過去編目次


 苦しみながら目を覚ますと、どうしようもない頭痛と吐き気に襲われた。ジーナは痛みを噛みしめながら頭を押さえる。渇いた喉が痛んでいるから風邪を引いたのかもしれない。そういえば体がやけに肌寒いし……と、瞬間的にそこまで考えついたところで、ようやく今の自分の状態にまで目がいった。
 下着すらつけずものの見事に真っ裸で知らないベッドに寝ころんでいる。
 触れ合うほどすぐ近くにこれまた裸で呑気に眠る、見覚えのある男が一人。
「…………」
 ひび割れたように動かない喉の代わりに、心の中で盛大に後悔の念を吐き出した。しまった。ああそうだ昨夜はつい呑みすぎて、それというのもどういうわけだか酒が山ほど置かれていて、その上自分が一番苦手とする種類の物ばかりが集まっていて……。
 回想がその事実に行き着いたところで思考は一時停止した。見開いた目の先には枕に流れる白い髪。いつもはきつく束ねてあるので、彼がそれを下ろしたところを見るのは初めてだったがそんなことはどうでもいい。どうしてあんなに酒があった? なぜ、自分の苦手な種類のものが集まっていた?
「……ジーナ?」
 今更ながらに目を覚ました夜伽の相手が口を開く。眠たそうに開いた目は彼女を見てびくりと怯んだ。ジーナはそれを見やりもせずに掛け布団をはねのける。寒さに小さく息を呑んだ彼のことなど構わずに、室内履きすら履かないまま階下へと駆け出した。幼い頃から何度も通い、目を閉じていても走っていける親しい廊下、慣れた階段。それらを一気に突き進めば居間の方から人の気配。ジーナは迷わずそちらに向かい、勢いよくドアを開けた。
「ビジス! 謀ったな!!」
 中にいたペシフィロが、飲んでいた茶を吹いた。彼は苦しそうに背を曲げて悲しいまでに咳き込み始める。ビジスはそんな友を楽しそうに笑った後で、おもむろに入り口に立つジーナを見た。
「何の話だ?」
 その顔には人の悪い笑みが張りついている。言葉とは裏腹に素直に肯定する表情。ジーナはあまりの怒りに言葉を失い、わなわなと震えながらソファに座るビジスを見下ろす。彼女があの酒に弱いことを知っているのは彼しかいないはずだった。その上わざわざ家を留守にする日に限って大量にあるなんて、不自然にもほどがある。どうして気づかなかったのだろうと思わず自分を責めていると、ビジスの目が彼女の頭から爪先までを、ゆっくりと上下に追った。
「何か着ろ。風邪を引く」
 その視線と言葉で自分の今の格好に気がついて、ジーナは途端に赤面する。見つめられた場所がもれなく熱を持ったようだ、全身が熱く焼ける。だがビジスは小娘の裸などでは動じないというように、いつも通りに彼女に接した。
「台所に二日酔いに効く薬がある。後でしっかり飲んでおけ」
「お前……お前はっ」
「ジーナ!」
 燃える肌にひやりとした布の感触。晒された肌を隠すように白いシーツに包まれた。ようやくここまでたどり着いたサフィギシルが慌ててそれを被せたのだ。彼は下着姿のままジーナの体を抱きしめるように隠している。それでもお前は一枚だけでも履く余裕があったのか、と思うと恥ずかしさと屈辱が倍になって脳を満たした。
「このくされ師弟! 何が薬だ、何が風邪だ! 人を馬鹿にするのも大概にしろ!! お前たちの策略になんか絶対にはまるものか。こんなことはもう二度とないと思え!」
 感情的に怒鳴ってみても、ビジスは平然としてこちらに背を向けるだけ。その態度に怒りはますます熱を増す。取り付いて必死になだめるサフィギシルの手を払い、彼に指を突きつけた。
「いいか、何があってもお前なんか絶対に好きにならないからな!」
 これが、彼に向けた初めての罵倒だった。
 サフィギシルは傷ついた目で彼女を見つめる。ジーナは彼の側を抜けて、ずかずかと足音を立てて二階に戻る。サフィギシルは後を追わなかった。ただ意識を取り落としてしまったかのように力ない表情で、呆然とその場に立ちつくしていた。

      ※ ※ ※

 ジーナは肩の荷が下りた気分で調査の終わった書類をしまう。昼下がりの作業室には、連日連夜の技師作業の賜物となる子どもの人型細工が一体。最終的な調整を終え、あとは依頼主を待つだけのその側にはやつれきった男が一人。
「……海が見たい……」
 サフィギシルは若くしての白髪すら歳のせいに見えるほど、疲れた様子で呟いた。
「見たいだけ見ろ。双眼鏡で」
「潮風に吹かれたい……」
 かろうじて窓に映る海の端を指差すと、サフィギシルはそれを無視して遠い目で言葉を重ねた。ビジスとの共同作業とはいえ、短時間で人型細工を作り上げれば心身ともに疲弊する。まだ未熟な二級技師は床に直に座り込み、心が壊れてしまったようにゆらゆらと体を揺らした。ビジスは彼を無視して片付けを始めている。ジーナもまたサフィギシルなど目にもくれず、仕事用の声でビジスに告げた。
「人型細工女性形一体、確かに承認しました。数日中に登録証を送りますので、確認証提出の後依頼主に引渡して下さい。引渡し後の依頼主との連絡はこちらで承りましょうか?」
「ああ。後はお前に任せる」
「はい。では技師協会で処理します」
「いや、わしは“お前に”任せると言っているんだが?」
 にやりとしたいつも通りの悪い笑み。嫌な予感に身を締めるのと、こわばる肩に手が置かれたのはほとんど同時のことだった。
「じゃ、行こうか」
「何が!?」
 思わず叫んで振り返れば、目に映るのは眩しいほどに爽やかな笑み。サフィギシルは見るからに浮かれきった表情で歌うように言いきった。
「決まってるじゃないか海だよ海。さああの母なる大海に行こうご褒美に。先生ありがとうございます、行って来まーす」
「行かない! なんでお前と一緒に!」
 踊るがごとくの軽い動きで手を引かれるが、ジーナは迷わず抵抗する。いつ、どこで、誰が行くと言ったのか。だがサフィギシルは抗議の睨みを慣れた様子で軽く流し、ビジスに声を投げかけた。
「あ、今晩は泊まってくるんで夕食は勝手に作って食べてくださーい」
「どこに泊まるつもりだ!」
 非難の声など耳にも入れず、サフィギシルはにこにこと笑いながら手を引いていく。意外にも力強いそれは抵抗空しくジーナを外へと連れ出した。廊下に出た二人に向かってビジスが軽く声をかける。
「波に流されないよう気をつけろ。この時期は潮が読みづらいからな」
「はーい。それじゃあまた明日ー」
 サフィギシルは笑顔で師匠に手を振ると、ジーナの手を強く握ってさくさくと歩き始めた。



 どうしてこんな男になったのだろう。ジーナはここ数年での彼の変化に頭を抱えるばかりだった。どれだけ激しく罵倒しても明るい笑顔を絶やさない。怒鳴りつけても飄々として全く話を聞こうとしない。そうしてかなり強引に自分の調子に巻きこんで、楽しそうに笑うのだ。
 最初はこんな人ではなかった。もっと弱い男だった。礼儀正しいと言えば聞こえはいいが、実質的には臆病で腰が低い弱気な青年。この国に来たばかりの頃はそういう人間だったはずだ。
 まだ若すぎたということもある。少年の気配を残す十七歳は、慣れない風土や言葉の壁に打たれては沈み、打たれては沈み、か弱い悲鳴をあげるようにジーナに頼ってばかりいた。
 二歳下のこの男に好かれていると気づくのに、あまり時間はかからなかった。頼りにしているだけではなく、懐いているだけでもなく、ほのかに湧く甘い想いが態度から滲み出ては気がつかない方がおかしい。あまりにもあからさまな彼の様子に戸惑いながら、どうするべきか迷っていた。
 悪い気はしなかった。別に嫌いなわけでもなかった。だがあの人がいる限り、他の男を好きになることなどないのは痛いほどに解っている。だから彼の気持ちに答えるわけにはいかなかった。別の人を想いながら、嘘をついて付き合うのは酷なことだと考えた。
 しかしそんな殊勝な心はすべて酔いに流される。
 その夜のことはあまりよくは覚えていない。
 だが、何もなかったとうそぶくほど記憶がないわけではなかった。
 二人揃ってまともな意識が吹き飛ぶほど酔って酔ってとにかく酔って、熱にぼやける頭を抱えてソファにしなだれかかっていた。どれだけそうしていただろう、長い時間かそれともひと時だったのか。解らないが、気がつけば彼にくちづけられていた。
 ぼんやりと見つめる先で、彼は離した顔を真っ赤に染めてこちらを見ている。
 多分、自分は無反応だったと思う。恥ずかしがるでも嫌がるでもなく、馬鹿みたいに呆けた顔で彼を見つめていたのだろう。そのせいで、彼の目には罪悪感と後悔がありありと浮かびあがる。まるで叱られる前の子どものような、雨に打たれた仔犬のような情けない顔になった。
 ああこいつは今から「ごめん」と言う。絶対に言う今すぐに言う。別にくちづけのひとつやふたつ、謝るほどのことでもないのに。酔いに緩んだ頭で思っていると、本当に口をひらいて謝罪の言葉を言いかけたので、腹が立ってその口をこちらの口でふさいでやった。
 抱きついた彼の体は驚いて硬直していた。それをほどいてやるように、頭を撫で頬をさすり、押しつけた熱い体でやわらかくあたためてやる。こわばった唇を溶かすように舐めて舌を入れれば、彼の手が空いていた背に回された。まるで溺れる者のように必死に縋りついてくる。同じように舌も、足も。焦るように全身で絡みつこうとするのをなだめ、ゆっくりと導いてやれば押し倒されて、そして、そのまま。
 その後の記憶がないとは言えない。しっかりと一部始終を覚えている。彼が何をしたのかも、自分が何をしたのかも。だから逃げることはできない。もう、なかったことにはできない。
 だがここまで強引にあちこち連れまわされる義理はないような気がした。
「海に行くんじゃなかったのかーっ」
 家を出てもうどれだけ街の中を歩いただろう。苛立ちのまま先を行く背に投げかければ、サフィギシルは踊るように軽やかにこちらを向く。人の良い晴れ晴れとした笑みが癪に障った。
「行かないのなら帰るぞ。時間の無駄だ」
「だって久しぶりに外に出られたんだし、せっかく一緒なんだから! あ、待って待ってこれから行くよ」
 早足で踵を返すと笑いながら駆け寄ってくる。掴まれた手はそのまま指を絡められ、逃がさないようしっかりと繋がれた。もはや抵抗する気力もなくて大人しくそれに応じる。サフィギシルはぴたりと体を寄り添わせると、笑いながら耳元で囁いた。
「行きたくないとか言ったくせに」
「人通りが少ない方が恥ずかしくなくていい」
「そうだよね、そっちの方が色々と楽しめるし」
 恥ずかしげもなく言いきられるのにも慣れた。この男に付きまとわれるようになってから、いろんなものが麻痺してきたような気がする。周囲に見せ付けるためだけに街中を歩くのも、わざわざ人に見られるような場所を選んで密着するのも。やめろとたしなめることすら億劫になっている。
 ただ、その代わりに彼を罵る。
「お前のような馬鹿はいつか痛い目に遭うぞ」
「へえ、どうせならその相手は君がいいなあ」
 サフィギシルはくすくすと笑いながら、握った手を大きく振った。遊びに行く子どものように力いっぱい腕を揺らす。ジーナの腕も無抵抗に同じだけ揺らされる。
「この浮かれた腕を切ってやろうか馬鹿男」
「外した腕は大切にしまっておいて、僕の命日に取り出しては涙を流してほしいな」
「海に放り投げてやる」
「じゃあ海の中で泣いてよ。そんな髪留めなんか取って、水の中でなびく髪に包まれてさ」
 思わず頭を彼から遠ざけ、空いた手で髪留めを押さえる。装飾のない革製のそれは、もう何年も愛用しているものだった。毎朝必ず長い髪をこれでまとめあげている。使わない日はないほどにいつも身につけていた。
「髪は下ろした方が好きだな。せっかくきれいな黒髪なんだし、ちゃんと見せなきゃ勿体ない」
「さわるな変態」
「いい言葉!」
 言った後で自分の台詞が気に入ったのか、彼は随分楽しそうにけらけらと笑いだした。離れない手が無作為な動きで揺れる。ジーナは呆れて言葉もなく足を進めた。だが前方の店から出てきた男を見て立ち止まる。揺れていたサフィギシルの手もぴたりと止まった。
 動揺が密着した手のひらから彼へと伝わる気配がする。ジーナは心を落ち着けようとしたが、目の前を横切ろうとした男がこちらに気づいて、びくりと指が動いてしまった。身なりのいい中年の男は若い二人を眺めると、ジーナに小さく笑いかける。どこか暗く歪んだ笑み。それはすぐに取り下げられて、男はジーナたちなど最初からいなかったかのように、顔をそむけて去っていった。
 手のひらを浮かせてみると、嫌な汗が風を受けて肌に冷たいものを感じた。逃れようとした手を強く握りなおされる。サフィギシルは痛いほどに力を込めて、遠くに見える海に向かって何も言わず歩きだした。ジーナも、一言も口にせずにただそれに従った。



 海は潮が引いていて、遠浅になっていた。満ちていれば水に沈む砂浜も、今日は広く暖かい陽に晒されている。暑い時期を過ぎているので泳ぐ人の姿はなかった。散歩をする若い男女が一組いるが、彼らは席を譲るように楽しげに去ってしまう。
「海だなー!」
 解りきったことを言って、サフィギシルは繋いだ手を振り上げた。無抵抗のジーナの腕もそのまま空にあげられる。その後はまた沈黙が降りてきた。サフィギシルはじっと海を見つめている。だが思惑は別のものに向けられているような気がした。
 ジーナは彼に倣って広く浅い海を見つめる。随分と遠くから、もどかしいほどの動きで波が来てはささやかな飛沫を散らす。泡立つそれを引き連れて、また広い海へと戻る。白波は生まれてはすぐに海へと還り、何事もなかったかのようにただの透明な水に戻る。
「さっきの奴、昔の男だろ」
 波に奪われかけた意識は彼の声に引き戻される。すぐ側で喉がかすかな笑みに震えた。
「解りやすいなあ。ほんっと年上に弱いよね。何やってる人?」
「ちょっとした妾館の経営者」
「うわあ」
 顔は優しく笑っているのに、声は苦く冷ややかだった。
「あの人にいろんなこと教えてもらったんだ」
「ああ。そうだ」
 善いことも、悪いことも。表沙汰にできることも隠さなければいけないことも。恋人として付き合っていたとは言えない。世間知らずの無謀な娘が、しばらくの間遊んでもらっていただけだ。だがそれでも恋に似た感情は確かにあった。一方的で、わがままで、憧れに彩られた利己的な欲求が。
 彼は冷たい声で笑う。
「あの人、先生に似てるね」
 後を引く低い声をその場に残し、サフィギシルは海に向かって駆け出した。焦るように靴を脱ぎ捨て、ズボンの裾を引き上げながら音を立てて波を踏む。留めようとした裾はすぐに押し寄せた波に呑み込まれ、膝の上まで濡れてしまって彼は声を立てて笑う。
 ジーナは砂浜に座り込んだ。ひどく、疲れていた。
 気づかれてしまったのは、その濁りが彼に関わるものだからだろう。座り心地の悪い地面に余計に疲労を感じつつ、海に向けて足を伸ばす。サフィギシルは笑いながら子どものように水で遊ぶ。もっとあちらに近づけば、この足も波にのまれてしまうだろう。そうすれば何かが変わってくれるだろうか。
 子どものころはよくここに来て、海に石を投げていた。浜辺に手ごろなものがある限り、延々と、延々と、楽しくもないその動きを繰り返した。どうしてかと訊かれれば、答える言葉はいつも同じ。
 石を投げたら海が怒るかもしれないから。
 聞いた者はみな怪訝に眉を寄せていた。説明しても誰にも理解してもらえないと解っていたから、ジーナもそれ以上は答えなかった。
 積み上げられた積み木があれば必ず崩す子どもだった。砂でできた城があれば壊したくてたまらなかった。なめらかに静まる水面は叩かなければ気がすまない。きれいに整えられた秩序を乱したくて仕方がない。
 崩して、壊して、叩いて、乱して。そうして誰かを怒らせる。怒鳴られるかもしれない。場合によっては叩かれるかもしれないし、酷ければ怪我をする可能性もある。痛いのは嫌だ、恐いのは嫌だ。だがどうしてもそこに近づきたくて、人の闇を覗いてみたくてじっとしていられない。
 いつも優しい大人でも、飾られた表面をめくってしまえば奥にある闇が見える。触れれば指がしびれるほどに冷ややかで恐ろしい、悪意をはらんだ巨大な闇が。それが表にあらわれざるを得ないことをしてしまったら、あの人はどんな顔をするだろう。あの人は、この人は。
 実際に怒らせれば泣くのはこちらの方なのだ。自分で起こしたことなのに恐くて恐くて仕方がなくて、いつも必ず後悔する。だがしばらくするとまた欲が湧いてきて、もう一度悪いことをしたくなるのだ。
 家族にはそれをこっそりと告白していた。弟はわけがわからず馬鹿にするように笑った。母は困った顔をして、誰かに相談しようかと考えているようだった。兄は少しだけ解ってくれた。その場では否定して去っていったが、後になって自分も時々そうなるのだと教えてくれた。
 父には、こっぴどく叱られた。だが彼に怒られるのには慣れているので恐ろしく感じない。父に悪さをするのにはもうすっかり飽きていた。もっと深く痺れるような闇に触れてみたいと思い、ジーナは留守だったビジスの家にいきなり不法侵入した。はじめは小さな悪さをひとつ。だが次第に手が進んで家中のものに思いつく限りのいたずらをした。ビジス・ガートンの持ち物に、あれほどまでに傷や汚れをつけたのは多分彼女だけだろう。割れるものは割り、折れるものは折り、汚せるものは全て汚した。
 そうして日が暮れた頃に我に返り、改めて家の中を見回せば、あたりには自分の起こした惨状が広がっている。どうしてこんなことをしてしまったのだろうか、相手はとてもえらい人だから捕まってしまうだろう。その前に自分は殺されて、家族もみんなひどい目に遭わされてしまうかもしれない。どうしようどうしよう、と怖くなって部屋の中で泣いていると、ビジスが家に帰ってきた。
 彼は凄惨な状態の部屋を見て、その中で泣きわめく子どもを見て驚いた。彼が本気で驚くことなど滅多にないと知ったのは、それからずっと後のことだ。ビジスは火が付いたように泣く彼女を放置して、一番遠く離れた部屋から黙々と片付けを始めた。怒っている様子はなく、むしろどれだけ念入りに悪さをしたかを知れば知るほど、彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。それは優しい表情などではない。今思えば、あれは、好敵手を見るものによく似ていた。
 全ての片付けが終わった頃には、こちらも既に疲れて泣きやんでいる。すっかりきれいになった部屋で、ぽつんと座った幼い子どもの側に座り、彼は事の理由を聞き出した。涙混じりのたどたどしい説明をひとつひとつしっかりと聞き、全てを話し終わったところで腹を抱えて笑い出す。彼はしばらくの間本気で笑い、うっすらと涙すら浮かぶまだ笑みの引かない顔で言った。
「面白い。気に入った」
 多分、その瞬間、彼女は彼に囚われたのだ。
 一生逃れることのできない大きな手に捕らえられてしまったのだ。
 だがそれを感じたのは本当に一瞬だけで、気づきかけた想いはすぐに、心の中の奥深くに吹きとばされることになる。気に入ってくれたのだから庇ってくれるかと思ったのに、ビジスはジーナの父に何もかも報告した。当然父は今までに見たこともないほど激怒して、その夜は遅くまで家に入れてもらえなかった。悲しみと屈辱の中、自分のことを棚に上げてビジスを強く恨んだのは、まだ十歳の子どもには当然のことだっただろうか。次の日からビジスの家にことごとく通い詰め、隙さえあれば悪さをしようと狙うのが日課になった。
 それからもう十年経つが、ビジスを本気で怒らせるのに成功したことはない。
 何をしても、何を言っても、彼はただ平然とそれを受け流すのだ。
 海は石を投げても怒らない。ひと時の乱れを見せてもそれはすぐにただの水へと戻っていく。
 石を投げても、砂を投げても。海はただ広く大きくそこに佇んでいるだけ。
「っわあ!」
 ばしゃん、と派手な音を立ててサフィギシルが転んだ。彼は前のめりに海に倒れ、頭までびしょ濡れになってしまう。
「ばーか!」
 ここぞとばかりに大きく叫ぶと彼は声を上げて笑った。呼びかけに答えるように、こちらに向かって微笑みかける。優しさすら感じられるあまりにも人の善い笑顔。のっぺりと貼り付けられたような、微動だにしない不気味な笑い。平穏なそれはまるでなめらかな水面のような、整えられた秩序のような。
 壊したくて仕方がない。
「ばーか、間抜け男!」
「ひどいなあ」
 声をさらに張り上げてもサフィギシルは微笑みを崩さない。
「泣き虫、自虐性! お前なんか絶対に好きにならないからなーっ」
 何度繰り返したか解らない言葉たち。サフィギシルは海の中に立ちつくし、ただこちらをまっすぐに見つめながらにこにこと笑っている。崩れない笑顔、平坦な笑い。ジーナは彼が傷つくであろう罵倒を思いつく限りに投げる。自尊心を傷つけるように、その傷を抉るように。性的な欠点を口にするのに抵抗はない。知っているからこそ言いきれる酷い言葉を執拗に投げつけた。
 まるで海に石を投げるように。何度も、何度も、彼の心を少しでも乱すように。
 思い当たる言葉が出尽くして、どうしようかと若干ためらう間が空いた。サフィギシルは全身を海水に濡らしたままこちらを見ている。微笑みは動かなかった。ずっと、変わらず笑い続けていた。
 彼はこちらに一歩を踏み出す。ジーナは思わずびくりと震えた。サフィギシルは笑いながらゆっくりとこちらに近づく。白い髪から海水がしずくとなって垂れていき、変わりのない微笑みを濡らしていく。絞りもしない服からは雨だれのように水がこぼれて砂浜に染みを作る。
「お前は本当は笑っていない」
 ジーナは冷めた目で彼を見つめた。サフィギシルは変わらぬ笑みを浮かべたまま、一歩ずつこちらに近づく。
「その顔は嘘の顔だ。そうやって何もかも笑顔に隠す。抱えた毒を見せないように抑えこんで、うわべだけで人に触れる。行儀良くするのに慣れきってしまったんだろう? 周りの人に優しい人と認められて、それを壊さないよう言いたいことを誤魔化して。そうして良い子を演じてる。本当は優しくなんかないのに、優しい人になろうとしてる」
 誰もが彼を出来のいい弟子だという。好青年、優しい人。誰一人彼が裏に隠している大きな闇に気づかない。どうして解らないのだろう。たった一つの理由のために、もはや好きでもない女に固執する。恋人同士に見せかけて何度も甘い言葉を囁く。一人の女を縛り付けるためだけに、たくさんの人間をひとりずつ脅しては深い傷を刻み込む。そんな男がどうして善い人と言える? それだけのことをしても笑みを絶やすことのない化け物じみた存在を、どうして優しい人と言える?
 サフィギシルは微笑みを貼り付けたまま、一歩ずつこちらに近づく。
「お前のそういうところが嫌いだ。怒らないお前が嫌いだ!」
 ジーナはたまらず身を引いた。腰から下が動くことを拒否している。逃げようにも動かない。
 不気味な笑みで近寄る彼に、最後の石を投げつけた。
「お前はいい人なんかじゃない。ただの汚い悪人だ」

 潮風が二人に強く吹きつける。
 彼の手が、こちらに伸びる。

「そうだよ」

 かしゃん、と壊れるような音を立てて髪留めが外された。長い髪が脱力と共にほどけ落ち、風の中に乱れ舞う。彼は彼女の唇を深く吸った。海水と砂と乱れた髪が二人の口に挟まれる。払いもせず除けもせずそのまま舌で掻きまわす。舞う髪は濡れた彼の体に捕らえられて彼女の肌に擦りつけられた。彼は組み伏せるようにして荒々しく彼女を貪る。海水を含む重い服が乾いた彼女を濡らしていく。海の中に取り込んでいく。
 拒んでいた彼女の手はいつしか彼の首へと回り、束ねたまま海水に浸された髪を掴む。握りしめると、絞られた潮水が手首からやわらかい肌を伝って服の中へと忍び込んだ。同じように彼の手も、潮と砂にまみれたまま服の中を撫でさする。
「っは! ははははは、あはははは!」
 彼はたまらなくなったように笑った。声を上げて、高く高く。
 起きかけた彼女の体を突き飛ばして砂浜に押し付ける。強い力で上から押さえ、身動きの出来なくなった姿を笑う。掴んだ肩を握りしめれば彼女の顔には恐怖がよぎる。それすら愉悦の元となり、彼は顔を笑みに歪める。
「馬鹿だなあ。言わなきゃいいのに」
「……そういう性分だから」
「可愛い」
 つり上がる口で言うと、また深くくちづけた。離された顔には暗い闇が覗いている。その目にはもう昔のような罪悪感はかけらもない。あるのはただ泥にまみれた荒々しい悦びだけ。
 彼は彼女の上に倒れこんだ。彼女は重みを受けてうめき、彼はそれを感じて笑う。濡れた服が彼女の体を冷やしていった。水滴が肌をむず痒く伝っては落ちていく。密着した耳元で彼が囁く。
「好きだ」
「嘘つき」
 即答するとすぐ側にある彼の喉がくつくつと笑みに震えた。ジーナは静かな目で彼を見つめる。感情の抜けたまなざし。自分でも驚くほどに冷静な声が出る。
「お前は私が好きなんじゃない。意地になっているだけだ」
「何に対して?」
「ビジスに」
 迷わず言うと、彼は愉しそうに笑って言う。
「っははは! そうだよ、僕はあの人が嫌いなんだ。忘れろよあんな奴」
「無理だ」
「僕が忘れさせる」
「お前には出来ない」
「出来るさ!」
 突き抜けるような明るい声で言った後は、また弾けるように笑いだした。
 奪い取った髪留めを掲げ、蔑みの目で見上げる。
「こんな飾りも取ればいい。君の中のあいつを全部消してやる」
「そうして全部なくした後は、私なんかいらなくなるんだ」
 ジーナは取り返そうとせず、ただ静かに彼を見つめた。ビジスからもらった大事なものだ。何年も何年も肌身離さずつけ続けている大切な。だが、手を伸ばせばいたずらに彼の嗜虐心を煽るだけ。
「本当は好きでも何でもないくせに。私がビジスを好きなのが気に食わないだけだろう?」
「君だって同じだ。その目は今誰を見てる?」
「お前と同じ人間を」
 水色の瞳をまっすぐに見つめて言うと、彼は楽しそうに笑った。今日見せた中で一番の笑顔だった。
「二人してあいつに片想いしてるようなもんだ! さすがはビジス・ガートンじゃないか?」
 そうだ、と目だけで頷く。彼女は彼の中にビジスを見ている。本性を剥き出しにした彼の奥にはビジスが見え隠れした。歪んだ笑みを浮かべる口は恐ろしくビジスに似ている。笑い方一つとっても聞き違えてしまうほどに。
「わからないんだ。君が好きだからあいつを嫌いになったのか、あいつを嫌いになったから君が欲しくなったのか。でもそんなことはどうでもいい。いつか君の中からあいつを消す。それだけだ」
 彼は彼女のまなざしの先にビジスを見ている。あの老人へと向かう彼女の想いを深く深く憎んでいる。彼女がそのままの自分ではなく、奥にいるビジスの影を見つめているのが、何よりも気に食わない。
「僕だけを見せてやる。目を閉じてもこじ開けてやる」
 低く囁く彼の声には狂気すら感じられた。
 あと一歩踏み込めば壊れてしまうような気がした。自分も、彼も。
「馬鹿だなあ。触れなければよかったのに」
「そういう性分なんだ。生憎と」
 砂でできた城は壊す。なめらかに静まる水面は叩く。
 きれいに整えられた秩序は壊さなければ気がすまない。
 サフィギシルの顔が笑みに歪む。ビジスと全く同じように。
 それを目にしてしまえば彼女は抵抗できなくなって、彼に体を許してしまう。何度でも、何度でも。そうして肌を重ねてきた。偽物と知っていて、相手を傷つけると解っていて、それでもビジスを求めるあまりに。
「……僕だけを見せてやる。あいつを忘れさせてやる……」
 彼女の肌にくちづけながら、彼は低く呟いた。それはまるで呪詛のように執拗に繰り返される。彼女は罪悪感に押されて彼の頭を優しく撫でた。抱え込んだ彼の首がわずかに震える。泣きだしそうなか細いうめき。
「……ここじゃいやだ。うちに行こう」
 ジーナは震える彼の背中を落ち着かせるように撫で、天を仰いで呟いた。縋りつく彼の体は冷えていた。波立たせた暗い闇は、あまりに脆い彼には重く、結局はいつもこうしてなだめてやることになる。
 いっそ彼にのまれてしまえば楽なのに。押し寄せる波に引かれて深く深く溺れることが出来たなら、こんなにも情けなくて悲しい想いは抱えなくても済むだろう。だが彼にはそれだけの器がなかった。たくさんの人間を引き込んで、壊して、沈めて、それでも悠々と構えているビジスとは違うのだ。
「ほら。行こう」
 ジーナは彼の頭を抱え、まるで子どもに話すように甘く優しい声をかけた。
 サフィギシルは顔を上げて彼女を見つめる。見上げた目はどこかうつろに濁っていたが、呆れて笑う彼女を見ると、弱々しく微笑んだ。

 波は大きなうねりとなって押し寄せては飛沫を散らす。打たれて荒れた浜辺のものを引き連れて、また広い海へと戻る。
 だが波は生まれてはすぐに海へと還り、何事もなかったかのようにただの透明な水に戻る。
 石を投げても変わらない。海はまたいつものように、静かな水面を取り戻す。


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