嫌なことを言われてしまった。ばかにした山木の声がまだ耳に残ってる。あたしは滲む涙をふきながら、遠くはない家への道をひたすらにダッシュした。 うちに着くとランドセルを玄関に投げ捨てる。お父さんは今日も家にいるはずだった。あたしは居間には向かわずに、お父さんの部屋のドアをいきなりあけた。 いつもの通りの甘い匂いが鼻につく。舌に回って味までしそうなお菓子の匂い。お父さんは振り向くとおどろいた顔をした。あたしがぼろぼろ泣きはじめてしまったからだ。 「どうした、転んだのか?」 「山木君に『お前のとうちゃんチョコ怪人だろ』って言われた」 泣きじゃくりながらもそれだけは訴える。お父さんはちょっと嫌そうな顔をした。それはすぐに困ったような、悩むような顔になる。お父さんはいつも優しい。お母さんみたいに『気にするほうが負け』なんて一言で済ませたりしないで、ちゃんと話をしてくれる。すごく優しい。お父さんはすごくすごく優しいのに。 山木のやつ馬鹿だから、ちっともうちのお父さんのことをわかってないんだ。『なによ、あんたんちのお父さんなんてしわしわのブルドッグだ』なんて言い返したけどこれっぽっちも効かなかった。馬鹿だから通じないんだ。 「チョコ怪人……か」 お父さんはきれいな茶色の手で顔をこする。部屋の中に甘いかおりが広がった。こんなにきれいな色のお父さんがチョコレート怪人のはずがないのに、山木はホントに大馬鹿者だ。 チョコレート怪人というのはチョコレートの化け物で、昨日の朝のテレビに出てきた敵の着ぐるみ。板チョコレートの形をしていて、街中の子供たちをチョコでつって誘拐する悪い奴で、番組の最後にはあっけなく主人公に倒されていた。 お父さんも茶色いけれど全然違う。お父さんの色はほとんど黒に近い色で、爪の先と顔のパーツだけが白い。長方形の体には、確かに板チョコのデコボコみたいな模様があって、チョコ怪人と似てはいるけど全然違う。お父さんのは数が多い。チョコ怪人はたった十二くぼみじゃないか。 「ねえ、言ってやってよお父さん。お父さんはチョコレート怪人なんかじゃないって!」 「ああ、お父さんはチョコレート怪人なんかじゃないよ。……でも」 お父さんはなんだかすごく気まずそうな顔をしている。白く引かれた柔らかい眉がへにゃりと曲ってとろけてしまったようになった。どうしたんだろうお父さん、なんでそんなに悲しそうなの? 「ごめん、さやか。お父さんはお前に嘘をついていた」 お父さんは長方形の体を私の方に傾けた。本当は頭を下げたかったんだろう。でもそんなことをしたら、お父さんの薄い体は割れてしまう。目の前に、触ったらとろけそうな茶色い体。あまいあまいお菓子のかおりがふわんとただよう。 「お父さんはずっとお前を騙していた。……確かにお父さんはチョコレート怪人なんかじゃない。でも、ある意味では似たようなものなのかもしれないんだ」 「似たようなもの? なに、なんなのお父さん!」 「今まで黙っていて悪かった。お父さんは……お父さんは本物のチョコじゃない。ただの食品サンプルなんだ!!」 「えええええ!?」 うそ、うそ、うそ。こんなに甘くておいしそうなお父さんが、こんなに今にもとろけそうなお父さんが、本物のチョコレートじゃないなんて! 「じゃあ、じゃあベルギー王室御用達だって言ってたのは……」 「ごめん。本当はお父さんカカオマスなんかじゃない、味のしないロウなんだ……しかも、右の二の腕と左肩は欠けてしまって、塩化ビニールゾル液で作り直してある」 「ホントだ、ここだけ色が違う!」 あたしはあまりのショックにふら付いた。そんな、そんな、そんな。お父さんが、あたしの大好きなお父さんがにせもののチョコレートだったなんて。 「じゃあベルギー人っていうのも嘘だったの? あたしハーフじゃなかったの!?」 「ああ。お父さんの本当の故郷は西田ファクトリー……千葉の、小さな工場さ。でも安心しろ! お母さんは本物の、本家本元の……」 言いかけたお父さんの目が、あたしの後ろでびたりと止まった。あたしも振り向く。そしてとにかくぎょっとした。お母さんが、あの恐いお母さんがぼろぼろと涙を流している。 「あなた、ごめんなさい!」 お母さんは茶色い体を思いきり傾けた。 「私も本当のチョコレートじゃないの……ただの巨大なようかんなの!!」 「そんな! どうりで栗が入ってると思ったら!」 あたしもすごくびっくりしたけど、お父さんはもっとぎょっとしたようだった。お母さんは涙を流しながら続ける。ようかんの甘いかおりがする。 「“マカダミアナッツの次はこれよ”なんて新しぶっちゃってごめんなさい。ファッションリーダーぶっちゃってごめんなさい!」 「じゃあ、君もハワイ出身っていうのは嘘で……」 「ええ。本当は浅草生まれなの……」 そんな。じゃあ、あたしは千葉と浅草のハーフだったわけ!? でもそんな驚きよりも、もっと重要なことがあった。お父さんが本当のチョコレートじゃないなんて、そんな、そんな、それじゃあ! 「どうしよう! あたし、山木に手作りチョコあげちゃった! お父さんの脇腹で作ったやつ!!」 「ええっ!?」 お父さんとお母さんは同時にあたしの顔を見た。二人の茶色いお菓子の顔が途端に歪む。 「だ、だって絶対においしいと思ったんだもん! それに湯せんにかけたら溶けたし!!」 「ロウだからそりゃあ溶けるさ! ああ、本当だいつの間にか脇腹がない!」 どうりでやけに硬いと思った。どうりでぐんと熱くしないと溶けないと思ったよ! 山木の顔が走馬灯みたいに次々と流れていくような気がした。いつも教室で騒いでばかりいる山木。『これ、うちのお父さんで作ったチョコなんだ』って渡したら、お前のとうちゃんチョコ怪人〜なんて自分で自分を冷やかしたバカ山木。 「さやか、早く山木君に電話するんだ!」 「う、うん!」 でもあたしが走り出すより早く、お母さんが電話台にすっ飛ぶ。鬼のような形相で連絡網を探し出し、受話器をとったちょうどその時。 チャイムがなった。続いてかりかりとドアを引っ掻く音と、聞きなれた山木の鳴き声。 「山木!」 あたしはさっきのお母さんといい勝負ができるぐらい速攻でドアに飛びつく。鍵とチェーンを素早く外すと、千切れそうなほどしっぽを振るバカ山木が現れた。その後ろには、山木の体の三倍はあるでっぷり太ったブルドッグ。 「いやあ、うちの拓郎にこんな大層なものを頂いて、どうもすみません〜」 太った山木のお父さんは、あたしに向かってうやうやしく頭を下げた。 バカ山木はうかれちゃって、うちに帰って家族中にチョコレートを自慢なんかしちゃったらしい。でもそれがうちのお父さんを溶かして作ったものだと知れると、山木は血の雨が降るかのごとくにこっぴどく叱られた。なんてことするんだ、体の一部がなくなったら原田さんが困るじゃないか。 山木は全然悪くないのに、大人しく怒られるがままだったんだって。やっぱり山木はバカ犬だ。まあ、そういうところがちょっといいんだけどね。 大人たちは部屋の中でなんだか話を始めてしまった。なので、あたしと山木はすぐ近くの公園でくつろいでいる。命拾いをした山木は砂場をひたすら掘っている。首元には家族に噛まれた歯形が三つ。あたしはそれをぼんやり見つつ、ブランコを揺らしていた。 何気なく自分の体を見る。お母さんとおんなじように茶色くて、お父さんとおんなじぐらい甘い香りのする体。あたしは浅草の栗ようかんと、千葉のロウが混じっているはずの腕をぺろりと舐めた。間違いのないチョコレートの味。……あれ、どうしてチョコなんだろう。 薄く塗ったコーティングチョコの下から、ピンクのプラスチックが出てきた。細く盛り上がった文字で 『あたり/もう一本!』 と書いてある。 あたしはもう何がなんだかわからなくなったので、とりあえず見なかったことにした。 人生は不思議でいっぱいだ。 へいじつや / 読みきり短編全リスト |