「サフィギシル饅頭ってのはどうだろう」
 あまりにも真面目に言うので思わず一考しそうになって、サフィギシルは慌てて首を横に振った。
「却下だ! なんだその変な発想」
「変じゃない。ちゃんと意味があるんだ」
 カリアラはきらりと眼鏡を光らせて書類を机に叩きつける。やる気なく腰掛けたサフィギシルを威嚇するよう高い位置から見下ろして、至極真面目に繰り返した。
「サフィギシル饅頭。だめならサフィギシル煎餅。近所の人に配って親睦を図る」
「却下だ。そんなもんで深まる親睦なら掃いて捨てた方がましだ」
「じゃあサフィギシル祭り」
「俺の名前から離れろ!」
 次々と出されていく企画案はどれもこれも似たようなものでため息がどっと出る。サフィギシルは頭のずれた参謀を苦々しく睨みつけた。
 九十二年、春。サフィギシルを筆頭とする技師集団アーレルロウズは隣国の地ノリスに拠点を移した。ビジスが生前進めていた巨大な魔力塔建設がほぼ佳境に入ったために、その内部の開発をアーレル・ロイヘルン両国から任されたのだ。アーレルからノリスへと移住して早ひと月。異国の地にもようやく慣れてきたころなのに、何がどうして饅頭や煎餅という話になるのか。
「……お前さあ。毎日外回りで何してんの」
「仕事」
 即答するカリアラの目に濁りはない。人間になってもう十年近く経つというのに、相変わらず動物めいた男だ。彼はもう一枚、また一枚と手製の企画書を提出するが、何しろ字が汚いので目を通すのも億劫だった。サフィギシルは社長らしからぬ姿勢で、だらだらと机に伏せる。
「いいよなーお前はー。俺もう一ヶ月もここから出てないんだぞ? なんでだかわかるか? わかるよなあお前が原因だもんなあ。頼むから俺の仕事減らしてくれよたまには休憩したいんだよー」
「今も休憩してるだろ。喋ってる暇があったら手を動かせ」
「もう設計図描くの飽きたんだよー。人間とふれあいたいんだよー」
「シラがいるだろ。あといろいろ」
「俺は外の空気が吸いたいの!」
 ノリスに到着してからこっち、シラか他の社員としかろくに話していないのだ。シラは確かに会話相手になってくれるが秘書という職業上、仕事の怠けを許してくれない。うろんな目で睨みつければカリアラは涼しげに見返してくる。その髪が、わずかに濡れていることに気づいた。
「風呂にでも入ったのか」
 カリアラは一瞬考える顔をして、答える。
「街の奥にきれいな川があるんだ。そこで泳いだ」
「お前だって遊んでんじゃねーか! 俺だって泳ぎ……たくはないけど少しは外に出たいんだよ。な、いいだろ」
「だめだ。まだノリス民の警戒が解けてない。この塔の建設に反抗しつづけてきたやつらがいる。危険だ」
 だからサフィギシル饅頭で親睦を。提案するカリアラの目があまりにも真剣なので、サフィギシルはぐったりと仕事机にうつ伏せた。だがカリアラはその抵抗を歯牙にもかけない。
「じゃあおれは外回りに行ってくる。お前は夜までに設計図三枚だ」
「お前俺の部下だよな? 横暴! バカ副長ー!」
 子どものようにわめいてみても彼が動じるはずもなく、参謀と副社長を兼ねる男は呆気なく部屋を出ていった。残されたのは、口を尖らせる社長と突飛な書類。彼はしばらくの間カリアラの消えたドアを見つめていたが、ふと何気なく窓を見て、もう一度ドアを見て、いたずらめいた笑みを浮かべた。



「ピィスさんっ!」
 いきなりドアを開けられてピィスはびくりと肩を揺らす。急いで煙草をもみ消して煙を払おうとしたところで、現れたのがシラだと知って深く胸を撫で下ろした。
「なんだ、驚かせるなよ……」
「また吸ってたの?」
「スミマセン今日五本目です」
 そう言いながら六本目に火をつける姿を呆れた目で見下ろして、シラはハッと我に返る。
「そうだ、社長! 社長見ませんでしたか!?」
「サフィ? 今日はまだ見てないけど。え、何。まさか脱走したの」
「そうなのよっ。ちょっと目を離した隙に……!」
「ああー」
 いつかやるとは思ったんだぁ、とピィスは煙と共に呟く。流れてきた臭いにシラが顔をきつく歪めた。
「で、社長さんは変装して行ったわけ? ああそう、かつらが消えてたと。そりゃあれだけ特徴が知られてちゃあそのままで行くはずもないよな。うんゴメン消すから鼻つまむのやめて。ちょっと傷つく」
 顔中の穴をふさぎ、身ぶりだけで伝えようとする姿も繊細に見えるのは美形効果というのだろうか。ピィスは灰皿に臭いの元を押しつけた。
「で、どうしましょう。早く見つけた方が……」
「いいんじゃなーい、ほっとけば。まあ大事に至るようならウチの若い衆何人か寄越すけど、どうせ社ッ長さんのやることでしょー。行く先は見えてる見えてる」
 ね。と思索をうながせば、シラもまたピィスと同じ行先を見つけたようで複雑な顔になる。呆れと情けなさと馬鹿馬鹿しさの混じる表情。それを見てピィスは笑う。
「ま、一時間待ってみましょ。それで連絡がなかったら捜索するよ」
 しかしシラも大変だねえ。と窓を見て、女らしくなったかつての少女は誰に言うでもなく呟いた。
「こりゃ、荒れるなぁ」



 とりあえず顔は知れていないだろう。サフィギシルはそう踏むと、黒色のかつらを被っていそいそと外に出た。運良く誰にも見つからなくて、足取りは軽く浮き立つ。振り仰げば魔力塔は天高くに伸びていてどこまでも続くようだ。サフィギシルは中にいるはずのシラにゴメンと謝り、街に向かって駆けていく。
 外の空気を吸うだけで満足だと思っていたが、出てみれば楽しみたい欲求が胸を動かする。だが問題は、見知らぬ土地で開放的に遊べるほど度胸が据わっていないこと。サフィギシルは結局のところ一人歩きが心細くて、カリアラの居場所を探った。相手には見つからないよう慎重に「力」を使い、身近な彼の気配を探る。ほどなくして情報が脳に入り、そちらに向かって進んでいけば目前に見覚えのある背中。カリアラは大きめの鞄を持って、ゆるゆると路地を歩いていた。
 ノリスの空気は乾いていてあちこちで砂が舞っている。サフィギシルは細やかな砂塵に隠れるように、カリアラの後を追った。正直なところ、彼がどんな風に仕事をしているのかサフィギシルは知らなかった。アーレルでの活動なら何度か目にしてきたが、ノリスでどう動いているかはまったく未知の領域なのだ。だからこそわくわくと楽しみに気が弾む。
 カリアラが立ち止まったかと思うと、彼はなぜか植え込みの影に鞄を隠した。そうしてまた何事もなかったかのように歩きだす。しばらく先に行かせて置いた鞄を覗いて見れば、中には何やら着替えの類が詰められていた。
(あ。もしかして泳ぐのか?)
 今この時間に仕事をすると偽って。そう考えるとコノヤロウという気持ちになって、サフィギシルは小走りにカリアラの後を追う。だがしばし道を進んだところで罵声が聞こえて、驚いて足を止めた。
「ふざけんじゃないよ!」
 小さな庭を囲う民家。その玄関先で小太りの女が激怒している。彼女は汚物を見る目で次々に憤懣を吐き出していた。言葉による攻撃を受けているのは一人の男。サフィギシルは目を疑う。
 カリアラが、頭を下げていた。汚い言葉で罵られても彼は礼の姿勢をやめない。深く腰を折り曲げて、静かに告げる。
「申し訳ありません」
 相手に伝わる様子はなかった。あんた、と女が呼ぶと奥から男が顔を出す。その手にはバケツが握られていた。
「帰れ! この侵略者が!」
 ぶちまけられた中身は肥で、異臭がここまで伝わってくる。全身に糞尿を浴びてもカリアラは動じなかった。まっすぐに相手を見据え、よく通る声で言う。
「申し訳ありません」
 そして肥を被ったまま、塔の建設による利点、工事音や影に悩む住民たちへの補助について淡々と述べ始めた。相手は不気味そうに後じさり、固く扉を閉ざしてしまう。カリアラはもう一度大きな声で謝罪を述べて、深く深く礼をした。
 彼は腰を折ったまましばらくの間静止している。だがやがて顔を上げると、戻ろうと振り返り、ぴたりと止まる。カリアラは呆然とするサフィギシルを見て、顔をしかめた。



 植え込みの傍には井戸があった。カリアラは慣れた様子で体を洗い、服の汚れを洗い落とす。臭いも色も取れそうにはなかったが、ひとまずは固く絞って片付けた。用意していた着替えを済ませばもう仕事の痕はない。
「……ずっとこうしてたのか」
「ああ」
 ここに戻るまでにも別の家から石を投げられ、生卵をぶつけられた。カリアラは抵抗せずにそれらすべてを受け入れて、その度に深く頭を下げている。きっと毎日が同じことの繰り返しなのだろう。歩いているとどこからか舌打ちや、陰口が聞こえてくる。
「おれはあともう一件回る。お前は戻れ」
「まだ行くのかよ! もうやめろよこんなこと!」
「大丈夫。着替えはあと一組あるから」
 進もうとする肩を掴むとカリアラは眉を寄せた。
「なんだ」
「なんだじゃねーよ、あんな目に遭わされて……」
 止めようとして引いた腕が妙だった。サフィギシルは理由を察してカリアラの服をはぐ。晒された上半身には何本もの傷が走っていた。引き裂かれた肌は一応修理されてはいるが、縫い目は雑であまりにもお粗末だ。
「なんだよこれ、誰にやらせた! 自分で縫ったのかこの馬鹿! それともピィスか? なんで俺のところに持ってこなかったんだ。怪我をしたらすぐ来いよ! 傷は誰にやられたんだ。さっきの奴か。このあたりの人間か! なんでこんなに怪我してんだよ!」
「サフィ」
「ああ下の方裂けてるじゃねーか、水も入り込んでるし! 帰るぞ、すぐに直す! こんないい加減な治療してんじゃねーよ、悪化するばかりだろ! なんだよこの縫い目、しかも適当な糸でやってある。もうここ一面張り替えた方がいい。中も壊れてるんじゃねーのか。なあ誰にやられたんだ。ななか。それともここの人間か。お前っ、ひとりでこんな大怪我してどうすんだよ! こんなことして」
 言いかけた言葉は体ごと吹っ飛んだ。サフィギシルはカリアラに顔面を殴られて、砂気の多い地面に転がる。
「黙れ」
 低い声。カリアラはサフィギシルを掴み上げて民家の壁に押しつけた。
 ひやりとした眼を近づけて、首をかしげる。
「黙らないと、怒るぞ?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 いきなりの変貌にサフィギシルはがたがた震える。もう十分怒ってるだろうと思うがおそろしくて言えなかった。
「説明する。お前に見せたらうるさいから黙ってたんだ。傷はピィスに直してもらった。ななにやられたのはここじゃなくて背中に三本、膝に一本。中までは達してないし処置をしたから大丈夫だ。お前が騒ぐ必要はない」
「ななにやられた傷のが酷いじゃねーか!」
「俺も刺した。久しぶりに深くえぐれたあの日は記念日」
「いい加減血で血を洗うケンカはやめろ!」
 もう何年も命の絡む戦いを続けているというのに、彼らの関係は一向に改善される兆しがない。ふとカリアラが腰に手を添えたかと思うと、鋭い空気がサフィギシルの頬をかすめて背後へと突き刺さる。振り向けば壁に立つのは黒く塗りつぶされた刃物。
「……今の何」
「投げナイフ」
 カリアラはあくまでも平然と言い切った。
「お前っ、日に日に暗器の達人になってきてるぞ!?」
「裏で動くには丁度いい。……逃したな。また馬鹿犬に嫌味を言われる」
 カリアラは忌々しげにナイフを引き抜く。その刃先には服の切れ端が付着していた。
「民間人は傷つけない。裏で雇われた人間は処分する」
「殺すのか」
「そのうちそうするかもしれない。最近は特に騒ぎが酷い。ここは危険だ、お前は塔の中にいろ」
「お前がこんな目に遭ってるのに? 俺だけぬくぬくと隠れてろっていうのかよ」
「そうだ」
「嫌だ!」
 叫んでもカリアラが受け入れる様子はない。彼は組織が受けるべき罵りを一身に受けるつもりなのだ。そして敵となる者は抹消しようと考えている。サフィギシルはなんとか彼を止めようと、もうやめろよと肩を揺する。
 その手を強く振り払われた。
「甘えるな!」
 激しい声にびくりと震える。カリアラはいつになく感情をあらわにしてサフィギシルの胸倉を掴んだ。
「じゃあ代わりにやってくれるのか? 動物も殺せない、敵の処分もできないお前にこの仕事ができるのか? 石を投げられながら怒らずに説明することができるか。一日中そうして街を巡る体力があるか。ない。お前にはできない。だから俺がやるんだ」
 いつもは静かに冷めた目が憤りに燃えている。カリアラは刺し殺すほどの視線で吐く。
「お前はいつもそうやって出来ないくせにわがままを言う。だがな、あれは駄目これは駄目と言うだけで何になる? 誰かがやらなきゃ何もかも進まないんだ。出来ないなら黙ってろ。邪魔だ」
 乱暴に突き放されてサフィギシルはへたり込む。全身の力が吸い取られたようだった。
「なな。送れ」
 カリアラが呟くと、サフィギシルの背後に黒服の男が現れた。腕を取られるが振り払う。背を向けたカリアラに、消え入りそうな声で告げた。
「怪我だけでも修理させろよ」
「自分で出来る。お前の手は必要ない」
 歩きだしたカリアラはこちらを振り向くことすらしない。サフィギシルはうなだれて、そのまま深く沈み込んだ。