単に、カリアラを迎えに来ただけだった。毎日のように怪我をする彼が、またしても階段から落ちたと聞いて保健室に向かったのだ。そこまでは、サフィギシルの心中はいつもとなんら変わりはなかった。どうせまたシラ先生の手当てを受けて、平然とベッドに座っているのだろう。と、慣れすぎているために心配すらろくにせず、共に寮へ帰ろうと保健室のドアを開き、そのままに、固まった。
 カーテンすら閉めない窓際に、ひたりと寄り添う二人の影。カリアラはシラ先生を膝に乗せ、大きく抱きすくめている。整った顔立ちの養護教諭は立場すら忘れているのか、とろけそうな至福の笑みで彼にしがみついていた。
 サフィギシルが息すら詰めてその場を去ったのは、当然のことだろうか。彼は絶対に気づかれないように、とふらつく足で逃げていく。心臓が嫌な音を立てていた。頭の中には二人に向けた罵倒が巡り巡っている。バカ、何やってんだよ学校で。バレたらどうするつもりなんだ。二人の関係については知っているつもりだった。シラはカリアラを親代わりとして育てたために、今でも彼を溺愛している。カリアラもまた、シラを追ってこの学校に入学したぐらいなのだ。彼らの絆はサフィギシルなどが入り込めるものではない。
 だが、実際に、あんなにも密着しているところを見たのは初めてだった。サフィギシルは、頭を打たれたようなショックに足をよろめかせている。
(だ、だって学校で……いや、そりゃ寮でやるわけにはいかないけどさ! でもさ!)
 一番衝撃的だったのは、いやに慣れたカリアラのしぐさだった。何も知らない純粋なやつだと思っていたのに。友人内での下ネタにもきょとんとするだけだったのに、あんなにも自然に彼女のからだに手を添えているなんて。頬と頬を触れあわせているなんて、反則だ。
 サフィギシルは、ひとり置いていかれた気分で頭をたれた。しょぼくれたまま、人気のない放課後の廊下を歩む。特別教室であれば部活の生徒がいるものだが、ここは普段からあまり使われることのない臨時室の並びである。がらんどうのまま放置された空間に、寂しさはさらに増した。
 だがそれだけであればまだ幸せだっただろう。サフィギシルは、突如視界の端に映った光景にぎょっとする。
 静かな教室の隅に、密着する男女の姿。目を凝らすまでもなく、口を重ねているのがわかる。互いの体に手を這わせ、かすかな音すら響かせながら深く潜り込んでいく。顔を離してはまた引き寄せられるようにぶつけ、肌を合わせる。
 ふと顔を離した男が、からかうような笑みを浮かべた。
「……あれ。しないんじゃなかったの?」
「そっちが勝手に進めたんだろう」
 うんざりと眉を寄せる相手は、担任のジーナ先生だ。そしてくすくすと彼女の瞼を撫でる男は。
(に、兄さん……!?)
 外見だけは似ていると皆に言われる、サフィギシルの兄だった。
 サフィギシルが愕然とする前で、兄はジーナ先生の腿に手を滑らせる。それはすぐに彼女の爪に攻撃されるが、撤退しない。嬉しそうに首筋を吸い、わざと音を立てて笑う。ジーナ先生は嫌そうに目を細めているが、完全に拒絶することはなく、まるで子どもをあやすように彼を迎え入れていた。諦めの見えるしぐさには慣れが満ち満ちていて、サフィギシルは二人が既にそういった関係であることを知る。硬直するサフィギシルには気づかないまま、ジーナ先生は服の中を探ろうとする男の手を引きとめた。
「こら。いい加減にしろ、校内だぞ。誰かに見られたらどうする気だ」
「大丈夫。こんな時間にここに来る人なんていないさ」
 動かない体がさらに固められたような気がして、サフィギシルは息を止める。兄は楽しげに笑いながら、ちらりと廊下に目を向けた。
「まあ、せいぜい鼠くらいかな」
 その水色の瞳は、一瞬だが確実にサフィギシルを捉えていた。サフィギシルは心臓が凍るのを感じる。気づかれていたのだ。兄は見せつけでもするかのように、さらに彼女の肌を手繰る。おそらく気づいていないのであろうジーナ先生が、かすかな息を吐くのを聞いてサフィギシルは走りだした。決して振り向こうとしないまま、全力をもって逃げた。
 男女のそういう場面を見れば、興奮するのではないだろうかと考えたことがある。だが現実に体を支配するのは、血が失せたような悪寒だけだった。人物が悪かったのだろう。ジーナは、小さい頃から面倒を見てもらった母親のような人だ。その厳しさや口の悪さから恐ろしくも思っているが、それ以上の親しみと感謝を抱いていた。だが彼女を女として見たことなどなく、いきなりあらわにされてしまった姿が、目にこびりついて離れない。
 しかも、相手は自分の兄だ。人当たりの良い彼が、時おりおそろしく冷酷な目をするのには気づいていた。だが、まさか、このような形で見せつけられてしまうとは。サフィギシルは今生きている現実すべてが嘘をついているように思えて、ひたすらに駆けていく。
 誰かにぶつかってしまったのは、当然のことかもしれない。サフィギシルは尻餅をついた姿勢で、慌てて謝罪を口にした。
「す、すみません」
「いや、平気だ。怪我はないか」
 しんとした空気に染みる、女の声。落ち着いたそれに導かれて顔を上げれば、動揺のない表情がある。立ち上がったばかりの手をサフィギシルに向けるのは、化学のミハル先生だった。サフィギシルは自覚のないまま彼女に助けられて立つ。上手く働かない頭の隅で、この人はどこかジーナ先生に似たところがあると考えていた。顔が、自然と歪んでいく。
「どうした。痛いか」
 首を振ると泣きそうな顔になってしまう。ミハル先生は、体温の見えない顔立ちでサフィギシルを眺める。
「顔色が悪い。打ちどころが悪かったか。とりあえず、保健室に」
 さらに強く首を振った。今この状況で、カリアラたちのいる保健室に入っていくわけにはいかない。サフィギシル自身が見たくないというのもあるが、何よりもミハル先生を連れていけば二人が困る。サフィギシルは口の奥で大丈夫ですと呟いて、逃げるために踵を返した。
 だがその腕を掴まれて、ずるずると引きずられてしまう。
「せ、先生?」
「保健室が嫌なら、別の場所だ」
 ミハル先生は白衣の裾を揺らしながら、平然と歩いていく。だがその手はしっかりとサフィギシルを捕まえていて、彼が逃げようと踏ん張ってもその姿勢で連れて行かれるだけ。サフィギシルは意外にも強すぎる彼女の力に混乱した。抵抗しているのに、どうしてだか勝てる気がしないのだ。
「先生、あの、俺怪我してません」
「顔色が悪い」
 いやそりゃあ悪いだろうけど。そう考えても彼女が止まることはなく、諦めてついていくと、ほどなくして足が止まった。ミハル先生は「化学準備室」と記されたドアを開け、サフィギシルを中にうながす。サフィギシルはおそるおそるその静かな部屋に入った。
 薬品の臭いが鼻につく。ガラス棚に並べられた瓶の中身が少しずつ混じり合って、空気と化したようだった。息苦しさを感じていると、ミハル先生は小奇麗に片付けられた机の椅子を引き、座れとばかりに差し向ける。サフィギシルは、どういうことなのかわからないまま腰かけた。すると不可解なものを発見する。
 薄汚れた白衣の背が部屋の奥に丸まっている。くせの強い茶色の髪が、その上に漂っていた。
「シグマ。起きろ」
「ふあー?」
 ミハル先生が机を小突くと、つっぷして眠っていた白衣の男が顔を上げる。まだぼんやりと澱んでいるその顔は、生物のシグマ先生だった。サフィギシルたち一年は、彼に授業を教わっている。シグマ先生はきょろきょろと見回して、驚いた顔をした。
「あれ? 俺寝てました? え、いつのまに?」
「一時間前から寝ていた。いびきまでかいていたぞ」
「えー。あーそうだ、採点してて眠くなって……うわすんません。あれ?」
 見つけられてひとまずぺこりと会釈すると、ミハル先生が説明をした。
「顔色が悪いから、どこかで休ませた方がいいと思ってな。とりあえず連れてきた」
「うわホントだ。大丈夫か? 死にそうな顔してる」
「サフィギシル。ほうじ茶でいいか?」
 覗きこむシグマ先生に構わず、ミハル先生は湯飲みを並べる。サフィギシルは遠慮しようと思ったが、それよりも先にシグマ先生が顔をあげた。
「あ、先生。俺コーヒーで」
「わかってる。砂糖だけだな」
 会話する二人の中に「いつもの」という空気を感じて、サフィギシルは居心地が悪くなる。よく見れば、インスタントコーヒーを入れるマグカップには、シグマ先生の名前が記されている。この二人も随分と仲が良いのだと考えて、サフィギシルはうつむいた。
「大丈夫か。暑気あたり……ってほど暑くはないな。気分が悪いとかは?」
「……ないです。あの、大丈夫ですから。俺、帰ります」
「いや大丈夫じゃないって。倒れそうな顔色してるぞ。いいから、ほら、座ってろ」
 早く逃げてしまいたいのに、シグマ先生は心から心配する顔でサフィギシルを覗き込む。額に手をあてて、熱はないなと呟いた。
「うーん。とりあえず、具合がよくなるまで休憩しようか。先生、保健室ってこの時間閉まってましたっけ?」
「開いているだろうが、行きたくないそうだ」
「へー。なんだ、シラ先生が美人だから、緊張するとか?」
「それはお前だろう」
「いやだって、すり傷ぐらいで保健室に行くのもねえ。いつもすいません」
 そう笑うシグマ先生の指には、包帯が巻かれている。丁寧に留められたそれは、ミハル先生がやったものなのだろうか。頭をかくシグマ先生の手が、ぴたりと止まった。
「あれ。先生はこの子の授業持ってましたっけ?」
「いや。ないが、どうした」
「その割には、名前ちゃんと知ってるんだなー、と」
「ああ。兄の方を受け持っているからな。よく似ているから覚えやすい。カリアラとよく一緒にいるだろう?」
「は、はい」
 どうしてカリアラの名も覚えているのか気になったが、質問する暇はなかった。
「……ポットが壊れているな」
 先ほどから試行錯誤していたミハル先生が、諦めて息をつく。
「待っていろ。ビーカーで沸かしてくる」
「えー、またっすかー。そこまでして入れなくても……」
 シグマ先生のぼやきも聞かず、ミハル先生は湯飲みを持って化学室へと消えた。
「入れてもらっててなんだけどさ、ビーカーだとどうも実験くさいというか」
「あの。シグマ先生はいつもここにいるんですか?」
 自分の部屋のようにくつろいでいるのが気になって、聞かずにはいられなかった。
「うん。まあ、なんとなく暇なときはここにいるよ」
「生物準備室もあるのに?」
「まあね」
 あっさりと答える様子に後ろめたさは見つからない。サフィギシルはつい口にした。
「シグマ先生とミハル先生は、随分仲がいいんですね」
 もしコーヒーを飲んでいたなら迷わず吹いていただろう。シグマ先生は、それぐらいわかりやすく動揺した。気の毒に眺める先で、シグマ先生はそわそわと落ち着きなく体を揺らす。うん、まあ、うん。と、よくわからない返事をした後で、不安げに眉を寄せた。
「……疑ってる?」
「今のを見てものすごく」
「いや今のはね! いきなりでびっくりしたっていうか! 違うよ、そういう関係じゃないって」
「じゃあどういう関係なんですか?」
 うっ。と面白いほど息を詰めるシグマ先生を見て、サフィギシルは三度目の衝撃が走るのを知った。カリアラとシラのように、兄とジーナ先生のように、この二人も知らないところでいろんなことをしているのだろうか。そう思うと、サフィギシルはまた騙されていたような気持ちになる。そんな勝手な不快感は間違っていると知ってはいるが、まだ幼い彼の心は不安のままに濁っていった。
「あのさ、俺たちは同じ大学の先輩と後輩で、それでよく知ってるんだよ」
「でも、この前クラスの女子が言ってましたよ。シグマ先生は、ミハル先生の家によく行ってるって。変なうわさだと思ってたけど、それも本当なんですか」
「いや、それは……本当だけどさ。でも付き合ってるとかじゃないんだよ」
「自宅に通う仲なのに? それでも恋人じゃないんですか」
 ふ、とシグマ先生の目つきから熱が引いた。哀しげにゆるむ顔。
「……サフィギシル」
 彼はサフィギシルの両肩を掴んで言った。
「世の中にはなぁ、たとえ週一で通っていようが、手料理をごちそうになろうが一向に進展しない人たちもいるんだよ」
 血の涙が見えそうな顔だった。
「す、すみません」
「おかしいよなぁ。ありえないよなそんなの。でも現実なんだ」
「いや、ほら、普通に友だち同士だから何もないとか、そういうんならよくあるだろうし」
「それは要するに眼中にないってことなのか。そうなのか」
「ごめんなさい答えられません。先生、先生元気出して!」
 がくりと頭をたれてしまった高校教師に、サフィギシルはどうしていいかわからなくなる。彼の言葉のひとつひとつに嘘がないと確信して、自分が彼の一番痛いところをついてしまったのだと実感していた。
 罪悪感はある。だが、それ以上にサフィギシルはほっとしていた。どうしてだろう、体中を蝕んでいた気持ちの悪さが引いていく。細かい理由はわからないが、それはシグマ先生の現状と関わりがあるようだった。
「先生……ありがとうございます」
「え? なんでお礼言うの?」
「俺、なんか元気になりました。もう大丈夫です」
「それは俺を見て? 俺のへこみを見て元気になったの?」
「どうもお邪魔しました。先生も頑張ってください!」
「俺が頑張るの? なんか俺慰められてる!?」
 では失礼しましたと頭を下げて、サフィギシルは部屋を去った。シグマ先生が何か言おうとしていたが、迷惑になってはいけないだろうと、応援する思いで廊下を走った。



「……サフィギシルはどうした?」
 入れたての茶とコーヒーを手に、ミハル先生は立ちつくした。
「それが、なんかもう元気になったって……。顔色も治ってましたけど」
「どうしたんだ突然。何かあったのか?」
「……いえ。何も」
 シグマ先生がそれに答えられるわけがない。彼は受け取ったいつも通りのコーヒーを飲んで、深いため息をついた。


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