いつもより少しだけ早く職場についた。
 いつもより少しだけ、緊張している。
 シグマ先生は落ち着きのない表情で、窓ガラスの向こうを見ている。誰かが廊下を歩いてくれば、一番にわかる位置だ。さっそく目当ての人を見つけて、彼は元気よく手を上げた。
「先輩、おはようございまーす!」
「……おはよう」
 いつも通りの時間に現れたミハル先生は、いぶかしげに彼を見る。あくまでもシグマ先生が見極められる程度で、だ。他の者が見たところで、鉄面皮とも言われる彼女の顔から不審感など読み取ることができないだろう。彼女の心を判別できるのは、学生時代からの腐れ縁であるシグマ先生くらいのものだ。
 ミハル先生はいつものように、手早く一日の準備を進める。
 シグマ先生もいつものように、それとなく彼女に話しかける。天気のこと。昨日観たテレビのこと。他の先生が言っていた面白い話。ミハル先生は適当に相づちを打っていたが、ふと手を止めて、再びいぶかしく彼を見た。
「……どうした」
「いえ。その」
 さっきから、シグマ先生は何か言いたげな空気を彼女に送っている。だがミハル先生は気配には気づいても、その内容まではわからない。少しの間無言の押し問答が続いて、とうとうシグマ先生は口を開いた。
「今日、バレンタインなんですけど……」
「ああ」
 ぽん、と手を打ちかねない表情でミハル先生が声をあげる。あくまでもシグマ先生にしかわからない程度だが、彼女は心から合点のいった顔をしていた。
「どうりで今日は、妙にチョコレートをもらうと思った」
「すでに俺よりいっぱいもらってる!」
 ミハル先生は、がさがさと生徒からもらったチョコレートを取り出してはなるほどと呟いている。当然、彼女自身が誰かへのプレゼントを用意しているはずもなく、シグマ先生はこの世の終わりのような顔でがっくりとうなだれた。



 自由どころか色々と間違った校風で有名なハヴリア学園では「バレンタインは全面自由」とされていて、先生・生徒の区別なく誰でもチョコレートをあげていいし、もらっていいことになっている。それどころか三年生の登校日を二月十四日に設定する気の配りようで、その日ばかりは学園中が甘い匂いに包まれた。
 だからといって全員の受け渡しが上手くいくはずもなく、どこかで必ず受け取りを拒否される者がいるのは当然のこと。
 そんなうまく行かなかった女子のために、三年生のハクトル・ジーナハットはサンドウィッチマンのごとく「どうかこの汚い俺を思いきり殴ってください!」と書いた紙を前後にぶら下げ、特製の巨大ハリセンを掲げて振られた女子を待っている。
 一世一代の告白に敗れた者はハリセンで力いっぱい彼を殴り、受け取ってもらえなかったチョコレートをハクトルの顔面に全力で叩きつける。
 女子はすっきり心が晴れる。
 そういうことが大好きなハクトルはとても悦ぶ。
 こうして今年も、階段の踊り場には「こんちくしょー!」という女子の怒声と、「もっともっとぉ!」と乗りに乗るハクトルの声が響くのだった。



「あっ、おかえりー」
 教室に戻ったとたん、興味津々なピィスの顔に迎えられてサフィギシルは踵を返す。だがすぐに彼女の手に掴まってしまい、観念して窓際まで連行された。カリアラがひなたぼっこをしているそこには、同じく好奇心を隠しもしないシラ先生まで待っている。
「で、どうだった? 付き合うの?」
 サフィギシルは真っ赤になった顔をそむけ、蚊の鳴くような声で言う。
「……付き合わない。チョコは返してきた」
「えー、なんでだよー。かわいい子だったのに」
「そうですよ、もったいない」
 他のクラスの女子に呼び出され、屋上に向かったのがさっきのこと。それからたいした時間もかけず、サフィギシルは戻ってきている。ピィスとシラは笑いながら馬鹿だ馬鹿だと非難するが、サフィギシルもそう簡単に相手の好意を受けるわけにはいかなかった。
「そんなこと言ったって、全然知らない人と付き合えるかよ」
「サフィ君は真面目だねー」
「真面目っていうか……」
 ちらりとシラ先生を見るが、彼女はまたすぐにカリアラの元に取り付いてしまっている。相変わらず密着度の高いふたりに、サフィギシルはため息をついた。
「少しは隠そうとか思わないのか」
「なにがだ?」
 まったくわかっていない顔で、カリアラはシラに抱きしめられるがままにしている。その口許にはすでにチョコレートがこびりついていた。もらった義理チョコの数では、彼にかなうものはいないだろう。女子たちはいつもカリアラを可愛がり、面白がり、ペットに嗜好品をあげるような手つきでちいさなチョコレートを渡す。大体は駄菓子だが、中には手作りチョコの切れ端だとか、焼いたはいいがこげてしまったケーキ生地もまじっていた。
「……おれもうチョコ飽きた……」
「お前は本当、羨ましいのかそうでないのかわからないよな……」
 カリアラ自身は特に甘いものが好きなわけでもないので、ある意味で苦行の一日だろうか。シラ先生は胃薬を用意して体の異変に備えている。
「ところで、お前に振られたかわいそうな子はどうしてる?」
「まっすぐにハクトル先輩のところに向かっていった」
「……ちゃんと役に立ってるんだな、トル兄も」
 廊下の向こうからは心なしか、ハリセンの小気味いい音が響いているような気がする。おそらく幻聴ではないそれを背にして、ピィスは嬉しそうにかばんを探った。
「まあまあ難しいことは忘れてさ。オレの特製チョコでも食えよ」
「いやだ!」「断る!」
 彼女が中身を取り出す前に、サフィギシルとカリアラが全力で拒絶する。
「なんでだよー。今年は自信作だぞ」
 じゃーん。と声に出して開いた箱の中には、緑色が奇妙にまじる、泥のような塊があった。
「だからなんで毎年ヘドロなんだよ!」
「いやいや今年はね、ちゃんと作ろうとしたんだよ。だけど途中でさー、何個か青のりを入れたロシアンルーレットにしたら面白いんじゃないかって思いついて。でも作ってみたら、どれが青のり入りなのか一目瞭然だったわけだよ。なので、ちゃんと作った普通の味を親父用に回したら、青のり入りしか残らなかったってわけ」
「どうしてお前は絶対に分離するものをチョコレートに入れるんだ……」
 彼女がチョコレートと呼ぶ塊は、どう見ても食べ物とは思えない色形で箱の中におさまっている。
 早々に逃げかけたカリアラを、サフィギシルが捕まえた。
「だ、だめだ! あれはだめだ!」
「まあ待て、よく考えてみろ」
 なんとか青のりから逃れたいサフィギシルは、カリアラの肩に腕を回し、真剣な顔で囁く。
「あんな見た目でも、あれは一応ピィスの手作りチョコレートだ。しかもお前だけが独占して食べられるんだぞ。いいことじゃないか。こんな得な話はないぞ」
「い、いいのか? いいことなのか?」
「いいに決まってるよ。だってお前、食べたいだろ。ピィスのチョコ」
「た、たべ……たい、か?」
「食べたいよ。絶対に食べたい。お前の心境的には、食べておいたほうがいい」
 そうか? そうか? と疑わしく呟きながらも、カリアラは席に戻る。
「おれ、これ食う!」
「おおっ、勇者だ! なんだよお前、すごいなー」
「ちょ、カリアラさん!? それはだめ……ああーっ!」
 シラが止めるのも待たずにカリアラは勢いよくヘドロをかっ込む。
 次の瞬間、カリアラは殺虫剤を浴びた虫のように暴れた。
「頑張れ、吐くな! 飲み込むんだ!」
「あああだから言ったのに! カリアラさんトイレ! トイレに行って!」
 数分後、世にも怖ろしいものを見た顔で戻ってきたカリアラは、ぐったりと自分の机にはりついた。
「………………」
 言葉もない。
「ご、ごめん……俺が悪かった」
「………………」
 カリアラはサフィギシルの謝罪も聞かず、ただ窓の外を見ている。
 青ざめたその姿は、心なしか痩せたようだ。
「……何がいいんだ」
「ご、ごめんなさい」
 カリアラはサフィギシルを見ずに続ける。
「どこが得な話なんだ」
「す、すみませんでした……」
 思わず敬語になるサフィギシルをよそに、ピィスは真面目に腕を組んで「本当に食べるやつがいるとは思わなかったな」とよそごとのように呟いた。



「こんにちはー。ちょっと失礼しますね」
「ああ、どうも」
 ひょこりと頭を下げて、ペシフィロ先生が体育教官室の中に入る。リドー先生は飲みかけのお茶を置いてそれに応えた。ペシフィロ先生が、リドー先生の机に積まれたチョコレートを見て微笑む。
「おや、たくさんもらいましたね」
「ええ、まあ。部活の生徒がいますから……。先生こそ、今年も大量でしょう」
 おそらく彼の机には、リドー先生がもらった何倍ものプレゼントが山となっているのだろう。直接目にしたわけではないが、噂としてよく聞いている。
「まあ、学長にはとても敵いませんけどね。それにしても不思議なんですが、なぜかみんな私には抹茶チョコレートばかりくれるんですよ。どうしてでしょう……」
「……はあ」
 本当にわからないのだろうか、とリドー先生は彼の頭を見る。ペシフィロ先生の髪の毛は、今日も深い緑色だ。
「それはともかく、なな先生。ちょっといいですか」
「ああ、やはりいたんですね」
 相変わらずその姿を隠している同僚を、リドー先生はうまく見つけることができない。ペシフィロ先生は付き合いが長いぶん、もう慣れているのだろう。どこにいるのかあえて探す様子もなく、すたすたと部屋の隅に行く。
 どうやらなな先生がいるらしき暗がりの前で止まると、ペシフィロ先生は紙袋からチョコレートらしき包みを出した。
「はい、ピィスからですよ」
 影から二本の腕が伸びて、大仰な平伏の姿勢でラッピングされた箱を受け取る。ありがたく頂戴したらしきなな先生に、ペシフィロ先生はもうひとつ箱を取り出した。
「そして、これはビジス学長からです」
 びく、とリドー先生でもわかるほどあからさまに影が揺らぐ。なな先生は、突然にがたがたと震えだした。
「……嫌だったら受け取らなくていいんですよ。私が返しておきますから」
 優しい言葉をかけられるが、なな先生はわざとではないかと思うほど大きく震えながら、なんとかその包みを取った。
「あの、どうして学長が?」
「私にもよくわからないんですが、毎年なな先生にはチョコレートをあげているんですよ。それも、わざわざ自分で買いに行って。随分と高級なもののようですよ」
「そうみたいですね」
 包みを見れば、そういうことに疎いリドー先生でもなんとなく察しはつく。下手をすると、一箱で数千円はするかもしれない。
 そのとき、窓からかすかな物音がした。
「なにか今、当たったような……」
 リドー先生は席を立ち、一つだけある窓を開ける。
 その瞬間、何か鋭いものが彼の頬をかすめ、背後の壁に突き刺さった。
「く、くせ者ッ!」
「落ちついてリドー先生! 今は二〇〇八年ですよ!」
 だが壁に刺さっているのは、近代化の匂いを感じさせない純和風の矢文だった。
 凶悪な矢の軸には、なにやら小包が括りつけられている。ペシフィロ先生が開いてみると、それは「なな先生へ」と宛てられたチョコレートだった。
「……しかも、手作りだ」
「例の人からですねえ」
 震え上がるリドー先生とは対照的に、ペシフィロ先生は落ちついて矢を引き抜く。
「少し前からなんですが、なな先生には熱烈なファンの方がいるみたいなんですよ」
「ファ、ファンですか」
「ええ。私もちらっと人影を見たことしかないんですが、どうにも恥ずかしがりやな方のようで……。きゃあ、と叫んでいたから女性なのは間違いないと思うんですが」
「ああ、カリアラではないんですね」
 リドー先生はあからさまに胸をなでおろす。なな先生を生涯のライバルとしているあの生徒なら、矢を放つぐらいのことはしかねないと思ったのだ。
「とりあえず悪意はないようなので、頂くだけ頂いておくのはどうでしょうか。……ああっなな先生! だからそのチョコは食べなくてもいいんですよ!」
 矢の騒動など構いもせずに、なな先生はビジス学長からのチョコレートを必死になって食べている。屈みこんだ体はかわいそうなほどに震え、久しぶりに現れた顔は今にも死にそうな色をしている。
「だからどうして、そこまでして食べるんですか毎年毎年! リドー先生、水、水っ!」
 苦しげな咳き込みをまじえながらも、なな先生は罰のようにチョコレートをむさぼり続ける。二人の先生が慌てる部屋の外、随分と離れた場所で「きゃあ」と恥ずかしげな悲鳴が上がったが、それを聞いたものはいなかった。




 ハクトルは非常階段に寝そべって、今にも雪を落としそうな曇り空を見上げている。
「……何やってんの、こんなところで」
「きゅうけーい」
 運悪く彼を見つけてしまったサフィギシル兄は、ひらひらと手を振る男を蹴り落としてやろうかと冷ややかに見下ろした。ハクトルはそんな視線も気にせず、赤く腫れた頬を撫でる。
「あ゛ー、痛み引いてきた。追加でちょっと殴ってくれない?」
「嫌だよ気持ち悪い。自分でやれよ」
「そんな高度なS台詞かますなよ。気持ちよくなったらどうすんだ」
 ひっ、と本気の悲鳴を飲んでサフィギシル兄は後じさる。うそうそ、と笑いながらハクトルが身を起こした。
「寝不足なんだよなー。昨日さ、例の女にえらい目に遭わされて」
「ああ、あの人ね」
 もういい加減聞き飽きた顔で、サフィギシル兄は少し離れた段に座る。
「職場で配る義理チョコがいるからっつって、安いチョコ大量に買ってきてさー。それを少量ずつラッピングし直すとかいうのよ。だけどあいつ不器用だから、俺がやらなきゃいけないわけだ」
「いや、君がやる必要もないけどね」
「やるんだよ。やっちゃうんだよ俺は。で、それが夜中までかかってさ。もう眠いししんどいし、当の本人は隣でぐーすか眠ってるしさー。ベッドだぞ? 俺、惚れた女の部屋で夜中に義理チョコの包装してんだぜ。そのくせ俺には一個ももらえないし、全ッ然いいことねーの」
「そうだねぇ」
「んでもういい加減ムカついて、もうヤるぞ、今度こそヤっちゃうぞって、ベッドで熟睡してるし、このまま服とか脱がそうとしたらさ、あいつ目ぇ覚ましてさ、」
 ハクトルは彼女の声を真似る。
「『終わったら服は着せておいてね』って、またスースー寝息立て始めて……」
 大げさに頭を抱えてハクトルは首を振った。
「ヤれませんよ。そりゃなにも出来ませんよこちらとしては」
「そう?」
「無理なんだよ。俺はそういうの無理なんだっつのこう見えてもさああ……」
 許可が出たならいいんじゃないかなあ、と呟くサフィギシル兄をよそに、ハクトルは彼らしくもなく心から落ち込んでいる。いつもはどんな攻撃も快楽に変える男だが、彼はその人物に関してだけは調子がおかしくなるようだった。
 サフィギシル兄は、打ちのめされたハクトルに訊く。
「……その人のどこがいいの?」
「……俺が一番知りたいよ……」
 彼ら二人の間では、もう何十回と繰り返されたやり取りだった。
「なんだ、二人ともここにいたのか」
 いかにも珍しいものを見た顔でジーナ先生が現れる。サフィギシル兄の表情が、明らかに明るくなった。
「はいはい、チョコだな。ちゃんと用意してあるぞ」
「ありがとう。お返しは何倍がいい?」
「馬鹿を言うな学生が。お前は進路の心配だけしていろ」
「……幸せそうで何よりですなーあ」
 恋人同士であることを隠しもしない二人の姿に、ハクトルはふてくされて膝を抱える。
「お前にもちゃんと買ってある。ほら、受け取れ」
「ん? なにこれ」
 渡されたのは、ざらざらと奇妙な音を立てる袋だった。開けてみると、中にはボールを模したチョコレートが大量に入っている。銀紙に包まれた小さな球が詰まった様子は、まるで海のようだった。
「ベースボールチョコ。と、あとテニスボールとか色々だ。お前、昔言ってただろう。このチョコを腹いっぱい食べてみたいって。ちょうどたくさん売っていたからな、今さらだが買ってきた」
 それは彼が小学生のころにもらした呟きだった。子どもなら誰もが夢見る、たわいのない憧れだ。本人も忘れていた幸福の図を前に、ハクトルはしばし言葉を失う。
 そして、力いっぱいジーナ先生に抱きついた。
「ねえちゃーん!!」
「ああっ!? ばか、重い! 気持ち悪い!」
「俺もういいよ姉ちゃんだけで。大好きー!」
「ああもう離れろっ、こらー!」
 自分がもらった高級チョコレートを手に、サフィギシル兄は歯噛みする。値段では勝っているはずなのに、この姉弟愛を前にすると、負けているようにしか思えなかった。



「リドーせんせー」
 うっ。と嫌な声をのんで、リドー先生は立ち止まる。相変わらずのろのろとした歩みで、アリス先生がそれに追いついた。
「はい、チョコレートです。義理ですけどー」
「そ、そうか。ありがとう」
 ぼんやりとした彼女の目はリドー先生を見上げているが、本当に目が合っているのかはわからない。この、得体の知れない新任教師は何を考えているのか誰にもわからないと言われていたし、リドー先生も彼女を苦手としてつい避けてしまうからだ。
 今日もまた目をそらしたところで、リドー先生はチョコレートの包みに気づく。
「珍しいな。かなり凝った箱じゃないか」
「そうなんですよー。ハクトル君に手伝ってもらったんですー」
 それでは、とお辞儀をしてアリス先生は去っていく。ゆるりとした後姿を見送りながら、リドー先生は不可解に眉を寄せた。
「……なぜハクトルなんだ?」



 チョコレート色に染まった一日も、ようやく終わろうとしている。それなのにうなだれている後輩を見て、ミハル先生はわずかに怪訝な顔をした。
「まだ落ち込んでいるのか。チョコレートなら、たくさんもらっているだろう」
 男女問わず生徒から親しみを持って慕われているシグマ先生らしく、彼の机にはたくさんのチョコレートが積まれていた。だがそれでも、朝から続く彼の無気力が終わるきざしはない。
 シグマ先生は、たいして興味もなさそうにチョコレートを眺めて言う。
「こういうのは、いっぱいもらってもしょうがないんすよ」
「人気があるのはいいことじゃないか」
「……そうじゃなくて」
 彼は思いきって顔を上げた。
「俺は、先輩からのチョコレートが欲しかったんです」
 言ったあとで、少しずつ顔が赤くなる。だがそれすらも不可解なものとして、ミハル先生は眉を寄せる。
「変わったやつだな」
「……先輩ほどじゃないっすよ」
 あまりにも伝わらない状態に、シグマ先生はまたがっくりと頭を落とした。
「しょうがないな。今からだと遅くなるが、それでもいいか?」
「え?」
 かすかな希望を求めて顔を上げる。ミハル先生はいつも通りの無表情で、平然と彼に告げる。
「希望のものを作ってやる。何がいいか言ってみろ」
「え、え、いいんすか?」
「レシピがあれば大体のものは作れるからな。たいした手間でもない」
 突然降り湧いた喜びに輝きながら、シグマ先生は「えーと、ええーと」と落ちつきなく体を揺らす。
「あ、あれ! 温めたらとろっと中からチョコソースが出てくるケーキ。あれがいいです!」
「フォンダンショコラか。ちょうど本に載っていたな。これから材料を買って帰ろうか」
「はいっ!」
「夜遅くなるかもしれないが、構わないか?」
「全然オッケーっす! ありがとうございます!!」
 今にも踊り出しかねない勢いで、シグマ先生は帰り支度を始める。ミハル先生は彼がなぜそこまで喜んでいるのかわからないまま、頭の中でこれからの行程を考え始めた。



「あ、いた。おーい」
 背後からしたピィスの声に、サフィギシルは振り向いた。
「なんだよ。帰ったんじゃなかったのか」
「いや、帰ろうとはしたんだけどさ。途中でいいもの見つけちゃって」
 駆け寄ったピィスの頬は、寒さのせいかひどく赤らんでいるように見えた。彼女はかばんの中をあさって、ひとつの小さな包みを出す。
「チョコレート。青のりとか入ってないやつ。よく捜したらさ、かばんの底に一つだけ残ってたんだよ。ちょうどいいからお前にやるよ」
「えー。ちゃんと食えるものなのか?」
「失礼な。これはちゃんと、お笑いナシの一品だよ。ためしに今食ってみろよ」
 嫌がる顔と楽しい笑いを半々にして、サフィギシルは箱を開ける。たしかに、並んでいるのはごく普通の手作りチョコレートに見えた。ひとつ、つまんで口にしてみる。
「……どう?」
「うん。普通のミルクチョコだな」
 緊張していたピィスの顔が、期待はずれそうなものに変わる。
「なんだよそれ。つまんないコメント」
「だってこれ、売ってるチョコ溶かしてまた固めただけだろ。失敗するほうが難しいぞ」
 元気をなくしたピィスを前に、サフィギシルはもうひとつ口に入れる。改めてしっかりと味わって、確かめるようにうなずいた。
「まあ、お前にしては上手くやったな。硬すぎて噛めないこともないし、分離もしてない。ちゃんと美味しいよ」
「そ、そう? よかった」
「これ、全部もらっていいのか?」
「あ、うん。いいよ」
 そうか、と呟いてサフィギシルは考える。不安げなピィスをよそに、彼の頭の中では何かが渦巻いているらしい。いくらかの算段を終えると、サフィギシルは満面の笑みでピィスを見た。
「ありがとう。いいものもらった」
 軽く息を呑んでピィスが固まる。そのあとで、そ、そう、と動揺あらわに下を向いた。その声は震えているし、頬は赤くなっている。だがサフィギシルはそれに気づくこともなく、笑顔でその場を後にした。



「なんでいらないんだよー。ピィスのチョコだぞ」
 二段ベッドの下の隅に縮まったカリアラに向けて、サフィギシルは執拗にチョコレートを勧めている。だがカリアラは首を振るばかりで、振り向こうとすらしない。
「せっかくもらってきてやったのに、なにが不満なんだ」
 カリアラは一言も口をきかずに、シラ先生からもらった高級チョコをほおばっている。サフィギシルからすれば、贅沢な環境だ。どうしてカリアラが怒っているのか、彼にはどうしてもわからなかった。
「いいよなお前は。本命チョコもらえてさ」
 ため息まじりの呟きに、カリアラが声を荒げる。
「サフィはほんとバカだな!」
「ばっ……バカってなんだよ。なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよー!」
 だがカリアラはまた無言に戻って黙々とチョコを食らうばかり。サフィギシルは「もういいよ、全部食うからな」とピィス製のチョコレートを口にする。カリアラはちらりとその様子を見て「バカ」と小さく吐き捨てると、やたらに甘いチョコレートをまた一粒ほおばった。

[おわり]

ハヴリアシリーズ全リスト