過去編目次


 やわらかな熱を求めて指先を忍び入れると、切りかけの爪に噛み付かれた。
「一瞬でも離れられないのか、お前は」
 粗相をした手の甲に、うっすらと赤い痕が残る。ジーナは爪切りをこちらに向けて威嚇した。音もなく動く銀の口に、サフィギシルは笑みをもらす。
「両手が塞がってたから、ちょうどいいと思ったのに」
「ああもう変態。こら、直せ」
「いやだ」
 ずらしてしまった彼女の服を、ゆっくりと乱していく。今度は肘が飛んできた。受け止めて、また笑う。ジーナは文句を言う気にもなれないらしく、部屋の隅まで避難して、そこで爪を切り始めた。焦るように残りの指を整える。手早い作業が終わったところで、呆れたように両手を伸ばした。
「ほら」
 サフィギシルは飛ぶようにして近寄ると、差し出された手にくちづける。急いで切られた右手の爪は見目悪く尖っていた。ざらついたそれを宥めるように舌で撫でると、指は気味悪そうにひきつる。眉をしかめる彼女を見て知らずと笑みがこぼれ落ちた。
「気持ち悪い?」
「気持ち悪い」
 低く返る回答に悦びを覚えながら、離れようとする彼女の身体を抱き寄せる。逃げられないよう手首を掴んで膝に頭をすり寄せた。身をこわばらせていたジーナは諦めたように脱力し、ひやりとした手で耳に触れる。無法者を認めるように、彼女の陣地に迎えるように、慣れた仕草で彼の白い髪を梳いた。
「いいなあ。ここが一番落ちつく……」
「人の膝をなんだと思ってるんだか」
 吐き捨てられるが、指先はやさしい仕草をやめなかった。サフィギシルは目を閉じて、夢見ごこちで口を開く。
「優しくしてー。甘えさせてー」
「ああでかい赤ん坊だ。重い。どけ」
「ひどいよ母さん」
 床の上に転がされてわざと口を尖らせる。ジーナもまたわざとらしく大仰に膝を払った。
「誰が母親だ。この母性信仰者が」
「いいじゃないか、この中を知ってることに変わりはないんだしー」
 裾から手を忍び込ませて薄い肌に直接触れる。奥へ奥へと侵入を試みたところで後頭部を叩かれた。怖い顔で睨まれる。
「何度目だ? ああ?」
「今日は元気だから三発目も頑張れるかも」
「殺す気か」
 本気で嫌がる彼女を見上げて愛想笑いを浮かべつつ、サフィギシルは空手を振った。
「そのぐらい疲れてたら抵抗なく子作りさせてくれるかなって。ねえ大切にするから産んで」
「死ね。内海に沈んでこい」
「死ぬ前に忘れ形見を君の中に。ああそうだ、じゃあ僕は生まれ変わってその子の中に入り込むよ。こんな体は海に捨てて、もう一度新しい人生を送り直すんだ。その時は優しくしてねお母さん」
 笑顔のままで夢を語ると彼女は怪訝に眉を寄せた。嫌悪を浮かべるわけでもない、不可解そうな疑問の表情。
「どうしたの?」
「言ってることがさっぱり。生まれ変わりって何」
「知らないの?」
 驚いて身を起こし、まくし立てるように説明する。一度死んだ人間が新たな生を受けること。そうして果てしなく続いていく神の生み出す輪について。常識だと思っていたが、説明が終わっても、彼女の顔に納得が浮かぶことはなかった。
「そんな話聞いたこともない。死んだあと、魂は風の中に消えるだろう? すぐに細かく散らばってしまうんだから、そのまま丸ごと誰かの中に入るなんて不可能だ。そもそも、そういう実験をして失敗したやつがいただろう。昔どこかの国で王様を生き長らえさせようと……」
「変だなあ、そういえばどこで聞いたか覚えてない」
 長くなりそうな歴史の話を独り言で打ち止めた。口にして、ふと気づく。
「もしかしたら、子どものころに聞かされてたのかもしれない。どこだかは知らないけど、きっと僕が生まれた土地ではそういう伝承があったんだよ。それが記憶の奥底にかろうじて残ってたんだ」
「知らないって……生まれはビレイダじゃなかったか?」
「ヴィレイダ。ビじゃなくてヴィだよ。たしかに育ったのはそこだけど、生まれたのはどこなのか解ってないんだ。七歳ぐらいまでの記憶がないから」
 ジーナはあからさまな疑いの目で彼を見る。
「七歳? いくらなんでもそれはないだろう」
「あるんだよ、それが。カルノ・トゥラ……孤児施設なんだけど、僕はそこに連れてこられる前の記憶がないんだ。院長は家の前に捨てられてたって言ってた。だから僕を拾って育てることにしたんだって。名前をつけたのも院長、歳と誕生日を決めたのも院長。何しろ何も覚えてなくて、言葉もろくに喋れない状態だから苦労したってよく聞かされた」
 意外そうな彼女の顔を何故だか正視しがたくて、サフィギシルは視線を窓へと飛ばす。かげりゆく夕刻の空を黒い鳥が横切った。
「だから、歳も本当かどうかわからないんだよね。外見からなんとなく推測しただけっていうし。でも子どもの見た目なんて個人差があるじゃないか。人種が違えばもっと変わるし。顔立ちからなんとなくヴィレイダ人って決められたけど、本当は別の国の人かもしれない。こんな色じゃ国は特定できないからね」
 サフィギシルは後天的な“魔力無し”の証である色のない髪に触れた。彼女の反応を見たくなくて、窓から目を離さない。迫り来る夜に急かされているのか、太陽は見る間に顔を隠していく。建物が生み出す影は濃く深く広がりはじめ、完全に視界が暗く落ちたところで街灯が光を放った。魔術製の偽の明かり。サフィギシルはまばゆいそれから逃れるように、また視線を部屋へと戻す。
「……結局のところ僕は自分のことなんて何も知らないんだ。もういい大人になるのにね」
「だからいつまでも子どもみたいなんだ」
「そう。記憶がないぶん母親を求めるんだよ。だからもっと優しくしてね」
「お断りだ。可哀相なんて思ってやらないぞ。最近ちょっと元気が良すぎだ」
 ジーナは逢瀬に疲れた体をぐったりと壁に預けている。サフィギシルはまだ生気の残る顔に、人懐こい笑みを浮かべた。
「今日は新月だから、じっとしていられないんだよ」
「新月? ああ、そういえばペシフも言ってたな。新月の晩は土地の魔力が薄れるから体が楽になるとかいう……」
「それは変色者の場合だろ。“魔力無し”はそれとは事情が違うんだ」
 一方的な反目が、声を不機嫌に曇らせる。サフィギシルはペシフィロとの違いを強調するため力を入れて説明した。
「太陽光や月光は自然の魔力を増幅させる。土や木や石や風だけじゃなく、人間にしても同じだ。魔力を持つ人間は光を浴びて最大限まで力を伸ばす。ペシフさんは魔力が多すぎて具合が悪くなるんだろ。僕の場合はそんな贅沢な悩みじゃないんだ。何しろ最初からひとかけらもないどころか、体自体が魔力を拒否する。土地の力が強ければ強いほど、僕の体は拒絶反応で気分が悪くなる」
 サフィギシルは自分の腕を見つめた。弾力のない肌は青白く痩せて今にも皺があらわれそうだ。これでもまだ今日は調子がいいほうだった。魔力無しの体は弱い。怪我をすれば血がなかなか止まらない。体が魔力を拒絶するため魔術治療も受けられない。
「だから光のない新月夜には楽に動ける。他の、普通の人たちは逆に調子が悪くなるみたいだけど」
「まったくだ。ここ最近疲れるのが早くてどうにもならない」
「だから嫌がるのも面倒になって簡単にさせてくれる。元気な僕は何度でも頑張れる。上手くできてるね」
 嫌そうに顔を歪めるジーナに向かって彼は悪い笑みを浮かべた。ジーナはため息をつく。
「……そういう顔をしてる時は、少しは好きになれそうなのに」
「えっ、そう? どこらへんが?」
「ビジスに似てるところが」
 純粋に浮かびあがった喜びは撃ち落されたように沈んだ。サフィギシルは落胆のままに言う。
「全然似てないよ。先生を追っかけるのもいい加減にしてくれる」
「最初からそういう女と知って抱いてるくせに。そりゃ顔立ちは似てないが、表情が……時々、驚くほど似てるんだ。一瞬のことだから自分では気づかないだろうけど。ずっとそういう顔をしてれば惚れてたかもしれないのに」
「どうせ僕は先生には敵いませんよ。ビジス賛美は聞き飽きたよ」
 彼女の口から何度ビジスを讃える言葉を聞いただろう。うっとりと語られるそれらを聞くたびに、サフィギシルの心の中には抑えきれないほどの嫉妬が浮かぶ。どうしても敵わない悔しさと無力感、そして多少の誇らしさも。普段どんなに面倒ごとを押し付けられても、からかわれて遊ばれていても、ビジスは良い師匠だった。似ていると言われたことに少なからず喜びを覚えるほどに。
「……まあ、先生には感謝してるけどね」
 穏やかに呟くと、ジーナは目を丸くした。
「どうした。珍しく素直だな」
「たまにはそういう気分にもなるんだよ。特に今日はね」
 喋りながら思い出して口元が自然とゆるむ。サフィギシルは帰り支度を始めながら、眉を寄せる彼女に向かって微笑みかけた。
「ずっと欲しかったものが手に入るんだ。先生のおかげでね」
 どういうことだと投げられる質問を笑顔でかわし、サフィギシルは彼女の額にくちづけて逃げるように部屋を出る。急いで閉じたドア越しに叱る彼女の声を聞いて、くすくすと笑みをもらした。
(言うわけにはいかないよ)
 たとえ彼女であったとしても、今夜何が起こるかは。
 サフィギシルは体に残る彼女の熱を愛しく思い出しながら、階段を下りていく。一階では顔なじみとなった女将が夕食の支度をしていた。挨拶をすると同席を勧められたがにこやかに断った。この下宿屋はいつ来ても暖かな家庭の匂いがする。羨ましくないといえば嘘になるが、定期的に通っていても自分はあくまでよそ者だ。それを忘れることはできない。
「あ」
 玄関の扉を開けると、ペシフィロがそこにいた。ちょうど中に入ろうとしたところだったらしく、彼はノブを掴み損ねた手を恥ずかしげに引っ込める。いくつかの短い会話をして、そのまま別れた。サフィギシルは冷え込む外に足を踏み出す。ペシフィロは行き違いに暖かい家の中へと消える。閉ざされたドアの向こうからは親しい会話がもれ聞こえた。
 完全に闇の降りた空にかすかな星の粒が見える。月は光を閉ざされてただ影をみせるのみ。こんな夜は寂しさなどすっかり忘れてしまいそうだ。束縛から解き放たれたように体が軽い。背後からする家庭の気配も打ち消すほどに心が沸き立つ。
 今日は夢が叶う日だ。いつからか渇望するようになった、無くし物を手に入れる日だ。
 失われた過去の記憶。何者かによって封じられたそれをようやく目にすることができる。
 ビジスの弟子になることが決まったとき、サフィギシルは不安がるよりもまず喜んだ。彼ほどの人物ならば封術にも詳しいはずだ。知り合いの術者に調べてもらって、自分の記憶が作為的に封じられていることは知っていた。だが封印は掛けた術者当人以外が解こうとすると大きな負担が発生する。脳に関わる部分だから、失敗すれば記憶も知能も破壊されるおそれがあった。ましてや受けるのは術を拒否する魔力無しの体なのだ、奇跡でも起こらない限り成功する見込みはない。
 だが、ビジス・ガートンなら。サフィギシルはそんな期待を胸に抱えてこの国に身を移したのだ。ビジスはすぐには願いを受け入れてくれなかった。彼は何を考えているのか解らない顔をして、繰り返される嘆願をかわしていく。それでもサフィギシルは諦めなかった。食事の間、作業の合間。考えられる全ての手法でビジスに頭を下げ続けた。それがようやく受け入れてもらえたのだ。
(一年。もう、一年だ)
 この異国に来てそれだけの時が経っていた。サフィギシルは弾むような足取りで人気のない道を行く。
 今夜ようやく願いが叶う。新月夜。魔力無しが唯一認められる夜。
 日中の名残があるのか、街の中はまだむせ返るほどの魔力に溢れかえっている。道を流れる息苦しいほどのもや。それに押し出されるようにサフィギシルは足を速めた。熱気にも似たそれらを避けるようにして、ビジスの待つ家へと向かった。



 押しつぶされそうなほどの期待と不安、そして喜び。それらに気をとられていたために、察するのがいくらか遅れた。
「……先生? どうかしました?」
「いや。言うほどのことはない」
 ビジスはこちらを見ることもなく、確かな手つきで術薬を調合している。だが感じてしまった違和感はサフィギシルの内側を恐ろしげにざわめかせた。ビジスの様子がいつもと違う。今までに見たこともない顔をしている。サフィギシルは不安になって彼の顔をじっと見つめる。別人となったわけではない。深く掘り込まれた顔立ちはいつものように濃い影を潜ませている。年齢による皺はあるが、感情から刻まれたものは見えなかった。そこまで推測して違和感の理由を察する。
 ――表情がないのだ。不自然なまでに意思の見えない顔をしている。
「お前は」
 唐突な声にびくりとする。丸薬がすり鉢の中で耳障りな音を立てた。
「封じられた過去のことを想像したことはあるか」
「……はい、色々と。いいことも、悪いことも沢山想像しました」
 慎重に答えると、ビジスは静かな声で言った。
「全て忘れろ。それらは所詮虚構でしかない」
 冷ややかに聞こえる声色。胃の中に、ずしりと重くのしかかる。怯えるこちらを見やりもせずに、ビジスは器に薬を注ぎながら続ける。
「過去を知ったそのときからお前の本当の人生が始まる。逃げようのない現実が解き放たれる。……いいのか? 飲まなければ、まだ夢を見ていることができる」
 感情のない目がサフィギシルを覗き込む。深く、深く、内側にまで入り込みそうな視線。いつものビジスのものとは違う、作り物のような瞳。サフィギシルは震える手を拳に固めた。
「はい」
 ゆっくりと、自分に聞かせるように言う。
「ずっと探してきたんです。本当の名前も解らない、本当の歳も解らない……だからいつも不安だった。施設にいる時も、この国に来てからも、居場所のなさを感じていました。自分が何者かも、どこにいるべき存在なのかも解らないまま生きてきたんです」
 どこにいても忘れられない疎外感と孤立感。そのつらさにずっと苦しめられてきた。
「どんな記憶でもいい。……僕は、自分が何であるのかを知りたい。だから、平気です」
 ビジスの顔はぴくりとも動かなかった。まるでよくできた彫像のように見えて、サフィギシルは落ち着きなく視線を飛ばす。夜を迎えた部屋の中はあまりにも静かすぎた。お互いの心音すら届きそうだ。気まずい空気に迷いのないビジスの作業音が響く。こんなにも近くにいるのに、今の彼をひどく遠く感じるのは何故だろう。まるで別々の場所で過ごしているようだ。話しかけても届かないような気さえする。
 サフィギシルは腰かけたままぼんやりと薬の音に耳を澄ました。どうしてだろうか、この光景はいつまでも覚えているような気がした。記憶の中に焼きついて、何十年経ったとしてもはっきりと思い出せるような気がした。
 すぐ傍でかすかな音がして、サフィギシルは我に返る。薬入りの浅いグラスが目の前に置かれていた。暗い濁りを含んだ赤色。ひどく恐ろしい色彩に見えて息を呑む。
「一息に。迷いがあれば仕損じる」
「はい」
 奪い取るようにして息をつく間も置かずに呷る。強い酒のような味。咳き込みそうになるのを抑えて空のグラスで机を叩いた。睨むようにビジスを見る。自分でも、目が据わっているのが解った。
 いつもならば面白そうな笑みでも見せるところなのに、今日のビジスは目を合わせても表情一つ動かさない。ただ、作り物のような顔で静かにこちらを見つめるばかり。サフィギシルは寒気を感じてまたしても息を呑んだ。これは本当にビジスなのだろうか。自分は騙されていて、部屋の奥から本物の彼が出てきてからかうのではないだろうか。
 だがいつも通りの光景が繰り広げられることはなく、ビジスはサフィギシルの額に指をあてると口の中で呪文を紡いだ。脳に確かな力の干渉。むずがゆいそれに肩がぴくりと引きつった。ひと通りの儀式が終了したところで、サフィギシルは何気なく口を開く。
「先生」
 特に深い思惑もなく、思いついた疑問を言った。
「先生は、僕の過去のことを何か知ってるんですか?」
「さあ。好きなように思えばいい。今はまだそれが許される」
 かわされたことが気にかかるが追求する暇はなかった。ビジスは席を立って言う。
「何もせず、そのまま眠れ。明け方には昔の夢を見るだろう。それがお前の封じられた記憶の一部だ」
 彼の目に剣呑な光が宿る。ビジスはこちらを鋭く見据えた。
「夢を見れば夢は終わる。その後は、もう逃げることはできない」
 意気を呑まれてこわばる肩に触れられる。熱をもった重い手のひら。血の通うそれが離されると何故だか体の力が抜けた。
「わしももう休ませてもらうことにしよう。慣れないことをすると疲れる」
 いつも通りの彼の声に、知らずと小さく息をつく。さっきまでの違和感が嘘のように晴れていた。ビジスに変わりがないというそれだけで安心できる。サフィギシルは安堵からゆるむ顔でビジスを見上げた。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
 ビジスは当たり前のように答える。サフィギシルはさっきまでの重みも忘れて足取り軽く部屋を出た。ビジスが傍にいるのだから恐ろしいことなど何もない。そう、素直に感じられた。



 体が、動かない。視界が暗い。閉じた目が開かない。全身が痺れていて指一つ動かせない。頭が重い。手首にひりひりとした痛みを感じる。縛られているのだ。粗末な縄で。いつも薪を縛るのに使っていたあの縄で、縛られている。
 そこまで思い出したところでサフィギシルはハッとした。忘れていたことを思い出せる。そうだ、幼い頃住んでいたのは寒さの厳しい土地だった。薪割りは自分の仕事だったのだ。母に誉められるのが嬉しくて、少し割り終える度にわざわざこの縄で束ねて彼女に見せに行っていた。
 思い出した、思い出した、思い出した! サフィギシルは歓喜に声を上げたくなった。だが体は動かない。身をよじろうと励んでみても視界が揺らぐ気配はない。
 ――これは夢だ。彼は唐突に勘付いた。夢として、過去の景色を眺めているのだ。
 そう、こんなこともあったような気がする。いたずらをしたお仕置きに納屋に閉じ込められた時か? それとも……。
 思い出せるようになった記憶をたぐり寄せてある過去に行き当たる。頭を殴られたような気がした。崖の底へと突き落とされたようでもあった。あまりのことに感情が痺れていく。この記憶は。今、夢の中で繰り広げられていることは。
「やっと来てくれた」
 近くから母の声。甘いそれに混じるのは、むせ返るほどの血の臭い。
 気がついた瞬間に記憶の五感が蘇る。冷たい風の音がする。荒い二つの呼吸も聞こえる。冷えきった板張りの床、爪先に触れる椅子の足。テーブルの下に押し込められているのだ。縄で縛られ、声を封じる術をかけられ、その光景が見えるように顔を彼女の方に向けて転がされた。
(嫌だ)
 感情は全力で拒否しているのに、夢の中の幼い自分はゆっくりと目をあけた。
(だめだ、やめろ!)
 少しずつ光が視界を照らす。惨劇の幕が開く。
 床に広がる大量の血。母の手がそれを愛しそうに撫でている。もう片方は腹に刺さる包丁の柄に添えられていた。いつも食事を作るのに使っていたものだ。古いものだから切れ味が悪くなって取り替えたいと言っていた。
「やっと来てくれたのね、あなた」
 彼女はおのれの体に深く刃を差し込みながら、恍惚とした顔で言った。
 見上げる先には今現れたばかりの男が呆然と立ち尽くしている。使い古した旅装束は粉雪を乗せていた。母は彼をとろけそうな瞳で見つめ、さらに刃を深く刺す。
「やっと私を見てくれた。逢いたかったの。ずっとあなたを待っていたの」
「やめろ」
 呟くような男の声にサフィギシルは愕然とする。母が愛しく見つめる相手。血を踏んで立ち尽くす彼は、ビジスだった。今よりも若く、風に乱された髪は赤い。彼は信じられないものを見る目で死にゆく母を見下ろしていた。
 その視線が、ふと、こちらに向けられる。ビジスの目が恐ろしげに見開かれた。視線がきつくこちらに食い込む。目が、顔が、途端に怒りに燃え上がる。
「何故産んだ!!」
 絶叫のような怒声。ビジスは血を流す母の襟を掴んで叫ぶ。
「これがどういう意味か、お前は解っていたはずだろう!!」
「こうすればあなたは私を見てくれる」
 彼女は血を流す口をだらしなく緩めて言った。
「こうすれば、あなたは逢いに来てくれる……そう、本当に来てくれたのね。愛しい人。愛しい人。愛しい人……見て。あなたのために作ったの。待っていたわ。ずっとずっと待っていたわ」
 テーブルの上には精一杯の手料理が並んでいる。幼いサフィギシルも作るのを手伝わされた。今日は特別な日だから、と何日も前から準備をして、少ないお金を全て使ってしまうほどに沢山の食材を用意して。料理を見るビジスの目は痛ましげに歪んでいた。今のサフィギシルには解る。彼の好きな物ばかりを揃えていたのだ。
「逢えて良かった……もう、想い残すところは、」
 咳き込むように吐きだした血はビジスの顔に飛び散った。彼は拭いもしないまま憐れみの目で彼女を見つめる。もう限界が来たのだろうか、彼女は力なく腕を落とす。襟を掴むビジスの腕にぶら下げられてゆらゆらと頭を揺らした。ビジスは崩れ落ちるようにして彼女を床に横たわらせる。うなだれて膝をつくと、こぼれた落ちた粉雪が血溜まりに落ちて溶けた。
「楽にしてやる」
 力ない声を受けて、母の顔は幸福に照り輝く。死に近しい者の表情とは思えなかった。俯いたビジスの方が死にそうな顔をしていた。彼は腰の剣を取る。使い込まれた鉄の刃がランプの色を受けて光る。ビジスはテーブルクロスを引き取るとサフィギシルの顔に被せた。視界が、また闇に戻る。
 母の笑い声が聞こえる。奇怪な呼吸音を交える幸せそうな甘い音。肉を刺す音が響いた瞬間それは恍惚の声となり、彼女の気配は永遠にそこで途絶えた。

 幼い頃の自分は、目の前の出来事がうまく理解できなくて、感情すら痺れていて。
 テーブルクロスを取った時に床に落ちてしまった料理をもったいないと思っていた。
 少し味見をしただけてひどく怒られてしまったのに。駄目にしてしまうのならぼくに食べさせてくれればよかったのに、と、的外れなことを考えていた。
 最初からそういう術がかかっていたのかもしれない。母は料理を並べた後でサフィギシルの体を縛った。叫ばないよう、泣かないように術をかけて痺れさせ、包丁で自らの腹を刺す姿を見せつけた。

 顔に掛けられていた布が外される。返り血を浴びたビジスが虚ろな目でこちらを見ている。背後には、外套を被せられた母が横たわっていた。溢れる血が布を赤く汚していた。
 ビジスは血に濡れた剣を鞘に戻そうとするが、小刻みに震える刃先はどうしても中に入らない。そのうちに震えは激しくなり、彼は顔を怒りに歪めて剣をあらぬ方へと投げつけた。壁にぶつかり、床に落ちる音がした。
 直立した全身から燃え立つような怒りを感じる。底のない憎悪と嫌悪が彼の身を焦がしている。
 それは母に向けられたものだったのだろうか。それとも、別の何かによるものなのだろうか。
 ビジスは幼いサフィギシルを見つめる。忌々しげに濁る目は、何故こんなものが存在するのかと訴えていた。彼はサフィギシルに手を伸ばそうとして、床に散らばる料理に気づく。煮込んだ野菜に下味をつけて焼いた肉。ビジスは血まみれの手でそれらを掴んで口に運ぶ。体が拒絶したのだろうか、咳き込んで嘔吐した。だがそれでも無理やり口に詰め込んで、胃に収めた。今にも吐きそうな顔をして、サフィギシルの額に触れる。そして口早に呪文を唱え始めた。
 今の、夢を見ているサフィギシルにはそれが記憶を封じるものだと解る。彼が、こうして自分の過去を封じ込めていたのだと、ここで初めて理解した。

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 サフィギシルはわけも解らずわあわあと叫びながら手足を動かす。勢いのまま床に叩きつけられて、ようやくそこで目を覚ましていることに気づいた。荒い息は泣き声のようだった。しゃくり上げて初めて涙を流していると解る。耳に届くほどのぬるい水。彼はそれを拭いもせずに、もつれる足で部屋を出る。明け方の青い光が廊下の窓から差し込んでいた。鍵のない隣室に転がり込む。半分以上物置と化した広い部屋。その隅にあるベッドの上に、ビジスは腰かけていた。
 サフィギシルはわめきを上げて彼に飛びつく。はっきりとした殺意はなかった。ただぶつかって壊さなければいけないという意志だけが彼の体を動かした。何でもいい。とにかくこの男を壊さなければ。
 だが振り下ろした腕は他愛なく受け流されて、逆に手首をひねられた。痛みよりも憤りから悲鳴を上げる。ビジスはサフィギシルの動きを拘束したまま引きずって、壁に強く押し付けた。
「思い出したか」
 低い声にびくりと怯える。怒りは途端に恐怖に変わり、抵抗の力も抜ける。
 サフィギシルは弱々しく泣きじゃくりながら彼を見つめた。作り物のような顔。胸のうちを隠す表情。夢の中で見たものよりも老いてはいるが顔立ちは変わらない。だが今の彼には人間らしい熱が感じられなかった。言葉の通じない別の生き物に話しかけられたような気がした。
 壁に押しつけられて動けない。乱暴ではないが、容赦もない。
 サフィギシルは言葉にならない言葉でわめいた。惨めな顔をしているだろう。だが解っていてもとめられない。正気をたもつことができない。呼吸すら不自由になるほど叫び、嘆き、彼を責めた。口から泡を吹くほどに延々と罵り続けた。
 だが、それでもビジスは顔色を変えることもなく、表情一つ動かさない。サフィギシルは気が遠くなるほどの疲れを感じて崩れ落ちた。ビジスの手が離されて、夢の中の母のように床の上にへたりこむ。吐き気がする。脳も胃も心臓も不快に悲鳴をあげている。解らない、解らない、解らない。
「お前は僕の何なんだ」
 サフィギシルは力なく吐き捨てた。
「母さんに何をした。あのあと僕をどうしたんだ」
「お前は知っているはずだ」
「知るもんか! そんなことは覚えてない!」
「忘れているだけだ。その中に眠っている」
 冷たい声が体を貫く。殴るように、刺すように、高くから打ち据えられる。
「全てを知るにはまだ早い。一つずつ受け止めろ。お前にはまだ越えるべき壁がある」
 ビジスは感情のない目でサフィギシルを見下ろした。
「いずれ、さらに重い事実を知ることになる。その体の意味を。その血に宿るものを。耐えられないと言うのならもう一度封じてやろう。うたかたの夢として忘れるか、事実として抱えるか……さァ、どうする?」
 サフィギシルは愕然と彼を見上げる。忘れられるはずがなかった。一度思い出してしまった以上、何もなかったことにするなどできない。すべてが偽りで構成された嘘の世界を生きるなど。
「……苦しければわしを憎め。恨め。殺したければ殺せばいい。わしを滅ぼすために生きろ」
 囁きかけるビジスの声は厳しく、そして確かな熱をはらんでいた。ビジスはこちらを睨みつける。その顔には間違いのない人間としての想いがあった。作り物のような顔が血の通うそれへと変わる。ビジスはそれを隠すように、ゆっくりと背を向けた。その体に寝乱れた様子はない。夢が終わるのを待っていたのだ。鍵も掛けず、すぐに向かうことのできるこの部屋で。
 サフィギシルは霞む頭でさまざまなことを思う。混乱はまだ収まらない。思い出した過去の記憶が次々と脳裏を駆ける。
「ジーナも」
 恐ろしい予感に突き動かされて口を開いた。ビジスに焦がれて死んだ母。それでは、まさか。
「ジーナも……」
「ああ。いずれはああなるかもしれない」
 返答は複雑な音に聞こえた。ビジスは低く言い捨てる。
「それが嫌なら奪い取れ。この手から逃れさせろ」
 その瞬間、サフィギシルの中で何かが弾けた。
 頭の芯に熱が走る。知らずと手が拳を作る。顔つきから迷いが消えていくのが解る。混乱がひとつへと纏まっていく。サフィギシルは立ち上がった。頭よりも先に感情が体を動かした。ようやく、自分のやるべきことに気がついたように思えた。
 混乱が鎮まって残されたのは揺るぎない意志と憎悪。サフィギシルはそれらを隠しもしない目でビジスを睨む。憎しみの相手はこちらを見ない。背に向けて問いかける。
「……どうして僕を引き取った」
 十年近く経った後で、面識もない赤の他人を装ってこの国に呼び寄せたのは。共に暮らし共に過ごし、毎日のようにからかいながらも、時折心を奪うような優しさを見せたのは、何故か。
「お前を生かすためだ」
 迷いのない返答には、確かな暖かみがあった。
「いずれ全てを知るだろう。真実はまだお前の中に眠っている」
 サフィギシルは困惑から悲鳴をあげたい気分になって、逃げるように部屋を出た。
 ビジスの顔を直視すれば、自分の中で、何かが崩れるような気がした。



 もつれる足で何度転んだことだろう。サフィギシルはどうしても家の中にはいられなくて、冷え込む庭へと逃げ出した。空を見て愕然とする。一日の始まりを告げるまばゆい光が夜の闇を押しのけていた。太陽が姿をあらわす。
 街には既にむせ返るほどの力が溢れだしているのだろう。サフィギシルはそれらから逃れるように一歩下がった。目に見えるあちこちで力の波が暴れている。容赦な動くそれらは魔力無しの体を打つ。突き落とされる。押し出される。だが既に逃げ込める家はなかった。もう彼の戻る場所はない。
 光のない夜が終わる。月が姿をあらわしはじめる。
 新月夜が明けるとき。拠り所を失うとき。
 サフィギシルは膝をつき、呆然と世界を眺めた。
 行き場所を探すように、何度も何度もうつろな目で見まわした。

 彼はよろめく足取りで溢れる魔力の波へと飛び込む。打たれながら、押されながら、必死にジーナの元へと向かった。それだけが生きる理由であるかのように、振り向きもせず走り始めた。



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