※この世界にバレンタインがあったら、という前提のお話です。


「グイエーン」
 と、姓で呼ばれるたびにぎくりとしてしまうのは、一体いつからだっただろう。少なくともここ数ヶ月で生まれた反応のはずだが、シグマにはもはや思い出すこともできないほど遠い昔に感じられた。
 もうすっかりとこの国に慣れたアーレル人が、ひょこりと窓から覗いている。
 ……いや、ちゃんとした常識を身につけた人は、二階の窓から日常的に不法侵入しないはずだが。とにかくシグマは今日も今日とて遊びに来たカリアラを迎え入れた。
「いい加減、玄関から入ってくださいよ。なんで俺が窓の下に雑巾用意しなきゃいけないんすか」
「汚れるのが嫌だからだろ」
 これっぽっちの気後れもなく言いながら、カリアラは差し出された雑巾で靴を拭いた。
 彼は水たまりだろうが沼だろうが気にせずに進むので、いつもすねのあたりまで泥まみれになっているのだ。しかも、雨の日でも傘も差さずに歩き続けるので、天気によっては部屋中が外と変わらないくらいに汚れてしまう。
 それなりにきれいにした靴を脱ぎ、何故だか草や木の葉まみれになっているコートも剥がし、ついでに砂まみれになっていた頭を、一応は窓の外に向けて掃っているカリアラの服の中から、小さな箱が転がり落ちた。
「なんすか、このきれいな包み。というかどこに入れてたんすか?」
 カリアラが無言で指し示したのは、シャツをめくった腹のあたりだ。服の中になんでも入れてしまうくせは、まだ直っていないらしい。かばんを面倒くさがるのだ。
「今日はそれを見せに来たんだ。見ろ」
「見ろって……普通にちゃんとした包装ですけど。高級品じゃないですか」
 小さく包み込んだ包装の手触りはなめらかで、紙のはずなのに何故か絹でも触っている気分になる。上品な色のリボンの方は、錯覚ではなく絹だろう。
 多分。おそらく。なんとなく質が良さそうだからそう判断しただけで、高級品に疎い身では断言することができない。
 カリアラは彼なりの礼儀でほこり落としを済ませると、椅子に座りながら言った。
「バレンタインのチョコレートだ」
 シグマはぴたりと手を止める。
「……俺にですか?」
「俺にだ。知り合いからもらった」
「うわああ良かったああ」
 どっと疲れを感じてシグマは棚にもたれた。
「なんでそんなにほっとしてるんだ」
「一瞬でいろんな考えが駆け巡ったからですよ」
「そうか。頭のいいやつは大変だな」
 特に頓着しない様子で、カリアラが箱を取る。
「身内以外から本命をもらうのは初めてだったからな。見せにきた」
「本命なんすか、それ」
 だが見ればわかる気もする。高価そうな包装を眺めているだけでも、得体の知れない女の本気のようなものが伝わるのだ。もしくは、金持ちマダムの小手先遊びか。だがさすがに顔の広いカリアラでも、そんな人脈はないだろう。
「本人が本命って言ってたからな」
「直接もらったんですか? じゃあ、告白されたってことじゃないすか! どうしたんです?」
「何がだ?」
 きょとんとしているカリアラは、本当に質問の意味を理解していないらしい。
 シグマは幼い子どもに教えるように、一言ずつ訴える。
「だから、告白をされて、場合によっては付き合ってくださいとか言われたりして」
「言われた」
「言われて、あなたはどう答えたんですか。恋人になるのか、ならないのか」
「なるわけないだろ。俺だぞ?」
 発言の意味がよくわからないが、とりあえずシグマは身振りを大きくした。
「じゃあなんでここにチョコがあるんですか! 振ったんじゃないんすか!」
「なに怒ってるんだ。ちゃんと言ったぞ、俺はお前のことを好きにはならない。これ持って帰ってグイエンに見せてもいいかって」
「二つの文がまったく繋がらないんすけど! つか俺の名前出さないでください!」
「どちらとも、本当のことじゃないか。俺はそいつのことを好きにはならない。そう知ってるから教えたんだ。で、本命チョコなんて身内以外から初めてもらったから、持って帰ってお前に見せようと思った」
 告白における男女の心境について語ろうとしていたシグマの気勢は、何の悪気も疑問も抱えていないカリアラを前にして消滅する。説教の代わりに大きな息をついて、シグマは床に座り込んだ。
「……相手の人、泣いてませんでした?」
「固まってたから、泣くならこれからだろうな」
 わかっているじゃないか、と心の中だけで呟く。一見、常識や物を知らないように見えても、カリアラはシグマには想像もできないほどの歳を重ねて生きているのだ。彼は何もかもわかっている。ただ頓着しないだけだ。
「ま、義理や打算で付き合われるよりマシですかね。チョコレートはもらわない方が良かったと思いますけど」
「俺に用意した物なんだから、俺がもらわなくてどうする」
「……そうっすね。そうなんでしょうね」
 あなたの中では。と再び心で付け足しておく。
 この、妙に合理的な生き物に感情論を持ち出すほど愚かではないのだ。最近のシグマは。
「カリアラさんは再婚とかしないんすか。そこまで行かなくても、恋人作るとか」
「繁殖もできないのに、なんで付き合わなきゃいけないんだ」
「繁殖できたら付き合うんすか」
「付き合わない。子どもだけいっぱい作る」
「うわー……」
 最悪だ。なんて思ってはいけない。相手は生物なのだ、生物と考えろ。シグマは自分に言い聞かせる。
「カリアラさんは、絶対、女性運動の人と会話しないでください」
「みんな俺が育てるのになぁ……」
「そういう問題じゃないんです」
「いろんな血を使った方がいいだろう。俺ともう一人の血筋だけじゃ、生き残れる子どもが生まれるかどうかわからないからな。人種も多い方がいい。いろんな環境に適応した子孫が残せるはずだ。俺が子どもを作れる体だったら、世界中を回ってあちこちで……どうしたグイエン、距離が遠いぞ」
「……いや、もう、なんつうか……皇帝にでもなったらどうすか」
「無責任なことを言うな。俺はその気になったら本当にやるぞ」
 なれるのかという質問は意味を成さない。やるか、やらないか。それが彼の中での全てだ。
「繁殖とか抜きで、人を好きになったりしないんすか。したんでしょう昔は」
「今だってするかもしれない。でもしない方がいいんだ」
 シグマは真意を測りかねて彼を見る。カリアラは、ごく当たり前のように答えた。
「俺は好きになったらどんなに嫌がられても一生追いかけるからな。どこに逃げてもついていくし、半殺しにされたとしても死にかけながらしがみつく。何十年でも、何百年でもな」
「怖い! さっきから主義主張が怖すぎますよ!」
「そうだろう。だから恋はしない方がいいんだ」
 淡々と語るので冗談かとも考えるが、これまでの経験からすると本気の言葉に違いない。一般社会から見てどんなに重い内容でも、カリアラの中では単なる事実の一つなのだ。今日はいい天気だ。チョコレートをもらった。振った。グイエンはなんだか引いている。恋はしない方がいい。どれも、彼の中では並列している。
 古代人なのか機械なのか、はたまたただの生物なのか。どうにもわからない人間は、包装をむしり取って開いたチョコレートを平然と食べている。
「お前はチョコもらわないのか」
 甘い匂いが漂っていた。
「……もらいますよ、先輩に。夕方取りに来いって言われました」
 正確には、チョコレートを作っている間は実験もできないし、うちに居ても仕方がないから夕方から来ればいい。と、言われたのだ。夜の間に作っておけば良かったんだが、材料が足りなくて……とも。
 シグマも朝一番で足りない材料の買出しに付き合うとか、もしくはおつかいのごとく買ってきて届けるとか、チョコレートを作っている間、うろうろしては怒られてみたり試食したりちょっかいを出してアハハウフフという選択肢は、ミハルの中には存在していないらしい。
 チョコレートを作っている間はシグマはすることがない。だから自宅で待機させ、完成した頃に取りに来させる。とても合理的な考え方だ。感情論では立ち向かえない。
「そうか。作るのには時間がかかるからな」
 シグマは目の前にいるもう一人の合理主義者を見た。どうしてこの狭い人間関係の中で、同じような思考回路の者が過半数に達するのだろう。シグマはいつも二対一で降参するより他にない。
「いや、いいんすけどね。もらえるだけありがたいっすよね」
 そう考えることにする。何事も前向きな姿勢が大切なのだ。
 だが、上を向きかけた気分はカリアラによって打ち落とされた。
「ミハルからのチョコは本命なのか?」
 平然と、痛いところをつく男だ。シグマは顔を曇らせる。
「……違うんじゃないすか」
「じゃあ、義理なのか」
 違うんじゃないすか、と繰り返したいが度胸がない。自信もない。何よりも根拠に欠けている。
 義理というには手が込んでいるのは確かだ。ミハルは毎年、どんなチョコレートが欲しいのかをシグマに尋ねる。対する答えは抽象的だ。なんかケーキみたいで、さくさくしてて、切ったら中からどろっと溶けてくるアレだとか、四角くてココアが乗ってて、やわらかいあのチョコですとか。そんな固有名詞の出てこない希望でも、ミハルは寸分違わず叶えてくれるのだ。そこまでしてくれるのに、どうして義理と言えるだろう。
 しかし、本命だと言い切れるほどの自信はない。根拠がない。そう考えてみると、このどちらつかずの状態は、シグマとミハルの関係性そのものだ。ただの先輩と後輩ではない。しかし恋人などではない。友だちとも、少し違う。どの項目にも仕分けできない非合理な曖昧さだ。
「……まあ、なんというか、日頃のお礼って感じなんじゃないすかね。実験に対する報酬というか。いや普段からお世話になってるのは俺のほうですけど」
「本当にそうなのか? 聞いてみないとわからないぞ」
 終わらせようとしているのに、カリアラはしつこく掘り下げる。
「ミハルは本命のつもりで作ってるのかもしれない。だったら、義理だと決めつけるのは失礼だな」
「……どの口が言いますか、それを」
 誰かからもらったチョコレートをいっぱいにつけた口が、もしゃもしゃと動いている。カリアラは箱の最後の一個まできれいに平らげると、当たり前のように言った。
「ミハルは別だ」
 たとえどんな事実だろうとあれを傷つけるのなら歪めてみせる。そう言わんばかりの口ぶりで、シグマはぽかんとしてしまう。カリアラはその顔を見て笑いながら、ついでのように付け足した。
「お前も別だ」
 シグマはすぐに受け止めることができず、しばらくふわふわと味わった後で、いらないっす、と小さく答えた。



「ああ、ちょうど良かった。そろそろ頃合いだったんだ」
 玄関を開けてくれたミハルからは、甘い良い香りがした。こんな微妙な関係の女性の家に訪ねていって、今しがた完成したばかりの手作りチョコレートを受け取る。状況としてはなかなかに夢のようじゃないだろうか。
「……先輩、なんでエプロンじゃなくて白衣なんすか」
「大丈夫、おろしたてだ」
 そりゃ使用済みの白衣よりは何倍もいいですけど! と言うだけの勢いは、もはやシグマには存在しない。彼女の行動や思考回路に慣れてしまったのだ。カリアラが毎日のように押しかけて、似たような理屈を披露してくれるおかげで。
「包装はしていないが、ここで食べるのなら必要ないな。残った分だけ包んでやろう」
 慣れているし、もうだいぶ分かったつもりだが。
「あの、先輩」
 訊かずにはいられなかった。
「なんだ」
「その。先輩としては、このチョコレートはどういう種類のものですか」
「トリュフだ。これが良かったんだろう?」
 違うのか。と視線で語る彼女の手には、白く円い皿があり、まったくの同心円状に、きっちりとチョコレートが並べられている。輪、輪、丸、丸。なんだか図でも見ているように間違いのない形状だ。シグマはこれらの円周や面積や比率を求める数式をずらずらと頭に並べた。答えが出る問題がうらやましい。現実の方は、次に何を言うのかさえ見えないのだ。
「そういう種類じゃなくて。ほら、あるじゃないですか。義理チョコとか、……本命とか。そういう分類で言うと、これは何チョコなのかなー、と」
「そんな分類があるのか?」
 知らなかった。と、またもや視線が語っている。鉄面皮と呼ばれる彼女の顔からよくぞここまで読み取れるよな、と自賛せずにはいられない。それはともかく予想外、いや、十分に考えられる事態だった。ミハルは世の中の盛り上がりに疎いのだから。
「その分類の意図は分からないが、つまりチョコレートをどういった目的であげるのか、そういうことだな?」
「はい、そういうことです」
 なるほど要約すればそうなるのだ。言われて初めて気がついた。
 何故、なんのために、このチョコレートをあげるのか。
 答えは一つしかない。
「お前が欲しがったからだ」
「……ですね」
 それ以外にどんな理由があるだろうか。欲しいと言うから作ってやる。それだけの話だ。
「いつもありがとうございます」
 ミハルはシグマに対して面倒くさがることはない。望まれたことが実行可能であればする。そうでなければ断る。そのどちらかだ。
 シグマが空腹に倒れていれば食事の差し入れをするし、居眠りをしてしまえばそっと毛布をかけてくれる。だがそれらに他意はなく、可能だから行っただけのことだ。
 わかっていたはずなのに、なんだかとても虚しくなって、シグマはしおれる花のようにチョコレートの皿を見た。
 ミハルが、不思議そうに覗き込む。
「欲しくないのか?」
「いえっ! 欲しいです食べたいです! 今ここで食べていいすか」
「ああ」
 了解を得るとすぐに手を伸ばす。だが、チョコレートまであと少しのところで、止まった。
 ミハルが、シグマの手を掴んだのだ。
「……先輩?」
 彼女は我に返った様子で肩を揺らすが、掴んだ手は離さない。いや、離した。いや、また掴んだ。ミハルはシグマの袖に、触れたり、離れたり、また触れてみたり、うろうろと迷っている。
 同じだけ迷う瞳が、シグマを向いた。
「先輩、どうしたんすか。大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫、なんだが」
 しかし手は一向に迷うままだ。一体何がしたいのか、さすがのシグマもわからない。
「食べちゃ駄目なんすか? 作ってる間に変な薬品が入ったのを、今思い出したとか」
 ありえる話だが、ミハルは小さく首を振る。まるで幼い子どもを相手にしている気分になって、シグマは困惑のまま視線を低くする。覗き込むようにした彼女の顔は、ほのかに赤らんでいた。
「……先輩?」
「すまない。いいんだ、気にしないでくれ。子どもじみた話だ」
「いや、気になりますよ。教えてください」
 ミハルはシグマから離した手で顔を覆い、言い辛そうに視線を外す。
「……その、何と言うか……。喜んでくれないなら、食べなくていいと、思ったんだ」
 ぽかん、としているシグマを見て、力強くかぶりを振った。
「忘れてくれ。お前がどんな気持ちでも、食べようとしていることに違いはないんだ」
「違いますよ!」
 思わず大きな声が出る。シグマは慌てて付け加えた。
「そこ、大事なところですよ。っつーか嬉しいですって! 落ち込んじゃっててすみません。俺、嬉しいんですよ! ここ数日ずっと先輩のチョコを心の支えにしてきたんすから!」
 本当の話だ。どんなに仕事が辛くても、ああ週末にはチョコレートがもらえると思うだけで、睡眠不足も残業も人間関係も乗り越えられた。
 いつものように、大いに喜んで食べるべきだったのだ。彼女はそれを望んでいたのだから。
 ……望んで、いた?
 シグマは驚いてミハルを見る。心から喜んで食べるシグマ、というのは、単なる条件の一つだろうか。合理的な理由だろうか。理屈で収まる話だろうか。いいや違う。もし単純に割り切れる話であれば、チョコレートに向かうシグマの手を止めるかどうか、悩みはしない。
 ミハルはどんな顔をしていいのか分からない様子で呟く。
「……お前を相手にしていると、複雑で、困る」
「そうっすねー。非合理な生き物ですから」
 だが、たまには非合理も合理に勝つのだ。主に感情論などで。
 シグマは二重三重の喜びで、極上のチョコレートを味わう。
 皿を持ったまま立ちつくすミハルが、難しそうに彼を見上げた。


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