第29戦「山の中に男がひとり」
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 教室にはさまざまな愚痴が響いている。それらは呪いの言葉であったり、絶望のうめきであったりと嫌なバラエティーに富んでいるが、俺からすれば一体何を言うのかと説教をしたい気分だ。
 明日は二学期初の実力テスト。長い夏休みでだらけていた脳みそに、徹底的に現実を叩き付ける恐ろしい行事である。だがそんなものは普段から勉強を続けていれば雑魚とすら感じないものだ。現に俺は、夏休みこそあきらやゲームに邪魔をされて机から離れていたものの、一学期の間はずっとコツコツ予習復習を続けてきたのだ。その基盤があるからこそ、たいした動揺もなく胸を張って明日を待ちかまえていられる。継続は力なり。思い知ったか馬鹿魔王!
 俺は近くの席で泣きそうになっているあきらに優越の笑みを向けた。普段から宿題すらまともにしない元魔王は、中嶋や藤野と共に教科書をにらみつけている。本来ならば今は英語の時間だが、授業が進みすぎたということで、明日の試験勉強をする自習時間となっている。あきらは頭に教科書を乗せ、机に伏した。ちらりと横目で俺を見る。
「圭一、どこが出るのか教えてくれー」
「あっそうだよ。長谷川君成績いいんでしょ、ヤマかけてよ」
 都合のいい申し出に中嶋が便乗する。待て、そんなことを大声で言うと。
 危機感の通り騒がしい男の声が後に続いた。言うまでもなく、谷と松永班長だ。
「神だ! 神がここにおわしましたぞ班長殿!」
「おお 勇者ケイイチよ このクラスを 救ってくれ」
「なんだそのゲーム口調! こういう時だけ神呼ばわりか」
「いやいや普段から崇め奉っておりますよハセガワサーン。で、どこが出ると思う」
 相変わらず変なところで調子のいい谷が俺の肩にすがりつく。ええい気持ち悪い、裏声はやめろ裏声は。俺は松永が押し付けてくる教科書を避けながら、無関心な顔を作る。
「知らねーよ。実力テストってのは自分の力を知るためにあるんだろ。他人に頼ってどうする」
「いやこういう社交性とか懐柔能力も実力のうちですよ。そうだろうみんな!」
「あー、そう言われてみればそうかも」
「タケつん巧いこと言うねえ」
 タケつんってなんだ中嶋。お前らはいつの間にそこまで仲良くなってるんだ。だが谷を見ると別に嬉しそうなわけでもなく、恥ずかしがる様子もない。えっ、ということは完全にデキてるのか? 今さらツッコミを入れるまでもなく日常的にタケつんなのか!?
「……お前いまタケつんって言った? タケつんって言った? 学校でそれはないだろ!」
「あ、言われなれてて違和感なかった? いいじゃん本名もタケシなんだし。コスネームにしては普通っぽいよ」
「そういう固有名詞をここで出すなあ!」
 あ、なんだうっかりと流していただけか。しかしコスネームとは何なのだろう。擦る名前か?
「お前らほんと仲いいなあ! 長谷川と水谷も負けてられないぞー」
 松永、なんだその笑顔と大らかな台詞は。お父さんかお前は。
 そんな冗談劇場に毎度のごとく関わらないフルメイク女藤野が、俺に教科書を差し向けた。
「なんでもいいから明日のヤマ教えてよ。ねえこの文法出ると思う?」
「いや、そこは先生もあんまり強調してなかったし……むしろこういうとこの方が」
 はっ。何を答えているんだ俺は。そんなことを教えたらみんなの思うツボじゃないか! だが時はすでに遅く、藤野はにやりと勝利の笑みを浮かべている。あきらが教科書と共に飛びついた。
「どこどこ、どこなのだ? 圭一、みんなに全部教えるのだ!」
「るっせーな離れろバカ! 少しは自分で考えろ」
「考えてもわからないから訊いてるのだー!」
「みっちー、ちょっと」
 逆ギレしかけるあきらの肩を、藤野がくいと後ろに引いた。顔をかがめて耳元に囁きかける。企みめいた表情がなんともいえずいやらしい。チェシャ猫のような目で純粋なあきらに何を吹き込んでいるのか。離れろと言いたいのをぐっと堪えて待っていると、あきらが「うん」とうなずいて、俺に向き直る。
「圭一……」
 な、なんだその潤んだ目は。雨の中の仔犬気取りか! 俺が息をのむ前で、あきらは制服の袖を引いて指先できゅうとつまむ。そのまま、軽く握った両手をあわせてかわいらしいポーズを取った。囁くのは甘い声。
「ねえ、お・ね・が・い」
 ぐは、と血でも吐きたい気分だった。俺は見てはいけないと思いながらも上目遣いのあきらから一秒たりとも目を離すことが惜しくて見開いた凝視を続ける。い、いかんいかんいかんいかんこれでは俺があきらを好きだと暴露しているのと同じじゃないか! 見てはいけない見てはいけない。ああでもかッわいいなあちきしょう! くそっ、昔の俺ならこんな態度一発で吹き飛ばせたのに。
「……わかったよ。やればいいんだろやれば」
 俺はもっと見ていたいと叫ぶ気もちをなんとか抑え、アピールあきらに背を向けた。ああ心臓がドキドキしている。顔だって赤くなってないか大丈夫かこれ。大丈夫なのかクラス内での俺のポジション!
「やったあ! ありがとう圭一。ありがとういっかちゃん!」
「ふふん、みっちーのかわいいポーズに勝てる男はいないのよ」
「いや俺は楽勝だけどね」
「そりゃ中嶋がいるからだろー」
 あっはっは。と笑う松永に反論する谷、どうでもよさそうな中嶋や藤野と場はそれなりに盛り上がる。俺は賑やかな奴らに背を向けたまま、自分の机を奥に寄せた。
「じゃあ今からヤマ捜してやるよ。集中するから静かにしてろよ。邪魔すんな」
「はーい。センセ、がんばってくださーい」
 まったく、調子がいいったらありゃしない。俺は授業ノートを取り出して、自分なりに読み込んでいく。一体どこが出るのだろうか。そもそもノートというものは授業で強調された箇所をまとめて記したものだから、どこを覚えればいいのかと問われれば「全部」と答えてやりたいところだ。しかしあいつらはもっと絞れというだろう。俺は過去の授業ノートを一枚一枚積み重ね、教科書やプリントとあわせて机の上に山と盛る。出るとすればこのあたりが狙い目だろうか、いやむしろこっちの方が……。俺はいくつもの推測に埋もれていく。
 ひとりきりになっていると気づいたのは、しばらくしてのことだった。教室ではまだそれぞれが愚痴をもらし、くだらない雑談を続けている。谷たちにしてもヤマかけを任せている俺のことなんて忘れてしまったかのように、楽しげな冗談の言いあいを続けていた。俺は、人々の声の中から取り残されてしまった気がして、少しだけ呆然とする。

 俺などに関わりなく進んでいく世界。仲間から切り離された場所。
 俺は、これを、幾度となく経験してきたような気がした。


 勇者として崇められながらも結局は人外の者として扱われ、同世代の者たちと冗談を言うこともままならず、ただ勇者様と願われてすがられて偶像として生きていく。できることといえば敵を倒し、民草に安心をもたらす。ただそれだけで、俺は、俺自身はどこまでも勇者として、隔離された立場として生きていくことしかできず。


「圭一?」
 輪を離れてあきらがこちらにやってくる。どうしたのだと問いたげに、俺の顔を覗き込む。
 俺は目を見開いた。


 雨の音がした。足場はぬかるんでいる。過去の俺が、あの山の中、神域に続く道を呆然と歩いている。闇と泥と雨の他には感じられるものがなく、俺は絶望を纏いながらただそこを進んでいる。

 いつかあれを見つけた場所。三百の兵を従え、討伐に向かった祠。
 その時のような興奮も熱もなく、ただ冷たい世界をひとり歩む。
 そこにはもう誰もいないと知っていても止められない。
 今こそあの獣に逢わなければいけなかった。

 雨の中を彷徨いながら、俺はお前を捜していた。


「魔王」
 あきらがぴくりと反応する。驚いた顔をして、ああ、と瞬いた。
「なんだ? 勇者」
 その瞬間俺はとてつもなく泣きたくなって、どうしてだかわからないまま目に涙を浮かべてしまう。恥ずかしくて居たたまれなくて机に顔を伏せてしまうと、あきらが心配して声をかけてきた。俺は心の中だけで必死にそこに呼びかける。魔王。魔王。魔王。魔王。

 捜していたんだ。俺はお前に逢いたくてこの世界にやってきたんだ。

「圭一?」
 あきらが覗き込むのがわかる。だが俺はどうしてこんなに嬉しいのか、泣きたいのかがわからなくて額を腕に擦りつけた。蘇った記憶はほんの一部で答えにはなってくれない。だが、それでもひとつの事実を知って、俺は胸を苦しめた。

 俺は、あきらに逢うためにこの世界に生まれてきたのだ。


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第29戦「山の中に男がひとり」