苦しげな口呼吸の合間に、鼻をすする音が響く。二段ベッドの周囲には、いかにもな風邪の空気が生温く漂っていた。ただその場にいるだけで具合が悪くなりそうで、ジーナは胸に溜まる息を吐く。窓を開けたところで、上の段から泣き言が飛んだ。
「さむい……」
「ばぁか。空気のいれかえはした方がいいのっ。ほら、ちゃんと綺麗な空気吸え」
「ねえちゃんにころされる……」
 病に倒れる弟は、鼻水と涙に声を濁らせた。ハクトルが風邪に倒れたのは今朝方のことだった。よく考えれば数日前から兆候はあったのだ。だが静養を嫌う彼は、子どもらしく寒空の下で遊びまわることを選んだ。おかげさまで熱はぐんと膨れあがり、ちゃんと面倒を見なかったなどと言われてジーナは一日看病である。お前がちゃんと見てないから、と叱られて彼女は大変不機嫌だった。よちよち歩きだった頃ならともかく、ハクトルももう十歳なのだ。ジーナとは友達も遊ぶ地域も違っている。特にここしばらくは、ジーナは新しい「友だち」と遊ぶことに夢中で、遊び飽きた弟になど構っていられなかったのだ。
 窓を閉めると冷たい風は封じられる。ジーナは清涼となった空気の中で、ふと天井に目を向けた。高く積まれたベッドの上から弟の足が飛び出している。はあ、とため息をついてはしごを上った。
「まぁた足が出てる。だから風邪引くんだ。ほら、ちゃんと布団かぶる!」
 蹴り寄せられた毛布と布団を被せなおすと、ハクトルは熱にゆるむ声でうめく。
「あついー。おもいー。ねえちゃあん、おれもうだめだあ。ハナミズにころされるんだあ」
「そんな面白い死に方だったら新聞に載っちゃうよ。なに。今度は何が欲しいの」
 彼の泣き言は、すなわちねだりの前兆だった。ジーナは「まだ何かいるのか」と愚痴をもらす。熱が出たと知った途端、ハクトルはこの技を使ってジーナから二段ベッドの上段を奪ったのだ。場所争奪姉弟げんかに破れて以来、下でしか眠らせてもらえなかった弟は、いまやぬくぬくと高い世界を満喫しているはずなのに。ジーナは食べ物か何かだろうか、と訝しみながら弟の顔を覗いた。
「くるしいよー。ねつがあるよー」
「それはもうわかったから。で、何が欲しいの?」
 甘やかす声で尋ねると、ハクトルは笑顔になる。
「ミドリさん」
「だめ」
 速攻で放たれた却下にハクトルは目をうるませた。
「なんでええ。いいじゃんミドリさんくれよう」
「だーめー。お前なんかお兄ちゃんと遊ぶので十分だっ」
「やだようにいちゃんつまんねーもん。彼女のことばっかり考えてて、おれたちのことなんか忘れちゃったんだあ。彼女にかっこいいところ見せたくて、髪の毛立ててるような人はおれたちのにいちゃんじゃねえよう」
「そんなこと言っちゃだめ。お兄ちゃんだって女の子に騒がれたくて必死なんだから。ねえお兄ちゃん?」
「お前それわざと言ってんのか? それとも俺を見下してるのか?」
 振り向くと、部屋の隅から低い声。ハクトルは目を丸くする。
「あ、にいちゃんの声がした」
「そうだよ。お兄ちゃんは影がうすいしもう遊んでくれないけど、この部屋のどこかで生きてるはずなの」
「そうか。じゃあときどきおそなえしなきゃ」
「お前らそんなに俺のことが嫌いか?」
 別に嫌いじゃないけどぉ、と二人は口をとがらせる。ジーナとは五つ、ハクトルとは七つ歳の離れた兄は、去年から外で働いている。以前のように遊んでくれなくなったから、とまだ小さな弟妹はすっかり拗ねてしまっていた。兄は自分のベッドの上で不満げに丸まっている。
「兄ちゃんはなあ、一生懸命働いてんだよ。うちの生活費の何割かは兄ちゃんの稼ぎなんだよ。わかるか?」
「親方に怒鳴られて泣いてたけどね」
「もうあんなところ行きたくないってこっそりつぶやいてたけどねー」
「お前ら兄ちゃんをいじめて楽しいか?」
 ああもう、と今はまだ下ろしてある髪の毛をかきまぜて、兄は子ども部屋を出る。弟妹たちは恨みをこめてその背に祈りの姿勢を向けた。学校で教わった通りに、目を閉じて静粛に。
 ごほ、と痰にむせる音がささやかな儀式を破った。ジーナが慌てて洗面器を出したところにハクトルが嘔吐する。咳き込む背を撫でてやると、弟の声は今まで以上に弱くなった。
「きもちわるい……」
 言わなくてもはっきりとそれが伝わる顔をしている。ハクトルは熱にうるむ目で、もう一度嘆願した。
「ねえちゃあん。ミドリさんちょうだい」
 おねがい、だの、ちゃんといい子にしてるから、だのとせがみながら、熱い手でぎゅうと腕を掴まれる。この末っ子がどんなに甘え上手かはわかっていたはずなのに、いざとなると警戒も教訓も苦味も過去の損でさえも忘れるのはなぜだろう。彼女は長く沈黙し、敗北にうなだれた。
「わかった。一日だけ貸してあげる」
 ハクトルは、途端にぱあっと微笑んだ。

※ ※ ※

 ハクトルはかけられた布団の中でにまにまと頬をゆるめていた。自然と笑顔になっていくのは、もうすぐ楽しい遊び相手がこの部屋に来てくれるからだ。ハクトルは胃に残る気持ち悪さも忘れて、これからの時間に期待していた。
 ペシフィロがこの国に来て、もう半年になるだろうか。はじめは興味などなかった。だが姉が彼のことを子分とみなし、街中を引き連れて遊びに行くようになると、途端に楽しそうに見えてくる。ペシフィロの手から紡がれる魔術。奥深いそれを操る姉が何よりも羨ましくて、ハクトルは幾度となく遊ばせてと頼み込んだ。それなのに姉はあっけなく突っぱねる。お前には無理だと言って、ミドリは私のものだと言って、笑いながら去っていく。けんかをしてもすぐに負けた。泣きわめいても親からは逆に叱られた。それならば後はどうしても近寄れない壁越しに、きゃあきゃあと嬉しげに騒ぐ姉を見ているしかない。ハクトルはペシフィロと遊びたかった。遠くにいる彼はいつも優しげで、言葉こそ不完全だがいろんなことを知っていた。不思議な異国の人間はそれだけで興味深い。どうしてそんな髪の色をしているのか、どのぐらいたくさんの魔力を持っているのか、今までどんな国にいたのか。尋ねたいことは口にしきれないほどあった。ハクトルはペシフィロが来たらああしよう、こうしよう、とひとつひとつ考えてはくすくすと笑みをもらした。
「トル、ペシフィロさんが来てくれたわよ」
 母の声。ハクトルは彼女が「具合はどう」と言う前に布団と毛布を蹴り上げて、飛び下りる勢いで備え付けのはしごを下るとペシフィロに抱きついた。驚く彼が逃げないよう、力いっぱいしがみつく。
「ミドリさんっ!」
「わっ。大丈夫ですか? 具合は?」
「あのね、あのね、あのねっ。おれね、おれねっ」
 口の中にふくらんだ様々な台詞を言おうとするが、なかなか形になってくれない。ハクトルはぼんやりと暖かい頭で懸命に言葉を探した。あのね、あのね、とそればかり繰り返す間、ペシフィロは根気よくハクトルの話を待っていた。しゃがみこみ、微笑む目線を合わせてくれる。ハクトルは嬉しくて嬉しくて、さらにきゅうと言葉を失くした。あ、あ、と口だけを動かしてぴょこぴょことかかとを浮かせる。ペシフィロはうんうんとうなずきながら、ハクトルの肩を押さえた。落ちついて、と言外に伝えられるが喜びは喉の空気をぽっかりと奪ってしまったのだろうか。ハクトルは何も言えないまま、ただ口を動かした。
「どうしたの? 喉が痛いの?」
 母に問いかけられて首を振る。そうするとくらりとめまいに転がされて、ハクトルは床に倒れた。驚くペシフィロに大丈夫と伝えたくて、慌てて起きようとしたところで、一気に肌が燃え上がる。まるで炎が立ったようで何なのだろうと思っていると、母が体を抱きかかえた。額や首に手をあてて、ため息をつく。
「すごい熱よ。急に走るからひどくなったんじゃない? だめでしょ、ちゃんと寝てなきゃ」
 その一言に頭を殴られた気がした。そうだ、今は風邪なのだからベッドにいなくてはいけない。だがそれではペシフィロと遊べないではないか。あれもしよう、これもしようと楽しみにしていたのに。姉と同じように彼と一緒に遊べると思ったのに。ハクトルはようやく気づいた現実に突き落とされた。心なしか目の前の景色も揺らぐ。心配そうなペシフィロに白いもやがかかっていく。それが涙と気づかぬうちにハクトルは泣いていた。
「ハクトル、どうしたんですか。つらいんですか?」
 わああ、わああと声を上げるとペシフィロは驚いて、不安げに首をかしげた。首を振るがそれ以上の言葉は消えて、ハクトルはただ号泣する。体の中が見えるのではというほどに喉を開いて、大声を上げていく。もはや途中から何が悲しいのか、どうして泣いているのかもわからなくなっていた。ただ全身の熱や軋む節々、止まらない鼻水や詰まっているため苦しい息、ぼんやりと重い頭。そういった体の不調がなんとも言えず悲しくて、悔しくて、ハクトルはわけのわからないまま泣いた。
 それ以上にわけのわからないペシフィロは、おろおろとするばかり。ハクトルは申し訳なくて、困っているペシフィロに言わなければと思うけれど泣き声が止まらない。ちゃんと言葉になってくれない。ハクトルはますます悲しくなって、さらに声を張り上げた。
「どうしたの? どこか苦しいの? 泣いてちゃわからないでしょう」
 言えるものならとっくの昔に言っている。そう母に告げたいがそれですら声にならない。母は申し訳なさそうに、ペシフィロに向き直る。
「ごめんなさいね、わざわざ来てくれたのに。少し寝かせた方がいいみたい」
「そうですね。随分熱があるようだし、安静にしてないと……。ハクトル、大人しくしてればすぐによくなりますからね。だから今はゆっくりと休んでください」
 それでは。とペシフィロが部屋を出て行きそうになったので、ハクトルは渾身の力を込めて彼の腰に飛びついた。ペシフィロが驚いて顔を覗き込むのがわかる。ハクトルは絶対に離すものかと彼の体に取りつくが言葉はやはり出てこない。泣きながら、ただ彼にしがみついた。
「……私がいた方が、いいんですか?」
 うなずく。首が取れるほどにぶんぶんと。するとペシフィロは困り顔で微笑んで、母を見た。
「すみません。布団を借りてもいいでしようか」

※ ※ ※

「…………」
 ジーナとその兄は、自分たちの部屋を見てとりあえず黙りこんだ。病人が安静にしているべき二段ベッドには人影も布団もなく、その代わり、兄の寝床にハクトルとペシフィロが、ぐっすりと眠りこけている。移動させた布団や毛布に包まる姿は、まるで子どもが二人いるようだ。ペシフィロはジーナたちの目にも気づかず穏やかに眠っている。
「……添い寝してて一緒に寝ちゃったんだな」
 なんなんだろうこの人は。といいたげな顔での予想はおそらく当たっているのだろう。ハクトルはペシフィロの傍ですうすう寝息を立てている。ジーナが悔しそうに呟いた。
「いいなあ……」
「お前、兄ちゃんよりこの人がいいのか? どこらへんが違うんだ?」
「お兄ちゃんはね、遊んでくれるのは最初だけですぐに投げ出すから嫌い」
「嫌いとか言うなよ! 本気で傷つくだろ!」
 騒がしくしていても、二人が起きる気配はない。ハクトルは、眠りながらもしっかりとペシフィロの袖を捕まえていた。全身は無防備にのびているが、これだけは離すものかという執念が手の中に漂っている。ようやくの幸せに、ハクトルは夢を見ながら微笑んだ。


 後日、風邪をうつされたペシフィロが寝込んだのはいうまでもない。


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