番外編目次 / 本編目次


 ひどい風が家を揺らし続けている。ピィスは外の天気を気にかけながら階段を下りていった。断続的な軋む音を聞いていると、この家は板と板の寄せ集めでできているのだと妙に納得してしまう。小さい頃過ごした場所は石造りだったので、いまだに不思議な気分になれた。
 砂を叩きつけるような音は強い雨粒なのだろう。雷の音もするが不安になるほど近くはない。雨戸を締めた家の中は、いつもとは違う生温さと閉塞感に満たされていた。夜だというのに明るいのは父の手による魔術の明かりが壁を照らしているためだ。無駄にあふれる彼の力は、こうして日々利用されている。
 少ない段を降りきって居間の傍を通り過ぎると、中にいたペシフィロがたしなめる口調で言った。
「まだ起きていたんですか」
「眠れないよ、こんな嵐じゃ」
 言った端から言葉を肯定するように、庭のバケツが壁にぶつかる音がした。騒音は風に飲まれてあっという間に消えていく。どうやら遠くに飛ばされてしまったようだ。ペシフィロは困った顔で閉ざされた窓を見て、またピィスに向きなおる。
「じゃあ、少し部屋を片づけなさい。あのままでは外も中も変わりませんよ」
「今作業中なんだって。下手に動かしたらわかんなくなるし、完成したら片づけるよ」
 ピィスはうんざりとして彼を見やる。仕事から帰った日はいつも疲れた様子だが、今日はそれがさらに顕著だ。顔つきは弱々しくて、視線ですらどこかうつろにゆるんでいた。嵐への対処として庭にある菜園の手入れをしていたのだろう、髪にどろが跳ねているのに気づいてもいないらしい。ペシフィロは疲労からか苛立ちの滲む声で言う。
「結局はいつも私が片づけているでしょう。たまには、ちゃんと自分で」
「はーいはいはい今度こそは片づけまーす。なんか食べ物もらってくね」
 ピィスは触らぬが良しと判断して早々と足を動かした。まだ何か言いたそうな彼から顔をそむけて台所の方へと向かう。隙間なく明るい通路の片隅に、ちらりと黒い影が走るのが見えた。ななだ。今日は家に来ていたらしい。
『夜中なのにうるさくてしょうがないよなー、外も中も』
 返事がないと知っていながら口にするのはほとんど意地の領域だった。ピィスはいつか彼が昔のように親しく話してくれることを期待して、事あるごとに声をかける。だが一言でも反応が返ることはなく、改めて動く影でさえも捉えることはできなかった。ピィスは寂しさと苛立ちが混じり合うのを感じつつ、食糧庫の中に入る。そろそろ日付が変わる時間。健康的にはよろしくないが、何か一口胃に入れたい。
 外に面した倉庫の中では風の音がさらに近い。ピィスは吹き叩かれて鳴る裏口を気味悪く思いつつ、並ぶ瓶を目で追った。魔術薬に使うものが殆どだが保存用の菓子もある。ひとつ、真新しい瓶の中に黒色のパンを見つけて手を伸ばした。胡桃など多数の木の実を練り混ぜて焼いた上に、黒蜜をしみこませて乾燥させた硬いパンだ。まだ未開封だから買ってきたばかりのものらしい。ななが好きなものなので、あげたら食べてくれるだろうかと思ったところで明かりが消えた。
「へっ」
 と思えばまた白く光り、安堵の息をつく前にまたしても消えてしまう。
「親父……?」
 眠ってしまったのだろうか、と考えてすぐに打ち消す。いくら明かりの源がペシフィロにあるとはいえ、それならそれで先に何か言うだろうし、何よりも点滅などするはずがない。ピィスは寒気を感じて駆け出した。その間にも明かりは頼りなくついては消え、ついては消えを繰り返す。点滅は嵐の音に同調している。まるで、風に揺らされるろうそくの火のようだ。光が白く浮かぶたびにななの影がきれぎれに目の端に映る。ピィスは彼を連れたまま居間の中へと飛び込んだ。
 雨戸を閉ざした部屋の中は重い闇に浸されている。明かりがつく。また消える。その一瞬の点滅の間にうずくまる人影を見た。明かりがつく。また消える。机の足に縋るように倒れているそれは、ペシフィロだ。
「親父!」
 明かりがつく。風の音と共に掻き消えて闇が来る。ピィスは一瞬の記憶を頼りにして父の元に駆け寄った。うずくまる肩を抱き、その体の熱さに驚いて手を離す。怖々と額に触れると、汗ばむそこは信じられないほどの熱を持っていた。苦しげな呼吸はひどく儚く、時おり絶えたように途切れる。息が消えると部屋の明かりも同じだけ消えていた。
「なんだよこの熱! おい、しっかりしろよ!」
 一瞬の明かりの間に彼が顔を上げたことが解る。訪れた闇の中でかすれる声。ピィスは泣きそうな顔で怒鳴る。
「……大丈夫なわけないだろ、馬鹿!」
 だがいつものような言い訳も弁解も続けられることはなく、ペシフィロはぐったりと床の上に崩れ落ちた。声すら奪う重い闇に包まれる。消えた光は戻らない。何も見えない部屋の中には熱を伝える父の体とかき消えそうな呼吸音。外からはうなりながら家を揺らす風の音が絶えず届く。腕の中のペシフィロも嵐に押しつぶされるような気がして、ピィスは悲鳴のように叫んだ。
「なな!」
 すぐそばに小さな火。付け木に灯されたそれは目の前でランプへと移される。全身を黒い布で覆った男は、明かりを置くとピィスの足元にひざまずいた。
『お前医者だろ! なんとかしろよ!』
 抱きかかえた父の体は火をはらんだように熱い。ななは一礼をしてペシフィロを受け取ると、無言で触診を始めた。どこかの国に認可を受けたわけではないが、彼らの一族は独自の医術に長けている。ななはペシフィロの体を床に下ろし、再びピィスにひざまずいた。
『受けきれない外部の魔力が中の力とせめぎ合い、熱を起こしているようです』
 ピィスは閉ざされた窓を見る。嵐だ。吹き荒れる風は地上の魔力をかき混ぜては動かしていく。強風に当てられるのは、流れる魔力を受けるのと同じことだ。風は壁に掻き分けられるが魔力は板をすり抜ける。嵐の中に置かれた家は魔力の渦の中心と言えるだろう。力の流れに敏感なペシフィロが平気でいられるはずがない。
『二日前から風邪を引いていました。弱る体に止めを刺されたのでしょう』
 ピィスは驚いて顔を上げるが、ななは変わらず床に頭を擦り付けている。
『風邪、引いてたの?』
『はい。先ほど長く外に出ていましたので、その際に悪化したと思われます』
 感情のない声が静かに事実を告げていく。ピィスは伏せられたななの頭を見つめた。
『じゃあどうやって治せばいいの。風邪薬? どうすれば熱が下がるんだよ』
『解りません。我々は魔力による病への対処を存じません』
『なんだよそれ! だって、できないって、じゃあどうすれば……』
 言葉を交わしているうちにもペシフィロの熱は上がっていく。ピィスは混乱する頭を必死に動かした。せめて冷やせば少しはましになるだろうか。そのためにはまずベッドに寝かせて、楽な姿勢にしなければ。手に触れる父の服は汗に濡れはじめている。苦しげなうめきが途切れ途切れにもれだした。ピィスは伏せるななの肩を揺する。
『なあ、どうすればいい? どうしよう、ねえ、どうすればいいんだよ』
『風邪への対処程度なら我々にも行なえますが、事態の解決に繋がる見込みはありません』
『それでもいいから、何かして。部屋に運ぼう。手伝って』
 ななはペシフィロを担ぎ上げた。ペシフィロは抵抗どころか反応もなく、荷物のように扱われるのを甘んじて受け止めている。そもそも、すでに意識は消えているのかもしれなかった。ななは気遣う様子も見せずにペシフィロの自室に向かう。ピィスもよろける足取りで不安に彼の後を追った。
 だが部屋の入り口で黒い腕に止められる。
『着替えさせますので』
 ななは言い捨てた後で一礼し、ペシフィロの部屋のドアを閉じた。ただひとり廊下に残されて、ピィスはきつく歯噛みする。いつも通りのことだった。淑女たるもの夫以外の男の裸を見てはいけない……そんな祖母の教えを気にかけるのか、ななはペシフィロがピィスの前で着替えないよう常に注意を続けていた。ピィスにとってそんなことはひどくくだらないことに思える。血の繋がった親子なのだ。しかも、こんな非常事態で。
 大変なことになっているのに変化しない彼の態度に腹を立てる。なぜ心配しないのか、ペシフィロのことはどうでもいいのか、と普段から感じている不満を一通り思い浮かべたところで怒りは自分自身に向かった。ピィスはやるせない思いを抱えて部屋のドアに頭をつける。風邪だなんて気づかなかった。嵐の中で具合を悪くしていることにも。
 ドアに触れる手を拳に固め、ピィスはきつく目を閉じる。そして、開いた強い眼差しと意志を抱えて闇の中へと駆け出した。

         ※ ※ ※

 水に浸した布を絞ると、ペシフィロが息を呑んだ。今目覚めた顔をして、恐ろしげにななを見上げる。ななは見返さずに布を絞る。冷たいしずくが水を張った器へと落ちていく。呆然としていたペシフィロの顔が理解したようにやわらいだ。
『ありがとう』
 ななは答えない。顔は布に包まれてわずかに目が覗くだけ。その目つきにも表情はなかった。
 ペシフィロは不規則な呼吸をしてむせ返る。体を曲げて苦しげに咳き込むと、乱れる息はさらに荒れた。熱を持った彼の視線はうつろに部屋をさまよい始める。体温は既に平常よりも数度跳ね上がり、濁る目は薄く涙を乗せていた。ペシフィロは潰れた声で問いかける。
『ピィスは……』
 ななは答えない。ペシフィロは外の音を耳にして、閉ざされた窓を見る。
「雨だ」
 呆然とした呟きは、絶望に冷えていた。
「いけない。なんでこんな時に。そんな、こんな日に、倒れて。いけない。……泣いてしまう」
 ペシフィロはうわ言のように呟く。熱に弱る体からは力が抜けて、起き上がることも叶わなかった。指先は意味もなく震えている。今にも崩れ落ちそうな弱い姿だ。それでも彼は途切れ途切れに訴える。
「こんな、日に、ひとりで。怯えてしまう。どうして気づかなかったんだろう。なな、行ってください。ここは、いいから。あの子のところへ」
 通じないと思ったのか言語を変えて言い直す。ペシフィロは縋るような目で言った。
『あの子の傍にいてください』
 かすかに跳ねる水の音。ななは水に浸した布を限界まで絞り上げる。千切れそうなほどに強く力を加えたそれは、奇妙な形にねじまがった。解くように広げるあいだにペシフィロは同じ言葉を繰り返す。
『嵐だ。こんな日に、ひとりきりに、してはいけない。お願いです。今は、あの子の傍に……』
 熱に赤く火照る顔は表情すら定まりきらない。意識が朦朧としているのだろう、動かす口はひどくもつれた。人のことを考えている場合ではない。それなのに、彼は必死に娘の不安を気遣っている。
 ななは起き上がりかけたペシフィロの額に濡れ布巾を叩きつけた。枕の上に着地したペシフィロを睨みつけて、苛立たしげに舌を打つ。それでもまだ感情のやり場がないのか、部屋を出るとこれ以上ないほど乱暴にドアを閉めた。そのまま、闇の中へと消えた。

         ※ ※ ※

 雷が近くで鳴った。ピィスは探りかけの本を落として肩をすくめる。足元に置いたランプの炎が同調するように震えた。細々としたこの光では部屋の全てを明るく照らすことなどできない。壁に添って並べられた本棚はひっそりと闇に沈んでいた。頼りない気分になって、さらに身を小さく縮める。恐怖心から逃げるように新たな本のページを開いた。魔力に関する解説書。目次と巻末の索引を見て放り出す。この本にもペシフィロを治す手がかりは書かれていない。
 もう長い時間探しているのに答えはちっとも揺るがなかった。彼の体内で暴れる魔力を正常に戻すには、魔術医か魔術技師の技が要る。外から流れ込む力を差し止め、内部で混乱している多種の力を正しい場所へと導いてやる。理屈としては簡単だが、実際に行なうには相応の知識が必要だった。自分には明らかに足りないそれを補うために書庫に篭ってどれぐらい経ったのだろう。ピィスは読み捨てた本の山を疲れた目で見下ろして、気が遠くなるほど大量にある部屋の本を確認し、絶望的な気分になる。目的の本がどこにあるかもわからない。あったとしても、内容が難しすぎて理解できないおそれもあった。目を通してきた本はあまりにも専門的すぎて、ピィスには暗号にしか思えなかったのだ。
 ジーナなら、ペシフィロを治すことができる。彼女は随分長い間専門医のようにして彼の体を診てきたのだ。通常の病気や怪我を治すことはできないが、魔力による不調ならばいつもすぐに治してくれた。
 だがこんな夜中に、しかも酷い嵐の中を来てもらえるわけがない。一応は縋る気持ちで伝書用の機械鳥を飛ばしてみたが、希望を打ち滅ぼすように強風に戻されて家の壁に打ち付けられた。その残骸を取りに庭に出て、ピィス自身が呼びに行くのも不可能だと思い知る。荒れ狂う風と雨に晒されては街部どころか庭の外へもたどり着けるはずがなかった。これでは、ジーナよりは近くにいるサフィギシルを呼びに行くことすらできない。
 完全に陸の孤島と化した中で、ピィスは震える体を抱いた。忘れようとしていた不安がぶり返して押し寄せる。嵐の夜は母が病気で死んだ時と同じだ。雨は、ビジスを最後に見た日と同じだ。何もできないままに去っていった近しい人を思い起こすと体の震えが止まらない。自分がどんどん小さくなって消え果てしまいそうな気がする。暗闇に押しつぶされそうだ。頼りない光と同じく風に消されてしまいそうだ。
 今、ペシフィロはどうなっているだろう。熱は上がってしまっただろうか。まだ苦しんでいるだろうか。それを思うと家と同じく心が不安に揺さぶられる。解決策を探しているのにまだ何も見つからない。額を冷やす程度ならなながやっているだろう。問題は、そこから先だ。
 どうしてジーナに何も教わらなかったのだろうと思う。前にペシフィロが具合を悪くしていたとき、ジーナが薬の作り方を教えようとしてくれたのに、まったく聞こうとしなかった。覚えるのが面倒だから、ジーナさんがいればいいよと笑ってその場を逃げたのだ。
 そうでなくてもせめて不調に気づいていれば。風邪を引いていたときに、もっと休ませておけばよかったのだ。掃除もせず、食事の支度も全部任せて身勝手に過ごしていた。ただでさえ仕事で疲れていたのにどんなに大変だっただろう。きつく怒られないから、彼がつらそうな顔をしないから、罪悪感すら抱かないまま。
 小さく鼻をすすったところで涙ぐんでいることに気づき、堪えるように口を結ぶ。泣いて何かが解決するなら雨より激しく泣いている。立ち上がると足は震えてうまく歩き出せなかった。それでも壁に縋って進む。本を踏み越えていく。心細くて仕方がなかった。せめて、ペシフィロの傍にいたかった。
 まだ、この国に来たばかりの頃。ペシフィロは、嵐の気配を怖れるピィスを優しく抱きしめてくれた。母のことを思い出して眠れなくなった彼女を、同じ布団に入れてくれた。その暖かさにどれだけ助けられただろう。どんなに嬉しかっただろう。支えてくれる家族がいる。たったそれだけのことが、長らく居場所を失っていた彼女には、これほどなく幸せに感じられたのだ。
 だから、何もできなくても、せめて傍にいなければ。
 よろけながらもペシフィロの部屋につき、ノックもせずにドアを開けて固まった。ペシフィロはベッドの上で苦しげに身を縮めている。ななはいない。部屋のどこにも見当たらない。
 青ざめると同時に駆け込んだ。折り曲げたペシフィロの体は不規則な呼吸に揺れている。引きつるような息の合間に咳が出る。顔の近くには血の混じる嘔吐物が散乱していた。
「お父さん! お父さん!!」
 叫んだ途端に涙が滲んだ。どうして今まで来なかったのかと自分を責めた。ペシフィロの熱はさらに上がって触れていられないほどだ。転がった布を水に浸して絞ろうとするが力が全く入らない。指先から腕の上まで大きく震えて布を持つことすらできない。どうしようどうしようどうしようどうしよう。誰か、誰か。
 涙がこぼれかけたその時、部屋の雨戸がひどく揺れた。さらに強く殴られるような音がして、雨戸と窓は乱暴に開かれる。強い雨風がどっと入り込み、その勢いに押されるように闇色の塊が室内に転がり込んだ。ななだ。何か、泥まみれの大きな筒を抱えている。
『只今戻りました』
 ななは窓を閉じると一礼した。言葉もないピィスの前で、大きな筒の拘束を解く。どうやら布団らしきそれは鎖鎌で固定されていたらしい。広げると、厳重に縄で縛られた人間が姿を見せた。手早く猿轡を解かれたところで彼女は大きく口を開く。
「殺す気か――!!」
 青ざめたジーナは涙と共に血を吐きそうなほどに叫んだ。


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