夏の日差しが人気のない校内を照らしている。冬場は冷えきるコンクリートも今ばかりは熱気と日に炙られて、見通しのいい東通路をまんべんなく熱していた。 うどんをたべてしまったばかりに体は無駄に暖かく燃えている。私は手仕草で顔に風を送りつつ、誰もいない静かな通路をゆっくりと歩いて行った。 夏休みは日本中の子どもたちには魅力的に思えるものだが、大学受験がすぐそこまでやってきている高校三年生にとっては焦りと不安の象徴だ。今から私が向かうのは、それを更に煽るような三者面談。この行事のために本日は半日授業でほぼ全員が帰された。クラス内で残っているのは、午後一番で面談がある私ぐらいのものだろう……と考えながらたどりついた教室のドアを開けると、予想に反して見慣れた顔が振り向いた。 「お、ずっちん」 「…………」 がらんとした教室に並ぶ数十セットの椅子と机。そのちょうどど真ん中にぽつんと腰かけていたのは放送部の元部長、嵯峨野たかしその人だった。 「なんだよその嫌そうな顔は」 「や、別に。ていうかなんで残ってんの」 私の面談開始時刻は午後一時十五分で、一番最初のはずだった。だからこそ家には帰らず、食堂で昼ごはんを食べて時間を潰していたのだが。 嵯峨野は彼にしては珍しく無防備な顔をして、不思議そうにこちらを見上げた。 「なんでって、俺、面談一時から。あー、解った変更プリント見てないんだろ。俺が先にやってもらうことになったから、十五分ずつずれたんだよ」 「え、じゃあ私一時半から? うっわあ待ち時間伸びるじゃん」 「お気の毒さまー」 状況を理解した途端、嵯峨野の顔はいつも通りのにやにやとしたものに戻る。どんな時でも無駄に自信にあふれたやつだ。顔はいいけど背はとことん低いくせに、と意味もなく反発的なことを思う。身長152センチしかない彼は、今日は机や窓枠に腰かけていないので余計に小さな人に見えた。 私は丁度二つ後ろの自分の席に座って呟く。 「だるいなあ」 教室はクーラーがついているので涼しいが、空気はいつもこもっている。今はいないクラスメイトの気配が全て混じり合って、ささやかな残り香として漂っているような気がした。香水に制汗スプレー、食べまくったお菓子のにおい。そして濃厚なソースの香りと……ソース? 「嵯峨野くん」 「なんじゃいな」 その返事はどうかと思ったけどツッコまないことにする。私は疑惑を口にした。 「ものッすごくタコ焼きの匂いがするのは私の気のせいでしょうか」 「よくぞ嗅ぎ破ったなずっちん。よしそれではクイズを出そう、この香ばしい匂いの元は一体なんだレッツ三択」 嵯峨野はいきなり目を輝かせて大きな仕草で振り返った。足を組み、肘をどっかり後ろの席の上に乗せて、身を乗り出すような格好でにやにや笑いながら言う。 「一番、タコ焼きスナックカッコ駄菓子。二番、タコ焼きせんべいカッコ駄菓子。三番、本物のタコ焼きカッコ冷凍食品。さあどれだ」 「……二番?」 控えめな回答に、嵯峨野はいやに笑みを濃くした。そしてフッとわざとらしい芝居じみた仕草をすると、机の中から弁当箱を取り出して開いて見せる。黒色の大きなプラスチックの箱の中には、ところどころに散らばったソースと青ノリの痕跡。嵯峨野はおどけた調子で言った。 「残念ながら本物でしたー」 ごめん心底どうでもいい。 「でも実は他のもあったり」 「うわそっちもあった!」 日焼けした嵯峨野の手が取り出したのは、いやに懐かしい風情の駄菓子、タコ焼きスナックとタコ焼きせんべい。思わず喋った私の素直な反応を楽しむように、嵯峨野はまたにやりと笑った。 「ま、かすってるから贈呈しよう」 なんであんたそんなに楽しそうなんですか。 私は投げ渡されたタコ焼きスナックをじっと見つめた。懐かしいキャラクターが相変わらず古臭い顔で笑っている。 「かすってるっていうか、そもそもクイズになってないんじゃ……もらっとくけど。ありがと」 「よしよし、お礼の言える子に育って父さん嬉しいぞ」 「こんなんいいから養育費下さい父さん。ていうか何ボケてんのこんな日に」 「こんな日だからこそウォーミングアップが大事なんだよ。俺の志望調査票見るか? 見るか?」 異様に見て欲しそうですね父さん。 嵯峨野は私が返事をする前に一枚の紙を突き出した。クラス全員が書かされた進路志望の調査票だ。どの学校にいきたいか、もしくはどこに就職したいか第一希望から第三希望まで書く欄のある小さなプリント。嵯峨野たかしと彼の名前が書かれたそれには、大学の名前のかわりに一、ニ、三、とすべて芸能プロダクションが運営する学校の名前が記されていた。 「……え」 ようするに、所属する芸人を育て上げる目的で設立された、お笑い芸人養成学校みたいなものだ。先生に説明するためか、長々と補足名称が記されているので一目で解った。私はぽかんとした間抜けな顔のままに言う。 「なに、本気で芸人になるの?」 どうせただのお遊び感覚でお笑いをしているのだと思っていたのに。 嵯峨野はわざとらしいぐらいキリリと顔を引き締めて、調査票を振ってみせた。 「マジだとも。ちゃんとパンフレットももらったし、見学にも行く予定なんだよこれが。真面目だよなあ」 「真面目だけど……それ、親とかはなんて言ってんの? 許可あり?」 「一応な。一ヶ月ぐらい延々口説いてなんとかここまでこぎつけた」 それは相当反対されていたということだろう。プロへの道は厳しいし、下積み時代はかなりの貧乏生活が待っているに違いない。それをずっと繰り返しても将来的に芸人としてやっていける保証はないのだ。売れるのはごく一握りの人なのだから。そもそもそれなりに売れたとしても、体を張った大変な仕事をすることになる。 「そんなにお笑い好きだったんだ」 「好きってのとは違うぜずっちん」 嵯峨野は足を組み直し、おおげさに腕を組む。じゃあなんだと言わんばかりに向けた私の視線を受けて、嵯峨野は思いもよらず笑いの消えた声で答えた。 「なんつーか、野望?」 「ごめん意味わかんない」 「ギレンの?」 「ボケたら余計わかんない」 むしろこっちが疑問符をつけたいよ。嵯峨野はまた真面目というか、冗談や芝居の薄れたいやに素直な調子で喋る。 「まあ野望だな。お笑いを打ち負かしてやるー、みたいな」 「って、打ち負かしてどうすんの。目指す道でしょ?」 「や、だから」 そこでいったん言葉を切ると、表情が随分と素のものへと戻った。 足は組んだままだけど、肘も張ったままだけど、それでも纏う雰囲気が一回り小さくなる。今までどこかわざとらしさと芝居臭さが抜けなかった嵯峨野たかしが、ただの男子高校生らしくなった。ごく平凡な、同い年の男の子に見える。 「……こう、この手に掴んでみせるっていうか。とにかく俺がお笑いのトップに立ってやる、牛耳ってやる支配してやる! という攻撃的な、ようするに野望みたいなもんだよ。好きとは違う。そんな甘いもんじゃない」 自問のように少しずつひねり出していく言葉。うまく台詞にならないような、もどかしさを含んだ声。それはまるで台本のないアドリブを聞いているような。 「どしたの。そんなに熱血だったっけ?」 私は目の前に広がる違和感の塊をほとんど凝視しながら言った。 「熱血バカみたいに言うなよ。そういうのとは違うんだよ」 苛立たしげな、ちょっと拗ねてしまったような言い方もいつもと違う。生々しい、というか若さが滲み出てるというか。 そういえば、テレビを見ていても、時々同じものを感じることがあったような。例えば仕込まれた隠しカメラに気がつかないまま会話するお笑い芸人の姿とか。 そこまで考えて、このちょっとした不思議が何かに思い当たった。 楽屋だ。これは、楽屋の中の芸人の姿に似ているんだ。 ステージの上では自ら描いた台本にそった顔をする、動きをする。だが一度楽屋にひっこめば日常の姿に戻り、完全な素の状態になる。今の嵯峨野は、その素の状態なのだと思った。 「ずっちんはいいよなー、そっち側の人間で」 「そっちって?」 嵯峨野は急に気だるそうな態度で喋る。 「観客。視聴者。リスナー。笑わされる方の人間」 いくらか疲れを帯びた目がつまらなさそうにこちらを見た。 「こっちは芸人。笑わせる方の人間。常にどうやって客を笑わせるか考えて考えて、舞台の上やテレビの中で実行して失敗して、それでもまだ考えて考えて考え続ける方の生き物」 「でも、自分でそれになりたいから選んだんでしょ」 「これしか選択肢がなかったんだよ。そっち側の人間でいられるならさー、友達でもいいわけで。普通にバチバチ火花散らさなくてもいいわけだし?」 一体何を言っているのか、省略された目的語を探りに探ってようやく一つの名前に行き着く。 「……もしかして、なかちゃんのこと言ってる?」 「他に誰がいるよ」 嵯峨野はさも当たり前というように答えると、ゆっくりと上を仰ぐ。高くはない天井に遠く呼びかけるように、投げやりな調子で言った。 「竹内はさあ、天然だから。全部超えちゃってるよなぁ。中野の求める“完全な天然”は俺らの側でも、ずっちん側でもないわけだよ。素人だけど面白い、面白いけど玄人になってはいけない。芸人として自分は天然で面白いんだー、って売り出した瞬間から完全な天然ではなくなるんだとさ。かと言ってただの素人の範疇を超えてるし……ってことで、どちらでもあり、かつどちらでもない存在が竹内だ」 「私みたいな素人は友達で、竹内みたいな天然が理想の人」 じゃあ嵯峨野のような芸人の側の人は、一体どういう関係なのだろう。 無言の疑問を埋めるように、嵯峨野は斜め上を見上げた姿勢のままで続けた。 「俺は芸人側に行く。そっちにいる限り中野とは一生戦わなくちゃいけない。あいつの目はめちゃくちゃ厳しいからな。一時期だけ面白くても、下降した途端に批判される。ちょっとでも調子に乗ったらその鼻をポキリと折られる。一生努力しなくちゃいけない」 そうしてポキリと折られたから、悔しくてなかちゃんに付きまとっていたのだろうか。 そういえば学期初めの竹内の騒動以降、嵯峨野は今まで拒否していた身長ネタを受け入れるようになったと聞いた。自分の抱えるコンプレックスをお笑いのネタにする。それが出来るようになったなんて、少しだけは成長した。そうなかちゃんが言っていたのを思い出した。 「……面白くなきゃ認められない。すべったらとことん文句を言われ続ける。そういう立場が芸人側だ」 自分自身に言い聞かせるような言葉。別の場所を見つめる横顔が、いやに男らしく見えた。 嵯峨野はふと力を抜いて、いくぶん気さくな調子に戻る。まるで愚痴を呟くように、つまらなさそうに喋りはじめた。 「でもなあ、それでもまだマシなんだよな。素人にも芸人にもなりきれないハンパものなんて、あいつには速攻で忘れ去られるだろ? 俺、ただの『クラスに一人はいた面白い人』で終わりたくないんだよ。そういう思い出を背負って、いつかは普通に働いて、昔は芸人になりたかったんだー、なんて冗談っぽく話すだけで終わるような、そういう奴にはなりたくない」 「だから、芸人になりたい、と」 「なりたいじゃない。なるんだよ」 意地を張るような表情。その顔つきが少しだけ幼く見えて、私は無意識に小さく笑った。 「なんで笑うかなぁ」 「え、いや、なんとなく。えらいなーって」 「なんだよその言い方。蚊帳の外丸出し」 「外だもん。私ただの素人だし」 口にするとなんだかそれが妙にしっくりとはまる気がしてにやりと笑う。 静かで人気のない教室、そこでぽつんと芸人が素の状態を見せている。 ここはまるで楽屋のようだ。 そして、私はそこに迷い込んだただの一素人なのだ。 「よし。じゃあその素人さんに特別にネタを披露しよう。今からやろうとしてるやつ」 嵯峨野は迷い込んだ素人にちょっとサービスするかのように、芝居じみた喋りに戻る。 「人生をかけた三者面談でなにするつもりよ」 「何言ってんだよ、芸人を目指すからにはここぞとばかりにボケないと。ほら、姿勢を正す。お前先生な。俺が、志望調査の紙を見せました。どんな芸人になるつもりか聞いてくれ」 「はいはい」 私は面接をする人のようにきっちりと座りなおすと、担任の先生の口調を少し真似て言った。 「お前ー、芸人っても色々あるがー、どんな方面を目指すんだ?」 「はい、芸名はタコ焼きマントマンにする予定です。理由はタコ焼きが好きだから」 嵯峨野は爽やかな笑顔でハキハキと答える。あまりにもあんまりなネタだったので、率直な感想を口にした。 「……絶対スベるよ断言できる」 「じゃあ炭鉱ヤンキー・マントゥォーミャーンで」 「理由は」 「タコ焼きが好きだから」 「かけ離れてるし」 どうなんだろうなあこの人は。芸人として。 真剣に唸るほどに考え込みそうになるが、そこまでたどり着く前に、嵯峨野の視線が入り口の方へと逸れた。私もつられてドアを見ると、ガラス越しに見える廊下に見知らぬおばさんが立っている。どうやら彼の母親らしく、嵯峨野はすぐに席を立つと志望調査表を取った。 「じゃ、行ってくるわ」 一人の小さな芸人が楽屋を出て舞台へ向かう。 嵯峨野は座ったままの私をにやりと見下ろすと、いつものような、自信に満ちた舞台用の顔で言った。 「ずっちん。サイン貰うなら今のうちだぞ?」 名前はタコ焼きマントマンなんですか。 そうツッコミたいのをぐっとこらえ、私はただの一素人として、 「はいはい。いってらっしゃい」 と呆れたように手を振った。嵯峨野は小さな笑みをもらすと、片手を挙げて教室を去っていく。 嵯峨野さん、出番です。私はまるでADのような気持ちになって、心の中で呟いた。 廊下に出た嵯峨野とそのお母さんは、何事かを喋りながら進路指導室へと向かう。去っていくその小さな背を眺めていると、嵯峨野がここで喋った話が次々と蘇っては私の内の何かを刺激していった。 私は、なんだかこのままただの凡人で終わって欲しくないような気がして、 嵯峨野が立派なお笑い芸人になれますように、と 柄にもなく、結構本気で祈ってしまった。 芸人の去った楽屋はやけにしんと静まり返る。 なんとなく、これからも思い出したら祈ってあげようと思った。卒業してお互いがただの他人になってしまったとしても、嵯峨野たかしが私のことを忘れていても、何年かに一回は、こういう人がいたことを思い出して、彼の無事と成功を祈ることにしようと思った。 人生にひとりぐらい、そんな人がいても悪くない。 |