過去編目次


 まだ火照る体のせいで、左手にはまる指輪もほのかに熱を帯びている。ジーナはそれを目の上に掲げると、どこか夢を見るような亡羊とした瞳を向けた。とりたてて高価なわけでもない、銀色の質素な指輪。図形化された鳥の翼が中指を包んでいる。
 眺める視線をさえぎるように男の手が指を握る。そのまま指輪を取ろうとするのを肘鉄で制してやった。にぶい呻き声がする。
「……いいじゃないか、これぐらい取ってくれても」
「『これぐらい』かどうかを決めるのは私だ。お前じゃない」
 苦々しく言って睨むと、サフィギシルはわざとらしいため息をつく。
「嫌なんだよ。わかるだろ」
「ビジスの指輪に触れるのが?」
 笑いながら解りきったことを言えば、相手もまたいつもと同じ言葉を返す。
「そうだよ。見るのも嫌だし、思い出すのも嫌だ。何よりそれが最後まで残るのが気に食わない」
 こういう時ぐらい取ればいいのに、というのはもう何度も聞かされた愚痴だった。同じくビジスに作られた髪留めなどは早いうちに取ってしまう。だがこの指輪だけは、何枚服を脱ごうとも外してやるつもりはなかった。ジーナは指輪以外は何もない裸のままで、ずり落ちかけた布団を被る。
「資格証は速攻で外すくせに」
「これだけは特別だ。知ってるくせに」
「ああ知ってますとも。何回も聞かされたしね!」

 技師一級の合格を報告した時の話だ。資格証と身分証明を兼ねる指輪をビジスに見せると、彼は小さく笑って言う。その指輪を手にした者は無条件で協会の支配に置かれる。それをつけた瞬間から、お前は奴らの手下ということになるな。愉しむような表情を睨みつけても彼が堪えるはずがない。ジーナは一度は指にはめた資格証を忌々しく引き抜いた。
「指が寂しくなったな」
 え、と顔を上げるとビジスはこちらに歩み寄り、何ひとつ装飾がなくなってしまった左手を取る。そして何気ない仕草で彼女の指に銀の指輪をはめてやった。
「合格祝いだ。好きに使え」
 中指に巻きつく鳥の翼。それはわざわざこの日のために彼が作ったものだった。

「そういうの、本っ当に好きだよねあの人。格好つけてばっかりで」
「またそれが似合うからいいんだ。馬鹿馬鹿しいほど気障なことをさりげなくやってのけるからこそ、女に人気があるんじゃないか。下心と台本が見え見えのお前とは格が違う」
 くう、と拳を固めるジーナを見てサフィギシルは情けない顔をする。だがへたりかけた心境を立て直すように、無理やりに微笑んだ。にっこりとした人の善い笑顔に、ジーナはつい警戒して彼から体を離してしまう。
「やだなあ、そんなに怯えなくてもいいのに。落ちるよ」
「声まで変わってるのに安心して密着できるかっ」
「大丈夫、今日はもうしないから」
 笑顔のままそう言って彼女の体を抱き寄せると、そのまま手を近くにある机に伸ばす。脱ぎ捨てられた彼自身の上着を探り、ポケットから小さなものを取り出した。すぐに握ってしまったのでそれが何かは解らない。サフィギシルは怪訝な彼女の眼差しに答えるように、嬉しそうに手のひらを開いてみせた。
 平らなそこに乗っているのは銀色の小さな指輪。やや幅広の台の上で、細い線が絡み合ってゆるやかな花を描いている
「じゃーん。結婚指輪〜」
「誰のだ」
 身も心も凍るような低い声にも彼の笑顔は揺るがない。
「ははは、決まってるじゃないか君のだよ。僕のだってほらここに。さあ二人で幸せになろう」
「いつ誰がどこでお前と結婚すると言った! あっ、こらはめるな! 却下だ!!」
「どうせ他にできる相手もいないんだし。もう適齢期過ぎてるよ?」
「お前が片っ端から全滅させて行ったんだろうが! だからはめるなっ、うちの儀式じゃ結婚腕輪だ!」
 拒否の言葉はとうとう怒声に発展し、サフィギシルはくすくすと笑いながら口元に指を立てた。階段を挟んでいるとはいえ、隣はペシフィロの住む部屋だ。こんな夜中に騒ぎ立ててはまたもや心配させてしまう。
「指輪も腕輪も両方すればいいじゃないか。僕の故郷じゃ左手の薬指にはめるんだよ」
 ジーナは彼の笑顔を苦々しく睨みつけた。アーレルでは古くから、夫婦が共に永遠を誓う宣誓の後に腕輪をはめる習慣がある。大陸を北に渡ればそれが指輪に変わるというのはジーナもよく知っていた。さまざまな国から人や文化が流入する昨今では、アーレルでも指輪式に切り替える者が多い。だがここであっけなく受け入れてしまうわけにはいかない。
「そんなものは認めない。どちらにしろ結婚は却下だ!」
「えー。せっかく愛をこめて作ったのに。苦労したし、すっごく時間がかかったんだよ? この図案だってちゃんと花を買ってきて、それを見て何種類も考えて……」
「勝手に努力して好きに散れ」
「この花知ってる? 花嫁のドレスによく添えられるんだ。小さくて、うす紫で、かわいいくて清楚だよね。指輪に合わせてこの花束を抱いて欲しいなあ。きっと似合うと思うんだ」
「落ち着いて考えろ。どこをどうひねっても似合わないから」
「大丈夫だよ。君は本当はすっごく可愛いところがいっぱいあるんだから! 花言葉はねー……」
「聞きたくない。もう黙れ!」
 寝返りを打ちかけた彼女の肩を掴み、サフィギシルはどこか無邪気な笑顔で言った。
「じゃあ君がふさいでくれる?」
 ジーナはその表情と行為の落差に目眩を起こしそうになる。彼の笑いは日に日に毒を含まない純粋なものに変化していく。だが中身は逆にどす黒くなるばかり。本当に、いつからこんな男になってしまったのだろうか。何も言えないでいると、サフィギシルは笑いながらかすめるようなくちづけをする。
「ふさいでくれなきゃ、僕の方から潰しちゃうけど?」
「……もうふさいだだろう。今」
 疲れたように呟くと、彼は囁くように言った。
「もっと」
 彼女の頭を引き寄せて、今度は深く口を吸う。わざと卑猥な音を立てて彼女の心をもてあそぶ。そのまましばらく浅い愛撫を続けた後で、またとろけかけた彼女の瞳に愉しげな笑みをもらす。
「ほら、可愛い」
「……お前は可愛くない」
 また、気がつけばこの男に調子を崩されている。ぐったりと力を抜いた彼女の体に指を這わせ、サフィギシルはビジスの指輪に手を添えた。引き抜くような気配はないので放っておくと、彼はどこか虚ろな目を向けて、指輪をゆるく撫で回す。
「指輪は誓約と従属の証だ。君はあいつに囚われてる」
「……自分から進んで、だ。お前には関係ない」
「僕は君だけに証をつけさせない。二人が互いに縛りあうんだ。それが結婚。一方的だとただの奴隷だ。いつかこの指輪を僕のものに換えてみせる。……僕は先につけておくよ」
 サフィギシルは全く同じ図柄の指輪を自らの指にはめた。
「これで僕は君の下僕だ」
 鈍く光る従属の証を彼女に向けて掲げてみせる。浮かべる笑みは濁っていた。
 ジーナは言いたいことが山のように口に溜まるが、どれもこれもはっきりとした言葉にならずに黙り込む。サフィギシルは彼女を抱きしめて笑った。くすくすと続くそれがささやかに耳をくすぐる。腰に回された彼の手にひやりと冷たいものを感じた。今はめたばかりの指輪だ。彼はいつもこの冷たさを感じ取っていたのだろうか。ビジスに貰った彼女の指輪も、今や静かに冷えていた。
「いつか君は僕に囚われる。そしてこの指輪をはめる。賭けてもいい」
「何を賭けるつもりだ」
「何でもいいよ。だって僕は必ず勝つから」
 自信に満ちた笑みを見せ、彼はおどけた口調で言った。
「体でも、命でも。お好きなものをお選びになってください、ご主人様」
「そんなことを言ったら遠慮なく命を取るぞ。もういい、寝る」
「まだやるの?」
「睡眠だ!」
 からかう笑みから逃れるように、ジーナは彼に背を向けた。

       ※ ※ ※

 そのころはまだ笑っていられた。身を寄せ合うこともあった。まるで心から愛し合う恋人のように熱く触れ合うことすらあった。そのころは、まだ、暖かかった。
 だがいつしか彼は妄想に囚われるようになり、その脆い精神は少しずつ壊れ始めた。
 目に見えないものに話しかける。意味の解らないことを呟く。突然に、恐怖を感じて悲鳴を上げることもあった。がたがたと震えながら彼女の胸に飛び込んでくるようになった。理解できない母国語で必死に何か唱えながら、怯えた様子で縋りつく。彼の体は日に日にやつれ、目の光はますます薄く死人のようになっていく。
 彼が何に怯えていたのかジーナには解らなかった。ただ彼が生まれたばかりの子どものように泣くのを宥め、縋りつく体を出来る限り暖かく抱いてやる。彼はいつも震えていた。いつも何かを恐れていた。
 それでも他の人の前では決して弱い姿を見せない。彼女が側にいる時も、彼は街へと出た途端にいつも通りの笑みを浮かべた。顔色を隠すように必死に頬を吊り上げる。手のひらはいつも嫌な汗でぬれているのに、それを外に出しはしない。固く繋いだ彼女の手には彼の震えが伝わってくる。ジーナは彼を宥めるように、強く繋ぎ返してやった。
 そのうちに、内側に押し込めた闇はジーナに向かうようになった。実際に傷つけることはない。だがゆるやかに首を締め、やわらかい布で拘束し、彼女を自分の物にしようと閉じ込めるようになる。
 そのあたりで彼女に限界が訪れた。彼を支えきれなくなった。
 近寄るのが恐ろしくて彼を避けるようになった。縋りつく体を突き飛ばした。絡みつく手を振り解いた。
 彼の想いを、突き放した。
 怖かったのだ。このままでは本当に彼に殺されてしまうと思った。殺されなくても、彼の狂気に取り込まれて引きずられて同じ道を歩んでしまいそうだった。だから彼に冷たくした。絶対に顔を合わせないようできるだけ避けて暮らした。そうしなければ、こちらが壊れそうだったのだ。
 だが逃げ始めて何日もしないうちに、彼の手に掴まった。そのままきつく縛られて部屋の中に閉じ込められる。土色に変化した彼の顔は泣きそうに歪んでいる。今にも崩れ落ちそうだ。か細い糸一本でなんとか繋ぎ止められている。
「助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて」
 彼は彼女に縋りついてうわ言のように呟く。
「助けて助けて助けて助けて誰か誰か誰か誰か」
 悲鳴を上げても口は布で縛られてかすかなうめき声しか出ない。彼女もまた彼から逃れたいと思うあまりに必死に祈り始めていた。嫌だ、怖い、誰か、誰か、誰か。
 ぼろぼろと涙をこぼしながら願っていると、部屋のドアが強く開いた。サフィギシルは力ない悲鳴を上げてジーナに抱きつく。彼の体はしがみ付くのも困難なほどに震えていた。怯えきったまなざしが侵入者の顔を見上げる。
「先生」
 ビジスはドアを開けた姿勢のまま弱い目で彼を見つめた。くっきりと疲労が浮かぶそれには後悔と失望が見え隠れして、ジーナは思わず目を疑う。こんなにも弱いビジスを見るのは初めてだった。
 サフィギシルは泣きながら床に這いつくばる。まるで子どものように無様な嗚咽をもらしながら、きれぎれに呟いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「もういい」
 ビジスは謝る彼の肩を取る。胸に溜まる重いものを吐き出すような声で言った。
「もういい。……お前には、無理だった」
 サフィギシルは途端にその場に泣き崩れる。ますます激しくなっていく嗚咽の中で、ビジスが弱く顔を伏せた。

       ※ ※ ※

 その日を境にサフィギシルは少しずつ正気を取り戻し始めた。ビジスと彼との間で何があったのかは誰も知らない。ジーナも、ペシフィロも、彼らが何をしていたのか知ることはできなかった。ビジスもサフィギシルも決して口を割らなかったからだ。
 だがまともに戻ったサフィギシルを見ているうちに、胸の中の不安やよどみは少しずつ消えていく。疑惑や恐怖が完全に断たれたわけではないが、それでも前と同じように彼に接することができた。このままいつかと同じような生活が、永遠に続くのだと考えていた。
 大きな変化が起きたのは、ある雨の朝だった。休日の惰眠を貪っていたジーナは静かなノックに起こされる。ドアを開けると荷物を抱えたサフィギシルが立っていた。その格好は見るからに旅装束だ。ジーナは眠たげな顔で尋ねた。
「……旅行か?」
「家出だよ」
 サフィギシルはいつも通りの微笑みを浮かべている。ああまた冗談を言っているんだな、と考えて、ジーナは雑に手を振った。
「はいはい。気をつけて行ってこい」
「止めないの?」
 寂しげな顔をした彼に、当たり前のように言う。
「どうせすぐ帰ってくるんだろう?」
 サフィギシルは一瞬何か言いたそうな顔をして、すぐにそれを笑みに隠した。
「……そうだね。うん。そうするよ」



 ドアはかすかな音を立ててあっけなく閉じてしまう。サフィギシルは冷たい廊下に立ち尽くし、ゆっくりと目を閉じた。雨音が切れ間なく耳の中をざわめかせる。
「……うるさい。黙れ」
 歩きながらぶつぶつと呟く。その顔は生気を失い、底の見えない沼のように暗い闇を湛えていた。
「解ってる。解ってるよ。うるさい。黙れ。うるさいうるさいうるさい」
 かすかな声で見えないものに話しかける。雨音がざわざわと彼を包み込んでいく。
 彼は家の外に立ち、閉ざされた彼女の部屋の窓を見上げた。
「もう、ここには」
 その顔を雨が叩く。彼は鬱陶しげに水の粒を払いながら、港へと歩きだした。


 サフィギシルの訃報が届いたのは、それから一年後のことだった。

        ※ ※ ※

 彼の訃報を伝えにきたのは、ペシフィロだった。ビジスの元に届いた一通の手紙。そこにはサフィギシル・ガートンの事故死を告げる文と、証拠となる彼の髪が添えられていた。ペシフィロは、ビジスの代わりにその全てをジーナに見せる。
「……冗談だろう?」
 ジーナは頬がこわばるのを感じながらも笑ってみせた。彼がこの国を飛び出して、まだ一年しか経っていない。つい先月も、呆れるほどに長い手紙が届けられたばかりなのだ。他愛ない物事ばかりを書き連ねた無意味な文章。そのあまりに明るい内容が、ひとつひとつ頭の中を流れては消えていく。旅先で見た不思議な光景、隣り合った愉快な人間。とんでもない失敗や、初めて知った他国の風習。一体どこが家出なんだ、と読むたびに呆れた気持ちにさせられたのだ。能天気なまでに旅を楽しむ彼の文には、常に陽気で健康的な力があった。その彼が死んだなんて。
 まさか、そんなはずがない。
 そんなはずがないじゃないか。
 ペシフィロが哀しげな目をしているのが嫌だった。彼が本当に死んでしまったような、陰鬱な表情をするなんて。ジーナは小さな声を立てて笑う。だがそれは裏返りそうなほどに不自然で、痛々しい響きとなった。それでも笑う。そうしなければこの沈む空気に耐えられない。
「……ジーナ」
「嘘だ。どうせまた冗談を言って、後で騙すつもりだろう? あいつのことだ、こっちが悲しむのを見計らって、のこのこと帰ってくるつもりなんだ。だって、そんな、事故だなんて」
 手紙の差出人は、サフィギシルが以前いた孤児施設の院長だった。彼は久しぶりに故郷である施設に戻り、懐かしい顔ぶれとの再会を喜んでいたという。そのまま数週間ほど滞在する予定だったが、不運にも落石事故に巻き込まれて一夜のうちに亡くなった。
「こんな……冗談みたいな原因で」
 手紙には、側にいた子どもをかばって巻き込まれたと記されていた。彼が突き飛ばした子どもは助かった。だが、その代わりに彼は。
「……馬鹿じゃないのか。こんな、あからさまな作り話……そんな、信じろという方が」
 喉が震える。そこから言葉が続かない。ペシフィロが痛ましげにこちらを見ている。憐れむような眼差しがひどく遠いものに思えた。どうしてそんな顔をするんだ、これはただの嘘なのに。
 だが思考とは裏腹に、手紙を持つ手は震えていた。
 薄汚れた封筒の中で、泥にまみれた彼の髪も小刻みに揺れていた。

         ※ ※ ※

 遠い道のりを経て戻ってきた彼の体は、白く、小さな骨に変わっていた。あらかじめ輸送のために燃やされたのだ。かろがろと手に軽い骨は密度が薄く、力を込めれば壊れそうなほどに脆かった。
 祝福から見放された“魔力無し”の体は弱い。いくつかは炎の中で形を崩し、かろうじて残った骨にもはっきりとした輪郭はない。頭部ですらかけらと化し、生前の面影はどこにも見ることができなかった。
 ――死んでいるはずがない。
 ジーナは骨を手にして思う。こんなにも不確かな形では信じられない。顔を見ることもできないのに、どうして彼だと思えるだろう。泥に汚れた髪の束では、骨とともに送られてきた最期の血では、とうてい信じることができない。
 最後に彼が着ていたという、ぼろぼろになった服。壊れてしまった懐中時計。事故に遭う前日で止まっている旅行日記。送り返された数々の遺品を見ても、信じようとは思わなかった。
 だから、泣かなかった。葬儀でも、その後でも。泣けなかったといった方が正しいだろうか。涙が出て来なかったのだ。涙腺が枯れ果てでもしたように、一滴の水も感じなかった。
 渇いた目で遺品を睨む。名の記された質素な墓を、あまりにも小さな棺を、骨が納められる闇の穴を。ささやかに集められた弔問の客たちも、どういった顔をすればいいのか戸惑っている様子だった。晒された遺体を見ては、悲しむよりもうろんに眉を寄せていく。土葬が基本のこの地方では、焼かれた骨を見ること自体ほとんどないことだった。
 ビジスもまた、悲しみに泣くことはなかった。黒の喪服を身に纏い、墓を見つめて立っている。言葉を発することもなく、ただ、平坦な表情で。まるで作り物のように動かない彼は何よりも遠く感じた。数歩進めば触れられる位置にいるのに、この世で一番遠い場所に立ち尽くしているように思えた。
 深い深い穴の中に、彼の骨が降ろされる。男たちの手によって土に埋められていく。
 ジーナはその全てを睨んだ。かけられていく土を。消えていく小さな棺を。埋葬者たちの動かす道具を。崩されていく土の山を。手向けられる花たちを。この瞬間に存在する全てのものを決して忘れはしないように、彼女は渇いた目で見つめ続けた。いつまでも、睨んでいた。
 葬式の終わりを告げる言葉が響く。黒服を着た客たちが、墓地の出口へと向かう。
 ペシフィロがピィスの手を引きながら振り返る。だがこちらの様子を見ると、言いかけた言葉を収めて去っていった。人の声が少しずつ消えていく。暖かみの消えた墓地は音もなく冷えていく。
 無感情な目で墓を見ていたビジスが、ゆっくりと踵を返した。息子の墓に背を向けて、一歩ずつ歩いていく。その動きの全てが目の奥に刻まれるような気がした。薄暗い景色と冷たい空気。音のないその中で、彼が静かに歩いていくのをじっと見つめる。ビジスは何も言わなかった。こちらを見ることもなく、振り返ることすらせず、確かな足でその場を去った。
 ふいに、強く背を押されてジーナはびくりと肩を揺らす。いつからそこにいたのだろう、すぐ側に父が立っていた。彼は叱るような顔をして、手を引いて歩きだす。ジーナはそれに連れられるがまま何も言わず墓地を出る。最後に、一度だけ振り返った。人気のない彼の墓。その姿を目に焼きつけて、ゆっくりと背を向ける。墓地には誰もいなくなった。
 サフィギシル・ガートンの人生は、この瞬間に終わったのだ。


 ……そう信じることが出来たなら、どんなに幸せだっただろう。
 ジーナはまだ彼の死を信じることができなかった。悲しみを覚えた途端に、笑顔の彼が戻ってくるような気がした。そうしてこちらをからかうのだ。僕のために悲しんでくれたんだ。そう言って笑われるに違いない。少しでも気を弱くすれば負けだ。騙されて悲しむわけにはいかない。
 頭ではそう思っているのに、体の方はまるで彼を悼むように弱っていった。うまく寝つくことができない。食べ物が喉を通らない。涙と同じく喉までもが渇ききってしまったようだ。むりやりに飲み込むと、尖った痛みと異物感がいつまでも胸を騒がせた。
 信じない。信じない。あれは嘘に決まっている。毎晩のように葬儀の景色を思い出しては心の中で呟いた。手に軽い彼の骨、変色してしまった血痕、ぼろ布のようになった服。信じない。信じない。信じない……。
 そうして眠れないまま夜を終え、朝焼けがカーテンを浮かび上がらせる頃には旅の支度を調えていた。誰かに言うつもりはなかった。職場には手紙を書いたが辞めさせられてもいいと思った。ジーナは独り決意を抱え、港へと歩きだす。荷物の中にはサフィギシルからの手紙が全て詰められていた。
 失踪にも似た旅立ちで、彼女は彼の足跡を追う。その道程は二ヶ月にも及んだ。

         ※ ※ ※

 建物の中は冷たい空気に満たされていて、息すら白く冷えていく。ジーナは防寒具を身につけたまま、前を行く女性の後を追った。硬質の音が石敷きの廊下に響く。孤児施設と聞いていたが、子どもの気配はどこにもない。冬の間は寒さから逃れるために、暖かい地方へ移動しているという。それだけでも、想像していたような貧困とは程遠いように思える。
 商業組織。近くの街の人間はこの施設をそう呼んでいた。哀れみをもって子どもを育てる場所ではない。学ばせるのは教会のような慈悲ではなく処世術。貰われた先で上手く暮らしていく方法、自分の身を守る技。そのまま社会に投げ出されてもうまく生きていけるように、商売の基礎を徹底的に叩き込む。目の前を歩く院長は、元は商人だったという。今でも人身売買の場に現れては、将来有望な子どもたちを値切っては買い取って、自分の手もとで教育しているそうだ。
 この異様ともいえる施設で、サフィギシルは幼い十年以上を過ごした。
 ピィスもまた一年足らず、ここに預けられていたという。
「ここです」
 空気にも負けず冷ややかな声がして、ジーナはその場に立ち止まる。院長がドアを開けると、思わず軽く息がもれた。暖色でまとめられた小さな部屋。サフィギシルが、息を引き取ったとされる場所。
「救護室もありますが、あの子はここで死にたいと言いました」
 院長は終始厳しい顔つきをしている。普段は明るい人なのだという。冷たい態度を取っているのは、怒りを潜めているためだ。
「最期のわがままだから、と。汚してしまってごめんなさい。そう言って、自分の育ったこの部屋で息を引き取ったんです」
 お入りください、と慇懃なほどに丁寧な言葉に背を押され、おそるおそる足を踏み込む。ただの粗末な部屋だった。取り立てて珍しいものもない、どこの国にあってもおかしくはないような、ただ家具があるだけの部屋。中身は彼がこの施設を去った時に、取り除かれたのかもしれなかった。院長はベッドの側に椅子を並べる。
「お座りください。こちらの言葉は解りますね」
 着席すると、彼女とまっすぐに向かい合う形になった。思わず背を正してしまう。厳しい教師を目前にしているようで、声ですら硬くなる。ジーナは小さな畏れを感じながら、慎重に発音した。
「はい。完全ではありませんが」
「では、この家の名前の意味もご存知でしょう」
 軽くうなずく。カルノ・トゥラ。以前サフィギシルから聞いたその名の意味は。
「『かりそめの楽園』」
「そうです。ここは永遠の楽園ではない。あくまでも、親を失くした子どもが一時の平和を得る場所です。私たちはいずれ出て行く子どもたちに、生きていくための知恵を与える。どの子にも、いつかはここを去ることを前提にして接しています。……ですが、あの子だけは違ったんです」
 院長は誰もいないベッドを見つめる。まるで消えてしまった彼が今でもそこにいるように。
「サフィギシルは十六まで貰い手のなかった子です。私は、あの子はずっとここに置いておくつもりでした。優しい子です。だけど決して強くはない。表向きは楽しそうにしていても、いつもどこか不安そうにしていました。でも、あの人に引き取られることが決まってからは、その弱さが消えました。目の前に確かな目標が生まれたからでしょう。何があるかも知れない未知の国に連れられていくというのに、あの子は嬉しそうに笑っていました。きっと善いことがある。そう信じていたんです。……それなのに、どうしてあの子は病んだのですか」
 暖かな声はかすかな震えを帯びていく。抑えきれない感情が彼女の肌を青くする。
「アーレルを出て行く前に、どうなっていたのかは聞いています。何があの子をそうしたのかも。この場所に戻ってきた時、あの子はひどく痩せていました。顔だけは笑っていても、体はまるで病人のように衰えていたんです」
 ジーナは彼の手紙を思い浮かべた。その道程と同じように後を追った、自分自身の旅のことも。
 手紙に書かれていたことは大部分が嘘だった。記された街で尋ねても彼を知る人はいない。白髪の魔力無しなら目立たないはずがないのに、話をしたと書かれていた宿屋の店主に聞いてみても、首を横に振るだけだった。手紙には記されていない地では、いくつか目撃されている。だが不確かな情報だけでは、彼が本当に辿った道を突きつめることはできなかった。
「私は、あの子に、いつでも帰ってくればいいと言いました。あちらでつらいことがあれば、いつでもここに帰って来いと。でもあの子は言ったんです。よほどのことがない限りもう戻ってこないつもりだと。それだけの決意をして去ったあの子が、傷ついて戻ってきたんです」
 この施設に戻ってきた彼を見た、古くからの知り合いにも一人一人話を聞いた。誰もが同じことを言う。表面上では平気な風を装っていても、体は痩せて別人のようだった。何か暗いものを抱えているように思えて、ひどく心配したという。
「……誰か、あの子を助けてくれましたか」
 院長はかすかに震える声で言った。胃の中に、鉛が落ちたような気がした。
「あの子を愛してくれましたか」
 息が詰まる。喉が震えて唾液ですらも飲み込めない。苦しみはいつかの景色を回想させる。今にも壊れそうな姿で助けてと繰り返す彼。それ以前にも彼はしきりに助けてくれと泣いていた。始めは手をさしのべていた。少しでも彼の助けになるように、支えることができるように。だが彼の重みに耐えられなくて、最後には、縋りつく体を突き飛ばした。絡みつく手を振りほどいた。
 彼を突き放したのだ。そうした途端に彼が壊れてしまうことを、誰よりもよく知っていながら。
「……ごめんなさい」
 凍りついてしまった口で、それだけ言うのが精一杯だった。震える指を顔に当てる。表情は歪んでいくのに、それでも涙は出なかった。
「……ごめんなさい……」
 せめて泣くことができれば苦しみも和らぐのだろうか。体中を押さえつける痛みから逃れることができるのだろうか。だが泣き方を忘れてしまったようだ。上手く悲しむ方法すら体は覚えていなかった。
 顔を覆い、うつむくと様々な光景が頭の中を流れていく。傷ついて震えていた彼の姿が、泣きながら縋りついてきた夜のことが、旅立つ前に見せた寂しげな彼の表情が。記憶は彼の後を追った旅の景色にすりかわる。手紙とはかみ合わない証言、嘘ばかりが連ねられた紙。目撃された彼の様子は、誰もが口をそろえて尋常ではないと言っていた。この地に住む旧友たちでさえも、近寄りがたく感じた、と。
 彼が助けた少女にも会いに行った。その口からはっきりと証言を聞いた。サフィギシルは確かに彼女を送る途中で山崩れに遭ったという。そのまま瀕死の状態でこの施設まで運び込まれ、医者が到着するのを待たずに命を落とした。
 この目で確かめたのだ。この耳で聞いたのだ。消えてしまった彼を捜して、捜して、捜して、たどり着いた答えだった。間違いのない、残酷なまでの事実だった。
「友人から話を聞きました。あなたが、サフィギシルの死について証言を集めていると」
 やわらかい手が肩を抱いた。顔を上げると、院長の哀しげな微笑みがある。
「あなたは、あの子を捜してここまで来てくれたんですね」
「……はい」
「預かっているものがあります」
 そう言うと、彼女は枕の下に手を入れた。引き出したのは小さな袋。彼女は節くれた指で中身を取り出す。呆然としていたジーナの手に、優しい仕草でそれを乗せた。
 銀色の小さな指輪。やや幅広の台の上で、細い線が絡み合ってゆるやかな花を描いている。
「これを、サフィギシルから預かりました。もし自分が死んだ後に、気が強そうで、それでも優しい目をした黒髪の女の人が、ここまで迎えに来てくれたなら。その時はこれを渡してくれ、と」
 目を見張る先で指輪はいつかと同じように鈍い光を乗せている。
 何度も渡されたものだ。その度に意地になって付き返してきた。
 存在すら忘れていたそれが、今、彼の骨と同じようにかろがろと手の中にある。
「それがあの子の最期の願いだったんです。あなたが来なければ、どうなるかと思っていた。言った通りの女性が、あの子について尋ねまわっていると聞いて本当に嬉しかった。最後まで見捨てられたままなのかと心配していたんです。……来てくれてありがとう」
 院長は今までの厳しさを忘れたように、穏やかに笑っていた。その瞳が潤んでいるのを見つけて、居たたまれない気持ちになる。だが彼女はそれ以上涙を見せず、また表情を引き締めた。
「ガートン氏にお伝えください。私は二度とあなたの依頼を引き受けないと。直接伝えても聞き届けられた気がしない。どんなに反省していようが、私には信じられません。もう二度と関わりたくはない」
「……ビジスが、ここに来たんですか」
 驚きを押し殺した声で訊くと、院長は皮肉な笑みを浮かべる。忌々しげな声で吐き捨てた。
「頭を下げていましたよ。あのお方でも、謝ることがあるんですね」



 建物を出ると、身を切るような冷たい風が吹き付けた。このあたりはアーレルとは真逆の地域だ。温暖な気候しか知らない体が悲鳴を上げそうになる。だが外の寒さも忘れるほどの驚きが、一瞬で身をこわばらせた。
 黒服を着たビジスがそこに立っていた。両腕からあふれるほどに大量の花を抱えて。
 うす紫色の小さな花は、灰色の景色から浮かび上がって彼の姿を彩っていた。
「終わったか」
 ビジスは当たり前のように言う。こんなにも不条理な状況なのに、この人はどうしていつもと同じように話すのだろう。どうしてこんな馬鹿らしいことをしでかすのだろう。
 何百と咲く小さな花は、サフィギシルの指輪に描かれているものだ。この寒い国では絶対に咲くはずのない花。わざわざアーレルから持ってきたのだろうか。ただ、この瞬間のためだけに。
 悔しさに顔が歪む。あんな話を聞かされた後なのに、遺された指輪を握りしめているのに、今自分はこの老人に完全に見とれていた。八十六だ。刻まれた皺も深い年寄りだ。それなのに花が似合うなんて。両腕で花束を抱える姿が颯爽としているなんて、卑怯だ。
「文句を言われていただろう。わしはあれには嫌われている」
「……二度と依頼を受けないと伝えてくれ、と言われた」
「そうだろうな。わしも、もう繰り返すつもりはない」
 低く、不思議と耳に残る声。かすかに笑みを含んだ口元。ビジスは花束をこちらに差し出す。
「手向けてやれ」
 その腕の動きでさえも目の奥に焼きついた。全てを見透かすような瞳が、楽しげにこちらを見ている。睨もうとするがどうしても顔が弱くなる。駄目だ。この男には、勝てない。
 ジーナは黙って花束を受け取った。あふれる花に顔がうずまり、視界がぱっと明るくなる。わずかに見える灰色の空がいやに遠いものに思えた。その景色もすぐに滲む。目の前にある花が白くぼやけた。涙がこぼれる。途端に大きくあふれだす。
 ジーナは声を上げて泣いた。たくさんの花に顔をうずめ、ぼろぼろと涙をこぼした。
 久しぶりの涙は熱く、冷えきった頬を暖める。花束を抱きしめると、爽やかな香りがした。
 ビジスは背を向けて歩きだした。行き先は、サフィギシルが事故に遭った場所だ。ジーナは涙を拭いもせずに、高まる声を抑えもせずに、のろのろと後を追う。いつもは早いビジスの足も、それにあわせて遅くなった。
 無様な顔で泣きじゃくる。次々に涙があふれて花の上に落ちていく。
 ジーナは手にした指輪を握りしめた。
 
 ――サフィ、お前の勝ちだ。

 出てこい。今すぐここに戻ってこい。
 腐りかけた体でも、火に焼かれた骨でもいい。
 這ってでも、地に堕ちてでも、世界の禁忌を破ってでもいい。

 戻ってこい。
 今なら、お前を。

「ばかだ……」
 どうして一番大事なことは全てが終わって気づくのだろう。
 彼の命はもう二度と取り戻せない深い闇の中なのに。

 唐突に聞こえてきた歌声に顔を上げる。ビジスが背を向けたまま、囁くように歌っていた。ささやかだけれど強い旋律。美しく紡がれるそれにますます涙が止まらなくなる。
 静かなそれは、鎮魂歌でもなく、葬列の歌でもなく。
 愛する二人が結ばれた時に歌われる、祝福の歌だった。
「どうかしてる……」
 本当に、どうかしている。自分も、ビジスも、サフィギシルも。皆が皆どうかしていた。
 ジーナは握りしめていた指輪を取り、左手の薬指にそっとはめる。
 ああ、本当に、どうかしている。
「それの、花言葉を知っているか」
 歌を止めてビジスが言った。そこで初めてサフィギシルの意図に気づき、ジーナは小さく息をのむ。ああ、そうだ。愛しい人を待つうちに花になってしまったという、海辺の少女の花物語。それにちなんでつけられた、この花の花言葉は。
「『永遠にあなたを想う』」
 ビジスは呟くように言うと、また静かに歌い始めた。ジーナはさらに泣きじゃくる。
 北の風は涙すら凍らせてしまうほどに冷たい。凍える耳に、ビジスの歌が心地よい。
 二人は静かで冷たい道を、ゆっくりと歩いていった。
 眠りに就いた彼の元へ、一歩ずつ近づいた。


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