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 建物の規模に反して、その廊下は執拗なまでに長かった。いくつもの角を曲り、平らな道を進んでいくが周囲の景色は変わらない。重い色をした壁が、彼らの足を追うかのようにどこまでもついてくる。窓はなく、行く先を照らすのは、案内役の男が照らすほそぼそとした明かりだけ。だが蝋燭を用いたそれよりも、時おり建物の隙間から覘く太陽光のほうが、よほど眩しい。にも関わらず、白衣の男は蝋燭を揺らしながら、ゆっくりと進んでいく。
 歩いてきた距離を測ろうとしたのだろうか。隣を行く従者が振り向いて、不可解気に眉を寄せた。その顔を笑うと睨まれる。ビジスは手で相手の不満を抑えつつ、前方を見た。
 壁に、案内をする白衣の男が取りついている。彼は蝋燭の明かりを頼りに何やら手を動かしていたが、やがて金属の音がして、目の前がわずかに揺らいだ。隠し扉になっていたのだ。細く切れこんだ光が徐々に広がり、鼻にまとわりつくような、湿った水の匂いがした。その後で、透明な塊が目に飛びこんだ。それは部屋を占領する大きな水槽で、贅沢にも厚いガラスで囲まれた中は透き通る水に満たされているのだが、ビジスと従者が見つめていたのはそんなものではなく金色の光だった。金色の、長い毛を持つ魚がいた。
 くるくると遊ぶように泳ぐそれは、ひれではなく白い手を尾に添えている。髪が水になびくたびに、人に似た上半身がちらちらと目に映えた。乳房はなく平らだが、やわらかな輪郭をもつ肌は人の少女を思い出させる。白衣の男に呼ばれ、人魚はガラスの内側に体を寄せた。金色の髪が揺れ、奥に隠されていた顔が露となる。薄い青の瞳がビジスたちを見た。ぱちりと音が聞こえそうなほどに大きな目。まだ成長が追いつかないのだろうか。ささやかな鼻と口はその下におとなしく留まり、色ですらよく見せない。人魚は丸く見開いた目でまばたきをして、突然に飛び上がった。
「しらないひと!」
 ざば、と大量の水をこぼして上半身を空に晒す。人魚はガラスの縁を握り、興奮に頬を彩らせた。
「しらないひとだわセンセイ! ねえだれ? だれ? あっ、お客さまだわ! そうよそうよね。お客さまでしょうセンセイ! 当たった? ねえ当たった?」
 ばたばたと水槽の内側を尾で叩きながら口を回す。先生と呼ばれた案内人がたしなめようとしているが、人魚は彼を見もせずにただひとり喋り続けた。
「どうしようわたしまだアイサツをおぼえてないわ。でもおしえてもらったのよ。ねえこのお客さまにはわたしのコトバつうじるかしら。わからなかったらどうしよう。でもなにも言わないのはよくないのよね。ああ、じゃあ言わなくちゃ言わなくちゃっ」
 人魚は客人に顔を戻し、輝くような笑顔を見せた。
「はじめましてっ。シラフリア・ローティスです!」
 ほう、とビジスが初めて呟く。“先生”が彼の機嫌を伺うように、どうですかと顔を覗いた。
「いや、大したものだ。人魚というだけで十分に珍しいというのに、表情まで覚えたか」
 それに、名前も。誰に告げるでもなく口にすれば、人魚がそれを拾い上げて誇らしげに尾を振った。
「シラって呼んでもいいわよ、お客さま。わたしそっちの方が気に入ってるの。だってシラフリアだと長いでしょう? みんなそう呼んでくれるわ」
 不躾な態度に“先生”が咎めようとするが、ビジスは構わずに笑った。
「シラか。いい名だな」
「そうでしょう!? わたしこれがとっても好きなの。お客さまはなんていうの?」
「ビジスだ。まァ本当はもっと長いんだが、それは覚えなくてもいい」
「あら、わたしたちおんなじね」
 こぼれる笑みを浮かべると、人魚の顔は陽射しに照らされたように映える。その愛らしさに従者がとろけていくのがわかり、ビジスは軽く喉を鳴らした。シラは水槽の縁に張りついたまま忙しげに口を動かす。ここでの生活がどんなに楽しいものなのか。周囲の人たちがどんなに優しく、甘い言葉をかけてくれるか。挟む隙もないお喋りに、白衣の男が舌を打った。途端に、人魚は話をやめてしまう。
「おや、どうした? もっと聞かせてくれればいいのに」
「だめよ、だめだわ。センセイがいるときはあんまり話しちゃいけないの。忘れてたわ。忘れてたのよ」
「なんだそんなことを気にするのか。私はお前の話をもっとよく聞きたいがなァ」
「だめ、だめだめ。いけないの。いけないのよ……お行儀がわるいわ」
 シラは墜落のように水に落ち、底に触れる寸前でまた上がるを繰り返す。まるで話したりない言葉たちが彼女の身体を責め立てて、その叱咤に耐えきれず暴れているかのようだった。ビジスは笑みを含む息をつき、上着を脱いで従者に預ける。靴と、靴下までもそれに続けた。一体何をと不思議がる従者の前で、ビジスは裸足で水槽に駆け上がる。止める声が追う間もないまま、彼は水の中へと跳んだ。人魚が起こしたのよりも大量に水が弾ける。無数の沫が彼の身体を包み、翻弄して天へ昇った。ざば、と気持ちのいい音を立てて水面に顔を出すと、シラが驚いた様子で飛びついてくる。
「どうしたの!?」
 ビジスは声を立てて笑う。シラはわけがわからず声を放つ。
「わからないわ、どうしてこっちにやってきたの? 人間なのにどうして水の中に入るの? ねえどうして? こんなひと見たことない! ねえどうして? どうしてなの!」
「やっと喋ってくれた」
 ビジスはくつくつと喉を揺らす。
「お前の声が聴きたかった。それだけだよ」
 シラは、目の前で手を叩かれたような顔をして、一度深く水に潜る。くるりくるりと水槽の底を旋回して、旋回して、思う存分泳いだあとで、鼻から上だけをそろりと水面に出す。白い肌がほのかな熱に映えていた。青い目が、遠くから窺ういろでビジスを見る。
「……抱きついてもいいかしら」
「どうぞ」
 爽やかに微笑まれて、シラはきゅうと口をつぐむ。だが思い切ったように、えい、と彼に飛びついた。勢いに押されてビジスの体は彼女ごと水に落ちてしまう。だがそれも彼の戯れだったのだろうか。すぐに昇りつめた時には、まだ幼い人魚の身体は楽々と彼の腕に収まっていた。キイキイと甲高い音を立ててシラが笑う。それにあわせて微笑みながら、ビジスは彼女の髪を梳いた。繊細な金の中に、かすかな虹の粒が見える。水の中ではそれがより顕著となるようだった。
「いい色だ。これは繊毛だな」
「なあに、それ」
「触れると感じるだろう? 髪と違ってわずかなら好きに動かすこともできる……断たれたときに痛みはあるか」
「そのぐらいなら痛くないわ。ほんのすこしかゆいけど。人間はそうじゃないの?」
 彼の首に取り付いたまま、シラが細い手を伸ばした。ビジスの髪を指で梳き、不思議そうに目を細める。
「知らない色……こんな頭見たことないわ。ああ、でもわたし、どこかでこの色を見た。ずっと昔……そう、そうよ。これは、海の色よ」
「シラフリア!」
 あまりにも無礼な行為に、彼自身が震えたのだろうか。白衣の男が声を荒げ、シラの笑顔はまたしても暗く沈んだ。睨みつける“センセイ”を横目で確かめ、だめ、だめよと繰り返しては静かに口をつぐんでしまう。
「海か。そう言われたのは初めてだ」
 墜落しそうな彼女の体を、ビジスが軽々と支える。幼子を膝に抱えるのと同じ動きで彼女を胸元に寄せた。悠々と水槽の縁にもたれる姿勢で話を続ける。
「どの海でこの色を見た?」
 シラは居心地悪そうに彼の服にしがみつき、そろりと、慎重に髪を見つめる。水に濡れた銅赤は、輝くでもなく、ただ静かにその存在を主張している。派手に目を焼くわけでもない。だが、つい深く見つめたくなるような、不思議な色。
「……わからないわ。でも、空が同じ色の時……海も、その色をしていたの」
「ああ、朝焼けか」
「夕焼けのときもあるわ。太陽が近づくとみんなその色になるの。知ってる? 海の上に顔を出して空を見ると、赤と青がいっしょになって、とっても面白くて……」
 浮かれるがまま走り始めた口は、またしても気まずげに閉じられた。ビジスは苦い顔をする“センセイ”を見て、塞ぎこむシラを見て、ゆっくりと口を開く。
「山の色と言われることもあるなァ」
 顔を上げたシラを見て、意味ありげに笑って続ける。
「陽が沈むときには山の端も同じ色になるのだよ。それに金属の色でもある。岩の中にもこんな色をしたものがあるし、そうだ、土もこの赤をしている。粘り気のある土でなァ、焼くと硬くなるのだよ。それに、他にも……どうした?」
 シラは今にもお喋りが破裂しそうな顔で、むずむずと唇を震わしていた。ビジスはそこにとどめを刺す。
「はやくしないと、私が先にたくさんの赤を言ってしまうよ」
「だ、だめ!」
 たまらず叫んだのが口切りとなったのだろう。シラは次々と、自分が知る限りの赤を挙げていった。海藻、貝殻の縞の一部、星、木の葉やそれに染まる山、燃え上がる炎のひとつ、朝の色、夜に沈む前の色。言葉にするうちにシラの顔はみるみると輝いて、発見の驚きに丸く目を見開いた。
「ねえ、あなたの色はもしかするとすごいんじゃないかしら。だって、世界にたくさんあるわ。空も島も土も海も、朝も、夜もあなたの色になるんだもの。あなたもまるで」
 声は、ビジスの口にかすめ取られた。彼は重ねた唇を、ゆっくりと離して笑う。
「これも、赤だ」
 優しい目は染まっていく彼女の頬を示していた。シラは、呆けたまま力なく水に落ちる。水槽の底に強く体をぶつけたあとで、水面まで急速に飛び上がった。
「いまの何!? ねえ何!?」
「なんだ、口付けも知らないのか」
「やっ、やわらかかったわ! なんだか熱くて、でも、でもでもわたしの方が熱くなってるの、どうして!? ねえどうしようとても熱いわ! どうして、どうしてなの!?」
 動揺のままに跳ねる尾があたりに水を撒き散らす。ビジスは水を浴びながら、して得たように笑ってみせた。
「気持ちいいだろう?」
 ぴた。とシラの動きが止まる。彼女はますます赤くなるとまたしても底に墜落した。そのまま、どうしていいかわからないと叫ぶように、深い場所を旋回する。がむしゃらに暴れながら彼女の口が呟こうとして、どうしても形にならないのはさっき言いそびれた一言。

 あなたもまるで世界のよう。

 彼女の中は彼のことでいっぱいになっていて、あまりにも悔しくて何も言えなくなってしまう。シラは存分に泳ぎ回った後で、また彼にしがみついた。唇を近づけて言う。
「ねえ、もう一回して」
 だが彼は笑いながら顔を反らした。
「駄目だ」
「……いじわる!」
 魚の尾で思いきり水を叩きつけ、また水槽の深くに潜る。“センセイ”が叫んでいたが、彼女の耳にはそんなものはもう聞こえなくなっていた。ビジスは、軽やかに泳ぐ彼女の姿を高い場所から眺めている。口元に手をやり、海か、と呟いた。
「シラ。そろそろ帰らせてもらうよ」
 呼びかけると小さな人魚は慌てて水面に顔を出す。どうして、と非難を浴びせた。
「残念ながら、人間はいつまでも水の中にはいられないのだよ」
「だってあなたはこの中に入ったじゃない。ひどいわ、わたしは外には出られないのに。人間ばっかりどちらにもいられて、ずるい」
「お前だって地上に立てる方法もあるだろう」
 何気ない言葉は、彼女の深い部分を刺激したようだった。うつむいたシラの声色が沈んでいく。
「そんなものないわ。……わたし今は知ってるもの。大きくなってもわたしは人間にはなれないの。いつまで待っても足は二本にならないのよ」
「自然にならないのなら、こちらからつけてしまえばいい」
 はっ、と上げられたシラの顔にビジスは語る。
「足を持つ方法は完全にないとは言えない。今はなくとも、そのうちに私が導き出しておいてやろう。まァ時間はかかるだろうが、その時までにはお前に似合う綺麗な足を用意しておくよ」
「本当!?」
「ああ。何年もかかるだろうがな。だがその意志を捨てなければ必ずたどりつくだろう。大切なのは、それになろうとする気持ちだ。強い願いは何よりも確かな力となる。……覚えておいで。シラフリア」
 ビジスは彼女の頬に手をやると、そっとその瞳を見つめた。まるで彼女の未来を探るように、浅瀬の色の奥までを見通した。ビジスはふと笑みを浮かべる。シラは警戒することも知らず、ただ無邪気に表情を輝かせている。顔立ちも、整った部分のひとつひとつも何もかもがきらきらと純粋な光を放ち、それらは一心にビジスへと向けられていた。濁りはない。透かし見る彼女の内側にも、どこにも、疑いの兆しはない。
 ビジスはもう一度彼女の頬に触れ、髪を梳き、別れるために体を離した。
 キイ、と甲高い悲鳴がもれる。ビジスは手を振ってやる。振り向かず、垂れ落ちる水もそのままに従者の元へと歩いていく。途中、服を脱ぎながらやれやれと息をついた。だがその呼気でさえも愉しげな味を残している。部屋を出てすぐに白衣の男が口を寄せた。
「……閣下。どう、だったでしょうか。依頼を受けてくださる気には」
「ならんな」
 ビジスは呆気なく斬り捨てる。
「つまらないじゃないか。あれを物言わぬ石にして何が楽しいというのか、私にはわからないな。この件は断らせてもらうよ。お前たちが好きにやればいい」
 そんな、だの、あれを剥製にするにはあなたの技が、だのと取り付くのを右から左へ流していく。ふと気がついて、ビジスは男に問いかけた。
「お前、人魚の宿命を知っているか?」
「は。い、いえ……」
 なるほど、と嗤えば男は恐れる顔をする。ビジスは笑みを強くした。くすくすと声すらもらす機嫌のよさに、従者が怪訝な目を向ける。ビジスは独り言のようにそれに答えた。
「楽しみなのだよ。次に逢う時は、さぞかしいい女になっているだろう」
 そしてそのときは、血の色を知っている。
 ビジスは己の髪を梳いた。輝きはなく、ただ静かに濡れそぼる赤。暗がりにも似たそれを掻きながら、ビジスは隠し扉を振り向く。
「待っているよ、シラフリア」
 戻された顔つきには隠しきれない歪んだ笑みが、うっすらと浮かんでいた。
 そして彼らは執拗なまでに長い路を、外の世界に向けて歩んだ。


“期待”


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