様々な音の拍手がわっと咲いた。 客人たちはそれぞれに、賑やかに食事を始める。奥さんは流暢にこちらの言葉を操りながら、酒を注ぎ水を足し、料理の腕を誉められた。にこにことした彼女の笑顔にほんの少し赤が差し、いつも以上に華やいでいる。 ちなみに旦那は包帯に包まれたまま、静かに酒を呑んでいる。暗く細く開いた隙間にどろ色のワインが消える。空になると何処からか奥さんが飛んできて、慣れた手つきで注ぎ足した。 客人たちは楽しそうに話しているが、異種族夫婦がどうしても気になるようで、ちらちらと所々で盗み見る。本人に聞けば良さそうなものなのだが、奥さんがあまりにも自然に彼らに接しているので、逆に尋ねにくかった。何を聞いても無駄なような気がしてしまう。「あら、うふふ」で全てを肯定されかねない。 ロドニオンは皆と同じく夫婦の様子を観察しつつ、黙々と料理を食べた。舌も胃も喜んで受け入れる。ちゃんとこちらの世界の調理法、更に言えばロドニオンの好みの味付け。対面の幼なじみを窺うと、彼もこっそりと喜びながら食べている。目が合った。同時に同じ笑顔になる。 「なんだかんだ思ってたけど、来てよかったと思ってるだろ」 「そっちこそ」 にやりと笑う。それはきっと全員が思っているに違いない。みんな、まさか人間がここまでやるとは思ってなかっただろうから。 ロドニオンは確認の意味を込めて、会場を見回した。その目が怪訝に歪められる。 テーブルの中央あたり、自分からは遠い位置で、吸血鬼がイライラと唇を噛んでいる。今にも貧乏揺すりなどを始めかねない嫌な気配。青筋がこめかみで密かに脈打つ。 高貴を掲げる彼の席には綺麗なシーツ、高級なアンティークの食器たちに洒落た料理。側には一輪、血のように赤いバラが飾られている。彼の纏う空気と共に、そこだけどこか異空間。 吸血鬼は遠くにいる奥さんに、冷たい口調で鋭く言った。 「馬鹿にしているのか!」 辺りの会話が途端に消える。広い部屋は唐突に静まった。全員が吸血鬼に目を向ける。 吸血鬼はそれを逆に活力にするように、どこか生き生き輝く目で奥さんを睨みつけた。 「お高い料理、結構結構。だが凝っていても所詮これらは私にとって、ただの前菜にしかならないのだ。知っているか? 下賎な生き物。私の主食は人の生き血だ」 いやらしい顔と声。彼は僅かに笑みを見せた。伝わるのは弱者をいたぶる愉しみに、心酔わせているであろうこと。客人たちは口々に非難の言葉を囁き始める。吸血鬼はそれすら愉悦に加えるように、高らかに声を上げた。 「知っていて無視をしたなら著しい冒涜だ! 私だけが食事を用意されないとは! まるで恥をかいてくれと言わんばかりの仕打ちじゃないか! 全く大した」 ジリリリリ、と場違いな音がした。奥さんは「あら」と嬉しそうな声をもらす。 「良かった〜。すみませんジンガさん。処女の生き血、今お持ちしますので」 全員がぽかんと彼女を見た。奥さんは場の空気と離れたままに、ぱたぱたと台所へと駆けていく。その後姿を見送りながら、ロドニオンはほっと安堵の息をついた。 どうやら生き血は完成待ちだったらしい。吸血鬼のジンガロードはのどかに名前を略されて、憤りを感じる以前に付いていけず、皆と同じくぽかんとしている。 みんなが言葉を忘れた中で、旦那のミイラ男だけが静かに酒を口に運ぶ。どこかシュールな景色の中に、奥さんが戻ってきた。水差しを両手で抱え、吸血鬼の元に急ぐ。スリッパが静かな部屋にパタパタと音を撒く。 「ごめんなさい遅くなって。どうぞ」 「……はあ」 完全に意気を呑まれ、吸血鬼はグラスを持つ。よく冷えているのだろう、奥さんは水滴が零れないよう底をタオルで押さえつつ、水差しを傾ける。透明なワイングラスにどろりと赤い血が落ちた。音もなく容器を満たす。 吸血鬼は赤黒い血を複雑な顔で眺める。奥さんはにっこり微笑み、「どうぞ」とそれを勧めた。 「……では」 青白い唇に、赤い血を注ぎ込む。ゆっくりと一口分を口に含み……無様な顔で吐き出した。 「う、うえっ。不味い!」 咳き込みながらつばを吐く。白いシーツが赤く染まる。 「ふざけるな! 私に一体何を飲ませた!!」 その目は大きく見開かれ、青ざめた奥さんをきつく睨む。わなわなと震える手で血ごとグラスを握り潰した。 「え!? 何をするのだ人間め! こんな不味い血は生まれて初めて経験するよ!」 「す、すみませ」 「謝罪はいらん! 身をもって弁解して貰おうか!!」 吸血鬼は奥さんの手を力強く握り締める。顔を近づけ低く冷たい声で言う。 「貴様の血でも貰おうか?」 「ジンガロード!」 化け猫が引き止める。吸血鬼はつまらなそうに舌を打ち、細い彼女の手を離した。 「ふん、そんな度胸もないだろうな」 「やめなよ、あんた感じ悪いよ」 「悪いのはどっちだ? 明らかにこの女じゃないか。……不愉快だ、これを捨てて来い!」 吸血鬼は水差しを突き放す。奥さんは慌ててそれを受け取り、何も言わず席を離れた。 重く暗く静まった部屋の中に、またスリッパの音が響く。奥さんはパタパタ音を立てながら、台所へと消えていった。 残るのは大勢の沈黙と、たった一人の優越感。吸血鬼は声を上げて笑いだす。 「どうだ! 下賎な人間ごときが親睦などと抜かした結果は! 役にも立たん頭を使って用意した酒宴がこれだ! 笑いが止まらないよ、馬鹿馬鹿しいにもほどがある!」 耳障りな笑い声が皆の顔を歪ませる。吸血鬼は構わず続ける。 「我々に取り入って何を企むつもりだったのだろうな! だがそれも失敗に終わったと言うわけだ。見たまえ諸君、あの無様な負け犬を! 今ごろあちらで何をしているのだろうな! ……ああ、成る程」 声はすとんと色を落とす。吸血鬼は顔を笑みに歪めながら、いやらしく言い捨てた。 「負けを認めて大人しく喉を裂いているのかもな。私に血を捧げるために」 その後は高く張った笑い声。その嘲笑は皆の目つきを危うくさせる。 ロドニオンが辛抱ならず、立ち上がろうとしたその時。 ブツッ、という聞きなれない音がした。 誰もが辺りを窺った。一体どこから響くのか、奇妙な音はぶつりぶつりと静かに響く。 「……ジンガロード」 低く掠れた声がした。全員がそちらを見る。見て、それぞれ息を呑んだ。 「よくもあいつを苛めてくれたな」 怒りを深く沈めた響き。客の視線を一斉に受け、家の主、ミイラ男のアグルス氏はゆっくりと立ち上がった。 体を覆う包帯が、ぶつりぶつりと自ら断たれ、音もなく剥がれていく。誰もがその隠されていた内部を見た。骨の形を強く見せる、干からびた死肉の体、しわがれたおぞましい肌。 どす黒く枯れた顔に憎悪を浮かべる目が一対。強い光を放つそれに射られたように、吸血鬼は石のように動けなくなる。ロドニオンも客人たちも皆同じ。初めて見るアグルス氏の本性を、全員息すら忘れて見つめる。 アグルス氏はゆっくりと吸血鬼の側へと向かう。吸血鬼は情けない悲鳴をこぼし、震えながら席を立つ。 「しかしっ、もとはと言えばあの女が」 「黙れ!」 怒声と共に部屋を白い布が走る。大量のそれは彼の包帯。厚く巻かれていたそれが、まるで命を持つかのように、部屋中に巡らされる。客はそれぞれ悲鳴を上げて、あちこちに逃げ始める。 強化された包帯は、刃物のように無差別に辺りを刻む。グラスを割り椅子を斬り、客の髪を一房飛ばす。無様に逃げる吸血鬼をひたすら追って、壁や何やも切り刻む。 「アグルスさん落ち着いて!」 「逃げるな!」 場は阿鼻叫喚に包まれた。目に入るのは砕けて吹き飛ぶ食器たち。テーブルはごっそりと切断されて体を倒す。ガイコツ男は余波を受けて分断されて、転んだゾンビの顔は潰れる。バンシーたちが泣き喚き、耳をやられて全員がのた打ち回る。 ロドニオンは騒ぎに大きくやられつつ、逃げ回る吸血鬼と追い続ける包帯たちを混乱のままただ避けて、気が付けば台所へのドアの前。無意識にそこへと手をやりかけたその瞬間。 「ジンガさーん、すみませんお待たせしました〜」 奥さんがドアを開けると同時、アグルス氏の包帯は、あっという間に元の場所へと巻き戻った。 奥さんはにこにこと微笑みながら、水差しを持って部屋に入る。 「ごめんなさい気が付かなくて。今度はちゃんと直しましたから、大丈……あら?」 そしてようやく雑然とした部屋を見て、床に伏せる客たちを見て。首を傾げ夫に訊いた。 「どうしたの?」 「いや、別に」 アグルス氏は平然と言う。包帯は巻き込まれ、既にいつもの彼の格好。ミイラ男はみんなを見回し、くぐもった声で言う。 「何もありませんよね、みなさん」 みんな揃って「えっ」と言った。だが主の無言の圧力を受け、こくこくと何度も頷く。 「そうなの? あらでも大変、片付けなくちゃ。お雑巾……」 「わー!!」 ロドニオンは思わず彼女の肩を掴む。この場所を離れないよう引き止める。 「か、片付けなら俺らがやるからよ! あんたはずっとここにいろよ!!」 「そ、そうそう私たちも後でちゃんと手伝うわよ。ね、だから今は一緒にいましょう?」 「奥さんがいないと寂しいからさ! ほら、ここ座って座って!!」 彼女がここを去った途端、どうなるかは嫌でも想像できるのだ。悪夢を再び起こさないよう全員が彼女をもてなす。奥さんは戸惑いつつも嬉しそうにそれに応じた。 「あらあら。すみません、いいんですか?」 「いいのいいの! 奥さんバンザーイ! アグルス夫妻バンザーイ!!」 「バンザーイ! バンザーイ!!」 みんな殆どヤケのように奥さんを祭り上げる。ロドニオンは流されて、うっかり両手を掲げながら、側に佇むアグルス氏が「チッ」と小さく舌打ちするのを聞いてしまい、全身悪寒に包まれた。 客人たちはみんなどこかハイになって奥さんを明るく囲む。もう今にも胴上げが始まらんばかりの勢いだ。その中で、奥さんは嬉しそうに笑っている。親睦が深まっている。 ロドニオンは僅かにその場を離れつつ、アグルス氏を窺った。彼は妻から隠れるように、そっと足を運んでいる。向かう先は、腰を抜かした惨めな吸血鬼のところ。 吸血鬼は近寄る主人にようやく気付き、情けない悲鳴を上げる。全員がそちらを見た。アグルス氏は不可解そうに首を傾げる。 「トモカ、ジンガロードは具合が悪いようだ。……私が、あっちの部屋で介抱しよう」 「わー!!」 夫婦以外全員が悲鳴を上げた。吸血鬼は見ている方が泣きたくなるほど怯えきって、ガタガタと震えている。 奥さんはそんな周囲と全く別の空気を纏い、いつも通りののんびりとした微笑を、困ったように陰らせた。 「まあ。折角用意し直したのに。ごめんなさいジンガさん。私、ついついよく冷やしてしまって……ほら、今度はちゃんと体温まで暖めましたから」 ロドニオンは思わず「そうか」と言ってしまう。皆がそれぞれ納得を口にする。 「なるほどねー、生き血そのままって暖かいものだもんなー」 「冷やしたら不味いわなぁそりゃー」 奥さんは暖め直した手作りの生き血を持って、吸血鬼の元へ行く、途中何気にカップを拾い、へたり込んだ彼の側に膝をついた。 「あの、大丈夫ですか? これを飲んだら少しは元気になりますか?」 ぶつ、と嫌な音がした。客人たちの視線を受けつつミイラ男は静かに佇む。 吸血鬼は怯えた顔でそれを見て、今にも泣き出しそうな顔で、無言でカップを受け取った。 一気に飲む。呷り込んだ形のままで、彼はしばらく静止した。 みんなが静かに息を呑み、吸血鬼の反応を待つ。 吸血鬼はどこか呆けたような顔で、奥さんをまっすぐ見つめた。その頬に珍しく赤みが差す。 「美味しい……」 奥さんは嬉しそうに、彼以上に頬を赤らめ極上の笑顔を見せた。 「あー、よかった〜」 吸血鬼の顔色が、心なしかますます赤味を増していく。 アグルス氏が不機嫌そうに咳払いをし、たちまち青く色落ちしたが。 奥さんは立ち上がり、疲れた顔の客人たちをのんびりと見回して、いつものように微笑んだ。 「じゃあ、そろそろお開きにしましょうか」 みんな揃って力強く頷いた。 「あら、ロン君」 親睦が嫌というほど深まったその翌日。ロドニオンは家の近くで奥さんと鉢合わせる。奥さんは小柄な体に大きな荷物を抱えていて、ロドニオンは何となく半分以上持ってやった。 「ありがとう」 「何が入ってんだこれ。またパーティでもやるのかよ」 奥さんは歩きながら、にこにこと笑っている。違うわよ、とのんびり言った。 「うちの人の包帯なの。もうぼろぼろになっちゃって、かさばるのに大変よ」 「……へぇー」 何分昨日の今日なので、抱えた荷物を不気味に感じる。ロドニオンの引きつった顔をふと見上げ、奥さんは苦笑した。 「ごめんなさいね。あの人も、普段はとってもいい人なのよ?」 「まぁ……え?」 「あ、ここでいいわ。ありがとう、今度何かお礼するわね」 奥さんはにこにこと笑いながら荷物を受け取った。そしていつかと同じように、手を振りながらマイペースに去っていく。二人の新居へ帰っていく。 ロドニオンは隣家に消える後姿を見送りながら、誰に言うでもなく呟いた。 「知ってたのかよ」 万年闇夜の空の下、彼は独り佇みながら、僅かに顔を引きつらせた。 [おわり] |