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 海へ行きたいと、母が言った。
 父はすぐにそれに応え、彼女と小さな彼を連れて、遠く離れた「海辺」という場所へ行った。
 まだ幼く、世界を知らなかった彼は、初めて見る海に驚きを隠せなかった。砂浜というものに足を踏み入れて、さらに驚いた。与えられた靴が汚れないよう素足を下ろしたのだが、夏の日差しに照らされた砂は異様に熱くなっていたのだ。声もなく悲鳴を上げて跳びはねる彼を笑い、父は自分の足を踏み台として差し出した。
 彼は、その小さな足を、父の足に乗せて歩く。父が後ろ向きに一歩進めば彼も同じだけ進み、二人は奇妙な動きで砂を制した。ダンスのようねと母が笑う。父は歌いながら、足を高く上げ下ろした。
「お、おとう、さん。だ、だめ、です」
 父は大きな声で笑いながら楽しげに跳びはねる。合わせて体を浮かしながら、父から振り落とされないよう懸命に腰にしがみついた。ほら、と言って父の足が踵から水を踏む。それは果てしなく続く海の端だった。初めての体験に戸惑っている余裕もなく、父はどんどん後ろ向きに海に入り、腰まで海に浸かってしまう。しがみついている彼も喉元まで冷たい水に攻められて、恐怖から声のない悲鳴を上げたところで、父は背中から海に飛び込んだ。
 突然体が水に沈んで、混乱のまま腕を動かす。じたばたと暴れるしかない小さな体を父が支えて笑った。大体の動物は、教えられなくとも泳げるぞ。お前は人間らしいなァ。そんなことを言われても、海と付き合う方法はわからない。泳ぐ、ということが何かも知らない。
 母は、初めこそ服の裾をたくしあげて足をつけるだけだったが、やがてはしゃぎながら穏やかな波に体を沈めた。父を真似たのか、母もまた沖に背を向けてどんどん歩んでいく。すぐに胸まで水に消え、喉が埋もれ、張り付いた笑顔が波に落ちた。
 金の巻き毛が水面に漂っている。母の顔は風に触れてはまた水にまみれた。
 彼は驚いて父の腕を引く。
「おとうさん」
 見上げる姿勢で息が止まった。そこには自分の知っている父の顔はなく、ただ、無機質に並んだ目があるだけだった。
 創られた彫像のような口が言う。
「もう、助からない」
 何の色も浮かべない目が、沈む彼女の脚を見ていた。
「遠いところへ行ってしまうよ」
 白い裾が波に紛れ、母の姿が消えてなくなる。父は大きな歩みで海を踏み、ゆっくりと、母の腕を引き上げた。海水を飲んだのか咳き込む背を撫でてやり、笑いながら抱きしめる。表情がある。体温が目に見える。それだけでほっとして、彼は浅い潮に腰を下ろした。

 父の言葉が甦ったのは、それから何日もしない晩のことだった。
 膝にあふれるほどの血を吐いて倒れた母をどうすることもできなかった。それが、病だということもわからない。薬というものがこの世にあることすら知らなかった。
 小さな彼にできたのは、彼女の手を握りながらおかあさんと呼ぶことだけ。
 己の無力さから初めての涙を流した彼に、彼女は微笑んで言った。
「あなたはお医者さまになればいいわ。そうすれば、誰かを救うことができる」
 初めて母と呼んだ人は、そうして病に倒れて死んだ。



 それから数年、彼は薬と治療について学んだ。彼の主人となった女性が、長い病に蝕まれていたのだ。彼女の症状は時に重く、そしてひととき格段に良くなった。出産もした。だが子どもが大きくなるにつれ、彼女の体は再び病に呑まれていく。
 それでも彼は治療を続けた。母の残した言葉に支えられて。
 だがある時、痩せこけた主人の寝顔を見た途端、いつかの父の声が聞こえた。

 ――もう、助からない。

 否定した。首を振った。虚無の場所に叫んでもみた。
 それでも暗い頭のなかには彼の言葉がこだまする。

 ――遠いところへ行ってしまうよ。

 初めて傍に仕えた主人は、数日後に亡くなった。





 いつまでも眠ろうとしなかったペシフィロも、ようやく落ちついてくれたようだ。
 ななは彼が起きないよう、気をつけて治療の道具を片付ける。手製の滋養液を飲ませた器、薬を作るための材料、今日口にしたものを書き出させた小さな紙。そういったものを、音を立てずにしまいこんで部屋を出る支度をする。
 一度、虚空に耳を済ませる。
 あの声は聞こえない。
 だが言葉の持ち主は何も言わずにいなくなった。何の前触れもなく、唐突に、この世界に霧散した。彼はもう予言を持たない。怖ろしい、呪いを告げることもない。
 ななは眠るペシフィロを見た。凪の上をたゆたうように、横たわる姿には何の力も入っていない。
 あまりにも細い息を確かめて、もう一度、静かに眠る彼を眺める。

 声は、まだ、聞こえない。



“不安”


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