これは一体どういうことだ。おれは用意された衣装を手に、呆然と立ちつくした。目の前には白衣を着た中年の男がひとり。見るからに医者といった風情のそいつは、おれに不気味な笑みを向ける。 「さあ、治療をはじめよう」 奴の前には一対の椅子が置かれていた。男は向かい合うその片方へと腰掛け、もうひとつを手で示す。 「着替えたらそこに座って。その後で、改めて君の言い分を聞こう」 「ふざけんな。何だこりゃ変態プレイか? なぁんでおれが、小学生のコスプレなんかしなきゃいけねーんだ!」 おれはあらかじめ渡されていたランドセルや通学帽を、思いきり床に叩きつけた。冗談じゃない。どうしておれがこんな幼稚な格好をしなくちゃいけないのか。憎々しく歪む顔に言葉がみなぎっていたのだろう。医者らしき男はかすかに嗤う。 「まだわからないようだね。自分が先ほど何をしたか覚えているか? 君は、ロールシャッハテストで、放送禁止用語を答えてしまった」 ぴく、と大胸筋が不安に揺れた。医者は低く喉を鳴らし、おれの狼狽ぶりを見る。 「知らなかったのかい? あれは公の場に出してもいい言葉ではないのだよ。そして、導かれた結果も、君の外見と同じぐらい異常発達したものだった」 「おれの見た目に何か文句でもあんのか。ああ?」 「文句はないけれどとても興味深いね。何しろ、君の筋肉はねえ」 白衣のポケットからボールペンを取り出して、くるくるともてあそぶ。その間に愉しげな目がおれの肌をうすくなぞった。 「性別と歳の割に異常すぎる。そうじゃないか? 松林リンダさん、中学校一年生」 「…………」 「身長二百二十二センチ、体重は九十キロ。体脂肪率は実に三パーセントと。たいしたもんだァ、傷だらけのモノクロ写真集でも出すつもりかい? PV付きで。薄暗い牢獄の中で白い光を放つ鏡に己を映したアンニュイな表情の写真を全面に押し出して! 特製ボックスに封入して日本では限定発売で!」 「知らねえよ! ペ・ヨンジュンに恨みでもあるのか!」 「あいつのせいで妻は俺のことを『汚いオヤジ』と呼ぶようになったんだあああ!!」 うらぶれたパイプ椅子が床に倒れる。医者は荒ぐ息を整えながら、椅子を戻した。 「……取り乱してすまない。このことについては後でじっくりと語ろう。ざっと三時間ぐらい」 「断る。そんなに語りたいってことはすでに愛しているんだよ。微笑みの貴公子に愛されているんだよ」 いやだあ、と発狂しかけた医者が立ち直るまで五分待った。奴は乱れた白衣を直して続ける。 「話を戻そう。何も女の子らしくしろとは言わないよ。私はお母さんではないのでね。しかしその体型に至るまでの精神分析には興味がある。数々の心理テストでどんな結果が出たか知りたいかい? 君は異常者と判断されたんだよ」 「そんなバカな! 女子中学生に筋肉の自由はないのか!」 「さァ? 恨むなら世間を恨みたまえ。ついでにいうと軽度の記憶障害もみられるからね。私はご両親から、君が完全な記憶を取り戻すことができるよう努力しろと言われたのさ」 「う、嘘だ。おれは記憶なんて……」 「では松林さん。去年までの生活を完璧に答えられる自信があるかい?」 「そりゃ、完璧には……。でもたいした違いはねえ。おれは前からこうだった!」 「だが証言によると、君は小学校三年生までは普通の女の子だったんだ」 驚いて身を引くと、日焼けした肉体がしなやかに揺らいだ。 「それがたったの四年たらずでムキムキボディビルダーだ。このからくりを突き止めれば、全世界の軟弱な少年たちの心を掴む新たな学説となるだろう。そう、以前の僕は貧弱な男と呼ばれていた彼らに筋肉という武器を与えることができるのだ!」 「僕とか彼らとか混じってねえか」 「なんだ、これでもまだ不満というのか? 何がいやなんだ。オジサンに言ってみなさい」 「こんなガキくせえ服着てられっかよ。ランドセルも通学帽も、低学年でオサラバしたんだ。あんたにはわからねえのか? 今さら卒業した過去の姿におのれを任せるということが、どんなに恥で屈辱か!」 「松林……」 医者はなぜだかとても優しい顔をして、力強く胸を叩いた。 「よし、わかった。私もその衣装を着よう!」 というわけで今おれは体育の格好で、医者はおれが着るはずだった、吊りスカートに給食袋つき赤ランドセル、運動靴といやに黄色い通学帽という完璧なコスチュームプレイスタイルでひとつの机に向き合っている。 「ランドセル、異常に似合ってるぜ」 「ふっ。俺もガキの頃ァ暴走の小鉄と言われたもんさ。よっしゃ、はじめるぜリンダ!」 ああ、生白かった顔がてらてらと赤らんでいる。こいつそういう嗜好だったか。おれは軽蔑しながらも、本当は椅子など必要としないたくましい尻に触れた。 「ブルマーが小さすぎてはちきれそうです先生」 「ああん? 根性のねえ臀部だな!」 「根性がないのは紺青のブルマーです」 「韻を踏んだのはよし。三点!」 「評価された!?」 しかも採点基準と平均値、さらには満点値がわからない。医者は机上の書類にボールペンを走らせた。その隣には、ここに来るまでに書かされていた簡単なアンケート。その、よく読む雑誌の項を見て、医者が怪訝に顔を上げる。 「そういえばるんるんって今もあるの? なかよしの姉妹誌の」 いやおれは週刊漢組と答えたはずだが。 「さあ。しかしひとつだけ言えることがある。記録に残る雑誌より、記憶に残る雑誌だ」 「るんるんについて何か覚えていることはあるかい?」 「創刊号の表紙は『コードネームはセーラーV』だった」 「他にどんな漫画が載ってた?」 「創刊号の表紙は『コードネームはセーラーV』だった」 「それしか覚えていない、と」 つるつるとペンを走らせる動作が気に入らなくて、おれはつい腰を上げた。 「ばかやろう、おれはぴょんぴょん派だったんだよ。りぼんでは岡田あ〜みんとさくらももこしか読まないタチでね……しかし光のパンジーは今思い返せば結構なトンデモだった」 「君は漫画ファンを侮辱してないか?」 「ぴょんぴょんがちゃおに合併されるとき、読者コーナーに『恋愛マンガがなくてもいいです。ギャグのたくさん読めるぴょんぴょんに残ってほしい!』という嘆願文が掲載されたが、もはや合併を止める術はなく……」 「ぴょんぴょんの話はもういい。君はもう十分に跳んだ。次はジャンプだ」 「語呂が悪ィ」 「じゃありんりんだりんりん。インリンオブジョイトイ」 「関係ねーだろ! インリンは違うだろ!」 「ならりんりんだな。君は今日からりんりんという幻の漫画雑誌を語り歩く伝説の琵琶法師、りんりんオブジョイトイ略してりんりんに変化するのだ!」 「だからインリンは違うだろ! 遊んだことなんかねえよ!」 苛立ちのまま強く机を叩いた、その時。 ――りんりん、なんてアダ名つけられたら、どんな顔して生きて行こう。 鈴の音が耳を打った。いや違う、あれは昔のおれの声だ。鼓膜の奥が鋭く痛んでおれは頭を抱えて屈む。なんだ今の記憶は。おれは、おれは、あんなことなど言ったことが……。 「どうしたマチョ林! 記憶が戻ったのか!?」 「くっ、そうかもしれねえ、アダ名がどうとか聞こえたきがする。だがすぐに消えそうだ……ってマチョ林!?」 「なんのことだい松林」 「嘘だ! さっき絶対マチョ林って言った! 素敵なミドルネームをつけた!」 「ああ気に入ったのか。じゃあ今からマチョ林ね。ようマッチョひさしぶりぶりー」 林が消えた。 「それただの形容詞じゃねーか! 林を入れろよリンダを使えよ」 「んじゃやっぱりんりんか。りんりーん、ひさしぶりぶりー」 医者はふざけた笑顔をすぅと引き、突然に真顔で告げた。 「トミャ子ダヨー」 そして急激に笑顔へと引き換える。だが、おれは一瞬の衝撃を忘れることはできなかった。 「今なんか言った! 変な名前を機械的に!」 「幻聴か。ううむ、ますます興味深い……」 このやろうあくまでもシラをきるつもりだな。しかし、トミャ子。どこかで聞いたことがあるような……。 「さて次の質問だ。小学時代、交換日記を止めて怒られたことはあるかい?」 なんでまた唐突に具体的になるんだよ。だがおれは真面目に答える。 「連絡網ならよく止めてたが、さすがに日記は……」 「よし、三分かけて考えてみよう。日記よりそっちのが数倍タチが悪いとわかるから」 いいじゃねえか、連絡網なんて回さなくとも花火が上がれば運動会は中止なんだよ。にらみつけても医者はただ笑うだけ。 「そうだね、それじゃあ……交換日記の一日目に、いきなり友だちとその片想いの相手をアイコラよろしく顔だけハメた結婚式の図を描いたら、なんと翌日にはそれが黒板に張られちゃってかるーく絶交されてみたりとかそういう甘酸っぱい失敗談があるのかい?」 「それはお前の実話じゃないのか」 「いや、トミャ子から訊いた話さ」 脳髄をねじられるような気味悪さがおれを襲う。トミャ子。どこかで、必ずどこかで聞いたことがあるはずだ。おれはどうしてその名を知ってる? おれは、おれは、トミャ子、トミャ子、トミャ子……! 「くそ、誰だ、なんだ! おいお前! トミャ子ってのは何者だ。お前とどういう関係だ!?」 苦悩するおれの顔をのぞきこんで、医者はかわいく首をかしげた。 「あれ、どしたのりんりん。人間っぽい顔になったね、最近」 「関係ねえよ! もとから人間ぽい顔だ!」 「いや前はゴリラだったってマジでマジでマジで。ほらこの前撮った写メールと比べてみ?」 「ああもうてんで話になりゃしない! いいか、もう一度訊く。……あんた、あの子の何なのさ?」 目の前の医者は始まりのときと同じく不気味な笑みを浮かべている。節くれた指が、ぴんと動いた。 「トミャ子のトミャはトミの富。富と栄誉と繁栄をゲッツできるようにとつけた名だ」 「医者、指が……」 ゲッツになってる。 「私の子だよ。今年で中学一年になる。きっと君は聞いたことがあるだろうと思っていた」 指がまだ直ってない。 「記憶を取り戻すには、直球で攻めるよりも、外堀をじわじわと埋めていく方が愉しいのでね。できるだけ遠いところから揺らしをかけていったのだよ。実際の中学時代について尋ねると、急激な時代常識の差異から精神に負担がかかりすぎるおそれがある。だから小学時代のジェネレーションギャップにコンタクトしてみた。気づかなかったのかい? だっておかしいじゃァないか、二十一世紀の中学校一年生が、るんるんなんてコアな雑誌、知っているわけがない」 医者は突き出していた指を、にっこりとおれに向けた。 「君は中学生なんかじゃない。女の子なんかでもない。……二十七歳の、専業主婦だよ」 その途端、背後のドアが開かれる。 「ごめんなさい、お母さん!」 おれの筋肉に飛びついたのは、小さな、かわいらしい娘だった。 「淋堕……!」 これは、まちがいのない、おれの子だ。 「お母さんごめんなさい! でもわたし、あのままじゃ学校でいじめられると思ったの! だから、お母さんはいいなあ、なんて言っちゃって! お母さんの名前は格好いいから代わって欲しいなんて言って! ごめんなさい!!」 そうだ。りんりんと呼ばれたくないおれの娘は、クラス替えを目前として登校拒否を起こしたのだ。いじめを受るのだと聞いた。お母さんのように、たくましくて、マッチョで素晴らしい筋肉を持っていたら。そう言いながらおれの胸板を涙でぬらしていたのだ。トレーニング以外何もできないおれは、せめてこの哀れな娘に何かしてやりたくて、この子のかわりに中学生に戻ることができたならと考えて……。 「でも違うんだよね! リンダの名前は淋しく堕ちていく天使のように美しくなりますように、ってお母さんが徹夜で考えてくれたんだよね!」 「ああ。三日間貫徹して最終的にはハイのまま出生届を出したんだよ」 我に返ったときはもうすでに遅かったのさ。だがこうして美しい名前だと勘違いしてくれたのなら運がいい。おれは娘を抱きしめたまま、医者に向かって微笑みかけた。奴は照れくさそうに頬を染める。 「もう一度言うけれど、小学生の格好をさせたのは、実際の中学時代について尋ねると、急激な時代常識の差異から精神に負担がかかりすぎるおそれがあるからだよ」 「ああ、わかってるよ。そういう趣味なんだろう?」 そうでもなきゃ自分でランドセルを背負ったりしないからな。片目をつむると、医者はばれちゃあしょうがないか、と可愛らしく舌を見せた。ほのぼのとした暖かい空気の中で、医者は両手をドアに向ける。 「さあ、お帰り。狭いながらも貧しい我が家へ!」 指先はゲッツの形をしていた。おれもまた、ゲッツの形でそれに答える。そして淋堕の手を引いて、我が家へと歩きだした。 「リンダ、お母さんの大好きなロール白菜作ったんだよ。トマトピューレのかわりにケチャップ使ったら、すごい味になったけど」 「もう、淋堕はドジだな」 コツン、と頭を小突いてどちらともなく笑い出す。おれはブルマーと体操着姿のまま、娘と共に部屋を去った。 「お前が真犯人を操っていた真犯人か」 筋肉隆々の男が去った部屋。医者は壁の向こうに話しかけた。隠し扉が開き、フランス国旗を手にした女が現れる。 「患者の家族にたいして結構な言いようね」 「なんだかそう言いたい気持ちだったんですよ。まるでトリックを明かした後のしじまのようでね、気分がもたない。……見ていてどう感じましたか? 旦那さんの状態はもはや手遅れに近い。本当にあのままにしておくつもりですか」 「ええ。十分な結果が出せましたわ」 笑うと、口元にえくぼができる。彼女はそこに小さな旗の柄をそえた。 「お話をいただいた時は、元のあの人に戻ってしまうのではないかと心配していましたが……予想以上の人格変化です。これで大会優勝も間違いありません」 医者は深くため息をつく。娘の富子から、同級生の母親が専門医を捜していると聞いた時は、どんな問題を抱えているものかと思ったものだが。実際に会ってみると、とんだ腹黒い女である。医者は汗ばみかけたこめかみを掻く。 「しかし、なんですか、その……変人大会?」 「世界一の変身変人決定戦爆裂スペシャル。優勝者、つまり究極の変人へと変身した人間にはフランス旅行が贈られる。すばらしい国です。想像しただけで胸がときめく……」 「本当にいいんですか。旦那さんをあんな変人にしてしまって。フランス旅行もあのまま行くことになるのですよ?」 第一気が早いじゃァないですか、と夫人の持つトリコロールを示しても、彼女はただ笑うだけ。 「あなたにはわからないでしょうね。巨体のマッチョから繰り出される家庭内暴力が、どんなに恐ろしいものかなんて。あの人はあのぐらい子煩悩でちょうどいい。幸せな家庭とフランス旅行が手に入れられるなら、旦那の精神的な性別など関係がありませんよ」 彼女は隣室に戻ると、監視カメラのテープを取った。小さなそこには、先ほどの旦那とのやりとりの、一部始終が収められているはずだった。 「映像はこちらで編集させていただきます。応募まで一週間。これからもっと変身してもらわなきゃ」 ではありがとうございました、と頭を下げて、彼女は旗を振りながら足取り軽く去っていく。医者はこれ以上あの家庭について考えなくて済むように、勢いよく頭を振った。 へいじつや / 読みきり短編全リスト 『作家志望のあなたに12の無茶なお題〜トリコロールって素晴らしく語感がいい〜』に挑戦してみました。 |