進路。サフィギシルは口の中で呟いた。これからの進路を、どうするか。
 一年になったばかりの彼にとって、それはひどく遠いものに感じられたが考えずにはいられなかった。サフィギシルは寮の廊下を戻りながら、想像をめぐらせる。約三年後の自分がどうなっているのか。

 きっかけは、兄の部屋に足を踏み入れたことから始まる。三年の入り口を過ごす彼は今夜も机に向かっていて、その背には、時おり見せる不真面目さなどかけらもない。机の隅には、大学の名を記した問題集が置かれていた。借りていた本を返して何気なく部屋を見れば、同室のハクトルは音楽など聴きながらベッドの上でくつろいでいる。ごちゃごちゃと散らかった彼の周囲に学問の気配はなく、サフィギシルは思わず疑問を口にした。
「先輩は受験勉強とかしなくていいの?」
「あー?」
 イヤホンを外してもう一度と促すので、遠慮がちに繰り返すとあっさりと答えられる。
「ああ、俺進学しないから。卒業したら店継ぐの」
「え、ああ、そうか」
「姉ちゃんとかセンセーは進学しとけってうるさいし、親父も少しは学歴つけとけって言うけどな。でも俺としてはさっさと働きたいのでー、勉強とかしないわけです。おわかり?」
「受験はともかく宿題ぐらい自分でやって欲しいんですけど」
 どうやらまた機嫌が悪いらしき兄は、ハクトルに対して頑固なまでに敬語を貫き通している。だがそんな抵抗など軽やかな風にも感じないのだろう。ハクトルは笑いながらサフィギシルの兄を示した。
「大変なのはこいつでさー。学長から離れたいから附属は嫌なんだけど、他校だと遠いせいで姉ちゃんと離れなきゃいけなくて、もうビジスのお膝元を選ぶか遠恋にするかって、最近ずっと悩んでんの。馬鹿だよなー」
「大事なんだよそういうことは! というか、なんで中学から一貫であの人の学校に通わなきゃいけないんだ。おかしいだろ、なあ!?」
「いや、俺は別に、爺さんの学校でもいいから……」
「いいよね君は」
 鼻で笑われて苛立たないはずもないが、兄がどれだけビジスを嫌っているかは知っているので何も言わないことにした。サフィギシルは改めて目の前の先輩たちを見る。今まで気づいていなかったが、彼らにも将来の予定というものがあるのだ。それなのに、自分には何もない。
「俺、大学の名前も知らないよ……」
「いいじゃねーかまだ一年なんだし。今から考えてたら頭痛むぞ」
 ハクトルは笑い、兄も同意の顔をしていたが、サフィギシルは不安と焦りを感じずにはいられなかった。

 そうして部屋を出てから、サフィギシルの頭は将来の像を探っている。行きたい大学、進みたい学部、それから就こうと思う仕事。自分のことを考えていたはずなのに、想像はいつのまにか方向を変えていく。カリアラはどうするのか。あいつこのままで大丈夫なのか。卒業とか進級も危ういのに、進学なんて……そもそも何の学部に行けばいいんだ。あいつにできる勉強なんてあるのか。就職にしてもこの時世は大変だし、あんな奴を雇ってくれる会社があるかどうか。第一、職にありつけても失敗ばかりするに違いない。ああ心配だ、どうしよう。
 そこまで考えてはっとする。
(ち、違う)
 カリアラのことで悩んでどうするのか。今は、自分自身の将来を考えなければ。
(ええと、このままだと附属の大学に行きそうな気もするけど、特に興味のある学部もないし……)
 あいつに興味のある学問なんてあるのか。どの教科も駄目なものばかりじゃないか。ああ、今のうちにひとつでも勉強にやりがいを覚えさせた方がいいのか。だとしたら何がいいだろう。体育も不器用だし、数学なんてまるで駄目だし……。
(だから、カリアラのことじゃないって!)
 サフィギシルは壁に頭をぶつけたい気持ちになった。なぜこうなってしまうのか。こんなことだから、ピィスにいつもからかわれるのだ。まったく、まったく、とおのれに毒づきながら部屋に戻れば、問題のカリアラは二段ベッドの下側で、カーテンを開けてみたり、閉めてみたりと無意味な遊びにふけっている。
「あ、おかえり」
 もうどうしてやろうか、と暗がるサフィギシルを見上げて、カリアラはカーテンを奥に収めた。
「どうしたんだ? 顔、変だぞ」
「お前に変とか言われると本気でへこむな」
 カリアラは特に気にすることもなく、今度は布団を限界まで小さくたたみ始める。サフィギシルはその背中に訊かずにはいられなかった。
「お前さあ、将来の夢とかあるのか?」
「ゆめ?」
「将来なりたいものだよ。学校卒業して、何するかってこと」
 ああ、と布団から手を離して、カリアラは事もなく答えた。
「おれ、漁師やりたい」
 予想外の言葉に、サフィギシルは目を丸める。普段からそれと同じほど丸い瞳が透明なまま見返してきた。
「漁師はな、毎日魚とれるんだ。おれ、魚好きだから、だから、漁師がいい。あのな、おれは島に住むんだ」
 夢に頬を赤らめるでもなく、彼はそれが当たり前のことのように間違いなく説明する。
「バイトして金を貯めて、シラと島に戻って、舟を買う。おれは上手いから小さいので大丈夫だ。魚をとって、それを食べる。毎日それをすればいい」
 ひけらかす態度ではない。ただ、彼の中にある事実を取り出してみただけの、簡単な語りだった。サフィギシルは目の前の男が持っていた世界にしばしの間ぼうっとする。我に返れば、カリアラは不思議そうにこちらをのぞきこんでいた。
「どうした?」
「い、いや、なんでもない。そうか。海か」
「おう。魚は旨いから、毎日食べても大丈夫だ」
 それは耳にしてみればあまりにもカリアラらしい回答で、もはやそれ以外にはないのだとすら思えてくる。サフィギシルは、毎日を海で過ごすカリアラを想像した。朝早くに舟をこぎ、海に出て魚を捕る。素もぐりをすることもあるだろう。貝を捕まえたりもするだろう。そうして今日の収穫物を、笑顔で待つシラの元に持ち帰り、ふたりで食べて。
 顔立ちが弱っていくのは、その生活があまりにも遠く感じられたからだ。幸せなふたりとは、滅多に会うことができなくなってしまうのだろう。サフィギシルは、突然彼らに置いていかれた気持ちになって、薄暗くうつむいてしまう。
 追い討ちをかけるように、カリアラが問いかけた。
「サフィは将来なんになるんだ?」
「……まだ決まってない」
 口にすることすら恥ずかしいが、他に答えようもなかった。自分をおそろしく小さく感じるサフィギシルに、カリアラは鮮やかに笑いかけた。
「じゃあ、お前は料理だな」
 嬉しそうな顔の意味がわからなくて、不機嫌に眉を寄せるとカリアラは続けた。
「お前は、おれの魚を料理すればいいんだ。お前は上手だからみんな喜ぶ。それでな、店にするんだ。みんなが飯を食いにくる。おれも、シラも、ピィスも、ジーナも、ハクトルも、にいさんも、ペシフィロも、ビジスもだ。みんなでお前の飯を食おう。お前の飯はうまいから、毎日がもっと嬉しくなる」
「……みんなで」
「うん。魚は心配ないぞ、おれが捕ってくるから」
 呆然とする目の前ではカリアラが笑っていて、その瞳に冗談や嘘はない。サフィギシルはしばらくしてふきだした。
「なんだよ、俺もかー」
「うん、お前もだ。それで絶対大丈夫だ」
 あまりにも真面目なカリアラの顔を見ることができなくて、サフィギシルは楽しい気持ちに赤らんでいく頬を覆う。焦りや不安はすっかり消えてなくなっていた。そうだよな、と胸で呟く。俺は料理をすればいい。ピィスだって海は好きだし、いい客になってくれるだろう。野菜を育てて、肉は買って、毎日カリアラの捕ってきた魚を見てはメニューを考えて。そうやって、当たり前のように毎日を過ごせばいいのだ。
「いいなあ、楽しくなってきた」
「うん、楽しみだ。早く大人になりたいな」
 にこにこと笑うカリアラと一緒にサフィギシルもまた笑う。こんなことをピィスに話せば、また呆れた顔でたしなめられてしまうだろう。明日になればそんなことありえないと考えるだろう。だが今は、この、楽しい思いを味わえるだけで他にはもう何も要らない。いつかきっと、本当に大人になってしまっても、この計画だけはずっと心にしまっておこうと考えた。誰が忘れても自分はこれを取っておくのだと、サフィギシルはそれを内へと引き寄せた。


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