パシャ。と、いかにも作り物のシャッター音がして、サフィギシルはうつ伏せていた顔を上げた。うたた寝から目覚めたばかりの視界には、真剣な顔で携帯電話を掲げるカリアラがいる。サフィギシルは状況を理解できないまま、物言わぬ携帯のレンズを眺めた。パシャ、とまた同じ音。
「……何やってんだ」
「写真だ」
 当たり前に答えるカリアラはそれ以上を説明しない。サフィギシルは続けて撮ろうとする彼の手を掴み、怪訝な顔でその赤い小型機械を見つめた。いつかテレビで見たことがあるような気がする、いかにもな最近の機種。
「写真って、ええ? これ誰のだ? ピィス、ちょっと!」
「はいはーい。なんですかお坊ちゃまー」
「変な呼び方すんな。これ、お前のじゃないよなあ?」
 ピィスが普段使っているものとは会社からして違っている。サフィギシルは首をひねりたい思いでその携帯をピィスに見せた。
「うん、オレのはもっと古いやつ。何、カリアラ携帯買ったの?」
「ううん、買ってないぞ」
「こいつに使いこなせるわけないだろ。第一、携帯電話は校内に持ち込み禁止」
「そんな校則、律儀に守ってるの学校中でお前だけだぞ」
 見回せば昼休みの教室ではあちこちでメールの送受信が繰り広げられ、中には堂々と通話をする生徒もいる。時計代わりに使っている者も多く、最近では教師のほうも半ば諦めている状態だった。それでも規則を守り通すサフィギシルは、ばつの悪い顔をする。
「で、結局誰のなんだよこの携帯。カリアラ、これどうしたんだ」
「うん。あのな、ハクトルに借りたんだ」
「……ハクトルさんから?」
 いかにもな嫌な予感にサフィギシルの気配が濁る。カリアラはそんなことには気づきもせず、至極真面目な顔で答えた。
「サフィのいろんな写真撮ってこいって。寝顔はポイント高いって言ってたぞ。よかったな」
 で、ポイントってなんのだ? と問うカリアラを前にして、サフィギシルは無言で立った。



「寮ー長ー!」
「あ、やっぱりバレた」
 三年の教室に飛び込んできた後輩たちに、ハクトルはわざとらしく舌を見せる。
「ゴッメーン。トルトルいたずらだいスキだからぁ」
「意味わかんない。何その気持ち悪いポーズ。意味わかんない」
「二回言えばネタになると思うなよ若造」
 コツン、と自らの頭を小突いた手をカリアラに向け、ハクトルは呆れた息をつく。
「あーあ。明日ぐらいまでは見つからないかと思ったんだけど、やっぱお前正直すぎっからなー。はい返却。なんかいい写真撮れた?」
「あのな、寝てるとこ撮れたぞ。ポイント高いか?」
「高いけど、どうせ消去されちゃっただろ。そういうのはな、撮れたらすぐ俺ンとこに……」
 え。とサフィギシルが呟いて、ハクトルもまた「え」と返す。彼はすぐさま戻ってきた携帯をチェックした。撮りためられた画像の中には、確かにうつぶせて眠るサフィギシルの顔がある。
「よおおっしゃああ! よくやったぞ後輩! ポイント三十ゲッツ!」
「やったなサフィ。三十もだぞ」
「待って待って今のナシ! 消して! すぐ消して!!」
 削除という考えに至らなかったサフィギシルは、真っ赤な顔でハクトルにすがりつくが助けてもらえるはずもない。恥ずかしい写真入りの携帯は、高く掲げられたままハクトルに操作される。
「はーいうちのパソコンに送りましたー。もう保存しちゃったもんねー」
「ひっど! 何でそこまで!」
「ていうか、サフィの写真なんて何に使うの?」
 笑いながら傍観していたピィスが尋ねた。サフィギシルも、まだ熱の引かない顔をそういえばと疑問に揺らす。ハクトルはそれが当たり前とばかりに言いきった。
「そりゃお前、『あいつの写メあるんだけどいる?』とかって女の子にあげてメルアド聞き出すに決まってんだろ」
「決まってんの? それ世界の常識なの?」
「つかそれ以外に野郎の写真集める理由なんてあるか?」
 ここまで堂々とされては反論する隙もない。口ごもるサフィギシルをよそに、ピィスはつまらなさそうに言う。
「なんだ。オレてっきり売るのかと思ってた」
「レア度高いやつはたまに売るな。ま、金じゃなくて他ので払ってもらうけど」
「他のって……」
 ハクトルは悪びれない顔で言う。
「『写真三枚あげるから代わりに今度カラオケ一回』」
「寒う!!」
 二人分の声が重なる。カリアラだけがぽかんとしてみんなを見回す。
「ちょっと待ってそれ俺の写真!? 俺の写真そんな嫌なことに使われるの!?」
「今んとこお前の兄貴の写真で勝率七割」
「十分割できるぐらいやってんの!?」
 引きつるほどに騒いでもハクトルが動じるはずもなく、戦略上手な先輩は悲しげな息をついた。
「まあ今までは、うちのサフサフとあと二・三人で十分使えてたんだけど、この前見つかっちゃってさー」
 おーい、と話の途中で手を振る先にはサフィギシルの兄がいる。去年から生徒会長も勤めている彼は、穏やかな微笑みのまま「地獄に落ちろ」としぐさで答えた。
「ほら、ずっとあの調子。必要な時以外は口も一切利かなくなって」
「兄さん、よっぽど嫌いなんだな……」
「まあ隠し撮りは続けるけどな」
 いけしゃあしあと言うハクトルに諦めるという言葉はない。ピィスは切なく呟いた。
「先輩、こんな人と同室になったばっかりに……」
「というわけで。新しい風を吹き込むために弟君を参戦させようってわけだ」
 話を変えるとカリアラがそこに食いつく。
「ハクトル、サフィも強いか? 勝つか?」
「弟は兄とはまた違う層にウケるから、こっちも新規開拓できるかなと」
「トル兄はどこまで行くつもりなの」
 そうか、強いか。と嬉しそうにうなずくカリアラをよそに、ハクトルはピィスに顔を寄せた。
「そりゃどこまでもに決まってんだろ。お前中学ん時の友だち紹介しろよ」
「やだよ。どぶ川に突き落とすようなもんだろ」
「いいだろー。ほら、レア写真見せてやっから」
 幼なじみをかわいがる口調で携帯の画面を向ける。
「これとかどうよ。満面の笑顔のミハル先生」
「ええ!?」
 ピィスだけでなくサフィギシルまでもがそれに飛びついた。
「うわ、本当に笑ってる! 何これ!」
「ちょっとぎこちないところがまたイイだろ。これシグマ先生に売ろうとしたんだけど、あともう少しってところで断られて。時間さえあれば売れたと思うんだけどなー。教師としての良識とかプライドとかそんなのと戦う様子が、見ててすっげえ面白かった」
「シグマ先生……」
 ほろりと涙がこぼれそうな同情。携帯を受け取ったピィスが検証する目でそれを見つめる。
「この写真、どうやって撮ったの?」
「本人に頼んだらあっさり笑顔作ってくれた。結構ノリいいぞあの人」
「シグマ先生の哀れさがさらに上がる事実だな」
 背後から手が伸びて、パシャ、と作り物の音がした。好奇心をあらわにしたカリアラが、ピィスの肩に顔を乗せて携帯を裏返す。
「えい」
 と口にすればまたしてもシャッター風の音がして、カリアラとピィスの画像が一枚収められた。カリアラはその姿勢のまま保存をして、サフィギシルを手招く。
「サフィも撮るぞ。ほら、こっちだ」
「なんでそんなに楽しそうに……」
「まあまあ。付き合ってやろうよ」
 面倒そうに入り込むと、今度は三人が身を寄せ合うプリクラのような写真となった。カリアラは、みんなの写るそれを見て満面の笑顔となる。
「ハクトル、これはどうだ? ポイント高いか?」
「うーん、こういう仲良しなのは個人的には好きだけど、売るのはちょっとなー。やっぱ珍しいのが一番だな。レアなの随時募集中」
「レアなのは強いのか? 珍しいの撮ってきたら、すごいか?」
「おう。貴重なのは男女問わず売ったり使ったりできるからな。よし、じゃあこの携帯は貸してやるから、頑張ってレア物を撮ってこい! 寮で同室の権限を最大に利用して!」
「ろくでもないこと叩き込むなー! 明らかに俺が対象だろそれ!」
 起こりうる事態を想像したサフィギシルが青ざめても、カリアラたちは動じない。ハクトルは、カリアラの首に携帯のストラップをかけてやった。ピィスが冷静に忠告する。
「ってか、こいつに貸したら壊されちゃうんじゃないの」
「大丈夫、俺携帯三つ持ってるから。カリアラ、いいのが撮れたらすぐ持ってこいよ。データ確保するから」
「わかった。じゃあ撮ってくる!」
「えっ」
 元気よく手を挙げると、カリアラは首から提げた携帯を揺らしてまっすぐに駆けていく。その背はたちまちに廊下に消えて、行き先すらわからなくなった。
「撮ってくるって……何を?」
 唐突に残された人員は、わけがわからず眉を寄せた。



 校舎ではなく体育館にあるためか、体育教官室はお世辞にも広いと言うことはできない。教員全員の机と、それなりにくつろぐスペースがあるだけであり、最低限のその中に、隠し事を持つ余裕など本来はないはずだった。
 それなのに、どうしてこんなにわからないことばかりなのか。リドー先生は憂鬱にマグカップの端を撫でた。
 手狭なこの部屋の中には、現在、リドー以外にもう一人体育教師がいるはずだ。だが首を回したところで見つけることはできないだろう。なな先生は、どういうわけかその姿を滅多に見せない。会議中などは、一番隅の席に黒いフードを被って小さく座っていたりもするが、それもなぜだか若干目を逸らした隙に物陰に紛れてしまう。消えるわけではない。ましてや透明になるわけでもない。たしかにそこにいるはずなのに、わからなくなってしまうのだった。
「……なな先生」
 呼んだところで返事はない。だがリドーは視線を動かさずに続けた。
「さすがに、その点数は……というより、壁に貼るのはどうかと思うのですが」
 部屋の角に位置するなな先生の机。その壁には、わざと見せつけるかのように、ある生徒の授業評価ノートが飾られていた。一年五組のカリアラカルス。筆記試験はまだ行われていないため点数は未記入だが、体育実技の項目には「10」と記されている。
 百点満点中の話だ。このままでは落第してしまう。
「カリアラはよくやっているじゃないですか。授業は毎回真面目に出ているし、まあ打っても投げても絶対にコートの中には入りませんが、それでもやる気だけは本物で……もう少し、真っ当な点をやるべきではないかと」
 見えない相手に抗議しても答えが来るはずもない。リドーは、本当に相手がいるのか虚空を探った。机の下や体育器具の影までもを慎重に。
 その動きをさえぎるように部屋のドアが開かれる。
「こんにちは! なな先生いますか!」
 噂をすれば影ということだろうか。現れたのはいかにも全力で走ってきた様子のカリアラだった。首からは赤い携帯を、手には売店で購入したらしきメロンパンを持っている。
「なんだ、昼飯でも食べにきたのか? なな先生は……いるんだかいないんだか」
「いるぞ。今日もそこにいる」
 カリアラはまっすぐに指をさした。部屋の角、なな先生の机の前。リドーが目を凝らせば、たしかにじわりと動く輪郭が見えた気がした。それはまた一瞬で無に帰すが、どうやらいるのは事実らしい。
「……いつもながらよく分かるな。ああ、長く見てはいけなかったか」
 そう言いかけた口が呆れるのも毎回のことだった。カリアラは姿勢を低くして、じっとなな先生を見る。睨みつけるわけではない。まるで子どもや動物が気になるものを見つめるように、透明な眼で息を忘れる。カリアラは目を逸らさずメロンパンの袋を開けた。
 そして、なな先生に向けて差し出す。
「食え」
「カリアラ。何度でも言うが、なな先生は犬じゃない」
「エサだ。食え」
「カリアラ」
 この動物じみた一年生は、なな先生のことを黒い犬だと信じているのだ。生徒に姿を見せないなな先生にも問題はあるが、学校が始まってしばらく経つのに認識を改めないカリアラも、相当なものである。
「なんで食わないんだ? 売れ残りだけどこれは旨いぞ」
「カリアラ、位置が低い。なな先生の口はもっと上だ」
 床につくかつかないかの場所に差し出されても困るだろう。もっとも、どこに掲げられていてもなな先生がそれを食べることはなさそうだが。カリアラは真剣な目をして言う。
「ムツゴロウさんになればいいのか?」
 ただじっと前を見据えて、あくまでも真顔で続ける。
「おれがムツゴロウさんのまねをすれば食うのか?」
 いやそれはどうかと思う。と言う間もなく、カリアラは顔色を変えず声を張った。
「あーしあしあし。あーしあしあし。ほーう。ほほーう」
「驚くほど似ていない!!」
 本人がいたら笑顔で猛獣をけしかけかねないほど別人である。カリアラは酷評も聞かずあーしあーしと繰り返しながら、首から提げた携帯を開いた。カメラを起動して、構える。
「……写らないと思うぞ」
「あーしあしあし。ほーう。ほほーう」
 逆の手ではメロンパンを揺さぶり続けているし、状態としては愉快だがあくまでも真顔である。冗談のない表情に、リドーはどう反応していいかわからなくなった。カリアラは似ていない畑正憲の物真似を続けている。
「ほ」
 かすかな風が走り、メロンパンが携帯電話に直撃した。カシャ、と人工的なシャッター音。その後でメロンパンは音もなく床に落ちる。カリアラは、ゆっくりと携帯の画面を見た。そこには暗い影にも見える、静止したメロンパンの画像がある。
「な、なな先生。暴力は……」
 リドーが止めた通り、それはなな先生のしわざだった。目に見えぬほどの早業でメロンパンを叩き返したのだ。カリアラは画像と同じく静止している。彼は、動揺するリドーを振り向いて言った。
「リドー先生。ちょっと出ててくれ」
「は? いや、そういうわけには」
「いいから。外にいてくれ」
 カリアラの纏う空気が変わったように思えた。少なくとも、リドーには。
 彼の雰囲気が急に静まったようで、リドーは困惑するが観察している暇もない。気がつけばカリアラに押し出されて体育教官室を出ていた。はっとした途端にドアが閉められて、さらには鍵までかけられる。
「おい、カリアラ! おい!!」
 叩いたところで返事はなく、扉の奥には気配すら絶えていた。


 叩かれるドアの音を背に、カリアラはなな先生のいる場所を向く。手の先で携帯を操作し、プレビューで止まっていたメロンパンを消去する。新たな画像を求めるカメラを相手に向け、ポケットから、銀縁の眼鏡を取り出した。
 何も言わず彼はそれを装着する。
「始めようか」
 その瞬間、壁際の影が揺らいで立った。





「……何をどうすればこんな大怪我になるんだ?」
 全身を打撲だらけにしたカリアラを見下ろして、サフィギシルはため息すらつくことができない。彼の横たわるベッドの脇には、養護教諭であるシラ先生やピィスが並んでいた。シラ先生はまだまだ巻き足りない顔で包帯を握りしめる。
「ねえ、本当に誰かにやられたんじゃないの? だって、こんな全身の傷、階段から落ちたぐらいじゃ」
「あのな、いっぱい落ちたんだ。だからいろいろ怪我した。おれがひとりでやったんだぞ」
 カリアラの主張は初めからそれ一点で、揺るぎを見せることがない。ピィスがなぜだか青ざめて目を逸らした。
「……うん。まあ、そういうことにしたいんなら、いいんじゃないかな……」
「なんだ、顔色悪いぞ。体温でもはかったらどうだ?」
 せっかく保健室なんだしとサフィギシルが勧めても、ピィスは曖昧に笑うだけ。少し離れた窓際で、関係がないはずなのに付き添いとして授業をサボるハクトルが呟いている。
「っかしーなー。オーイ、なんかピィスの写真だけ削除されてんだけどー」
「うん。ごめんな」
「いやごめんじゃなくて……」
 だがそれ以上訊いたところで答えは返ってこないだろう。見切りをつけたハクトルは、今度は別の質問をする。
「で、これ何の写真なわけ?」
 カリアラたちに向けた携帯の画面には、真っ黒い影が写っている。その隅に、かすかに白い指先のようなものが見えた。まるで夜の景色か心霊写真のようである。どうしてもわからなくて眉を寄せるハクトルに、カリアラは嬉しそうに笑って答えた。
「けんとうしょう、だ!」




 この時間、他の体育教師たちは皆授業に行っている。なな先生は、ひとり体育教官室の中に立っていた。あちこちで椅子が倒れ、机の位置がずれている。彼は後で直さなければいけない爪痕を眺め、ゆっくりとペンを取った。
 壁に貼ったカリアラカルスの実技点、「10」と記されたそれを線で打ち消し、「30」と書き換える。
 そしてかすかに鼻を鳴らすと、また影の中へと戻った。


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