過去編目次


 明け方になると、耳の奥で波を感じるようになった。
 遠くかすかに響くそれは、無節操なこの街の魔力が流れては消え、流れては消えていく繰り返しの気配だ。さまざまな色と匂いを持つ力は流通の心臓部である港へと押し寄せて、それぞれの向かうべき路へと流れ去る。
 流れの気配は眠っていても体のどこかを動かして、醒めかけた意識を遠巻きにくすぐっていく。
 波が来る。力が、押し寄せる。
 切れ間のないそれにうなされて、呼吸すら苦しくなって、知らずうちに口をついたうめき声に目が覚める。嫌な汗を感じながらまぶたを上げれば、いつの間にか夜は完全に遠ざかり、気が遠くなるほど明るい日差しがカーテンを昼色に浮かび上がらせている。
 そういう目覚めがしばらく続いた。
 誰に言えるわけでもなく、ただ、諦めと共に波の気配に流されていた。



「ミドリー。昼だ、起きろー」
 無邪気にも思える子どもの声と、体を揺する手の感触。すっかり慣れてしまったそれに、ペシフィロは重たいまぶたをこじ開けた。おぼろに濁る視線の先には予測通りの少女の姿。
「……また勝手に入り込んだんですか。封印は?」
「破った!」
 ジーナは得意げに笑って答えた。ペシフィロはため息をつきたい気分で弱々しく目を閉じる。見られて困る物はないが、毎日のように勝手に部屋に入られては落ち着かなくて仕方がない。合鍵はビジスから彼女に渡って日々利用されていた。せめて魔術封印で、と侵入を拒んでみても、この魔力看破の才に長けた少女の目を誤魔化すにはよほどの技術が必要だった。
「どうだ、参ったか。今日は気配もしなかっただろ!」
「はいそうですね」
 降参したペシフィロを見て、ジーナはふふんと鼻で笑う。
「考えが甘い。ただ数を増やしても、ひとつひとつの強度があれじゃあまだまだ私には勝てないな」
「おっしゃるとおりで……」
「寝ーるーなー。今日は仕事の日だぞ、早く起きろ!」
 あしらいながらまたもや眠りにつこうとすれば、強く体を揺すられる。仕方がなくのろのろと起こした顔に三つ折りの紙を突きつけられた。何かと問う暇もなく、ジーナは素早く紙を広げる。向けられた表面には見覚えのある筆跡で、たった一言記されていた。

   『遊んでやれ』

「ビジスは今日は用事があって来られないんだ。だから私と遊びに行こう!」
「…………」
 ぐったりとうなだれたのは拒否できない境遇に対してだろうか。あのよく解らない老人は毎回毎回こうしてこちらを脱力させる。ジーナのことにしてもそうだ。この国に来て一番に与えられた仕事が彼女の警護役だった。波立つそれを抑えた後は、慢性的な子守り役だ。抗おうにもこの下宿の家賃その他諸々の金銭は労働で払うのが取り決めになっている。
 ビジスは決して金を恵まない。生活を凌ぐために与えられるのはあくまでも仕事ばかりだった。ビジスの助手をすることもあるが、街での肉体労働もある。どちらとも魔術師として使われることはあまりなく、一日中こき使われて、基礎体力だけがいたずらに積み重ねられていた。
 ありがたいが、何のためにここにいるのだろうとよく思う。子守りを命じられた今もそうだ。
 あの老人の考えることは解らない。出会って一年経った今でも、まったくと言っていいほどに。
「で、何をして遊ぶんですか」
 あくびまじりに尋ねると、ジーナは待ち構えていたかのようにきらりと目を輝かせた。
「海だ! 今日は釣りに行くんだ」
「えっ」
 と絶句して改めて彼女を眺めると、服装こそいつもと何ら変わりないが、足元にはバケツが置かれ、その中には魚の餌や針や糸。隣には二本の釣ざおが並べて横たえられていた。竹製のそれには見慣れない器具が付いている。もっとも、釣りにとことん疎い彼には釣ざお自体久々に見るものだったが。
 ジーナは今にも海辺まで飛び出して行きかねない浮かれようで、そわそわと足を踏む。
「本当は一人で行ってもいいんだけど、ビジスがミドリと遊んでやれって言うからな。仕方ないな、一緒に行ってやってもいいぞ?」
 では『遊んでやれ』というのは自分に宛てられたものではなくて、ジーナに対する指示なのか。予測を裏付けるように、ジーナはビジスに貰った指示書きを大切そうにポケットにしまっている。情けなく沈むこちらの顔を見もせずに、彼女はひとり盛り上がる。
「海はいいぞ。魚がたくさん釣れる場所知ってるんだ。私とミッカとイディアだけのヒミツの釣り場だけど、特別に教えてやる。景色もいいんだ、貝も取れるんだ! あっ、誰にも教えちゃだめだぞ。ビジスにも言うなよ、絶対にヒミツだからな」
「あの」
「なんだ? あ、釣りは苦手か? 大丈夫、私が教えてやる! えさもちゃんと作ってきたし……」
「いやそうじゃなくて。海は、ちょっと。あの、気分が悪くなるんです。だから……」
 ジーナは断りの気配を察して衝撃的に目をみはる。明るんでいた顔はみるみるとしぼんでいって、薄暗く縮まった。力なく歪む眉の下で、哀しげな目がこちらを見ている。
「……だめなの?」
 弱々しく呟かれ、思わずうっと言葉に詰まった。言い訳をする暇も与えずジーナは儚い仕草でうつむく。
「うん。いや、べつにいいんだ。いいんだ。ごめんね。うん、わかった。うん」
 悲しみを和らげるように口の中で繰り返し繰り返し呟きながら、意味もなく釣ざおをなでる。
「……ごめんね。じゃあ、別のところ行こうか。どこがいい? どこでもいいよ?」
 完全に下を向いてしまった頭はあまりにも哀しげで、そわそわと落ち着きなく動く体が薄暗い影に覆われているようにすら見えて、ペシフィロはさらに言葉を詰まらせる。
 海は苦手だ。出来る限り近づきたくない。でも。
「……行きましょうか。海」
 九歳も年下の子にここまで気を遣わせて、平然としていられるほど気の強い人間ではない。
 勢いよく上げられた彼女の顔は、途端に明るく輝いた。
「ほ、ほんと? いいの? やったあ!」
 飛び跳ねんばかりに喜ぶのを見てこちらまで嬉しくなるが、その後で、憂鬱と後悔が胸に重く押し寄せた。しまった、これで今日一日は海で過ごさなければならない。考えただけで体も頭も果てしなく遠くまで連れ去られそうになるが、それをこの世にとどめるようにジーナの手が腕を引く。
「じゃあ、いい方の釣りざお貸してやる。お兄ちゃんから借りたやつだから壊しちゃだめだぞ。早く! ほら、行くぞっ」
「ま、まだ着替えてませんから。ちょっと待って」
「早くしろ、置いてくぞ!」
 その通りにして欲しいと思いながらも逆らえるわけがなく、結局は急かされるがまま慌てて出かける支度を始めた。



 ああだからやめておけばよかったんだ。ペシフィロは何度目かもわからないほど繰り返した言葉を吐きだす。母国語による囁きはジーナの耳には捕らえられなかったのだろう。彼女は長い手足をもてあますようにぶらぶらと揺らしながら、設置した釣りざおの先を見つめている。
 棒のように細い手足は、これから成長していくにつれて丸みをおびてくるのだろう。そういう風によく見れば体つきは平坦で幼さを教えてくれるが、出会ってしばらく経った今でも彼の目には彼女は大人のように見える。彼の人種は童顔かつ小柄だが、アーレル人はその逆だ。子どもはすぐに背が伸びる。性格はなかなかそれに追いつかない。
「ひまだー。釣れなくなった。ひーまーだー」
 外見よりいくつも幼い典型的なアーレル人は、腰かけた石の上でむずかるように両手を振った。
 側に置かれたバケツの中では、小さな魚が五、六匹泳いでいる。ぎょっとするほど鮮やかな青色のものも混じっているが、食べてみれば美味しいことは経験して知っていた。子どもの遊びなのだから、これだけでも十分な成果ではないだろうか。そろそろ帰っていいんじゃないのか。だがジーナの目はまたしても竿の先に向けられる。
「ヘイダラがいいんだ。今日だけは釣れなきゃだめだ」
 声も目つきも真剣で、意志は揺るぎそうにもない。
 ペシフィロはため息なのか魂なのか判らないものをゆっくりと吐き出した。
 押し寄せる力の量に五感がおかしくなりそうだ。広がる海の向こうから波のように押し寄せる多種多様な魔力たちが感覚を麻痺させていく。さまざまな匂い、さまざまな音、さまざまな味。混ざりあって濁った色はこちらに来ては肌を叩いて背を突き抜けて去っていく。すべては幻の上でのことだ。だが、精神がそれを感じるならば彼にとっては現実と変わりない。ひゅうひゅうと風のような音がする。耳元でうなりを上げる。
 物理的な波の音も寄せてはまた去っていく。こちらは確かな水の音だ。ペシフィロは縋る気持ちで現実にある波を見つめた。はっきりとした物に意識を寄せなければ、幻に連れ去られてしまいそうだ。手を離せば、流れていく魔力と共に背の方へと押し流されそうになる。
 穏やかな海水のうねりは堤防にぶつかっては大きく弾け、意外なまでの激しさを見せてはまた果てしない水の一部に戻る。泡立った海水が時たまぴしゃりとここまで散った。舐めると塩の味がする。そんな当たり前のことが彼にはいまだに新鮮だった。
 子ども時代を過ごしたのは山奥の小さな村だ。近くには湖もなく、大量の水と言えば濁った沼しか知らなかった。生まれて初めて海を見たのはこの国に渡った時で、船酔いに倒れたままひたすら自然の脅威を感じた。運悪く嵐に遭遇したのだ。あれ以来、海は苦手だ。
 その理由をなしにしても、この場所で過ごす時間は何よりも苦痛に感じる。そもそも、この奇特な国にいること自体が自分に取っては無茶苦茶なことだった。
 港を抱えるアーレルは大陸一の流通国家と言われている。世界中のあらゆるものが船によってここに集まり、大陸のさらに奥へと流されていく。知識や流行ですら波のように押し寄せては望まれる国へと旅立った。
 人もまた、同じ。学問を志すものはロイヘルンへ。立身出世を求めるならばボウライド、安住を望むならばウェルカへと流れていく。人が動けば魔力も動く。呼吸と共に吸い込んではまた放つ力には、たくさんの種類がある。人種や生まれ落ちた土地、さらに血筋も噛みあって、気が遠くなるほどさまざまな色や匂いが生まれる。
 ある程度限定された種類だけなら問題はない。
 だが、この国にはあまりにも多様な力が一気に流れ込んでくる。
 さまざまな力は人や物と同じように港に向かって押し寄せて、津波のように上陸すると、ざわめくような音を立てて街中を駆け巡る。明け方は特に顕著だ。月の光も太陽光も薄れているため魔力の流れが速やかになる。その気配が眠る耳の奥へと届く。
 海から離れた街の奥でもそれだけ悩まされるのだ。こんな、押し寄せる力の入り口とも言える場所でどうして気楽でいられるだろう。ペシフィロは街へと流れる魔力の波に何度も意識をさらわれそうになりながら、必死にその場にとどまっていた。
「……あなたは、平気、なんですか」
「なにが?」
「魔力が、たくさん、押し寄せてくるでしょう。気持ち悪く、なりませんか」
「そんなの避ければいいじゃないか」
 ジーナは釣りざおの先を見つめたままいかにも事もなさげに答える。確かにこの国で生まれ育てばやり過ごすことにも慣れるだろう。魔力に対して敏感な彼女なら解ってくれると思ったが、こうなればもはや孤立無援だ。この力の流れを感じることのできるものはそう滅多にいないらしい。
 この波に気付くものは先天的に魔術の才に恵まれたものだろう。と、以前ビジスが言っていた。だからこの国にはろくな魔術師がいないのだ、とも。幸運だな、術の制御を完全に習得すれば、お前はすぐに城に召し抱えられるだろう。他に競う相手もいないのだから。と楽しげに笑われた時はどうしようかと思ったが、今もまた頭を抱えたい気分だった。魔術師潰しと呼ばれる国で、変色者である自分が無事に暮らしていけるわけがないのだ。体がそれについていけない。与えられた労働の数々で体力がついてきているからこそ、こうして、低空飛行で持ちこたえられているが……。
「……そうか」
 ペシフィロは目を見開いた。唐突に、それに気付いた。
 発見に動かされて思わず立ち上がろうとする。だが上げた腰はめまいによって力なくへたりこんだ。力の波がどっと押し寄せ、それに深く呑み込まれる。意識は背後に引き伸ばされる。目の前が白く明るむ。岩に手をついた途端に視界は一度に暗転し、それと同時に呼吸が胸が胃が頭がぎりぎりと引き絞られた。吐き気がするが口を押さえることすらできない。頭がぐらつく。暗闇にのみこまれていくように、上半身が大きくかしぐ。
 気を失うと思ったその時、ふわりとした軽い布が落ちてきた。
 魔力の音が、匂いが、気配が、瞬時にふつりと掻き消える。
 大きな布はペシフィロの体をすっぽりと包み込んでいた。困惑した思考はすぐに「シーツが飛んできた」のだと考える。どこからか、洗濯物が風でここまで飛ばされたのだ。
 だがこの近くに民家はないし、風は海から吹いている。ペシフィロはそう思惑を巡らせるほど自分が落ち着いていることに気づいた。気分が良くなっている。吐き気が完全に退いたわけではないが、少なくとも今まであった大きな波に流されるような不快感は消えている。
 不思議に思って布を払いのけようとすると、誰かに頭を押さえられた。
「払うな。場が悪い」
 落ち着きのある低い声。よく通るそれは、ささやかな呟きですら耳の奥までするりと届く。
 現れたのが誰かなど見なくても解ることだった。ジーナが喜びの声を上げる。
「ビジス!」
「まったく、お前はもっと周りにも目を配れ。危うく壊れるところだった」
 ビジスは呆れたように言いながら、ペシフィロの頭を軽くたたく。だが言葉自体はジーナに向けられたものだ。布に阻まれて見えはしないが、彼女はどうやらペシフィロを見てようやく事態に気づいたようだ。
「あっ。どうしたの、大丈夫!?」
「……遅いですよ」
 体調が素早く回復していくからこそ呟ける言葉だった。ジーナは駆け寄ってきてこちらの顔のあたりを窺う。ビジスの手がまた頭を軽くたたいた。
「お前も無理をせずに切り上げれば良かったんだ。こんな小娘に振り回されていてどうする」
「すみません」
「まったく、人が良いにも程がある」
 やわらかい口調にはかすかな笑いの音がついた。
「ミドリ、ごめんね。気分悪いの? なんで?」
「まァお前にはわからんだろうな。さて、少し楽にしてやろう」
 そう言うと、ペシフィロを包む布の後ろから手を入れて髪を掴む。身を硬くする彼には構わずに、腰まで伸びる緑髪を慣れた手つきでいじりはじめた。軽く引いては細かく分ける。分けた束を複雑に絡めていく。だがペシフィロ本人にはビジスの動きが見えないので不安そうに首をすくめた。
「動くな。施術と思って素直に受けろ」
「あっ、見せて!」
 思わず硬く背筋を伸ばすと、ジーナがひょいと布の中に入り込んだ。ビジスも頭を入れているので、三人共が大きな布に包まれている格好になる。白い影の落ちる中、ジーナはいやに楽しそうに真黒な目を輝かせた。両手を上げてささやかな天井を作る。白一色で織り込まれた複雑な模様が陽の光に浮かび上がった。
「この布は不透織布と言って魔力を遮断するものだ。中にいれば影響も受けないだろう」
「影響? 何の?」
 ジーナはきょとんとビジスを見つめる。彼は笑ったようだった。
「この娘にはわからんよ。なぜ大抵の人間がこの国で平然としていられるか、答えは単純だ。ぶつかるだけの魔力がない。小さな杭は流れにとっては障害物にもなり得ない。だが氾濫する川の中に巨大な杭が、もしくは柵があればどうだ。それらは全身をもって流れをせき止めようとする。抵抗は杭や柵を弱らせ、たちまちに壊してしまう。そういうことだ」
 声は布の中に篭るが言葉が途切れることはない。髪を編む指も止まらない。
「あなたは……」
「視えるよ。色や匂いや味まですべて」
 しゅ、とかすかな音を立てて、ビジスはどこからか紐を取り出した。被る布と同じぐらい複雑な髪の交差に迷いもなく編みこんでいく。ジーナがそれをじっと見つめる。触れれば焦げてしまいそうなほど真剣で強いまなざし。一挙一動を見取られながらもビジスは調子を崩さない。
「だが、どんな暴れ川でも全てを見通すことが出来れば対処のしようもあるだろう?」
「そうやって見通せるように、仕事を見つけてくれたんですね」
 ペシフィロは背に向けて言う。さっき気づいたことだった。思い返せば、今まで与えられた仕事の場所は、不自然なほど街のあちこちに散らばっていた。順序立てて追ってみればそれは魔術の計算式に則っていることが解る。いつ、どこで、何をするか。指示通りに動くほど、魔力の流れをより肌で感じることができるようになっている。
「なんだ、ようやく気づいたのか。随分と呑気なものだ」
「…………」
 おかしいとは思っていた。以前は明け方とはいえ建物の中にいる時にまで波を感じることはなかったのだ。この街で長く暮らしていくほどに感覚が敏感になる。だが単に日々力の流れに晒されているせいだと自分を納得づけていた。
「中途半端に流れを感じて右往左往するのは不便だろう? 海に出ることもできない」
「だからって、なにも逆療法にしなくても……」
「どうせその嫌というほど溢れる魔力を消すことはできないんだ。いつまでもただの杭でいるよりは、自由自在に走り回れる足の付いた化け物杭の方がいい」
 どこか愉快な比喩の言葉にジーナがおかしそうに笑った。ペシフィロもまた力ない苦笑を浮かべる。
 ビジスのしたことは、泳ぐことのできない者の足を縛り、海の真中に放り出すほどの荒業だ。だが、正しい。痛いほどに鋭敏な感覚を持っていなければ、押し寄せる力の波を見切ることはできないだろう。正確に看破できなければ回避など夢の話だ。荒療治には体力がいる。それもまた積み重なる労働でいくらか身に備わっていた。
 ようするに、彼の指示には何ひとつ間違いがないということになる。
 だが苦労した分その全てを素直には受け入れがたく、ペシフィロは不服そうに口を結んだ。
「さァできた。仮処置にすぎないが、しばらくはやりすごせる」
 持たれていた髪が背に落ちる。若干重くなったそれに触れてみると、失敗作の絨毯のようにがたがたとごわついていた。ペシフィロはさらに嫌そうな顔をして、軽く背後のビジスを見返す。
「この髪型が、ですか」
「魔力を外に流す手法だ。外部の魔力が襲ってきても、これで少しはかわせるだろう」
 だが真っ当な回答とは裏腹に、彼の顔は愉快な笑みにゆるんでいた。たとえ効果があったとしても、髪を奇妙に編み変えて楽しんでいることに変わりはない。じっと隙を窺っていたジーナが身を乗り出した。
「私もやる!」
「好きにしろ」
 待ち構えていたかのように飛んできた彼女に場所を譲り、ビジスは布の外に出る。彼は何も教えない。技術を盗み取りたいのなら自らの目で頭に叩き込むしかない。ジーナはそれをよく知っているのだろう。ビジスの仕業を手早くほどくと、自分の手でペシフィロの髪をいじり始めた。
 ペシフィロは布を上げてそっと外を窺ってみる。ビジスはこちらに背を向けて、遥かに広がる海を見ていた。立ち姿はそのあたりの若者よりもしっかりとしていて老齢を感じさせない。自然と伸ばされた背筋は堅苦しくも弱くもない。据わった腰に力を感じる。無防備に背を晒しているのに、隙というものが見えない人だ。今誰かに襲われても平然と討ち返すに違いない。
「いたた。ジーナ、痛い」
 うっかりと見入っていたが、荒々しいジーナの手に思わず声を上げていた。薄れゆく記憶を追いかけているのだろう、焦る手つきは容赦なく髪を引いてあちこちに痛みを起こす。文句を言っても作業にのめりこんだ彼女に声が届くわけがない。一度こうなってしまえば、よほどのことがない限り走り続ける性質なのだ。
 だが編み終えるまで止まらないと思われた動きは唐突にぴたりと止まる。
「アタリだ! 魚が来た!」
 耳元からした大きな声に腰が浮いた。目をやれば確かにいくらか離れた場所で、釣りざおが揺れている。竿の先は糸に引かれて急な弧を描いていた。岩で固定された竿ごと海に取り込むつもりだろうか、水の中で暴れる魚は力強く糸を引く。ジーナは焦るようにペシフィロの肩を掴む。
「ビジス! 引っぱれ!」
「まったく、お前はわしを何だと思ってるんだ」
 世界が恐れる大人物にこんなことを言えるのは彼女ぐらいのものだろう。ビジスはそれでも呆れたように笑いながら、ひょいひょいと飛ぶようなおどけた動きで竿へと向かい、激しく揺れるそれを取った。
「行けー! 釣るんだー!」
「おっ、なかなかの大物だぞ。逃がしてやろうか?」
「だめー! 釣って釣って!」
 真剣な彼女の抗議にくつくつと喉を震わせながら、ビジスは竿を引き寄せた。すぐに振り上げても糸が切れては意味がない。そのあたりは承知しているのだろう、彼は間違いのない確かな手つきで竿を引き、糸をたぐって暴れる魚を釣り上げた。黒ずんだ大きな魚だ。形相が険しくてぎょろりと目が飛び出している。
「ヘイダラだ! やったー!」
 ジーナは無邪気に歓喜の声を上げてペシフィロの背に飛びついた。子どもといえども結構な体格なので、うめきを上げて前のめりに倒れかける。ビジスは魚を片手に持ってこちらを見て笑っていた。ペシフィロも、苦笑まじりの笑みを返した。



 問題が起こったのは、海が夕暮れに染まる頃のことだった。
「だめ! 私が仕掛けたんだから、私の!」
 ジーナはバケツを持つビジスに向かってためらいもなく食いかかる。ビジスは彼女を見下ろして、人の悪い笑みを浮かべた。
「だが釣り上げたのはわしだからなァ。これを貰う権利がある」
「だーめー! 私が持って帰るの!」
 もめごとの対象はビジスが釣った一匹のヘイダラだ。この大物が釣り上げられた後も、夕方になるまで三人で釣りを続けた。ビジスによって何匹も得物が上乗せされていたが、ジーナの欲しがるヘイダラが一番の上物であるのは明白だった。
「ビジスは大人なんだから我慢すればいいんだ。そうだろ!」
 急に矛先を向けられて、ペシフィロはぎくりと身を引く。ジーナは援護を求める熱い視線でこちらの目をじっと見ていた。真剣なそれには抗いにくいが、状況を冷静に考えてみれば……。
「でも、ジーナには他にも魚があるんだし……大きいのもあるから、一匹ぐらい分けてもいいんじゃないかと」
「だ、だめだ! ヘイダラがいいんだっ」
「これが一番旨いからなァ。わしも持ち帰って食べたいな」
「ビジスは金持ちなんだからそれぐらい市場で買えばいいんだ!」
「でも、市場は明日まで開かないし……」
「晩酌にするにはこれを持って帰らなくてはなァ」
「ビジスは今日じゃなくてもいいだろー!」
 延々と続きそうな問答から一歩退き、ペシフィロは息をついた。もう魔力の波に意識を呑まれることはない。ジーナによって編まれた髪は、ビジスがしたものよりもいっそう荒く歪んでいたが、一応は効果を見せているようだ。流れる力は感じるが、気分を害するほどではない。ペシフィロは編みこまれた紐の先に触れる。そこだけは女の子らしく蝶々結びになっていた。
 編むことにより路を作り、魔力を望む形に流す。下宿に戻ったらもう一枚鏡を借りて、じっくりとこの形を記録しておこうと思った。流れを見つめ、思うがままに動かしてするりと身を交わすために必要な気がしたのだ。
 これもまた、ビジスからの贈り物となるのだろうか。この老人は道に迷った自分の前に現れては、何も言わずにきっかけだけを投げていく。初めから解りやすい答えを授けることはない。彼はいつも不親切で、それでいてすみずみにまで気を配る。わからない人だ。
「よし、じゃあ何か勝負して決めようか」
「卑怯だ! 勝てるわけがないだろっ」
 ビジスはひ孫ほど歳の離れた少女に向かって楽しそうに遊びを仕掛ける。その愉快げに笑う目が、ふと、こちらを見た。
「どうした」
「あ、いえ。……私は、足の生えた杭になれるのだろうかと。そう、考えていました」
「足が生えなければ今度は羽を伸ばせばいい。敢えて陸に打ち上げられるという手もある。流されるのも選択のひとつだ。別に行く手で苦しむとは限らんだろう。その先こそが辿り着くべき場所かもしれん」
 あっさりと言われた言葉にどきりとした。流れる、流される。
 この国に来るものはいずれはどこかへ消えていく。物も、人も、それぞれが望まれる場所へと。
 ペシフィロは冷めた色の目を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「流れてもいいんですか」
 私は。あなたのもとを離れて。
 これだけの恩を受けて、世界の脅威になるほどの魔術師に育てられた後で、裏切るようにどこかへ去ってしまったら、あなたはどうするつもりなのか。えさを与え続けた魚に逃げられてしまったら。この国を去ることを考えない日はなかった。押し寄せる力の波に潰されそうになりながら、先の見えない人生に暗澹と頭を垂れて逃げようと思った日もある。今はまだ行くあても旅をするだけの資金もない。だが時が全てを解決してくれるだろう。いつか自分はどこにでも行けるようになる。その時彼はどうするのか。
 目に含ませた問いを受け、ビジスは静かに口を開いた。
「この国に居るのはつらいだろう」
「はい」
 少しでも気を抜けば呑みこまれそうな力の流れに晒されるのは苦しかった。
「故郷はまた国境戦を始めた。残してきた家族が気になるだろう」
「はい」
 自分が逃亡したことで、田舎の両親や兄弟にまで国の制裁が及んでいないか心配だった。
「あの国に帰りたいのだろう」
「はい」
 憎しみを抱いても、苦痛を味わされても、それでも祖国と言えるあの地に。
 正直な肯定を耳にして、ビジスはにやりと笑みを浮かべた。
「だがお前は流れない。わしのもとを離れはしないよ」
 あまりにも自信に満ちた言葉と表情。やや呆けて見つめる先では人の悪いいつもの笑い。
 ペシフィロは沈んでいた気分が不思議と明るくなるのを感じて、やわらかく微笑んだ。
「……はい」
 力強い断言は理不尽ですらあるのに、素直に受け止めてしまう。本当に、その通りのような気がした。それは彼を信じ始めていたからだろうか。どんなに苦しい状況に立たされた時でも、新たな路を目の前に提示してくれることをすでに知っていたからだろうか。
 言い当てられていくらかの悔しさもあるけれど、今は、こうして笑っていられることが嬉しかった。
 おだやかな和を破るように、ジーナがむくれた顔で言う。
「私は離れるぞっ。こんなケチケチジジイのところなんてもう行かない!」
「なんだ、そんなに欲しいのか? お前はヘイダラは嫌いだっただろう」
「嫌いだけどいるんだ! 他の魚全部あげるから。だからちょうだい。下さい。お願いします」
「そうだなァ……じゃあ、それ一匹だけでいいならやろう」
 わざとらしくもったいぶったお許しに、ジーナはぱあっとむくれ顔を笑みに開く。
「やったあ! ありがとう!!」
 ビジスの腕に飛びついて、嬉しそうに抱きしめながらぴょんぴょんと何度も跳ねた。外見だけは年頃の娘に見える分、どこか不純な姿に見えてペシフィロは苦笑する。このまま彼女が成長したら一体どうなることだろう。多分、その行く末を自分はこの目で見るだろう。彼は今やそう確信できていた。すべてが流れるこの国で世界を眺める彼のもとに留まって、杭として、柵として。
「やっぱり私も離れない。ビジスとミドリと一緒にいるんだ!」
 ジーナは意見をがらりと変えて、跳ねるように一歩進んだ。
「ミドリ、帰るぞ! 早くしないと夜になる!」
 薄暗くなりかけた空の下、彼女は魚の入ったバケツを大切そうに抱えて歩く。ペシフィロは釣りざおを持って後に続き、ビジスはその隣を歩く。不条理な条件を飲み込んだにも関わらず、ジーナは浮かれた足で帰路を行く。
「でも、この魚は嫌いなんでしょう? いいんですか」
「いいんだ。今日はこれが目的だったから」
 にまにまとゆるむ顔で鼻歌すら鳴らしつつ、ジーナは嬉しそうに言った。
「酢であえて食べるんだ。お父さんが好きなんだ」
 すぐ隣でビジスが笑う。
「今日はこれの父親の誕生日だからな」
 そうなんですか、と言った後で感情は複雑に入り混じる。ジーナにつられて嬉しくなってしまう気持ちと、胸の底から這い上がるような郷愁。得体の知れない不安や寂しさは暗がり始めた空と海のせいだろうか。目に見える波の音は相も変わらず切れ間なく続いている。
「シロハギもあるから焼けば喜ばれるだろう。今年はお前の獲物が一番だ」
「そうだっ。今年はお兄ちゃんに勝つんだ! ハクトルにも負けないぞ」
 どうやらどれだけいいものをあげられるか兄弟で競い合っているらしい。ハクトルという弟がいることは前に聞いて知っていた。ペシフィロはふと気づいてビジスに尋ねる。
「でも、ジーナの分は一匹だけじゃ……」
 残りの十匹以上がビジスのものとなったはずだが。だがビジスは口元に指を立ててにやりと笑った。
「そんなに沢山、二人では食べきれないだろう?」
 楽しむような囁きが、いつまでも耳に残るような気がした。笑いながらさらに続ける。
「まァ調理の方は任せろ。酒が要るな。何本か買っていこう」
 不安な気持ちなど忘れた。まだ体をざわめかせる魔力の波ですら気にならなくなっていた。
 誘われるまでもなく共に過ごすと決められていることが、どういうわけだかやけに嬉しかった。
「ミドリ?」
 足を止めたペシフィロに気がついて、ジーナがくるりと振り向いた。ビジスはその隣で笑う。
「さァ。行こうか」
「はい」
 その答えに迷いはない。
 ペシフィロはほころぶような笑みを浮かべ、二人のもとに駆け寄った。

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