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 このあたりは昔大きな戦争に巻き込まれた地域ですから。そんな誰でも知っていることを口にすると、カリアラは「え」と足を止めた。シグマは予想外の反応に逆に驚き返してしまう。
「え、知らな……そうですよね、そりゃ知るわけないですよね」
「ああ。だって古い建物が多く残ってるから」
 あの辺りのレンガ色も時計塔も、俺の時代に作られたんだ。カリアラは空のもとに霞んで立つ建築物を指差した。それらは確かに二百年近くの歴史を持ち、幾度とない修復工事に助けられて生きのびてきたものだ。街の象徴とも言える時計塔は、また近いうちに補強が行なわれて一部のみ近代的な内装となるらしい。説明すると、カリアラは彼自身の手のひらを見た。そろそろ包帯を替える時期だ、と呟く。
「でもすごいっすよね。そんな昔のものが今も残ってるって」
「うん。……グイエン」
 なんですか、と振り向くとカリアラは腰を屈め、小さな祭壇を覗いていた。もう何十年とここに据えられているのだろう。白かったはずの漆喰は土色に薄汚れ、それに囲まれた刺繍入りの台飾りも色褪せている。だがそれでも水と菓子が置かれているから、誰かが定期的に手入れをしているようだった。カリアラは祭壇の中央部、剣を持つ人形の顔を凝視している。
「これ、誰だ?」
「え、いや、神様でしょ? ええとなんだっけな、昔授業で習ったような……」
 シグマは祭壇の奥にある札を見て、人形の名を確認する。
「そう、ビジス・ガートン! 戦いの神様ですよ」
 ぶふう、と大変奇妙な音がした。その後で盛大に咳き込む音。カリアラはどういうわけだか全力で咳をしている。彼の赤い横顔をきょとんと観察していると、カリアラは息を荒げて祭壇に手をついた。
「ビジス」
「はい。ビジス・ガートンです。どんな神様かよく知らないっすけど、とりあえず大抵老人の姿で描かれてますね。昔からあったんでしょうけど、戦争の時代から民間で強く支持されるようになったみたいっすよ。たしか右手に生首、左手に剣というのが基本の形で、左利きの神様は珍しいとかなんとか……大丈夫すか。え、なんで笑ってんすか」
「死ぬ。俺これ以上ここにいたら笑い死ぬ」
 カリアラは横腹を抱えたままひくひくと震えている。なぜそこまで笑えるのか分からないまま、シグマはふと思い出してカリアラを導いた。
「そういやこっちの奥にも……あ、あった。ほらこれも同じような神様で、学業を司るってことでうちの国では結構な信仰ぶりなんです。これはサフィギシルと言って……」
「あっはははは! はーはっはっはっははは!!」
「ちょっ、爆笑!? えっ、うそ、何すか一体!」
 唐突な大声に驚くが、カリアラはシグマには目もくれず祭壇を指差して笑っている。
「いや指差しちゃいけませんって、バチが当たりますよ!」
「はーははははは! ははは、ははっ、ははははは! バチ、バチが当たっ、ははははは! あっははははははは!!」
「うわ笑ってる! こんな笑ってるの初めてっすよね、うっわー。うっわー」
 いつもならばにやりという擬音が聞こえてきそうな笑顔か、子どものように無邪気な笑いか二極両端だったのだ。思いがけない彼の姿に、シグマはただ目を丸くするしかない。カリアラはひいひいと息を伸ばしながら目尻に溜まる涙を拭う。
「さ、さふぃぎしる」
「はい。学問の神様サフィギシルです」
 答えた途端にぶふうと吹き出し、またしても笑いの渦に巻き込まれて翻弄されて膝をついた。腰を曲げて、あはは、はははと苦しげに繰り返す。普段はあまり動かないカリアラの頬はそのまま弾けて飛びそうなほどぐにゃりと山を描いていた。
「だ、だめだ、おれ、これは、もう、サフィー。お前、なあっ。なあっ!」
「ああっ叩いちゃだめですって! 祭壇! これ神様!」
「か、かみさっ……ははは! お前神様か! 神様なのかーへえー!」
 注意をしても、カリアラは長年の友人に接するかのごとく祭壇の肩を叩く。かみさま、かみさま、と呪文のように繰り返してはまた笑いの涙を流した。
「おれこの神様気に入った。いいな、うちにも祭壇作ろう」
「えっ置くんすか? なんなら本拠地にはお札とか売ってますけど。あとお守りとか」
「ああ、それ全部買う。全部買って部屋に飾る。なあ。なあ、サフィ!」
 だからなんでそんなに気さくなんすか。そう尋ねてもカリアラはただ笑いながら祭壇を叩くばかり。色あせた布の上で偶像は本を片手に無表情でたたずんでいる。カリアラはそれを指差して笑った。これ以上ないと言えるほどに、全開の笑顔を向けた。


“爆笑”


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