ある年の夏入月十五の日、一人の娘が病に伏した父親を助けるため故郷を旅立った。 三年後の夏入月十五の日、彼女は長い長い旅路の末に病を治す薬草を見つけだす。だが我が家に戻ると父は既に死の淵を歩んでいて、娘の顔すら解らなかった。彼女は溢れる涙で薬草を練り上げて父の口に溶かし込む。すると娘の願いが奇跡へと転じたのだろうか、父親はみるみると回復し、起き上がって共に喜びをかみしめたという。 このことから夏入月十五日は父と子の絆の日と定められ、各家庭でさまざまな孝行が行われている。 「先生が言うには、父親はただの夏風邪だったという説もあるそうですよ」 部屋の中は夏の気配に炙られるように暑かった。サフィギシルは冷水に浸けたタオルを固く絞りながら続ける。 「まあ、要するに体調を崩しやすい季節だから注意しろ。ということだそうで。以上伝言でした」 「……うるせえ黙れクソジジイって返してくれ」 不機嫌な声に呆れ混じりの苦笑をもらすと、彼は冷えたそれを寝込む店主の額に乗せた。 アーレル市街部裏通りには奇妙な黒い店がある。魔術技師の部品を扱う店内は退色を避けるために薄暗く閉じ込められて、夏場となれば嫌というほどこもった熱に溢れていた。 ここは、その奥にある店主が生活するための場所。長年同じ場所で仕事を続けてはいるものの、この頃になると店主は必ず一度は夏の病に寝込む。その間は店の方も休業となるが、もともとそれほど渇望されるほどの仕事でもないので、三日四日の休業など大して困る者はいない。 ただ、部屋の奥で頭を抱える小さな子供を除いては。 「ピィス、思いついた?」 「全然だめ。あー、今更作戦変更ったって思いつかねーよー」 振り向いたサフィギシルに、ピィスは諸手を投げ出したまま店主の作業机に伏した。簡素な机上に散らばるのは作りかけの鳥型細工の部品たち。ピィスは工具をつまらなさそうに端へとどけて、拗ねた顔でベッドに寝込む店主を睨んだ。 「なんでこんな時に風邪なんか引くんだよ」 「うっせえな。それぐらいの細工物も作れないで俺に口出しすんじゃねえ」 「まあまあ。ピィス、別にちょっとぐらい遅れても構わないんじゃないかな。ペシフさんならいつ何を貰っても泣くほど喜ぶに決まってるし」 サフィギシルは人の良い笑みを浮かべて提案する。あの何よりも娘に弱い魔術師ならば、日付どころか品物が何であろうと喜ばないはずがない。だが、その娘は幼く口をとがらせた。 「でもさ、初めての父の日だから。なんか形になるものあげたいなって。……いつもさ、迷惑かけてるし」 ぶらぶらと揺らした足が机の内を軽く蹴った。恥ずかしそうに俯いた耳元がほのかに染まる。 サフィギシルが困ったように小さく唸ると、横目でそれらを見ていた店主がわざとらしい声を出した。 「そういえば、店の奥に組み立てるだけの部品の“合わせ”があったようななかったようなー……」 「本当? それ、オレにも作れる!?」 飛びついてきたピィスの視線を避けるように、店主はよそを向いて続ける。 「まあどこぞのガキでも頑張れば作れないこともないかもなー」 「やる! どこにあるの、教えて!」 「言っとくがかなり高えぞ。金はあるのか」 「えーとえーと、出世払い!」 悩んだ挙句の真摯な声に思わずぷっと吹き出した。店主は実の娘を見つめるような優しい苦笑を浮かべて告げる。 「馬鹿、そんな気の長いもん待ってられるか。今回だけはただで作らせてやるよ」 ピィスは一瞬戸惑うように彼を見たが、すぐに顔を喜びに溢れさせる。店主はからかうように言った。 「孝行娘に奇跡の授与だ、さっさと探して作って来い。不運病の親父には特効薬に違いねえ」 「ありがとう! あっちにあるんだよね、行ってくる!」 「転ぶなよ、下手に色々触るんじゃねえぞ!」 付け足された言葉は聞こえたのかどうなのか、ピィスの姿はあっという間に店のほうへと消えていった。サフィギシルは二人を見つめて楽しむような笑みをもらす。ずいぶんと嬉しそうに、店主に向かって頭を下げた。 「ありがとうございます」 「お前に言われることでもねえよ。……初めての、父の日か」 「はい。去年はそれどころじゃなかったけど、おかげでやっと落ち着きました」 「ま、子育ても一回大きく失敗してりゃそれなりに上手くなるってことだ」 ピィスがこの国にやってきたばかりの頃は立て続けに波乱が起こった。引き取ったばかりの娘に手を尽くせないペシフィロの代わりに、しばらくは店主がピィスの面倒を見ていたのだ。 彼は発熱に染まる顔を押さえ、嘆息と共に愚痴をもらす。 「ったく、どこぞの馬鹿は年に一度の孝行の日にどこで何をしてんだか」 彼の娘は数年前に大喧嘩をして家を出ている。それからはたとえ顔を合わせても親子としては話をせず、全くの他人として無視を決め込む冷戦が続いていた。強情なこの親子はいつまで経っても和解せず、お互いの近況すら探りあうことがない。 サフィギシルは悪くなった空気をかわして何気なく口を開く。 「きっと心配してますよ。風邪を引いたことは昨日伝えておいたし」 店主の動きがぴたりと止まった。 数瞬ののち、どこか脅すように言う。 「……余計な手まで回すなんてクソジジイに似てきたか? あ?」 「ははは、変なところだけ似るのは嫌だなあ」 余計なことを、とでも言いたげな睨みすら軽くかわし、サフィギシルはただ笑う。逸らした目は笑みの形をしていないがいつものことだ。店主は小さく舌打ちをして、あてつけるように訊く。 「お前の方はどうなんだよ。おとうさまに何か孝行しねえのか?」 「……もう恒例のことなんですけど。この日になると、先生は絶ッ対に僕をわざと怒らせるんですよ。とにかく気に障って仕方がないのに世間的には咎められない微妙な線をついてくるんです。もう腹が立って腹が立ってしょうがないっていうのに。なのに」 ぐっ、と強く拳を握り、サフィギシルは屈辱を吐き出した。 「夕方ぐらいになると、何か孝行しないと気がすまなくて……! そしてどんなにこっそりと実行しても、絶対にあの顔で笑うんです。毎年毎年そうやって敗北感に打ちひしがれることになるんですよ僕は!」 店主は病に弱った顔を諦めのような形に歪める。 「それがビジス・ガートンだな」 「ええ。どこまで行ってもあの人はあの人です。だからもう諦めて、今日は夕食のおかずを一品増やしてあげようかと」 「小せぇなおい」 ささやかすぎる彼なりの孝行に呆れていると、店のほうからピィスの声がこちらに届いた。 「サフィー! ちょっと手伝ってー!」 サフィギシルはすぐに椅子から腰を上げ、店に向かって声を返す。 「わかった、行くよー! じゃあ、あっちに行っていますね」 「おう、さっさと手伝ってやれ」 そう言った途端に続けてかすれた咳が出た。店主は心配そうに見つめてくるサフィギシルの目を手で払い、いいから行けと仕草で言う。 サフィギシルは素直に店へと向かったが、部屋のドアを開けたところで足を止める。 彼はどこか意味ありげな笑みを浮かべ、ゆっくりと振り向いた。 「そういえば、先生からちょっといい話を聞いたんですよ。この家は裏口の鍵がいつも開けっ放しなんだって。店には別の頑丈な鍵をつけてあるけど、こっちの居住空間は泥棒だろうが何だろうが簡単に侵入できるようになってるんですよね」 彼は複雑な顔をした店主を楽しむように笑う。 「娘さんが、いつ帰ってきてもいいように」 店主は途端に気まずそうな顔になる。目を逸らし、つまらなさそうに吐き捨てた。 「……別に、あんな馬鹿娘。いつ路頭に迷って泣きついてくるか解らねぇからな、その時のために開けてんだよ。本人は気付いてねえだろうけどよ。親の心子知らずってか」 「そうでもないんじゃないですか?」 サフィギシルは屈みこんで何かを拾うと放り投げる。 「知ってるみたいですよ。彼女」 投げた物は言葉と同時に店主の胸元に着地した。店主はそれを取り上げて凝視する。 小さな袋だ。口には紐で紙が括りつけられていて、そこには見覚えのある字でたった一言。 朝昼晩、食後に三錠。 中を見るとざらりとした黒い粒が入っていた。 ドアの外、廊下にぽつんと置かれていたもの。それは彼が毎年必ず世話になる夏風邪用の薬だった。丸くした目を離せない。ただ、じっと娘からの贈り物を見つめる。 「じゃ、お大事に」 笑みを含むサフィギシルの声と、ドアを閉じるかすかな音が同時に響いた。 店主は途端に顔を赤らめ、両手で隠すように覆う。 「あー、くそ。ちきしょう」 ちきしょう、と口の奥で何度も何度も呟くと、悔しそうに吐き捨てた。 「ちきしょう。……嬉しいじゃねえか、くそっ」 口の端がゆっくりと上がっていく。どうしても笑ってしまう。 店主は熱い額を叩くと、どうしようもなく悔しそうな顔をして、それでも嬉しそうに笑った。 夏入月十五日、それは小さな絆を味わう日。 |