過去編目次


「大人しいな」
 唐突な感想に指が跳ねた。勢いで掴んでいた小さな箱をこぼしそうになったのは、まだこの店の空気に慣れていないためだろう。黒く閉ざされた薄闇の中には義手や義足がすだれのように下がっている。足元のかごの中にはまるで本物のような目玉が山のように積まれていた。彼の右手の箱の中にも、精巧な義眼が一組。
 落ち着かない様子を見てか、店主はカウンター越しに呆れを含んだ目を向ける。
「緊張するのは解らないでもねぇが、死ぬほど高い売り物だ。落としたりしないでくれよ」
 ペシフィロは申し訳ない気持ちのまま会釈して、手の中の箱を固く握った。
 アーレルに来てしばらくの時が経ち、新しい生活にも慣れ始めてはいるのだが、魔術技師の独特な世界にはいまだ馴染むことができない。この店に品物を届けるのも初めてのことではないが、それでも店の中に入った途端の拒否感は拭えないまま肌を覆う。明るい店の外に出るまで緊張が体を抜けない。
「ま、慣れなくても別に構わねえが。そんなに握ると砕けちまうぞ」
 ほら、と言って店主は腕を長くこちらに伸ばした。ペシフィロは弱気が顔に浮かぶのを感じつつ、ビジスから預かった品物を渡す。無精ひげを生やした店主は確かな手つきで受け取ると、ふたを開いて商品を確認した。
「義眼八の四〇五、確かに。……兄ちゃんよ」
 店主は箱の中の目玉を見つめながら言う。
「あんたあのクソジジイと出会ってどれぐらいになる?」
「一月半、ぐらいでしょうか」
「若いな」
 理由の知れないため息をつくとカウンターに箱を置く。店主は椅子に体を投げ出すように座り、組んだ足を箱のすぐ側に乗せた。短く刈った黒髪を不機嫌そうにかき乱す。
「脅したいわけじゃねえけどよ、あまり懐くもんじゃねえぞ。気を許すと痛い目にあわされる」
「そんな、なつくなんて。滅相もありませんよ」
 返答としてひとまずは思ったままを口にした。ペシフィロはドアの方を気にしつつ、どう話を終わらせようかと考えるが店主は更に口を開く。
「そうじゃねえよ。……あー、どう言えばいいだろうな。あんた、滅多に怒らねぇだろ」
「え?」
「見るからに気ぃ弱そうだもんな。平和主義かことなかれ主義なんじゃねえか」
 ひと時の沈黙の間に様々な思いが脳裏を巡る。平和主義、という言葉を噛みしめると酷く苦い味がした。ペシフィロはそれを隠すように、はっきりとした声で言う。
「はい」
 いやに強く響いた言葉に店主は眉をわずかに寄せた。ペシフィロの顔を改めて検分するように見る。緊張の奥に抱えた決意に気がついたのか、彼は眉間を更に寄せた。
「別に、あんたがどんな性質だろうが俺には関係ねぇけどよ。一つだけ言っておく。ビジス・ガートンは人を怒らせることに関しては、本当に、天下に並ぶ者がねえぞ。どんなに優しい善人だろうが、穏やかな平和主義だろうが、あのジジイを憎まないやつはいねぇ」
「…………」
 思わず反論を口にしかけたが、どうしてだろうか続く言葉を見失った。考えてみれば自信を持って口に出せる理屈など持ち合わせていない。ペシフィロはせめて何かと形にできるものを探し、不利な姿勢のままに言った。
「そういう風には……見えませんが。あの、完全にいい人という意味ではなくて。悪いことをしても、それには意味があって、理不尽な悪事ではないというか……」
「だからタチが悪いんだ」
 店主はどもる語りを遮り忌々しげに口を開く。
「覚悟しておいた方がいいぞ。あのクソジジイに関わると、自分は悲しいまでに人間なんだと思い知らされる」
 組んだ手を膝に重く乗せると、彼はやけに苦く笑った。


 黒く塗られた二重扉を一つ一つ潜りぬけると、目を焼くほどの明るい日差しの中に出た。自然と体が軽くなる。胃の中まで凝り固めていた緊張がどっとほぐれる。ペシフィロは息を吐くと、使いを終えた手を軽く開いた。
 賑やかな大通りの喧騒が、裏に位置するこのあたりまで聞こえてくる。この国に根付いた確かな平和が熱く胸の奥に染みた。もう一度店の中で感じた想いを噛みしめる。
 誰かを憎み、戦うのはもう嫌だった。
 そうして人の命を奪い、苦しみながら悔やみながら生きていくのにはこれ以上耐えられない。心を乱さずただ穏やかに暮らしていきたい。彼はそう強く願った。
 そして、それは可能なのだと根拠もなく信じ込んでいた。



 ビジスの家まで戻ってみると、作業場の机の上には見慣れないものが並んでいた。
 真新しい白木の杖に装飾のない腕輪や指輪、小瓶に詰まった絵具のたぐい。ペシフィロは不思議そうに眺めながらビジスに領収証を渡す。
「ビジスさん、これは……」
「呼び捨てていいと言っただろう。気を遣う必要はない」
 ビジスはこちらに目を向けることもなく、受け取った紙に目を通すと机上の箱の中にしまった。
「ありがとう。さて、もう一つ仕事をしてもらおうか」
 そのまますぐに杖を差し出す。ペシフィロは素直に受け取るが、仕様を見ると心の中で首を傾げた。削り出されたばかりなのだろう、表面は手ずれもなくなめらかで加工をくわえた様子はない。削りも塗装も施されていないそれは、自分の知識の領域で言えばまだ未完成ということになる。
「今からお前の魔力を抑える道具を作る。これはその元になるものだ」
「え。……作って、いただけるんですか?」
「そうでなければ使い物にならんだろう? 市販の物を試しに行くわけにもいかん。試用して片っ端から品物を壊しかねんからな、店がいくらあっても足りん。どちらにしろわしが作った方が早い」
 確かに自分はあまりにも魔力が多すぎて、魔術師としてはろくな働き方ができない。膨大な力は術の精度を極端に下げるどころか、下手をすれば暴発を引き起こして我が身や周囲に大きな被害を与えるのだ。
 市販の杖が身に合わないのもそのためで、今まで何度か店にも入ってみたが多くは門前払いを受けた。悪目立ちする緑の髪は多大な魔力を広告する看板のような物だ、変色者に見合う杖は並の店には置かれていない。
「最初からお前に合わせて作らなければ杖として使えない。流れる力がどんなものかをまずは見極め、その後で上手く制御と調節ができるように加工する」
 思わず強く握りしめた手に柔らかな木の肌を感じる。ペシフィロは湧き上がる喜びに押されて勢いよく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! あの、いいんですか、そんな」
「気にするな、必要最低限の投資だ。ともかく早くやってしまおう。一度作ってしまえば方法が確定するからな、いずれは予備を自分で作れるようになってもらう」
「はい! 頑張ります!」
 心の中と一字一句違わない返事をしてきりりと口を引きしめる。
 ビジスはそれを一瞥すると、おもむろに腰を上げた。
「始めよう。この作業は長くなる」
 ペシフィロは促されて先に部屋の外に出る。
 その背後でビジスが剣を取ったことにも、彼の目が静かに冷えたことにも気がつきはしなかった。



 指示された呪文を見ておかしいと気がつくべきだったのだろうか。
 それとも、体に異変を感じた時点で止めておけばよかったのかもしれない。
 まず始めに感じたのは違和感だった。詠唱時に必ず起こる体温の上昇が、いつもより数段早い。自覚しつつも更に呪文を続けると熱はますます上がっていく。
(いけない)
 ペシフィロは危機を察した。熱が額から目にかけて回り体中に広がっていく。首の後ろをちりちりとした痺れが這う。肌の薄皮一枚下で何かが蠢く。それでも口は止まらず呪文を唱え続ける。
(これは)
 握りしめた白木の杖が柔らかく曲り始めた。鼓動が早い、呼吸がそれに追いつかない。喉が渇く、舌がひび割れそうになる。意識が呪文に支配されて体が言うことを聞かない。覚えていないはずの言葉が出てくる、ひとりでに呪文が紡がれる、自らの意志とは関係なく術に全てを飲み込まれる。熱い、熱が、火が、渦が、力が――!

 放たれた凶暴な力が悲鳴すらかき消した。
 視界すら、鮮やかな黄色の光に塗りつぶされた。

 家が揺れる部屋がたわむ倒れた先の床が歪む。耳の奥がひどく鳴った。呻き声を上げながら木敷きの床に這いつくばる。腕に力が入らない、熱が体を焼いている。
 放出された光の後には灰色の煙が嫌な臭いと共に立った。薄れていくそれを霞む目がおぼろに捉える。喉が熱い肌が熱い。逆に脳や内蔵は凍らせたように冷えていく。急激な体の異常に胃液を吐いた。
 強く息を吐きだすと、体がいくらか楽になる。吸い込む空気は細かな粉の感触がした。
 部屋の中は散々に破壊されている。隅に寄せたテーブルが足を割って倒れていた。窓は砕けて外の空気を直接中に吹き込んでいる。壁は黒く焦げ付いて大きなくぼみを生み出していた。
 灰色の煙が風に流され透明な視界が戻る。ペシフィロは呆然とそれを見つめた。
「ビジス、さん?」
 壁に叩きつけられたのだろうか。ビジスは身を二つに折り、うな垂れるように座っていた。下げた頭に表情は窺えず、ぴくりとも動かない。衝撃を受けて右半身に深い傷を負っている。あふれる血がその体を赤く染める。

 急激に把握した血の臭いに思考が白く吹き飛んだ。
 聞こえるはずのない戦場の声を聞いた。熱を感じた。ないはずの剣が手のひらに張り付いている。指一本すら動かせないのは血がこびり付いているせいだ。恐怖に凍っているせいだ。

 人を、殺してしまったせいだ。


 涼やかな風を受けて我に帰る。忌まわしい過去の記憶から現在へと引き戻された。
 途端に全てが凍りつく。恐怖に体が震え始める。
「ビジスさん! 大丈夫ですか、ビジスさん!!」
 呼びかけても老人はぴくりとも動かない。自分が起こしてしまったことの大きさと重さに目の前が暗くなった。これは自分がやったのだ。自分が、彼を傷つけたのだ。絶望的な感情に支配されて足を踏み出す。なんてことをしてしまったのだろう、早く治癒をかけなくては。早く傷を治さなければ。
 焦って歩み寄ったその時、ビジスが、ゆっくりと顔を上げた。
 ペシフィロはびくりと震えて立ちすくむ。何故だかは解らなかった。ただ体が自然とそうした。
 見つめてくるビジスの顔に表情はない。ただ、静かにこちらを一瞥すると、自らの血に濡れた手で眉間を押さえる。

 瞬時、その両眼が灰色に濁った。

 続いて腕を素早く背後に回したかと思うと、ビジスは置いてあった剣を抜くと同時に立ち上がる。
 投げ捨てられた鞘が乾いた音を立てた。
 激痛が、肩を焼く。
「――――!!」
 悲鳴を待たずに続いて脇腹を刺された。抜かれると同時に血があふれる。足が震えて上手く立てない。痛みと恐怖が全身を眩ませる。
 口ばかりが懸命に相手の名を呼ぼうとした。問おうとした。乞おうとした。
 だがビジスは顔色一つ変えず剣を操り、的確な動きでペシフィロの腕を斬り、足を突く。その動きはあまりにも確実で無駄がなく、見えない何かに導かれているようにすら見えた。わざと、急所や深手を避けているのだと嫌でも感じさせられた。
 急速な失血と絶望感に足がもつれる腰が沈む。ペシフィロは手に持つ杖で必死に身を庇おうとするが、もとより弱い木の杖などで防御しきれるはずがない。痛みが動きを制限する。思考が恐怖に鈍っていく。
 ビジスの剣はいたぶるように全身を斬りつける。流れた血に足を取られてへたりこんだ。気の緩みに痛みが倍となって襲う。痛い、怖い、このままでは死ぬ、殺される、殺される、殺される。

 倒さなければ、殺される。

 その言葉が胸を駆けた瞬間手は杖を握りしめていた。痛みも忘れて立ち上がる。腕を振りビジスに杖の頭を向けると文字の羅列が脳裏を流れる。知る限りで最大の殺傷力を持つ呪文、二度と使わないと固く心に誓った禁呪。倒さなければ殺される。倒さなければ、倒さなければ、殺さなければ。
「無駄だ」
 一音目を舌に乗せようとした瞬間、ビジスの剣が喉を捉えた。
 全ての音が存在を消す。湧いた熱が瞬時に引いた。
 血に濡れた刃が喉笛の皮に触れている。
 少しでも動けば、命はない。
 怯えきった目で見つめると、ビジスは二人分の血を浴びたまま、口元を笑みに歪めた。
「痛みの中では罪悪感など失せるだろう?」

 その瞬間に全身を焼いた激情を、何と呼べばいいのだろう。
 目の前が白く眩んだ。その後で、赫く昏い闇となった。
 喉元から剣が離れる。攻撃の意志も下ろされる。ビジスは床に転がる鞘を拾うと血の付いたまま剣を収めた。それを目で確認した途端、体中の力が抜けて、ペシフィロは崩れ落ちる。ついた腕が揺れていた。全身が誰かに揺すられているかのように、がたがたと震えていた。
「まさか、ここまで深く有るとは思わなかった。凡人には無限のように見えるだろうな」
 呪文によってあふれだした魔力のことを言っているのだと解る。それと同時に彼の意図も理解した。
「取り急ぎ魔力を削いだ。傷はもうしばらく塞ぐな、まだ収まりきれていない。魔力が外に出るのを待て」
 ペシフィロは自らの血を凝視した。床に流れたそれは赤い。だが、うっすらと混じるのは間違いのない緑色。自分自身の髪と目にあらわれる魔力の痕跡。
「……血を流させるのは下策だな。すまなかった」
 ビジスはこれを外に流し、肉体の崩壊を防いでくれたのだ。
 あのままでは自分はいずれ溢れる力に呑み込まれて身を潰していただろう。
 二度と起きることのできない、ただの肉の塊に成り果てていただろう。
 気付いた途端に涙が溢れた。喉が熱い。嗚咽がすぐそこまで出てくる。だがペシフィロはそれを堪えるように強く歯を食いしばった。折れてしまうほどに噛む。ぼろぼろとこぼれる涙が床に落ちる。
「傷を洗ってくる。様子を見て治療しておけ」
 足音が去りドアを閉じられただ独り残されると、堪え切れなくなった物が喉から口からうめくような嗚咽となってしぼり出された。傷の痛みと失血による寒気が体を覆っていく。だがそれすら薄れさせるほどの感情が身を焦がしていた。
 それは、悔しさだった。
 固く誓ったはずの意志を、自らの根底を覆されたことへの憎悪だった。
 かつてないほどの激情が痛みすら忘れさせる。まるで内蔵をわしづかみにされ、揺さぶられているようだ。腕を崩して床に伏せると血が顔にこびりついた。刺された肩が熱と痛みを訴えた。
 これだけの傷を負わされても彼に非はほとんどないのだ。
 逆に、正しい処置を執り行なったとされるのだ。
 それは確かな事実だ。だが痛みが、恐怖が、理不尽なまでの憤りを生み出していく。やり場のない感情が膨れ上がる。
 ペシフィロは固めた拳を血に濡れた床に叩きつけた。鎮まるに足りず頭をも打ち付けた。
 そして、そのまま、喉が裂けるほどに意味のない言葉を叫んだ。



 井戸から汲んだばかりの水は凍れるほどに冷たかった。ビジスはそれを頭から被り全身を水に流す。
 冷水は血を固めるが、それでも体に湧く熱を抑えるためには必要だった。
 火照る身が冷えていく。もう一度水を汲み、今度は頭だけを冷やす。
 髪をかきあげ水の残りを指で落とし、どっかりと地に腰を落とした。
 血に固められた袖を破り、傷の具合を確認する。避け損ねた右腕は放出した魔力によって深く抉られ、火傷のようにただれた痕が残っていた。口の中で呪文を唱えて傷を治す。くぐもった詠唱が裂けた肌を再生していく。
 これほどの力だとは思わなかった。こんなにも、底の知れないものだとは。
 だが、“見え”た。
 その力の根底を、この“目”で確かに読みとった。
 ふつふつと笑いがもれる。口元が笑みに歪む。
 ただそれさえ掴んでしまえば後はどうとでも出来る。ただ、それさえ掴んでしまえば。
 ビジスはたっぷりと時間をかけて傷を治した。もう痛みも痕もない。燃え立つような興奮も引いている。
 後処理をするために立ち上がり、そこでぴたりと動きを止める。
「治まったか」
 振り向かずにそう言うと、ペシフィロは歩みを止めた。
「今はまだ魔術の治癒は少なめにした方がいい。包帯を出してやろうか」
 言葉への返答はない。その代わり、静かな声が名を呼んだ。
「ビジス」
 その声の重さに笑う。彼の奥に湛えられた想いの深さに笑みがもれる。
 焦らすようにゆっくりと振り向いた。
「なんだ」
「戦います」
 問いかけには即答がつく。初めから決められていた言葉。
 ビジスは、ほう、とからかうように笑う。だがペシフィロは引きしめた顔をぴくりとも動かさず、冷たく据わった声で続けた。
「人は傷つけません」
 その目は涙に赤く腫れ、拭いきれない血が所々に色を乗せる。
 惨めにも見えるはずの顔にはそれでも強さが浮かんでいた。ひどく確かな目をしていた。
 この男はこれからも、揺さぶりを受けてはそれを乗り越えて来るのだろう。
 そうしてまた自分に強い眼差しを向けるのだ。
 ビジスは高らかな声を上げて笑った。揺るがない相手の目を、笑みに歪むそれで射抜き返す。
「上等だ。やってみろ」
 それは敵を見る目に似ていた。
 同等の好敵手を捉えるものに等しかった。
 ビジスはゆっくりと歩きだし、ペシフィロの側を抜けて家へと戻る。
 その顔には、隠しもしない歓びがはっきりと浮かんでいた。


過去編目次