出席番号二十五番の幽霊



 夜の十時を越えたところでインターホンが声を上げた。私は思わず携帯電話を見直すが、もう一度確認しても、間違いなく十時五分。誰かが来る予定もないし、セールスにしては遅すぎる。身をすくめているともう一度、同じリズムでワンルームに呼び出し音が鳴り響く。
 今日はテレビもつけていないし、騒がしくした覚えはない。よって上下の住人による苦情という線も消える。いやだいやだこわいよう、と普段は奥にしまってあるかよわい気持ちを胸に抱え、インターホンの受話器を取った。
「……はい」
「夜分遅くにすみません。やすだですけど」
 やすださん。安田さん? 会社にも近所にもそんな人はいないはずだ。頭の中の住所録を懸命にめくっていると、ぎこちない声が続く。
「ヤスダだよ。ほら、小中と一緒だったヤスダキヨシ。覚えてない?」
「ヤスダあ?」
 私の頭には、瞬間的に彼の姿が浮かんでいた。鮮やかな青色のTシャツ、少し灰色じみたズボン、若干左右に広がりぎみのくりっとした目、触ったら気持ちのよさそうだったいがぐり頭の後頭部……。その保田清史ならば、たしかに私の元クラスメイトである。ただし、中学からは一度もクラスが同じにならず、ろくに顔も合わせないまま卒業してしまったのだが。
「本当にヤスダ? というかなんでそこにいるの。え、なに?」
「いいからちょっと開けてくれよ。話があるから」
「は?」
 それにしたって、一人暮らしの女の部屋に気軽に上げるわけにはいかない。パジャマだし、ノーメイクだし。とりあえずはと玄関に出て、外の様子をうかがって、私は覗き穴を前にぴったりと固まってしまった。
「よお」
 そう、通路で片手を挙げるのは、鮮やかな青のTシャツを着て灰色がかりのズボンをはいた、いがぐり頭の小学生。私の記憶そのままのヤスダは、くりっとした目を細めて、いたずらっぽく笑ってみせた。


「へえ、結構きれいにしてるな」
「いや、まあ、年末だし……」
 何これ何これ何なんだ。私は頭がねじれそうな状態のまま、ヤスダを部屋に上げている。ヤスダ。うん、たしかにヤスダなのだ。その声といい動きといい、完璧なまでに記憶の中の同級生の姿である。黒ずんだ上履きはかかとが潰されているし、それを引きずるようにひょこひょこと歩くのは当時の男子の流行で、先生によく注意されて……。
「ヤスダ、あんた今何歳?」
「二十四」
「あっさりと答えないでよ。じゃあなんで小学生なの。ドッキリ? 本当は君はヤスダの子どもで、お父さんが下で待ってるの?」
「は? 何言って……ああ、そうか」
 して得たように笑い、ヤスダは自分の胸を指す。
「お前、これが昔の俺に見えてるのか」
「うん。これっていうか、そのまんま昔のヤスダ。小六ぐらいの」
「あー、そりゃ懐かしいなあ。俺にはお前はバッチリ二十四に見えるぞ。OLの、パジャマノーブラノーメイク。私生活丸見え状態」
「うわ、何このエロガキ。つまみ出すよ」
 心もとない胸元をガードすると、ヤスダは小学生らしからぬ落ち着いた笑みをもらした。ああ、男だ。子どものそれとは違う、独特の笑い声。外見は完全に小学生だというのに生意気な。
「で、どういうこと。原因とかわかってんの?」
「ああ」
 答えると同時、ヤスダは腕を振り上げた。唐突な指は逃げる暇もない私のパジャマをすり抜けて、さらに奥へと進んでいく。息をする間もなく、ヤスダは、ひょろりとした子どもの腕を私の腹に突き刺していた。
「俺、さっき死んだんだよ」
 痛みはない。触れられている感覚も。
 肘まで差し入れられた腕がほんのりと透けている。女子からすれば羨ましくてしかたがなかった、ほとんど骨と皮しかない陽に焼けた腕。まるで今見ているこれも思い出なのだというかのように、彼の持つ肌は輪郭をおぼろにしていた。
「幽、霊?」
「まあ、そういうこと」
 腕を抜くヤスダの目は痛ましく歪んでいたが、続く言葉はあくまでも明るかった。
「俺、がんでさあ。気がついたときにはもう末期で、闘病したけど駄目だった。そんで、今日の夕方に病院で死んだはずなんだけど……」
「幽霊に、なっちゃってた、と」
「そう。『ご臨終です』って医者が言って家族みんな泣いてるのに、俺ひとりだけポツーンて幽霊になって立ってるの。さっきまで消えてなくなる覚悟してたわけだから、拍子抜けっていうか立場ないっていうか。んで、漫画だったらここで死神が迎えに来てもいいはずなのに、そんなものいねーんだこれが」
 なんだこの呑気な喋り。表情にさっきまでの切なさなどかけらもなく、顔色にしても幽霊じみた悪いものは見られない。本当に、腕を透かしたりしなければ、ただのおっさんくさい子どもがいるようにしか思えないのに。
「で、死神でも捜しに来たの?」
「いんや。なんか成仏は自力でやるみたいなんだ。なんとなくわかるんだよ、こうすれば上に逝けるなってのが。だけどそれまで随分と時間があまってるみたいだからさー、せっかくだし懐かしい顔でも見ていくかって。移動すっげえ速いしな」
「で、私のところに?」
「残念、不正解」
 なんでまたと尋ねる前に、きっぱりと否定された。
「まずはタケやんとこに行ったんだ。次はツカノ。そのあとはミッチ、マスダ、ジョッキー。みんなすっげえびっくりしててさー、泣いたり笑ったりで大忙し。で、まだ時間はあまってるけど何しようって考えて、せっかくだからクラス全員制覇しようと思いついたわけですよ。それからずっと、出席番号順に訪ねて回っているわけだ」
 なるほど、それなら納得がいく。どうしてわざわざ私の部屋にやってきたのか、いまいちわからなかったのだ。ヤスダとは六年間固定のクラスが同じだったとはいえ、特別な関わりがあったわけではない。でも、その時のクラス全員を順に回っているのであれば。
「……で、巡り巡って私が一番最後ってか」
「そういうこと。出席番号三十番、吉岡理香。久しぶり」
 出席番号二十五番、保田清史の幽霊は、笑いながら握手を求める。私は、なんとも言えず呆れた気分で右手を出すが、大人の手と子どもの手は触れ合うことなくするりと抜けた。
「あ」「あ」
 ぴったりと声が揃い、思わず顔を見合わせる。その表情ですらまったく同じだったので、二人してふきだしてしまった。けたけたと声を上げて笑うと、息の苦しいお腹の中にあたたかいものが広がっていく。
「なんだかなあ。全然悲愴じゃないんだもん、ヤスダ」
「だよなー。俺、自分がこんなに呑気だなんて知らなかったよ」
「死んで初めてわかったって?」
 まったく、なんて妙な話だろう。こんなにも穏やかな死後の話は怪談になりそうもない。第一このヤスダ自体が、本当に霊なのかと疑うほどおそろしさのかけらもなかった。
 まあ座ってよ、とコタツの布団を少し上げてトンネルを作ってあげる。ヤスダはして得たように足を中に伸ばしてみせた。
「すげぇ。ちゃんとあったかい」
「そうなの? よかったよかった。狭苦しいけどくつろいでね」
「はいはーい、言われなくてもそうします」
 まったく、憎たらしい子どもだなあ。大人が言うとそうでもないのに、見た目が小学生というだけでなんとなく小ずるく思える。それもまた可愛らしいのだが、違和感はぬぐいきれなかった。
「ヤスダってさあ、そういうキャラだったっけ? 小学生当時はもうちょっと……こう、一匹狼っていうか、あんまり喋らなかったよねえ」
「そりゃお前と喋らなかっただけだろ。俺たちさ、なんていうか、教室の対角線にいた感じだよな」
「あー、はいはいはい。対角線」
 なるほど、上手いことを言う。ヤスダは教室の後ろ、窓際のロッカー付近で友だちとよく喋っていた。教壇の上で遊んでいた私とは、たしかに対角線の距離があったのだ。お互いに、名前も顔も知ってはいる。班などの活動が一緒になれば当たり前に会話もする。嫌っているわけでもなく、特に好きなわけでもない。そんなどうでもいい関係が、私とヤスダのすべてだった。
「そんな二人が、今こうしてひとつのコタツに入っているわけですよ」
「しかも一人は幽霊で」
「小学生の姿でね」
 どはあ、と聞いたこともないため息をつくと、ヤスダは机につっぷした。
「なぁんで小学生なんだよー。いや中学ん時のニキビ面よりはいいけどさ、もっと最近! 成人式で会っただろ、思い出せ」
「えー、会ったっていうか喋ってないし。一瞬かそこらの記憶より、小さいときの思い出のほうが鮮明ってことじゃないの」
 ヤスダは恨みがましい目を向ける。
「成人式の集合写真は?」
「実家に置いてきた」
「持っとけよー。俺ここにいる間ずっとガキのまんまじゃねーかよー」
「いいじゃん。こっちのが落ち着くよ」
「バッカ。俺は高二以降が劇的にかっこいいんだよ」
 なんなのその具体的な年数。しかし、別にかっこいい幽霊と話したいとも思わないし、なじみがあるのでこちらのヤスダキヨシの方が私としてはありがたい。何よりも、懐かしくてなんとなく嬉しいのだ。
 そういうことを伝えてやると、ヤスダは幼い顔立ちを限界までゆがめてみせた。
「なんだそりゃ」
 そう、拗ねて肘をつく横顔がどことなく照れくさいのが可愛くて、笑ってしまう。
 子どもじみているけれど、本当の小学生はあまりしない顔だった。
「ほんっと男前になってるからな。遺影見て惚れんなよ」
「はいはい、気をつけますう」
 幽霊からこんなことを言われるなんて、思ったこともなかったよ。へらへらと笑っていると、「吉岡さあ」とヤスダが口を切った。
「小五ん時に、クラスが二分したの、覚えてるか?」
「小五? ……ああ、あったあった。文化祭の準備のやつね」
 ためらいはしたが、思い当たるとそれは忘れようのない記憶だった。
「そう。具体的な原因は忘れたけど、なんか長くもめたよなあ。男子と女子が全面的に喧嘩して、すっげえ嫌な雰囲気になって。ちょっと口きいただけで、女子のスパイだとか裏切りだとか」
「女子側もそうだった。男子と同じ道歩いて帰っただけでチクられて、槍玉にあげられて。今考えると、どーでもいいじゃんって感じだけどね。あのころは毎日が必死だった」
 もう学校に行きたくないと思うような、憂鬱な日々がしばらく続いた。こんなにも面倒で、いやらしくて、理不尽に腹の立つ環境が永遠に続くように思えて、私は。
 ……いや、私とヤスダは、手を組んだのだ。
「中庭の、校舎の側にある木のうろにな」
「そうそう。十二時三十分ちょうどにね」
 取り決めたその時間、お互いに、女子と男子の動向を伝える通信文を交換しようと決めたのだ。初めはヤスダの提案だった。その日はたまたま帰り道が一緒になった。誰かに見つかったら大変なことになるけれど、他に避ける道はない。ぎこちなく距離を開けて前を行くヤスダのことをはっきりと思い出せる。潰れてぼろくなった黒いランドセル。蹴りながら歩く給食袋。私は、おそろしくて後ろを振り返りながら歩いていた。
 すると、ヤスダの足が止まる。びくりと静止した小学生の私に、ヤスダは振り向いて言った。
「『お前、秘密守れるか』ってね。なっつかしー」
「そんでお前は『いいの、しゃべって』って言ったんだよな」
「そうだっけ。それは覚えてないけど、とにかく若かったよねー」
 二人はその後誰にも見られていないのを確認しながら、耳打ちで会話した。あのころのヤスダの汗ばんだ手を、強引な腕の引きかたをしっかりと覚えている。二人とも、おかしなほどに緊張していた。まるで敵対する国の男と女が、こっそりと互いの内情を打ち明けている気分だった。ヤスダはどうだったかわからないけど、少なくとも私のつたない妄想の中では、私はデキる女スパイだったし、ヤスダは危険を承知で使命をまっとうしようとする勇敢な男スパイだった。
 照れくさいけれどそれ以上に楽しく思い出せるのは、語り合うそれがあまりにも小さなころの話だからだろうか。もし、中学や高校のころのできごとだったらしらふでは語り合えないだろう。私とヤスダは口々に「俺は算数のノートの切れ端で、合図に『K』って書いて」「私は国語ノートで、『R』ってね。今思えばバレバレなのに、完璧な作戦だとか考えちゃって」と思い出の切れはしを口に乗せる。
 そうして打ち合わせをした二人のスパイは、次の日の休憩時間から作戦を実行することにした。
 まず先にヤスダが、次に私が、情報を書いた紙を木のうろに隠す。凄腕のスパイたちは、そこで得た情報をクラスの闘争解決に役立てて、こっそりと影からみんなをひとつにまとめる……はずだった。
「それなのに、なあ」「それなのに、ねえ」
 翌日の朝の会で、闘争はいきなり解決してしまったのだ。さすが、熟年の先生は違うというべきだろう。だが当時の私には、それはひどく腹立たしいできごとでしかなかった。失望した顔を、互いに見合わせたことをよく覚えている。ヤスダも同じ気持ちだった。私にはそれがよくわかった。
「ばかだよねえ。解決したくて考えた作戦なのに、逆に解決しちゃって悔しがってるんだから」
「でも俺はマジでむかついたね。なんでそこで終わらせるんだよって」
「一緒一緒。だってさ、前の晩からずっとわくわくして手紙書いてたんだよ? もう、時間になったらすぐ置きに行くんだって、朝一番に構えてたのに」
「うん、俺も同じ。すっげえドキドキしてさ、ずっと手紙握りしめてたよ」
 もくろみが見事に潰れたその日の十二時三十分、ヤスダは手紙を置かなかった。何回も確認したから間違いはない。それはそうだ、必要のなくなった情報を相手に伝える必要はない。でも私は作戦がついえたことがさみしくて、何かしなければ気がすまなくて。
「花を、置いたんだよな」
 目を丸くすると、ヤスダはからかうように笑う。
「なんだよ、知らないとでも思ってたのか?」
「いや、知ってるだろうとは思ってたけど……知ってたんだ」
 なんだよ意味通じてないぞ、とヤスダが男の顔で笑う。どうしてだろう、子どものはずのそれを見て、私は少し緊張した。気まずい心地も味わっている。だって、それは長い間私だけのエピソードだったのだ。
 物足りないけれど手紙を置くわけにもいかず、私は、木の根元に生えていた小さな花を摘んだ。名前は知らないけれど、どこにでもある昔からよく知った花。きれいなピンク色のそれを、うろの中にそっと入れた。
 ヤスダからの返答はなかった。二人とも、何事もなかった態度で教室の中にまぎれていた。だけど、私は、毎日そのうろの中に新しい花を入れたのだ。一週間は続けただろうか。しおれている前の花を捨て、見つけた違う花を入れる。
「いろいろ入ってたよなあ。紫のとか、黄色のとか」
「……知ってたんだ」
 気恥ずかしくて、つい目をそらしてしまう。とてつもなく乙女チックな秘密を影から覗かれていたような。にやにやと笑われている気がしていたけれど、見ると、ヤスダは意外なまでに穏やかな微笑みを浮かべていた。とても、小学生がするものではない、懐かしむ大人の顔。
「俺、答えたくてさ。俺だって約束忘れてないぞって、お前に伝えたかったんだけど、勇気がなくて。今になって伝えられて、よかった」
 子どもの姿の幽霊は、改めて私を向いて満足そうな笑みを浮かべた。
「吉岡、ありがとう。俺、あの時すごく嬉しかった。……これを、ずっと言いたかったんだ」
「ヤスダ」
 彼が今にも消えそうに思えて、手を伸ばす。だけど指先は彼の肩を抜けて、ヤスダは変わらず座っていた。
「なんだよ。成仏すると思った?」
 にやりと言われるので、神妙な気持ちも薄れてしまう。まったく、昔と違って軽々としたものだ。記憶の中のヤスダはもっと……と思い起こしていると、ヤスダはすぅと立ち上がる。
「じゃ、言いたいことも言ったし、そろそろ次に行きますわ」
「次って? 中学も制覇するの?」
 小学校のメンバーは私で終わりになるはずだ。そのまま、高校や大学までたどるのかと考えたが、ヤスダは「違う違う」と手を振った。
「実は俺、この後に初恋の君との再会を控えてるんだよ」
「ええっ」
 予想外の発言に、つい身を乗り出してしまう。
「誰誰、私の知ってる人?」
「そりゃそうだ、同じクラスなんだから。おおっとお、これ以上ヒントは出ないぞ。正解は、明後日の葬式で」
「何それー、ケチー」
 頬をふくらせながらも、私の頭の中では候補者のリストが渦巻いている。当時噂のあったあの子か、それとも意外にあの子だったりして。だけど、あのころヤスダの名前はそういう話にほとんど挙がらなかったので、それ以上の推測はできなかった。
 ヤスダはプレゼントを背中に隠す司会者みたいな顔で言う。
「これ、みんなにクイズとして出してるんだ。正解を知っているのは、告白された初恋の君当人のみ。どうだ? 葬式に来たくなっただろ」
 まったく、こいつは自分の葬儀を何だと思っているのだろうか。だけどいい試みかもしれない。これで、私を含むクラスのほぼ全員が、回答が気になって出席することだろう。まあこんな親しい幽霊に訪ねられたら、クイズがなくても自然と足が向かうだろうけど。
「わかった。お通夜には間に合わないかもしれないけど、お葬式には絶対行くよ」
「そうこなくっちゃ。……あー緊張するー! なあ、俺変じゃない? ちょっとテンションおかしくない?」
 いやテンションは最初からおかしいし、存在自体がとことん変だよ。
「ちょっとだけハイになってるね。でも、それはそれでいいんじゃない? 話しやすいし、ヤスダはこういう男だって私もようやくわかったし。あ、好印象って意味でね」
「マジで? よっし、やる気出てきたあ」
 ぶんぶんと腕を回して力こぶを作るヤスダ君、初恋の人とプロレスでもするつもりなんですか。ヤスダは髪を撫でつけてみたり、服を直したりと落ちつきがない。私にはいがぐり頭と子供服にしか見えないので、いまいち間抜けなんだけど。
「でもなんで最後まで行かなかったの。大切にお取り置きしてたとか?」
「それもあるけど、むしろ落ち着かなくて。こう見えても俺は繊細なんだぞ? 早く行こう早く行こうと思いながらも進めなくて、回り道をしながらリラックスを試みたってわけだ」
「うちらはみんな回り道ですかい」
 なるほど、だからクラス全員制覇なんてことになったのか。でも、それで久しぶりにヤスダに会えてよかった。そう伝えると、ヤスダはまた照れくさそうに笑う。
「俺も吉岡と話せてよかったよ。なんかすげえ落ち着いた。ずっと言いたかったことも言えてすっきりしたし、勇気が出たよ」
「うんうん。告白ガンバレ小学生」
「小学生じゃないってのに」
 ったくなんで子どもの格好かなあ、と未練がましくぼやくヤスダを越して、私は玄関のドアを開ける。誰もいない通路は出て行くのに好都合だ。だけど、ヤスダは出口の前に立ちつくして動かなくなってしまった。
「あのさ」
 見上げてくる子どもの顔は、緊張に固まっている。
「俺、情けなく見えたりしないか?」
 ちょっとだけ。と答えるのは酷な気がして笑ってみせる。
「大丈夫、情けなくなんてないよ」
「間抜けじゃないか? 怖くないか? どこか透けてたり、見た目がこわかったり、みっともなく見えたりしないか?」
「大丈夫。ちゃんとしてるよ。ヤスダは格好いいよ、自信持って!」
「よかった」
 安心したその笑顔は大人がよく見せるもので、私は彼が子どもの姿をしていることを一瞬だけ忘れてしまう。多分、二十四歳のヤスダはこういう男なのだろう。見たこともないのによく知っている気分になって、私は、背広を着たサラリーマンを見送る気持ちで声をかける。
「いってらっしゃい」
 ヤスダは驚いたように振り向いて、少し照れくさそうに笑った。
「いってきます」
 そうして出席番号二十五番の保田清史はうちを出て、階段を下り、ゆっくりと歩きながら夜の住宅街へと消える。
 私はだんだんと小さくなるその姿を見送ると、おもむろに頬をつまんだ。



 ほの白く霞む空の下、私は昔ヤスダと約束をしたあの道を歩いている。途中、寒さにも負けず咲いている花を見つけたのでひとつ摘んだ。手の中に入れてみるとあまりにも頼りなかったけれど、これも供えさせてもらえるだろうか。ガーゼのハンカチに包んで、喪服の胸元にしまう。
 こんなにも楽な気持ちで葬儀に行くのは初めてだった。多分、参加者の一部は私と同じ思いなんじゃないだろうか。ヤスダは相変わらず元気そうだった。それを知っているから、悲しみは降りてこない。きっと今日はいいお葬式になる。そう確信してヤスダの実家を訪れた。
 だけどどういうことだろう、そこで行われていたのは、しめやかなごく普通のお葬式だった。ざわめきと沈痛な面持ちと同情が行き交う場所。同窓生の姿はちらほらとしか見えず、彼らは皆まだ実感の湧かない囁きを口に乗せている。――まさか、あいつが。突然だから驚いた。なんでまだ若いのに。クイズの答えを確かめ合う人はいない。訪れた幽霊について話す人も。
 ヤスダの幽霊について訊くと、みんな恐ろしげに身を引いた。

 お前、何言い出すんだよ。
 あいつが化けて出たっていうのか?
 大丈夫かよ、ちょっと疲れてるんじゃないか。

 途中から全員に訊くのを諦める。みんな、誰一人としてヤスダに会っていないのだ。そんなことがあるだろうか。あれは私の見た夢だったの? ねえヤスダ、どういうことなの答えてよ!
 私は足早にヤスダの棺に向かった。私たち一昨日会ったよね? あんた、クラス全員回ってるって言ったじゃない。死んではみたけど成仏まで時間があまって、いろんなところを巡り巡って、最後に、初恋の君との再会を控えていて……。

 あ。と、口を開く。

 誰も知らないヤスダの幽霊。
 彼がついていた嘘。
 最後に訪れた場所。


 正解を知っているのは、告白された初恋の君当人のみ。


「……バッカじゃないの……」
 私は、たどり着いたヤスダのお棺にへなへなとしなだれてしまう。顔どころか耳から心臓まで燃えていくのがわかるが、もうどうすることもできない。私は遺影を見上げた。知っている顔だった。スーツを着た、成人式の写真だ。私が忘れていた、ヤスダは忘れるはずもなかった久しぶりの再会の時。

 ――ほんっと男前になってるからな。遺影見て惚れんなよ。

「……バッカじゃないの……」
 真面目ぶった黒い額の中のヤスダも、白い花に囲まれて眠るヤスダも、私からすれば全部一昨日と変わりない。この男は小さいころからずっとそうだ。格好つけで、キザな作戦を考えて、それなのに恥ずかしくて肝心なことが言えなくなる。
 そういう奴なのだ、ヤスダは。私はそれを知っていたはずなのに。
「ほんと、ばか」
 私はあのころと同じようにぐしゃぐしゃに泣きながら、小さな花をお棺に入れた。休憩時間、誰にも見つからないようにこっそりと木のうろに隠していたのと同じしぐさで。名前も知らないしなびた花と白い菊。たくさんの花に囲まれて、ヤスダは、相変わらず憎たらしい顔で眠っていた。


へいじつや / 読みきり短編全リスト

出席番号二十五番の幽霊
作者:古戸マチコ
掲載:へいじつや
製作:2006年1月