ある日あたしとくまさんは



 明日からゴールデンウィークなので、マニキュアを塗ることにした。
 この五日間は表立った就職活動も一休み。面接や説明会の予定がないのでここぞとばかりに派手に飾ることにする。何しろ会社巡りを始めてからこっち、爪は常に素の状態、髪だって真っ黒なストレートで通してきたのだ。統一された外見の集団に混じるのには慣れたし、息苦しさもどこかに飛んでいったけれども、色がないのはやはり、さみしい。
 数ヶ月ぶりにベースコートを手に取ると顔が自然と笑みを浮かべた。透き通っているけれどやや黄色味を帯びた小瓶。鼻歌混じりに取り出して、普段からケアだけは忘れなかった爪の上に素早く伸ばす。人さし指、親指、中指、薬指に小指にするり。はみ出さずに一発で塗れるようになったのは何歳の頃だっただろう。友達と顔をつき合わせて練習に励んだのは、高二の放課後だっただろうか。
 息を吹きかけ、指を振り、液体じみた透明なつやが乾いてかすれていくのを待つ。速乾性を謳うそれは予想外に速く乾いた。触れてみて、満足げに笑いながら意識はすでに次の過程に飛んでいる。
 いかにも浮かれた鼻歌のリズムに乗せて、透明な箱の中から買ったばかりのマニキュアを取り出した。今さらながらに春らしく桜にも似た淡いピンク。目立たない程度に入った細やかなラメが心を動かす。結局いつも同じような色ばかり買ってしまうけれど、好きだから、それでいい。
 五本の中で一番形の整っている、人さし指にまずは一塗り。予想外に薄いので乾いた後で二度塗りすることに決めた。ひとまずは、と瓶の中に筆を戻してもったりとしたピンク色を継ぎ足して、縁でいくらか落としてから中指へと向かわせる。
 さ、と筆を動かすと、焦りが出たか身の部分に色がついた。まだ色のない薬指と小指だけでティシュを取ろうと震えながら冒険したら案の定ふわりと浮いたエリエールは中指と、人さし指に。
「っああー!」
 叫ぼうが嘆こうが乾いていないマニキュアはティッシュの繊維を吸いこんで粘りついてぐにゃりと派手に形を崩した。あー、あー、あー、と情けない声を上げて泣きたい気持ちで後始末。まさかこんなにも早く使うとは思わなかった除光液を取りあげて、あたしは再び初めからやり直すはめになった。



 ふふふふふ、と口から軽い笑みがもれた。完璧に塗り上げた十の爪はトップコートに包まれて、てらてらと光を乗せる。それだけではなく今回は今までにない飾りが顔を見せていた。技工を凝らした手法だとか付け爪にまで手を伸ばすつもりはないが、やはりたまには違うことをしてみたい。そう考えて選んだのが、爪の上に貼り付ける小さなシール飾りだった。ピンセットで隅にひとつさり気なく乗せたそれらは、平坦な色の中のアクセントになっている。手を掲げ、白色のそれを眺めて上機嫌で腕を伸ばした。二度手間になったせいで大分時間が掛かったけれど、やってみて、良かった。
 さてお待たせしたあの人に見せに行きましょう、と隣に繋がるふすまを開けて、そのまま眉をぐいっと寄せる。変死体のごとくに投げ出された毛むくじゃらの太い腕、太い足。無防備に上下する腹の上に座布団が乗っている。のんびりと揺れる渋色の座布団と同じテンポで響くのは、かすかにいびきの混じる寝息。
 ひとつ年下なのに四つも五つも上に見られる恋人は、隠しようもないほどにぐっすりと眠っていた。
「ちょっ……くまー。くまくまー。なんで寝てんのよー」
 大の字の一画目にあたる腕を揺すってみても、心地よさそうな寝息が少々乱れるだけで目を覚ます気配はない。友人からもあたしからもくまと呼ばれる大男は、我関せずと言わんばかりに乾いた唇をいびきに揺らす。まだ肌寒いこの季節にトランクスとTシャツだけで爆睡するとは何事ですかこのやろう。
「人がわざわざあっちで済ませたのになにやってんのー」
 マニキュアの染みる匂いが嫌だというからわざわざ離れて塗っていたのだ。それなのに、二週間ぶりにゆっくりとふたりで過ごせる夕方なのに、どうして起きてくれないの。
「ねえ。ちょっと! くま!」
 腹が立って腹にチョップを打ち込んだのに座布団がガードしたのかくまは瞼を開かない。ごっ、と無作為な音を立てただけで、あとはまたすやすやと冬眠中の熊のごとくに心地よく眠るだけ。あたしはくまの伸ばしっぱなしのひげだとか、いい加減切りにいけよと言いたくなるもっさりとした頭だとかを思いきりいじるけれども、この鈍感な大男はろくな反応すらしない。小鼻の黒ずみをくるくると撫でてみても、耳の側を指先で辿ってみても。勢いにまかせていろんなところをつまんだり握ったりしているうちに虚しくなって、とりあえずパンツを元の位置に戻した。うわあ、あたし馬鹿みたい。
「……もう帰っちゃうぞー」
 囁いてもぴくりとも動かないので怒りすら通り越して悲しい気分になってしまって、あたしは今までの人生で一番上手に整えられたピンクの爪で、くまの指毛を引っ張って、そのままゆっくり手を繋ぐ。暖かい手のひらは厚くて平たい。握っても、握っても、決して押しつぶされることのない彼のからだ。投げ出された五本の指はあたしの指に押さえ込まれて天井を見上げている。
 あたしは拗ねた目つきでそれを眺めて、ふと、いいことを思いついた。
 そして悲しみも何も全部忘れて、にんまりと笑みを浮かべた。



 結局のところくまが目を覚ましたのは、夕日も落ちてそろそろお腹がすいてきたころのことだった。
「っあー、ああ。寝たなあー」
 もうすっかり諦めてテレビを見ていたあたしの視界にちらりと映る、起き上がるくまの姿。お前はトトロかと言いたくなるほど大きな大きなあくびをして、天井まで届くんじゃないのと呟きたくなる長い長い伸びをして、くまは呑気に目をこすり……。
「うおっ。何じゃこりゃ!」
 あたしのいたずらを、見つけた。
「どこぞのくま様がお馬鹿様のごとくに熟睡しておわしましたので、施術してみましたボンジュール?」
「ぽ、ポンジュース? え、俺みかん?」
 うわあ本気で聞き間違えてる。
「なんであんたがみかんなの」
「だよなだよな。そうじゃないだろ、爪! 爪! 派手!」
 カタコトのように訴えながら、くまはあたしに両の爪を掲げて見せた。きらびやかにも程があるラメたっぷりの群青がその指を飾っている。銀色に輝く光のかけらはもはや青を埋め尽くす勢いで広がり、隣の部屋まで流れ込む蛍光灯の明かりに照らされていた。
「美輪明宏もびっくりだよ!」
「どっちかってーと美川憲一のドレスだと思ったけど、それもいいね」
 くまは改めてまじまじと自分の爪を見つめて「確かに美川だ……」と呟いた。
 以前魔が差して買ったものの、あまりの派手さに今まで一度も使えなかった一品だ。思う存分塗りたくられてマニキュア自身も本望だろう。わざわざ一度家まで取りに帰ったかいもあるというものだ。
「ベースとかトップとか色々重ね塗りしてたのに、全ッ然気づかないんだもん。冬眠したのかと思った」
「いや俺マニキュアの臭いかぐとなんでか眠くなっちゃってさー。うっわ輝きすぎ。美川すぎ」
「そのままさそり座の女を歌ってください」
「そうよわったっしは〜さそり座のー……ってあれ? なんかついてる」
 調子に乗って始まった歌真似はすぐにしぼんで切り替えられた。あたしはにやりと笑ってしまう。
「何これ、葉っぱ? おお、取れねえー。マニキュアで固めてあんの?」
「そうでーす。爪に貼った上からトップコートでカバーしてあるのでーす」
 意味もなく偉そうに解説しながら、膝立ちでくまの元ににじり寄る。感心に呆けた顔で爪を眺める奴の傍に座り込んで、ぐいっと手首を掴んでやった。
「で、これはなんでしょう」
「葉っぱだろ?」
 その通り、ふたりの視線の先にあるのはつるのごとくに絡む草。濃い緑色のそれは、指の太さと反比例して小さな爪を埋め尽くしていた。背景の群青と彩度があまり変わらないので一見では分かりづらいが、存在を認識すればいつ見ても目についた。
「でも葉っぱだけだとなんかさみしくない?」
「あー、そういえば。なんか緑だけだとつまらんっていうか……」
「そこで、ほら」
 あたしは大きなくまの手に自分の指を絡ませた。握るのではなく、上から包み込むように。
 群青を背にして立つ緑の葉のすぐ傍に、ピンク色に支えられた白色の花が咲く。
 ペアとして並べられた葉の部分はくまの爪に、花の部分はあたしの爪に。
 こうして手と手が重なる時だけ絵はひとつの形になる。
「……ね?」
 笑いかけるとくまは目を丸くしていた。
「おおー……」
 感心したように呟いて、そのまま同じ言葉を続ける。
「おおー……おー……おおー」
「おーおー言ってないで。感想は?」
「や、すっげえ。オモシロ。すっげえー。おおー」
 くまは並んだ花と葉っぱをばかみたいにまじまじと見つめながら、何度も指を絡めては離しを繰り返す。絡めては離し、絡めては離し、絡めては。

 離さない。

 やわらかな熱が近づきふたりの体温が重なる。

 あたしたちは絡めた指を離さずに、
 そのまま、
 触れ合う花と葉のように。







「……ところで、これいつまで塗りっぱなし?」
 それぞれが別の場所を探っていた花と葉はもう一度めぐり逢い、そっと並べられている。ふたりして完成した花の絵を眺めながら、あたしはにやりと笑って答えた。
「ゴールデンウィーク中、ずっと」
「っええー。五日間ずっと美川? 俺ファイブデイズオール美川?」
 うだうだと首を振るくまの肩に頭突きをして、そのまま顔をすり寄せる。
「だって今しかしてられないしー。せっかく丹精こめて塗ったんだから、取っちゃうのもったいないもん」
 あたしはもれる笑みを隠しもせずに、それにさ、と耳に囁く。
「残しておけば、五日間はずっとこうしていられるでしょ?」
 くまは口をへの字に曲げてしばらく葛藤したけれど、むっすりとしかめた顔でさそり座の女を歌い始めた。わざとらしく鼻にかかる声にあわせて、あたしもくすくす笑いながら明るい歌声を添わせる。そのまま、あたしたちは合わせた手を子どもみたいにぶんぶん揺らして歌い続けた。


へいじつや / 読みきり短編全リスト

ある日あたしとくまさんは
作者:古戸マチコ
掲載:へいじつや
製作:2004年5月