←前へ 「お、おおお前のとこの影は何を考えてるんだー!!」 拘束が解かれた途端、ジーナは全身がたがたと震えながら涙ながらに訴えた。ピィスはもはや何を言うべきなのかもわからずに、とりあえず彼女の肩を抱いてみる。ジーナは普段の気丈さもどこかに捨てて子どものように泣いていた。 「おっ、お前っ、いきなり部屋に押し入ってきて当て身とかされてっ。もう絶対殺されると思って……! 目を覚ましたらぐるぐる巻きで嵐の中突っ切ってて騒いだら刺すとか言われるし! 死ぬかと思った! 死ぬかと思ったああ!!」 「うあああごめんもうほんとごめん。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」 「怖かった、怖かったあああ!!」 取り乱す彼女を宥める間にも、攫ってきた張本人は反省の色もなくペシフィロの周辺を片づけている。吐いた物を取り除き、改めて絞った布で額を冷やす。働きに無駄はないが大切なものが抜けているような気がして、ピィスは口を動かしかけるが言葉がなくてまた閉じる。代わりにジーナの涙を袖で拭った。 「もうほんとごめんなさい。後で謝らせるから……」 謝らないと思うけど、というのは黙っておいた。使影という生き物は直属の主人以外は真っ当な人間として扱わない。特にななは階級による差別が厳しい国で育ったためか、平民の女性などは家畜同然に思っているふしがあった。だがそれを説明するのは火に油を注ぐのと変わりないので黙秘に努める。 「あの、だから、今は親父の方診てくれないかな……」 ジーナはそこで初めてペシフィロを見た。彼は姿勢を直されてきちんと布団をかけられて、それでもまだ苦しげにうなり声を上げている。ジーナは忌々しげに睨みつけて布団の上から彼を叩いた。 「何倒れてんだこの馬鹿。ばーかばーか!」 「ジーナさん病人! 親父病人!」 叩く仕草は冗談じみた軽いものだが目には本気が滲んでいる。幼児化した彼女の腕をピィスは包むように取った。 「お願いします、本当に苦しそうなんだ。治してください」 「当たり前だ。この馬鹿ミドリ! こんなになるまで無茶をするなと言ってるだろう!」 叩きつけるように言って力強く涙を拭うと、ジーナは部屋の隅を睨んだ。 「おいそこの影! 食糧庫から薬箱持ってこい。私専用の白木の箱で作ったやつだ。西側の棚の裏口側から二列目、上から三段目に置いてある。あと清潔な布と紐! はいすぐに取ってくる!」 闇色の塊と化していたななはそれでゆらりと立ち上がる。命令を聞く義理はないが話をややこしくするつもりもないのだろう。彼は素直に廊下に向かう。ジーナは続けてピィスに水を汲んでくるよう指示を出した。ピィスは背筋を正して立ち上がり、弾かれるように部屋を出る。沈んでいた暗闇が、にわかに明るく動き始めた。 「……ばーか」 二人の去った部屋の中で、ジーナはペシフィロの汗を拭く。ペシフィロはうすく目を開けて、ぼんやりと彼女を見つけた。 「ビジスじゃないぞ」 念のために先手を打つ。ペシフィロは苦笑したようだった。赤い顔がわずかにやわらぐ。 「無茶するな、もう父親なんだから。お前が娘を不安がらせてどうするんだ」 優しく言って、熱を確かめるために首元に手を伸ばす。 だが指先は震えていた。今までとは違う涙がこぼれた。ジーナは指を拳に固める。 「……お前は逝くな」 熱を持つ手のひらが冷たく震える拳に触れる。やわらかく包み込み、そのまま彼女の頭を撫でる。ペシフィロはかすれた声で謝罪した。それも、すぐに、彼女の泣く声に埋もれた。 ※ ※ ※ ななとピィスがそれぞれに注文のものを持ってきた時、ジーナは真面目な顔でペシフィロの体を起こさせていた。涙の止んだジーナの顔に、さっきまでのような子どもじみた色はない。彼女は仕事をする技師の目で状況を見渡していた。いつも通りの彼女の様子にピィスはほっと息をつく。ピィスが一番頼りにしているジーナの姿がそこにあった。 「大丈夫、うまく行けば明日には治る。ピィス、手伝え。脱がせるから支えてろ」 言った途端に黒い腕がピィスの前に立ちふさがった。止めるななをジーナが睨みつけて言う。 「隠して何の意味がある? 知らなきゃ治療もできないだろう。いい機会だ、見せてやれ」 『なな』 剣呑な彼女の目つきを宥めるように、ペシフィロが潰れた声で間に入った。 『いいんです。ありがとう』 ななはピィスの前を退く。そのまま、部屋の隅まで離れる。ピィスはわけがわからずに大人たちの顔を見た。ジーナに手招きをされて、素直に寄ると雑に頭を撫でられる。 「今から処置の仕方を教える。今日はお前が施術するんだ」 「えっ。でも……」 「大丈夫、手順を踏めば簡単だ。やり方は何回でも教えてやる。だがな、実際にやるのが一番記憶に残るんだ。これからいざという時には、頼りにならない親父の代わりにお前が施術してやるんだ」 不安に曇るピィスの肩を優しく叩き、ジーナは真面目な顔で言った。 「できなくてどうする。お前たちは、二人きりの親子だろう」 その言葉が胸の中にするりと落ちて、沁み込んだ奥から奥からあたたかいものに変わっては浮かび上がり、ピィスは静かに涙を流す。そのまま、堰を切られてしまったように声を上げて泣きだした。 「よし、これから三百数えるからな。それまでに泣き尽くせ」 ジーナはピィスの肩を叩きながら、いーち、にーい、と数え始める。その拍子に揺らされながら、暖かい手を感じながら、ピィスは幼く泣きじゃくった。 「三百、と。よーし、準備はいいか」 「うん」 まみれた涙を完全に拭い取って、ピィスは父に向きなおる。ペシフィロは苦しい息を続けながらも彼女を見て微笑んだ。ジーナの手が彼の服を脱がす。ピィスは背中を支えたまま現れた肌に目を釘づけた。 赤らむ皮膚よりなお赤い、絡みつくような紋様。草の形にも似たそこには青と黒の線が交わり、まるで生きているかのように生々しく肌を飾る。力を動かす魔術紋様。特殊な塗料で深く刻み込まれた刺青。肩から腕へと走るそれは普段の彼の服装ではまずわからなかっただろう。ペシフィロは複雑な表情で、ピィスの反応を確かめている。 「魔力を制御するものだ。この国に来た時にビジスが彫った」 ジーナは冷静な声で説明し、ペシフィロの腕を取った。そこにも、心臓の下や脇腹にも小さな模様が浮かんでいる。だがピィスの注目はそれらだけにはとどまらない。刺青と同じように着衣時には見えない二の腕、肘の下。そこには細い銀の鎖が網状に絡み付いていた。 「こっちも魔力を流すための道具。やわらかいから見た目ほど苦しくはないはずだ」 「これ……この傷は?」 指差した腹には長い傷跡が走っている。よく見ると、彼は体のあちこちに引き攣れた痕を抱えていた。 「戦地に放り出されたのに、このぐらいで済んだのは奇跡的だと言われていたな」 「戦地って……」 ペシフィロは気まずげに背中を丸める。すぐ近くで肌が動くところを見つめ、ピィスは初めて父の体にそれなりの筋肉がついていることに気づいた。しなやかに動くそれは、目立たないがそれだけ無駄がないのだろう。目の前にいる者が自分の知らない人に思えて、ピィスは思わず彼から離れる。 「ピィス」 揺るぎないジーナの声がその動きを引きとめた。彼女はペシフィロの背に触れる。 「これがお前の父親だ」 静かで、真剣な声。ジーナは動揺するピィスの目をしっかりと見据えて言った。 「自分の路から逃げようとせず、精一杯の処置を受けて懸命に生きている、強い、男だ」 ピィスはペシフィロに向きなおり、初めて見るような目で、改めて彼を見る。 傷を受け、数々の処置を受けて生きる体。生まれ持つ力に潰されないよう抗い続ける。 「……うん」 うなずいて、真剣な目で父を見つめた。ペシフィロはどこか照れくさそうに微笑む。いつもと同じ優しげなそれを見て、ピィスもまた微笑んだ。 ※ ※ ※ すぐ近くで水音がして、唐突に眠りが途切れた。ペシフィロはぼんやりとした目を傍に向ける。黒い服、白い腕。ななが濡れた布巾を固く絞り上げている。返事がないとは解りつつも乾いた口を動かした。 『ありがとう』 予想通り彼は無言で視線すらこちらに向けない。ただ、執拗なまでに力強く濡れ布巾を絞り上げた。 気がつけば、もう昼前だ。ピィスの施術とジーナの指導が効いたらしく、体の熱は嘘のように引いていた。鍵の壊れた窓から差し込む日の光がやけに眩しい。そう考えて、明るい中でななの姿を目にするのは随分久しぶりだと思った。数えてみて改めて驚く。もう、十四年前のことだ。 あの頃の彼は生年月日の略で呼ばれる名前もない青年だった。確か、まだ十七だったはずだ。そう考えて見てみれば、当時と今では彼の姿も別人のように変わっていた。漂う気配が鋭くなった。昔以上に人を避けるようになった。言葉を、必要以上に発することがなくなった。 『なな』 暖かく彼を呼ぶ。あの頃と同じように、彼の生まれた国の言葉で。 『隠そうとしてくれて、ありがとう』 布が固く絞られる。水がなく枯れるほどに、きつく、きつく。ななは奇妙にねじれたそれを広げると、ペシフィロの額に叩き付けた。 『構わないで下さい』 声に奇妙な苛立ちが混じるのを感じて笑う。近くにいる彼の気配がさらに嫌そうに荒れる。ペシフィロはできる限り彼の気を逆撫でないよう気をつけて口を開いた。 『そうだ、食糧庫に黒蜜のパンがある。処分しておいてくれますか。そろそろ痛んでしまうんです』 たっぷりとした沈黙。ペシフィロは目を閉じたまま何も知らないふりをする。嘘がつけない性質だから彼にはもうばれているだろうけれど、それでも、笑わないよう気をつけて待っていると。 『承知しました』 珍しく不機嫌な声と共に部屋を去る気配がする。ペシフィロは堪えきれなくなって笑った。 ふと見ると、ベッドの下ではピィスとジーナが丸くなって眠っている。ジーナの寝相があまりに悪かったのだろう、掛けられた毛布はほとんど彼女に巻き取られていた。その代わりにピィスの上にはななの上着が被さっている。ペシフィロは疲れたように熟睡する二人を見て、からりと晴れた青空を見て、笑顔で大きな伸びをした。 後日、綺麗に洗われた黒蜜パンの瓶が台所に置かれていたことなどは、言うまでもないだろうか。 |