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 押さえつける手の中で、魚がまたびくりと動く。細やかな肉感を伝えるそれに怯まないよう息を詰め、サフィギシルは包丁をエラに添えた。
 見るべきではないと思っていたのに、つい、「目」を探してしまう。水揚げされたばかりの魚は、澄んだ丸い瞳をしていた。視線は合わず、魚はただ虚空を向いてびくびくと揺れるばかり。血にぬめり、逃れようとする体をたらいの中に押しつけて、包丁に力を込める。
 サフィギシルは、この瞬間が何よりも苦手だった。
 まるでカリアラを手にかけているかのような錯覚に陥るのだ。
 つむってしまいたいのを堪えた薄目で頭を落とす。刃と骨が耳障りな音を立てたかと思うと、決着は容易についた。まだ、わずかに痙攣する魚の身を水で洗えば背徳感は消えている。頭を落とすことだけが問題なのだ。サフィギシルはやすやすと腹を割き、干物のもとを作りながら疲労による息をついた。
 ペシフィロからもらった魚は、まだあと十匹近くある。これらをすべて捌かなければ、今日の仕事は終わらない。もうひとつ息を吐きかけたところで、呼びかけられた。
「おれがやろうか?」
 いかにも親切な言い方だが、身を乗り出すカリアラの目は希望と期待に輝いている。サフィギシルは、今にも魚に飛びつきそうな額を包丁の柄で突いてやった。予想外の攻撃に飛びのくのを見て笑う。だが一方で、あまりにも魚めいた彼の動きに重いものも感じていた。
「お前はさぁ、本っ当に魚だよなあ」
「おれ、人間だぞ? お前が人間にしたんじゃないか」
「そうだけど」
 キョトキョトと目を揺らす顔をつつけば、水槽の魚がそうするように素早く身をひるがえすのだろう。もし、彼が人の手足を持っていなければ、驚きのままに随分と遠くまで瞬時に泳ぎ去るかもしれない。実際には、上手く使えない体が邪魔をして、この庭に転がるのが関の山というところだが。
 これではまるで、魚を人の器に無理やり詰めているようだ。そう考えて、紛れもない事実なのだと思い出す。サフィギシルは眉間を慣れ親しんだ形に寄せた。いつも同じ動きなので、もう、普段からうっすらと痕がつきかけている。カリアラがその皺を目の裏に刻むかのように見つめ、また、魚の山に興味を戻した。
 今日はよく晴れている。せっかくなので、捌いた先から干物にしようと庭で作業を始めたのだが、一挙一動をカリアラが見つめるので心臓に悪いことこのうえない。カリアラはねだることこそやめているが、隙あれば魚を食おうと視線を集中させている。猫のように、こぼれる寸前まで張り詰めた空気を纏うわけではない。彼はただ魚のごとく興味深げに鼻を寄せ、まん丸い物言わぬ目で獲物を向いているだけだ。
 やはり、大きくて手足を持つ魚がいるように見えて、サフィギシルは首を振った。
 魚の前で魚を殺すというのは、どうしても、嫌な感じがする。
 サフィギシルは、一向にこちらを見返さないカリアラを見下ろした。
 サフィギシルからすれば、この、おろされるのを待つばかりの魚も、カリアラと同じなのだ。それなのにカリアラは魚ばかりを食べたがる。
「お前さ、似たような種類の生き物ばっかり食って、何も思わないのか?」
「何がだ?」
 わからないのだろう。澄んだ目を向けられて、サフィギシルは説明に迷う。
「だから、お前も、この魚も同じようなもんだろ。そういうのを食うってことは、共食いには……ならないか」
「おう。だってこれは食うやつだ。食うやつだから、食う」
 あまりにも間違いなく言われるので、一瞬、何を問題視していたのか、サフィギシル自身もわからなくなりかけた。食べ物だから、口にする。それはとても簡単な説明で、他の理屈が入り込む余地はない。
「……まあ、そうだよな」
 それだけ言って、サフィギシルはまた魚を手に取った。
 食べ物だから、食う。それを言えば、水の中にいたころは、カリアラ自身も何かにとっての「食べ物」だったに違いない。食うか食われるかの生活を生き抜くために、自分より弱いものを取り込む。それが自然の摂理であり、生き物が本来あるべき形なのだろう。
 それを思うと、サフィギシルは人間というものがわからなくなる。こうして、もらい物の食糧を調理して、ただ食べる。自分たちが捕食者に狙われる恐れはない。他の生き物たちは皆大変な毎日を送っているのに、人間はそれらを奪って生きているのだ。自分たちばかりがこんなにも優位にいていいのだろうか。やはり、嫌ではあるが、人間も何らかの捕食者から逃げ惑わなければ、他の生き物たちに示しがつかないのでは……。
「どうしたんだ? またくしゃってなってるぞ」
 眉間に指を向けられてびくりとする。サフィギシルは覗き込むカリアラの顔を見て、少しずつ説明をした。今、何を考えていたのか。お前は魚としてこの事実をどう思うのか。そう、意見を求める。
 カリアラは一瞬の迷いもなく、まっすぐな目で言いきった。
「食われなくてすむなら、それが一番いいじゃないか」
 他の考えなどありえないといわんばかりの口調で、カリアラはさらに続ける。
「人間は強いのに、なんでわざわざ食われなきゃいけないんだ? 食うだけなら食うだけのままでいいだろ。へんなこと言うな、お前」
「いや、だって、人間だけそういうのはずるいなー、とか……そういうずるい生き物に食べられるなんて、魚からして不公平っていうか……」
「こいつらはそんなこと考えてないぞ?」
 カリアラは、もうほとんど動かなくなった魚たちを示す。
「考えてても、なんでわざわざ食われてやらなきゃいけないんだ? 人間は強いんだ。だから食う。人間より強いやつはいないんだ。だから食われない。な?」
 そうだろ、と語る目に不純な濁りがあるはずもなく、この間まで魚だった男は、いつも通りのまっすぐさをサフィギシルに見せつける。人が考えるありとあらゆる理屈を削ぎ落とし、洗い流して最後に唯一残ったかのような、あまりにも簡単な道筋。
「お前は食われたいのか? へんだな」
 まあ、たしかに、変なのかもしれないと考えずにはいられない。カリアラの言うことは、いつだって正しいのだから。倫理としての正解という意味ではなく、単純に、事実なのである。
 カリアラは事実しか言わない。それ以外を持っていない。
「……まあ、そうだよなぁ」
「そうだぞ。お前はそうやっていっつも心配ばかりしてる。大変だ」
「大変だ、確かに」
 こんなにも簡単な答えが近くにあると知っているのに、サフィギシルはどうしても難しく考えてしまう。そうして、また、今のように眉間に皺を寄せるのだ。サフィギシルはこれ以上痕がつかないように、指先で眉を伸ばす。
「いいなあ。お前みたいになりたいよ」
 呟いてもそれが叶うはずもなく、構え直した包丁には嫌な気負いがかかってしまう。サフィギシルはどうしても改善されない煩いごとを胸に抱え、単純な元ピラニアのために、動かない魚の頭を落とした。


“複雑”


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