「ミドリはなんで敬語を使うんだ?」 アーレルでの生活にもようやく慣れを感じたころ、唐突にジーナが尋ねた。ペシフィロは書きかけの文字練習帳から顔をあげて首をかしげる。ジーナは幼い顔に不服を浮かべてゆっくりと言い直した。 「ミドリは、なんで、敬語、使うのか」 「ああ。ええと……少々、お待ちください」 発言を聞き取れても答えられなければ意味がない。ペシフィロは母国語とアーレルの言葉を繋ぐ辞書を開き、目当ての単語を探し始めた。こちらの言葉も日々勉強してはいるが、まだ迷いもなく紡げるほど達者になったわけではない。焦りからもたつく彼の手つきを見てジーナはさらに眉をゆがめた。 『遅い!』 いきなり故郷の言葉で怒られて、ペシフィロはびくりと辞書を取り落とす。驚きの表情で対面に座るジーナを見つめた。彼女は稚拙ながらも意味の通った喋りを続ける。 『すごく遅い。早くしろっ』 『ご、ごめん』 彼女の言葉につられるように、使い慣れた単語が飛び出た。ジーナは次はアーレルの言葉で言う。 「ハイデル語で謝ると?」 「申し訳ありません」 「なんでそうなるんだっ」 おずおずと口にした一言に、ジーナは頬を膨らませた。 「ミドリは変だ、言葉づかいが丁寧すぎる! そんな話し方してる奴なんていないぞっ」 「そう……でございますか?」 「ございますかとか言わない! 変だっ。お前は変なんだっ」 今にも金切り声を上げそうな顔をして、固めた拳で空を殴る。ペシフィロは突然の怒りぶりについて行けず、困り果てて眉を下げた。 「何かご不満な出来事でもございましたか」 ジーナはまた何か言いたそうな顔をしたが、ため息をついて答える。 「……みんなが変だって言うんだ。お前のこと」 彼女はペシフィロが理解しやすいように、ゆっくりと説明した。 「緑色だし、男なのに髪長いし、自分のことわたくしって言うし。よく転ぶし、街でいつもおろおろしてるし。だからみんなが笑うんだ。変なやつだって。イディアも、ミッカも、ターシャもエダもお兄ちゃんもハクトルもだ。……お前はいいやつなのに」 最後の呟きだけは恥ずかしげに声を落とす。ペシフィロは気まずそうに顔を背けた彼女に向かって語りかけた。 「敬語を使うのはですね、ハイデル語に慣れていないから、間違いがないようになのです」 辞書を閉じ、思い出せる限りの言葉を総動員して説明する。 「わたくしは、まだ言葉がうまいではないですから。これから、えらい人たちに会うこともあるそうです。ですから、その時、何か失礼なことを言わないように、もっともはじめは、敬語より学習しているのです」 言葉を外してもせめて意味は伝わるように、身ぶりを加えてさらに続けた。 「それに、ビジスが教えるしてくれる言葉は、すごく、汚い。だから、まずは、本に書いているそのままのものを、学習しているのです。わかりましたか? ちゃんと、喋ることができていますか?」 ジーナは無言で小さくうなずく。その後で、汗をかくほど必死になったペシフィロを見て口元を笑みにゆるめた。止まらなくなったようで、可笑しそうに笑い始める。 「やっぱり変だっ。解るけど、おかしいっ!」 甲高い音を交える楽しそうな子どもの笑い。ペシフィロもそれにつられて微笑んだ。 「言葉、きちんと理解することができるようになったら、ちゃんとさせて頂きます」 「そうだっ。早くしないと私の方が先にキシズ語を覚えるぞ!」 確かに、覚えの早い彼女の方が先を行くおそれはある。既にためらいもなく彼の故郷の言葉を使うことができるのだから。ペシフィロは彼女の順応の速さを羨ましく思いつつ、改めて宣言した。 「急がせていただきます。それまでは、敬語ですがよろしくお願い致します」 「しかたがないなあ」 そう言ってわざとらしく腕を組んだ彼女の顔が明るく輝く。 「いいこと思いついた! 相手が子どもなのに敬語を使ってるから変なんだ。じゃあ、私がお前より偉くなればいい。よし、今日からお前は私の子分ということにしよう!」 「こっ」 絶句するペシフィロにも構わずに、ジーナは嬉しそうに続けた。 「そうすれば変じゃないぞ。親分に敬語を使うのは当たり前のことだからなっ。わかったか、今日からお前は私の子分!」 子分って子分っていくらなんでもそれはそれは。ペシフィロはさまざまな言葉を口の中いっぱいにしてジーナを見るが、彼女は無邪気に笑うばかり。九つも年下のこの友だちは、思いついてしまったら何が何でも押し通そうとしてしまう。今さら何を言ったところで撤回されるわけがない。 ペシフィロは疲労のままに頭をがくりと垂れて答えた。 「……はい。わかりましたでございます」 「よし、じゃあみんなに教えに行くぞっ。まずはお兄ちゃんたちからだ!」 「ええっ! ジ、ジーナっ」 「ほら、早く!」 慌てるペシフィロの手を引いて、ジーナははしゃいで走り出す。彼女は外に向かいながら、聞こえるか聞こえないかほどの小声でぼそりと呟くように言った。 「みんなに教えるんだ。すごくやさしい子分がいるんだって」 嬉しそうなそれを聞いて、一瞬、抵抗の力が抜けた。その隙をつかれるように、ペシフィロは彼女に引き連れられてしまう。ジーナは外に飛び出すと元気よく声を上げた。 「行くぞー! 目標は、今日中に十人だっ!」 「そんなに!?」 驚いても強引な行動力が今さらやわらぐはずもない。ペシフィロは小さな親分に手を引かれて彼女の家の方へと向かった。 その後、ジーナの知るあらゆる者に「子分」として紹介されたペシフィロが、ビジスに爆笑されながら言語の習得に励んだのは言うまでもない。 |