四月下旬の昼休み、コンピューター部の部室の隅で、私たちはだれていた。 「遅い!」 友達のなかちゃんこと中野遥は苛立っている。約束の時間を過ぎて、まだ二分。 「だから嫌なのよ素人は!」 「なかちゃん、私らもド素人」 待たせているのは放送部の面々たち。彼らはこの時期忙しく、あちこちを回っているので遅れても不思議じゃない。それを何度か言ってみたが、この人が聞き入れるはずもなく。 「あたしたちはいいの、視聴者なんだから。これだからハンパ芸人は」 「なかちゃん、あの人たちも芸人じゃなくて高校生」 ただ文句を続けるだけ。私はいつもと同じように、その隣で何もかもを諦めてぼーっとしている。眠いけれど今眠ったら、それこそ奴らの思うツボだ。「おおっ、眠ってます眠ってます。シーッ。部員たちの憩いの場、それがこの情報教室Cでございます」とか撮られかねない。 私たちはコンピューター部の幽霊部員と幽霊部長。オタク率が異様に高い後の部員は全員が後輩で、なんとうっかり私たちしか三年生が存在しない。もうすぐ引退するけれど、それまではなかちゃんがここの部長で、私が副部長なのだ。絶対に何かの部活に入らなくてはいけない決まりが憎らしい。 まぁサボりやすい部活だし、と呑気に構えていたところ、この度突然放送部から出演願いがやって来たのだ。週末の生徒例会で各部活の紹介ビデオを流すので、どうか出演して下さい、と。 断った部は一つもなく、私たちも仕方がないので出る羽目になっている。それが今、この退屈な待ち時間。 「ごめんね。一人任せて」 「いいよ。しょうがないでしょ眼帯じゃ」 ものもらいが出来てしまい、今の私は片目女。見苦しいので撮られるのだけは拒否している。まあどうせ、なかちゃんだってちょこちょこっと部活の説明メモったのを暗唱する程度のことなんだろうけど。私はメモを再確認する。文章作りが苦手な部長に代わりまして、せめてもの償いにと私が作った特製台本。 なかちゃんはそれを見ようとしない。彼女なりの対策が凝らされてはいるのだが……。 「……ねー。やっぱそれ見つかるよ」 手の甲に蛍光ペンで書き込むのはどうかと思う。びっしりと書き込まれたピンク色が妙に目に鮮やかだ。 なかちゃんはニヒルに笑った。 「ああ、ハンパ芸人の素人いじりにオイシイネタをあげるなんて、あたしってすごく親切?」 「聞かれても」 なかちゃんは出演時のことを考えて、袖を引いたり戻したりといい仕草を狙っている。 うちの学校の放送部は、非常に不思議な団体だった。大人しくNHKアナウンサーばりの落ち着いたニュースを放送したその後に、痛々しいノリの素人芸人が下手なトークを繰り広げたりは日常的。今日もそんな奇妙な時間が流れていることだろうが、この教室には放送が入らないので解らない。 そしてこのなかちゃんは、何よりもそんな彼らを敵対視しているのだった。 三度のメシよりお笑いが好き。どんな物でも、とにかくバラエティー番組ならば片っ端から録画するので、部屋にはいつも大量のビデオテープが転がっている。ラジオも深夜もお任せあれ。消えた芸人全員網羅。エスパー伊藤とふかわりょうをこよなく愛す女子高生、それが中野遥だった。 美人なのにと誰もが言う。高く細く、一言で言うとモデル体型。派手な顔は反感をしょっちゅうかうが、化粧いらずの大人顔。告白も四度受けた。そのうち一つは彼女の好みを考えて、ちょっとウケを狙ってみたら、ビンタされた曰くつき。本人曰く「あれは最低」。 なかちゃんがこの世で一番愛しているのは「天然」のそれに尽きる。そして彼女が心の底から憎むのは、「キャラを自ら作る奴」。その中でも素の状態をブラウン管に映すのは、芸人として最低だそう。 私は好きだけどね、藤井隆。そんな言葉を口にすれば、どんな罵倒が飛んでくるのか解らないので黙っているが。 放送部のお笑い部門はそんな彼女が一番嫌うタイプらしい。なかちゃん曰く「思い上がったシロウト芸人」。彼らはいつもわざとらしくテンションを高くあげ、わざとらしい痛々しいまでのボケツッコミで笑いを狙う。ウケる時とウケない時が半々の割合だけど、女子の人気は結構あった。そこそこの顔に明るさ、楽しさ。同クラスの女の子を中心に、マイナーな盛り上がりを見せている。なかちゃん曰く、「内輪って最低」。 実はその芸人のツッコミの方ちょっと好み。とか思ってても絶対に言えやしない。 入り口に人の気配。がやがやと疲れた様子の声が数人、ドアのガラス越しに見える。 「来たか」 チッ、と軽い舌打ちはなんのためなの中野サン。コンピューター部一応部長、なかちゃんこと中野遥は立ち上がる。私が書いた手書きのメモは放ったままで、手の甲を確認しつつ。 「失礼しまーす。遅れてごめんなさい、放送部でーす。すぐ撮っていいですかー」 「はい、どうぞどうぞ」 のんびりとしたカメラ係が入ってくる。なかちゃんは無愛想にそれを向かえた。 部屋の中の部員たちがわっと部屋の隅に寄る。彼らには何も言っていなかったのだ。なかちゃん曰く「その方が面白い」。滅多に出ない部長たちには構いもせずに、好き勝手にインターネットや持ち込みゲームで遊んでいた男子たち。ごめんなさい。 女子部員は出て来る人が少ないために、部屋の中はパソコンと男子の熱気でむさくるしい。 そんな部屋の一番前の、ホワイトボードの前に立ち、なかちゃんはドアを見つめて取材の生徒を待ち構えていたのだが。 来ない。人の声はするけれど、なかなか中に入ってこない。 なかちゃんは側でカメラを構えている、男子放送部員に聞く。 「何してんの?」 「竹内! ……あー、いや、今日から新入部員が司会なんだけど。カメラに映るの恥ずかしがって」 なかちゃんの表情からさっ、と色が引いた。私の血の気も少し引く。 「何それ。放送部で司会のくせにカメラにも負けてるの?」 声はきつく意地悪く、本気の怒りを奥に含む。なまじ顔が派手なために迫力がとてもある。友達内で「継母をやらせたらナンバーワン」と言われるだけのことはある。 「いや、今日はいつもの奴来てなくて。さっきまで二人で司会やってたんだけど、先生に呼ばれちゃって、新人一人でやることになってさ。明日までに撮らないと間に合わないし」 なかちゃんは不機嫌そうに睨みつける。 カメラ係はそんな彼女に気圧されて、不安そうにドアの前まで歩いて行った。 「早く来いよ!」 「だ、だってだって西君もいないし」 「しょうがねーだろお前しかいないんだから。ほら!」 そしてカメラを構えたままで腕を掴み、新人司会を教室に引き込んだ。 現れたのは小柄な体の多分きっと一年生。ひょろりとした体はどこか、全体的に内股っぽい動きをとる。 教室内がにやにやとしたざわめきに包まれた。なかちゃんは涼しい顔で教卓の真ん中に立ち、カメラ係を横目で睨む。 「早くしてくれる? 休憩時間終わっちゃうんだけど」 「あ、ごめん。じゃ撮ります。竹内!」 新人の竹内君は、緊張からか硬直して佇んでいる。だが竹内、ともう一度叱咤され、ばっとカメラが向いた途端。とんでもない行動に出た。 「キョエーエエエエエエ! オバーチャーン!!」 甲高く叫んだのだ。 教室内の注目を一身に受けながら、竹内君はぐねッぐねとタコのような体をくねらせ身じろいで、更に高く高く叫ぶ。 「ボッ、ボボボ僕にはムリーィイイイデスゥウウ!!」 裏声にもほどがあった。 「た、竹内!」 「だだだだって僕、だって僕こんなにか弱いのにッ! 胃も神経もふにゃふにゃふにゃちんでごろごろのパプリコンなのにぃいいッ!!」 「竹内、落ちつけって!」 カメラが近寄り竹内君は大きく大きく仰け反った。リンボーダンスを思い出した。 「竹内、竹内っ!」 「アバラカバラダバラドグラダバダバダバダバナマダバダ」 謎の呪文をとめどなく唱えている。教室は静まり返り、部員全員身も心も引いていた。 いや。一人だけ、ただぽかんと見つめている人がいる。 なかちゃんだ。中野遥が目を大きく開ききって、竹内君を見つめている。 「ぼ、ボボボ僕はもうダメですセンパイ」 「竹内っ。ああもう、解ったよ出せばいいんだろ出せば!」 カメラ係が教室の外に出て、またすぐに戻ってくる。その手には紙袋。どうやら廊下に置いておいたもののよう。 竹内君はその袋に素早く飛びつく。カメラ係は呆れたように元の位置まで帰っていく。 震える手で袋を探る竹内君は、まるで砂漠でオアシスを見つけたような、そんな命がけの顔。 「すんません、あいつちょっと変なんで」 ちょっとどころか。と全員が言って欲しかっただろう。だがなかちゃんは、ただ袋を漁る竹内君だけを見ている。それはもう凝視と言わんばかりの表情。強く瞠った目が怖い。 竹内君は袋の中から茶色いものを取り出して……被った。小さなあたまを隠すようにすっぽりと。 そしてこちらを振り返る。 竹内君は、馬の頭になっていた。 いや問題ない。別に人外というわけではない。単によくある被り物だ。単なる被り物なのだけど。 馬の口から飛び出るように、画用紙製のフキダシが貼り付いていて、「ニンジンうめェ〜〜〜〜〜」とマジックで書かれている。耳は紙製三連ピアス。ほっぺたには赤い絵の具でぐるぐるナルトが描かれていて、剥き出しの歯には一本虫歯。さらに全てにド・レ・ミ・ファ・ソとか記されている。竹内君はそんな馬の顔を被り、やけに綺麗にすっくと立った。 「お待たせしました」 その声がやけに明るく爽やかで、一瞬ホントに馬か何かが喋ったのかと思ってしまった。 だが喋っているのは間違いのない竹内君。軟体めいたぐねぐねは影もなく、テキパキと動き出した。 「すみません中野さん。今すぐ撮影大丈夫ですか?」 紳士。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。なかちゃんはハッとして、表情をいつものものに差し替えた。 「大丈夫。お願いします」 「はい、じゃあ撮りまーす」 そして奇妙な竹内君の、立派な司会が始まった。 それはもう爽やか、爽やか、爽やか。仮面の篭りも忘れさせる、ハリのある見事なトーク。喋りなれたなかちゃんの声ですら、上ずりを引き立たせてしまうほどのなめらかさ。それが鍵盤めいた表記付きの口から出てくる奇妙な光景。動くたびに「ニンジンうめェ〜〜〜〜〜」のフキダシがパタパタ揺れる。 余りにも見事すぎて、誰一人ツッコミを入れることが出来なかった。 「ありがとうございました!」 撮影はたった五分ほどで終わる。カメラが止まり、その場の空気は和らいだ。竹内君は爽やかに、なかちゃんに頭を下げる。なかちゃんはぼんやりとそれを見る。 「……部長さん?」 竹内君がふと彼女を見上げたその時。 なかちゃんが、馬の被り物をすぽんと抜いた。 「キョエエエエエエエエエッッ!!」 自我崩壊。そんな言葉が脳裏に過ぎる瞬間だった。竹内君は晒された素顔を真っ赤に染めて、両手を頬に強くあて、くねくねとねじれ出す。 「は、はははは恥ずかしいから見ないで、見ないでー!!」 裏声だった。そして何故か、いやーんとか言っていた。竹内君は真っ赤な顔で体をくねらしなかちゃんへと手を伸ばす。馬の頭を返してくれと請うように。 なかちゃんは、無表情で馬の頭を放り投げた。 「キャ―――――!!」 超音波だと思った。全員が耳を塞ぐ彼の悲鳴。高いそれを出しながら、竹内君は内股で不自然に走り出す。馬の頭を懸命に追っていく。 「キャー! キャー! キャー!!」 そうか、マサルさんのだばだば走りってこういうのを言うんだな。と実写で目にする漫画の絵に感動しつつ、私やみんなが呆然と見つめる中で、竹内君は教室の中央部へと一目散。 「キャー、キャー、キャー……ギャッ!」 そして馬を目前にして、足がもつれて無様にこけた。 障害物も何もない平らな場所で。 竹内君は倒れつつも腕を伸ばして馬を掴み……非常に素早く頭にはめた。 「ふう」 異様に冷静なため息をつく。そして何もなかったように、しっかりと立ち上がった。 「じゃ、行きましょうか」 「…………」 カメラ係は何も言わない。部員たちも何も言わない。もちろん私も何も言えない。 そんな重い無言の中を、竹内君は悠々と歩き去る。 「……じゃ、失礼しまーす」 「ご協力ありがとうございました!」 そしてやけにあっさりと、跡形もなく去っていった。 部員たちがそれぞれに騒ぎ出す。笑う人、引きつる人。口々に馬の話をし始める。 私はなんだか疲れつつ、喧騒の中、ぼーっとして突っ立っているなかちゃんの元へと急ぐ。 「なんだったんだろーね、あの人」 なかちゃんは何も言わない。竹内君が去っていったドアの方を見つめるばかり。 「なかちゃ……」 気付かなければよかった。気付かないフリでもよかった。だがどちらにしろ巻き込まれる運命だったのかもしれない。 なかちゃんの頬がみるみると赤くなっていく。目がうるむ。まるで夢を見るように。 私はぽかんと口を開けた。呆然と彼女を見た。なかちゃんは、うっすらと口を開く。 そしてどこか虚ろな声で、しっかりとこう言った。 「素敵」 それが彼女の間違った恋の始まりだった。 |