それはあたしがまだ小学校の一年生をやっていた時のこと。暑い暑い夏休みのどまんなか、あたしは唐突に「背が高い人に抱き上げてもらいたい」衝動にかられて町の中をうろついていた。 天気は良好、見上げてみると澄んだ空はどこまでも続くように見えた。いつもよりも数段高い青いそら。そのころあたしはまだまだ小さなお子様で、近所の家の塀にすら届かない身長だった。 空は遠い。あまりにも高く遠い。 だから背の高い人に抱き上げてもらったら、もしくは肩車でもしてもらえれば近くなると思ったのだ。 うちの親はどういうわけだかいまだによくは解らないが、小学校に上がってからは抱っこだのおんぶだのをしてくれないようになった。もう赤ちゃんじゃないんだから。そう言っては伸ばしたあたしの手を避ける。二人なりにあまえんぼうなあたしに対して思うところがあったには違いないが、その頃の小さな小さなあたしにとってはとてつもなく理不尽だった。 幼稚園のころみたいにしてくれたら空がもっと近くなるのに。 あたしは首が痛くなるほどずっと空を見上げながらてくてくと歩いていた、ら。 「うお?」 男の人にぶつかった。 「なんだ、かのこか。ちゃんと前見て歩けよお前ー」 のんびりと笑いながらあたしの額を小突いたのは、三軒隣のカズくんだった。 カズくんはへんな人だ。もう高校生にもなるのにマンガばっかり読んでるし、格好はだらしないし、なによりも背が低い。うちの学校で一番背が高い男子と同じぐらいじゃないだろうか。高校生のはずなのに、いまだに土手でこどもと一緒に本気で野球をしているし、駄菓子屋でこどもに混じってお菓子やカードを買い込んでるし、すぐにへんな歌をうたうし。まるっきりこどもみたいな人だった。 「お前アイス食うか?」 くるくるとよく動くまっくろな目が嬉しそうにあたしを見つめる。カズくんは大人げもなくジャーンと口で効果音を出すとベトベトになった木の棒を見せつけた。食べ終わったアイスの棒。中央には茶色で書かれた「あたり」の文字。 「ふふん、今日は一発で当てたんだ。食べたいならゆずってやらんこともないぞ」 「……いらないよ。カズくんたべれば」 「俺もうこのアイス飽きたもん。一日二本がノルマだったからさー」 高校生にもなって、あたりくじを出すためだけに毎日アイスを食べるなんて、ちょっとどうかしてると思う。本当にこどもみたいな人だ。中身はまだこどもなのに、外側だけ高校生になっちゃったみたいな人だ。 「で、お前なにしてたのよ。ユーホーでも飛んでたんかー?」 「ちがうよ。そらみてたの」 あたしはじっとカズくんの頭をみつめた。短く刈った芝生の草みたいな髪は、もたれかかった塀の線を越えてはいるが、やっぱり背はとても低い。こんなんじゃまだまだ空には届かない。 「なんだよ。俺の顔に見ほれてんの?」 人なつこい笑みを浮かべて言うものだから、まだこどもだったあたしですらも呆れたような気分になって、ちがうよ、と説明をした。背の高い人を探していること、その人に抱き上げてもらって空を近くに見たいこと。 するとカズくんはわざとらしくフムフムなんて呟きながらあたしの話を聞いてくれた。カズくんはいつもこうだ。どんなにちいさなこどもが喋る話でも、まるっきりのホラ話でもしっかりと聞いてくれる。目線をまっすぐ合わせるために、あたしにあわせてかがんでくれる。くるくるとよく動くまっくろな目が言葉と一緒にフムフムと呟いている。 「なるほど。かのこさまは抱っこをしてもらいたいと。そんで俺では背が足りないからダメですと」 わざとらしく腕組みをして言うものだから思いきりうなずくと、カズくんはフッと笑って人さし指をビシリとさす。 「甘いぜかのこ。オトナにはオトナの方法というものがあるのだ!」 そしてその腕があたしの方に伸びてきた、と思った瞬間。 ふわ、と体が宙に浮く。足が急にアスファルトとサヨナラをする。ぶらぶらと揺れる体は意外にも力強い、硬くて痛いカズくんの手に支えられてそのまま抱きかかえられた。 「え、ええ!?」 おどろくあたしを両腕で抱え上げ、カズくんは意気揚揚と声を上げる。 「いざゆかん空の上! 駅までダーッシュ!」 飛び込む海を目の前にしたこどものようにはしゃいだ様子で、高校生のカズくんは小学生のあたしを抱えて嬉しそうに走り始めた。 電車の中でもずっと抱っこされてるなんて、どのぐらいひさしぶりだっただろう。あたしは嬉しいと思うよりも何倍も恥ずかしくて気まずくて、カズくんの短い髪をわさわさとなでくった。 「もういいよぅ……おろしてえ」 「だめだめ。俺の底力を見せるまではこのままだ」 ほんの少しトゲトゲとした髪の毛はさわり心地がとてもよくて、それはいいことなんだけど。近くの席のおばさんが、まゆをぎゅうっと寄せた顔でこちらを見ている。まばらにいる他のお客さんたちも、背の低いカズくんと小さなあたしを気にしている。 カズくんはあたしを抱きかかえたまま電車のドアに寄りかかり、そこら中の視線なんか気にもせずに口笛を吹いた。いつ聞いてもへたくそなウグイスの鳴き声。 「ねえ、どこまでいくのぉ」 恥ずかしくて恥ずかしくてカズくんの短い髪をぎゅうと掴んだ。日焼けした大きな手がぺちりと軽くたしなめる。カズくんは何も言わず、もう一度へたなウグイスをした。 そのころのあたしにとって電車でのお出かけなどというものは、少なくとも前の晩には知らされているもので、こんなにいきなり飛び乗るようなものではなかった。ちゃんとどこに行くか決めて、見るものとすることと買ってもらうものも決めて、朝になったらお出かけ用の服を着て、お母さんは時間をかけてお化粧をして、お父さんは家中の窓やドアに鍵をかけて。そうしてようやく電車に乗るのがあたりまえのことだったのだ。 だからこうしてどうでもいい服のままで一直線に駅まで行って、カズ君のポケットから出した小銭で切符を買って、行き先がどこかも知らず来た電車に飛び乗るなんて、あたしの世界をぐいっと外に飛びだした一大事だったのだ。 でも。 だからこそ。 「お。なんだかんだ言って嬉しそうじゃございませんかー?」 体中がざわめいて落ち着かなくなるような、そんなわくわく感があった。 「う、うれしくなんかないもん。うれしいのはカズくんでしょー」 「ハイハイ。かのこさまのおっしゃるとおりでゴザイマスー」 カズくんはにやにやとしながら言うと、またへたなウグイスをした。 「うあっちー! なーつだー!」 駅から外へ出たとたん、真夏のひざしが上からまぶしく降ってきた。コンクリートで作られた新しくてきれいな通路も太陽に炙られて、むわっとした熱気を起こす。カズくんの腕は汗にまみれてあたしの足はいまにもすべり落ちそうだ。体がすこしずれるたびに、何も言わずに軽く持ちなおしてくれる。 「ねえここどこ? どこいくの?」 「やあーっぱ人多いなー。夏休みだもんなー」 カズくんは質問に答えない。あっち、あっち、とやけどをした人のように呟きながら、半分が透明に透けた屋根の下、広い広い通路の中を人ごみに紛れて歩く。 「しかしなんだ、お前ここ来たことないのか」 「ないよ。だってここしらないもん」 「バッカだなー。近いんだから一回ぐらいはのぼっとくべきだぜ?」 のぼる、という言葉がいやに強く聞こえたのと、天井が開けるのはほとんど同時のことだった。 出現したそれを見て、あたしはぽかんと口をあけた。 これ以上ないほどに首をそらしてぐうっと目線を上にあげた。 それでもまだてっぺんはまぶしくて見つめられない。 目の前にそびえ立つのは、高い高いとても大きなビルだった。 「55階建て、全長252メートル! 超高層ビルにレッツゴーだ!」 カズくんは威勢のいい声を上げると、一気にビルへと向かって走る。あたしはその間もずっと高い高いビルを見ていた。窓ガラスがまるで鏡のようになって青い空を映している。高い高い空色の建物。あたしはカズくんに抱きかかえられたままビルの中へと入っていった。 入り口でお姉さんが頭をさげつつぎょっとするのがちらりと見える。わあわあと騒がしいたくさんのこどもと親。いくつも並ぶベビーカーをすり抜けるようにして、ぴったりとくっついたカップルを早足で追い越して、カズくんは薄汚れた黒い財布を取り出すとあっという間にチケットを手に入れた。 口をはさむ隙すらあたえずエレベーターに飛び乗ると、その中も夏休みらしく観光の人でいっぱいだった。案内に乗り込んだ制服のお姉さんがちらりとあたしたちを見る。あたしというか、むしろぼろぼろの普段着のままこどもを抱えたカズくんを。 「かのこ、ほら」 なにしろ人がいっぱいなのと、お姉さんが解説を始めたので自然と囁き声になる。カズくんはあたしの体をガラスにつけるようにして、外の景色を指さした。 「すごーい、ミニカーみたーい」 「手ぇ伸ばしたらつまめそうだよな。家も道路もミニチュアみたいだ」 すぐとなりにいたカップルが地上を見つめて浮ついた調子で喋る。 カズくんの指はまっすぐに上を指していた。 あたしも、まっすぐに上を見上げていた。 「空、近くなるぞ」 くすくすと楽しそうな笑いとともに、カズくんはかすかに囁く。 あたしはそれに応えるように、じっと青い空を見つめた。 エレベーターはゆっくりと上昇していく。むきだしになった鉄骨の枠がみるみると過ぎ去っていく。空はどんどん近くなる。どこまでも続くような澄んだ青が、まぶしいほどに明るい青が、音もなく近づいてくる。 「たかい」 呟きが思わず口をつくのと同時、エレベーターは最上階に到達した。 「いいや、まだまだ」 カズくんはにやりと笑ってあたしの体を抱えなおすと、すぐにエレベーターを降りる。そして長い長いエスカレーターを早足に駆けのぼり、息をきらして展望台へと飛び込んだ。 一面のガラスとたくさんの人のざわめき。感心とよろこびに満ちたその中をすり抜けて、カズくんはちょうど人の空いていたガラス窓の前へと走る。 そして、あたしの体を限界まで高く掲げた。 「どおーっだ!」 ぐい、といきなり近づいた厚いガラスの上辺越しに青い青い空が見える。下を見れば並ぶ道路も街路樹も、建物も車たちも小さな小さなつぶに見えた。また空を見上げる。絵の具をそのままチューブからしぼり出したような、鮮やかで濃くてそれでも高く澄んだ青。目が痛くなるぐらいのその中に並ぶまっ白な雲。まぶしい光。夏の空。 あたしは思わず手を伸ばす。小さな手はガラスにぴたりとくっつけられた。 大きくて日焼けしたカズくんの手がそれに並ぶ。あたしの体をしっかりと支えながら、片方の手をすぐ隣にぴたりとつけた。 小さな手と大きな手が青い空の上に並ぶ。 カズくんはにやりと笑った。 あたしも、おんなじようににやりと笑った。 「っはー、つーかーれーたー」 カズくんはぐったりとベンチに座り込む。あたしは席が空いてないのでしかたがなく向かい側に立っていた。本当にこどもみたいな人だ。でも疲れているのはあたしが原因なのだから譲ってもらうわけにはいかない。 「暑いよなー。人多いしー、手ぇしびれるしー。はあしんどー」 カズくんは汗だくになった体をTシャツのすそで拭き、喋りの息すら切らしながら頭をごつんと壁につける。しばらくの間そのかっこうで止まっていたが、まるで意気を決したようにむくりと体を起こしなおすと、いつも通りの人なつこい笑顔を見せる。 「でも、空近くなっただろ。背ぇ低くてもこんぐらいはできるんだぞー」 心の底から得意そうな、まるでこどもみたいな顔だった。 あたしはなんだかその笑顔が日ざしのようにまぶしく見えて、恥ずかしくて下を向く。 「どした?」 「あのね、えっとね。……ありがとう」 カズくんはハハッと笑うとあたしの額を軽く小突き、力いっぱい頭をなでてくれた。 「素直でよろしい。じゃ、帰るかー。遅くなったら怒られるしな」 「うん」 空だけ見てまっすぐに帰るなんて初めてのことだったけど、それでもあんまり嫌ではなかった。カズくんはよっこらせ、と立ち上がるとゆっくりと出口の方へと歩いていく。あたしは、ふっと寂しいような悲しいような気持ちになって、そのままそこに立ちすくんだ。 カズくんはついてこないことに気づいて振りかえる。あたしはなんだか泣きそうな顔でそれに応えた。戻ってきたカズくんに向かって、甘えるように両手を伸ばす。 「っあー……」 カズくんは困ったように首の後ろを叩いたけれど、やれやれという顔をして、あたしに手を差しのべてくれた。 「かーのこちゃんは甘えんぼうですねー」 抱き上げられた腕はすこしぷるぷると震えていた。カズくんはぐっと我慢するように、力強くあたしを抱きかかえてくれる。そして自分を奮い立たせるように、しぼりだすように言った。 「おうら行くぞー。家までファイトだあ!」 「おー!」 すっかりご機嫌になったあたしはカズくんの頭をぎゅうと掴む。汗ばんだ首を抱きしめる。まだ高校生だったカズくんは、ふらつきながらもなんとか家まであたしを送り届けてくれた。 それが、あたしがまだ小学校で一年生をやっていた時のこと。 「ハイ十分ー。もうちょっといってみよーう」 「っあーもうだめ。むりむりむり。ギブギブギブ」 限界を見た言葉と共に、あたしの体はベッドの上へと降ろされた。どすんと大きく震動させて、すぐ隣に腰が乗る。あたしはけらけら笑いながら、力の抜けた彼の背中をぱあんと叩いた。 「なっさけなーい。小さい時はあんなに頑張って抱っこしててくれたのに」 疲れきった表情が呆れたようにこちらを見つめる。 「小一と二十三を一緒にするなよー。わざと暴れるのもやめろっての」 「うっわーおじさんの顔になってるー」 仰向けに倒れた顔にじゃれると、三十三歳のカズくんは不機嫌そうにそれを拒んだ。 「ええもうおじさんですとも。だから小娘と遊んでばかりいられないの。ハイ特訓終了ー」 「えー」 「えー、ってお嬢さん」 呆れたように笑う顔はあのころのものといくらか変わってしまったけれど、それでもまだくるくると変わるまっくろな目はこどものように輝いている。あたしはそれをしあわせな気持ちで見つめて冗談じみた声で言う。 「何言ってんの、本番は来週よ? 花嫁さんを新居まで送り届けるのが新郎の役目でしょうが」 「聞いたことなーい。そんな習俗シラナーイ。わがままで甘えん坊なのはいつになったら治るんですかー?」 「一生でーす」 「うわあ」 あたしはくすくすと笑いながら彼の体に抱きついた。カズくんの身長はあれからちっとも伸びなくて、あたしばかりが大きくなってあっという間に近づいた。 ただの小さな妹分を見守る視線を、一人の女に向かうそれに変えるには、身長が近づくよりももっともっと大変で、もっともっと時間がかかってしまったけれど。 いま、あたしたちは、こうして。 「いつまでも赤ちゃんみたいな小娘にはオトナの味を教えてやるー」 「やー、変態おやじーっ」 カズくんはまるでこどものような顔でがばりとあたしを押し倒す。あたしはきゃあきゃあ笑いながら、いつかのように彼の首を抱きしめた。 まるでこどものような瞳が二組からみあう。 あの時のように、カズくんはにやりと笑った。 あたしも、おんなじようににやりと笑った。 へいじつや / 読みきり短編全リスト |