朝起きて仕事をして仕事をして仕事をして仕事をしてようやく夜になったところで帰るのは誰もいない家で、どうせ倒れて眠ったところで気がつけばまた類似の朝でしかなく、永遠にこうやって息をしていくのだと考えていた。

 心から、そう思っていた。



「あなた方は選ばれたお方です。どうか我々をお救い下さい」
「いや人の体引きずりながら言う台詞じゃないです! 痛い痛い背中痛い!」
「あなた方は選ばれたお方です。どうか我々をお救い下さい」
「だからさっきから嫌ってほど聞いてるから! 放せー!」
「あなた方は選ばれたお方です。どうか我々をお救い下さい」
「あなた方は選ばれたお方です。どうか我々をお救い下さい」
「あなた方は選ばれたお方です。どうか我々をお救い下さい」
「何この人たち、集団催眠!?」



「せ、先輩……? エイネス先輩、です、よね」
「そうだが。どうした」
「どうしたとか言われても困るというか。あの、なんでこんな馬車の中で拘束されて今の今まで眠ってたんすか」
「眠っていた?」
 彼女は虚ろな眼差しを遠ざけて、改めてまぶたを押さえた。
「ああ、そういえばそんな気もする。ところで、ここはどこだ」
 それは俺が訊きたいよ。そう返せるほど親しくはない相手を前に、シグマは席に頭を落とした。



 いつもとなんら変わりのない帰り道には怪しいフードを目深に被った老人たちが鈴なりで、あれよあれよという間に馬車の中へと連れ込まれ、勇者さま勇者さま世界を救う勇者さま。と歌のごとく担がれる。わからないまま出発した車内には眠る女がいて、ほとんど寝息も立てない彼女は、数年前に話したきりの、《親しい先輩の元恋人》だった。



「……もしかして、これから強制的に二人旅、ってことですか」
「そうだな。ここまで遠くに来てしまうと、即座に戻るとしても旅にはなる」
「だからなんでそんなに冷静なんすか! 一緒にギャーとかわーとか言いましょうよ!」
「そういったことは、苦手だ」



 何を考えているのかも分からない人形のような女と、ただわめくばかりで何もできない男。どうしようもなく噛みあわない二人は、崩れた塔に閉じ込められる。触れるだけで砂となってしまいそうな遺跡。だが、その中には。



「森……? 違う、熱帯雨林だ。冬なのに暑い……」
「温室か。まだ稼動しているらしい」
「そんなわけないでしょう。こんなところに何の動力があるんですか。蒸気だろうが水力だろうが、周りにそれらしきものなんてなかったっすよ」
 ミハルは景色を確かめもせず思索している。凪のごとく静まった彼女の口が、わずかに揺れた。
「魔法」
 声色の低さに笑う時機を逃してしまい、シグマは冷え込んだ空気ごと彼女の言葉をもてあます。
「まあ、確かに、魔法の杖でも振ってそうなありえなさですけどね。珍しいっすね、先輩がそんな冗談言うなんて」
「冗談に聞こえるか」
「……だって、魔法とかありえないじゃないすか。魔力とかいうよくわからん力が消滅して何百年も経ってるわけで、こんな機械文明まっさかりの現代でそんな、ねえ? つか俺たち技術関係じゃないすけど、一応分野としては科学者ですよ?」
「だが、動いている」
 声色は依然として低い。シグマはますます理解できなくなった彼女を、どうしていいか分からない。
 考え込んで動こうとしないミハルから逃れたくて、シグマはわずかに足を速めた。
「とにかくまあ、魔法説はナシっすから。もっと現実見ましょうよ」








 天井を伝う水が、遅まきながらに床に落ちてかわいらしい音を立てる。それとはまったく正反対の衝撃を全身で転がしながら、シグマは、今しがた激流を放ったばかりの自分の手を震わせた。
「…………俺、もしかして、魔法使いました?」
 痙攣する頬のそばで、肌を覆っていた淡い光がゆっくりと消えていった。




「おかしいじゃないすか! ありえないって冗談抜きで!! 魔法とか、そんな……ねえ。嘘ですよ気のせいですよ、だってこんなちょっと念じただけで水が出たりとか……出た! あっ、ちょっ、ええ!? なにこれ手品!?」
「魔法だ」
 シグマの騒ぎようにも乗らず、ミハルはただ低く告げた。
「ありえない話では、ない」





「先輩。先輩は魔法とかそういうの嫌いなはずでしょう。占いはただの気休めだとか、魔法館でやっているのは種のある手品だとか……全部切り捨ててたでしょう。なのに、なんでそんなこと言うんですか」
「まがい物と、実際に起こっていることをどうして一緒にしなければいけない? 過去、魔力というものがこの大陸に存在したことは確かな事実だ。奇妙ではあるが、不思議ではない」
「そんなの、本当にあったかどうか……ろくな証拠も残ってないし。文明退化だって、単に震災のせいでしょう? えーと、百……」
「百八十二年前」
「そうそう。その大地震で魔力は滅びたー、とか、消えた幻の国があるんだー、とか。そんなカルトな説、いまどき子どもも信じませんよ。やっぱ変なことに巻き込まれて疲れてるんじゃないすか? さっきからずっと真顔ですよ」
「幻の国は本当にありえないと言いきれるか?」
「ありえません。俺が保証します」
「じゃあ、あれはなんだ」
 指差した先を見て止まる。石壁に縁取られた窓の向こう、遠く、森を望んだ先に見覚えのない景色があった。隣町と言うには遠い、この高さがあるからこそかろうじて確認できる距離にこびりつくのは、建築物の群れではないか。山のふもとには城がそびえ、霧のごとく霞む海までびっしりと家が連なっている。森しかないはずの場所。地図の上では、ただ海岸線しか描かれることのない……。
「アーレルだ」
 吐かれた息は震えている。
「百八十二年前、姿を消した王国だ」




「ていうか要するに時間ごとさかのぼっちゃってるんじゃないすかこれ。つまりここは過去の世界……いやいやいやあはははそんなわけそんなわけそん、ねえ? 否定しますよそりゃ冗談とか言ってくださいよ先輩」
「冗談、を言うのは難しいので、ほとんど使ったことがない」
「知ってますけど嘘でもいいから嘘だって言ってくださいよ!」
「それは気休めになるのか? この状態で」
「これアーレル製だから丈夫ヨー。安いヨー、お土産にヨイねー」
「おにいサン、コッチのもアーレル製ネー。アーレルロウズこれつくたネー。スゴイヨー」
「もっと幻らしく出し惜しみしてくれないすかその名前!」
 わめいたところで、片言の現地民は売り込みをやめようとしない。
 もはや号泣したい思いでシグマは壁にすがりついた。




「あー、ごめんねしつこい売り込みで。今日は一般開放日じゃないんだけど、時々勘違いした人が入り込んじゃってねー」
「はあ……そうですか」
 それ以外に何も言うことができず、シグマは女の低い背をぼんやりと眺めて歩く。
「ところで二人ともどうやって入ったの? 鍵は厳重にしといたつもりだけど」
「えーと、なんか、気がついたらいたというか……」
「招待されたわけではない、と。正当な入り方とは言えないわけだ」
「まあ、そうっすね」
「んじゃ、とりあえず社長のとこ行ってきてくれる? それで解決するはずだから」
「いいんすか、そんなお偉いさんのところにいきなり押しかけて」
「平気平気。かしこまるほどの男じゃないよ」




 通り抜けた銃声に耳の奥が痺れている。シグマは、到底信じられない顔でゆらりと立つ男を見た。
「……発砲、しました?」
「したけど。それが何か」
「なななな何かって何かって死ぬんですけど! 当たったら死ぬんですけど!」
「なんだよ打たれ弱いなー。ちゃんと外してやっただろ」
「外したら一般人に発砲してもいいんすか!?」
「不法侵入者は一般人とは言わん。犯罪者だ」
「その不法侵入者を人質に取るのは合法と言えるんすか!?」
 男の右腕はミハルの首を巻き込んで押さえていて、彼女がどう動こうとも揺るがない。
「っつかそっち押さえときながら、なんで俺に向かって発砲!?」
「人質に取るなら綺麗なお姉さん、射撃するならそれ以外に決まってるじゃないか」
「わからないでもないけど実際に立たされると信じられない理屈だな!」
「しかしお姉さんもかわいそうに。自分より恋人を撃てってさ。つまりこうすればいいんだな?」
 まだ熱を持つ銃口がミハルの頭に当てられる。凍りつくシグマを前に、サフィギシルは笑みを消した。
「さて改めて訊ねようか。お前たちは何のためこの塔に侵入した?」






 その国が幻と呼ばれているのは何故だろうか。あんなにも栄えていたのに。
 その国が皆の記憶から消されたのは何故だろうか。あんなにも愛されていたのに。

 その国はどうしていなくなったのだろう。

 今は、どうしているのだろう。






「……夢?」
 そんなはずがないとわかっている。この体は確かに過去の世界を知った。だがシグマの目に見えるのは二百年後の「今」でしかない。
「先輩。どこですか。先輩」
 名を呼んだ。ほとんど悲鳴として叫んでいた。だがそれでもミハルの姿はなく熱ですら思い出せない。彼女はどんな姿だったか。一体何を言っていた? 記憶がおぼろになっていく。まるで、先ほどまでの夢と同じように。シグマは手首を調べたが、彼女に結ばれたはずの紐も、つけられた痕も消えていた。
 へたりこんでしまった彼は、呆然と仮説を呟く。
「俺、最初からひとりでここに来たんじゃないか……?」






 どこまでが本当で、どこまでが幻で、どこまでが真実で、どこまでが伝説なのか。
 その塔の中ではすべてが混じり、きっと、ひとつも掴めない。




過去見の塔(改訂版)
今よりずっと先のいつか、製作予定。





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