過去編目次


 まず、紹介される理由が気に食わなかった。だが何にせよ彼女の弟ということで、愛想よく迎えたつもりだ。それなのに、現れた弟とやらの出で立ち――特に通常の二倍はある巨大な髪型に、サフィギシルは用意した笑顔も忘れてまじまじと見つめてしまう。凝視の相手は爆発頭をひょいと屈め、窮屈そうに部屋の中を見回した。
「ハクトル、こっち」
 ジーナに呼ばれて「ああ」と言う。それがいやに曖昧なのでサフィギシルは怪訝に思う。ハクトルは承服しかねるといった顔でしきりに目を走らせながら、ジーナの元へ、その前に立つサフィギシルへと歩みより、歩みより、歩みよりよりよりすぎて盛大にぶつかった。
 彼よりも背の低いサフィギシルは衝撃のまま床に倒れる。ハクトルはその背中を踏みつけていく。
「れ。なんかある」
 などと言うので、このやろう脅してやる呪ってやると上げた視線は、首をかしげるハクトルを見つけた。彼は悪意のない表情で自分の足の裏を見ている。どうしていいか分からないのは、サフィギシルだけでなくジーナも同じのようだった。
「……なんかって、今踏んだそれがサフィギシルなんだが」
「え、嘘。あれ、ええ?」
「あまり怒らせるな、すぐに謝れ。ほら、そこにいるだろう!」
 ジーナは彼の巨大な頭を無理やりに下げさせる。ハクトルの顔面は、ちょうどサフィギシルの真上を見た。だが視線はかみ合わない。ハクトルは呆然とするサフィギシルを見下ろしながら、純粋にわからないといった顔で眉を寄せた。
「どこ?」
 それが、彼らの初顔合わせだった。

※ ※ ※

「サフサフ君。俺は今重大なことに気づいたんだけれども言ってもよいか」
「どうせ許可がなくても喋るんだろ」
「本当に何をいまさらってぐらいの事実なんだけどさあ」
 ほらやっぱり喋るんだ。とサフィギシルが呟いてもハクトルは口を止めない。彼の身長からすれば低すぎる石に腰かけて、相変わらずゆらゆらと落ち着きなく体を揺らす。サフィギシルはその隣でうんざりと耳をふさいだ。その程度では、ハクトルの大きな声を消せないとは知っているのだが。
「サフサフはいじめたい人間で、俺はいじめられたい人間なわけだ。それは女の子を漁るという現時点ではとても都合のいいことに思えるわけで、取り合いにもならないし、幅広い標的を求められるという利点があるかのように考えられる」
「僕は別にそういう目的はないんだけど」
 彼の声はいつも張り切っているので、人目が気になって仕方がない。合いの手は言い訳をも兼ねていた。何しろここは中央広場のど真ん中、噴水の縁なのだ。どこを向いても五人以上の人間を見つけられるが、腰かける二人の傍には笑えるぐらいに人気がない。ハクトルは遠巻きな好奇の視線を気にもせずに主張した。
「だがしかし、だ。一般的にいじめたい人間は、気の弱い、嗜虐心を煽るような女の子が好きなわけでありますが、お前は“気の強い普段はカッチリとした着こなしのデキル女”をいじめたいという、非常に濃ゆい嗜好の持ち主なわけだ。そして俺はそういう女にいじめられたいという可愛い嗜好の持ち主である。……ようするに」
 ハクトルは強く膝を掴んだ。
「俺たち、女の趣味被ってるよな」
「…………」
 きっぱりと否定できない事実がサフィギシルの口を閉める。ハクトルは今日も元気に膨らんでいる巨大な髪をかきまわした。
「やべえそれすげえ不毛。確率でいえば二分の一、しかもお前が相方じゃ五分の一がいいとこだ」
「その理屈はともかく、じゃあ諦めるとかしようよ」
「いや、俺は究極の女王様を見つけるまでは諦めないって決めたんだ!」
 凛々しく拳を固められても発言はろくでもない。一体いつまでこんなことを続けるのかと思う。昼間からやることもなく、声をかけられそうな女の姿をぼんやりと待つばかり。サフィギシルは彼と友達に思われたくなくて、少しずつ距離を置く。不自然でないように、気づかれることのないように。だが本格的に逃げようとしたところで、ぐい、と頭に痛い引力。サフィギシルは憂鬱にハクトルを見た。期間限定の遊び相手は、きつく束ねたサフィギシルの髪をつまんで笑う。頬に描かれた一筋の蛇が歪んだ。
「まだ解散には早うございますですよ」
「……離せよ」
「逃げねーってんなら離すけどなー」
 首根をつかまれているようで鳥肌が立つ。こんな嫌悪も彼であれば快感となるのだろうか。そう考えると余計に気持ちが悪くなって、サフィギシルは首を振った。直接には触れない形でハクトルの手から逃れる。
「んだよー。ちゃんと捕まえとかないと、お前すぅぐ視えなくなるんだよ。音が全然ないからさー」
「ちゃんと目で見ればいいじゃないか。耳にばっかり頼るからそうなるんだ」
「だってこのへん音ばっかりで気が遠くなりそうだしー」
 ハクトルの声が高くなって、人が近づいたことを知る。見ると学校行事なのだろうか、十人以上の子どもの列が横切っていくところだった。ハクトルは片手で耳をふさぎながら、指をさす子どもたちに愛想よく手を振った。完全に過ぎ去ったところで、指を外す。
「あー。サフサフは静かでいいねえ」
 一心地ついた顔で言われると反応に困ってしまう。サフィギシルは目を逸らした。
 ハクトルの耳は、街中にあふれる魔力を音として聴いてしまう。中でも人の生み出す魔力が一番強く響くらしい。“魔力なし”であるサフィギシルは、彼にとっては珍しい無音の存在なのだそうだ。おかげで、普段音で人を認識しているハクトルの意識からは、度々除外されてしまう。
 ハクトルがまた耳をふさいだ。現れた人の波に対抗してか、かすかに歌を口ずさむ。
 雑踏は騒音の塊として彼の脳を痛めつける。それでもこの街の景色が好きだから、と耳の奥に綿を詰め、ハクトルは周囲の音に負けないよう大きく声を張り上げる。その声を聞くたびに、サフィギシルは首筋が嫌悪に震えるのを感じた。おそらく、音量だけの問題ではない。
「……あんまりうるさいと、生きているのが嫌にならない?」
「まあお前はただの耳でも十分うるさそうだしなあ」
 楽しそうにもれる息が、偽の笑いでないことを教えてくれる。ハクトルは膝で拍子を取りはじめた。服の中に縫いこんだ楽器が澄んだ音を立てる。ささやかな音楽を奏でながら、ハクトルはさらに笑った。
「でもよ、この耳にしか聴けないものが山ほどあるんだ。いい奴かどうかを音で視分けることもできるし……」
「僕はわからないんだろ」
「お前は性格だけで十二分に分かりすぎらぁ。あとは、こういう風に合奏もできる。お前にはただの単音にしか聴こえねえだろうがな。キモチイイぞー。いろんな音をひっくるめて音楽にできるんだ。即興で音を合わせる一人分のオーケストラだ」
 甲高い鐘の音、踏みつける土の音。それらも口にする歌も少しずつ欠けていて、傍から聴けばただの雑音でしかない。車輪を片方もがれた車を見ているようで、落ち着かない気分になった。ハクトルの中では完成した音楽が存分に流れているのだろう。彼はその音響にひたひたと浸かる表情で、好きに音を奏でている。そんな姿を見るたびに、サフィギシルはハクトルとの間に距離を感じた。考え方や性格が根本から違うのだろう。もし彼のように数奇な能力を与えられてしまったら、きっと生きてはいけないとサフィギシルは考える。ハクトルほど前向きにはなれないことは、身に染みてわかっていた。
「あ! あれ良くねえ? なあ、ほらあっちの金髪の子!」
「え、ああ。うん、美人」
 唐突に立ち上がるので驚いて口ごもる。ハクトルがあごで示した先には、たしかに彼が好きそうな、冷ややかな面立ちの女が立っていた。一人、道を探しているのだろうか地図を確かめている。ハクトルはサフィギシルの返事を聞くまでもなく、すでに身なりを整えていた。
「よっしゃ、ちょっと行ってくる。ちゃんとここで待ってろよー」
 そして後は振り向きもせず、一直線に駆けていく。無駄に陽気に話しかけるのを遠い気持ちで聞きながら、サフィギシルはばれないようゆっくりと腰を上げた。

※ ※ ※

(うわ、ほんとに気づいてない)
 サフィギシルは店と店の隙間にもぐり、低くしゃがみこんでいる。彼はその格好で、狭く切り取られた街を見ていた。正確には、そこでサフィギシルを捜すハクトルの行動を。
 子どもとはぐれた主婦、というほど真剣なわけでもない。飼い犬に逃げられた子どものように熱中して捜しているとも言えなかった。たとえるならば作業途中で道具を見失ってしまったような、不可解そうな軽い捜索。見ているだけで彼がしきりに「あれー」と言っているのがわかる。あるはずのものがない。だからといって、大声で名前を呼ぶわけにもいかない。
 心中では彼が堂々と名を呼ぶのではと恐れていたのだが、どうやらそこまで非常識ではないようなのでサフィギシルは安堵した。さすがにこの歳になって、名前を連呼などされるのは嫌すぎる。すぐに家に戻らなかったのも、それを確認するためだった。
(……遠いな)
 細長く現れた街の景色は、まるで窓の外のようだ。サフィギシルは隔離された気分でハクトルを観察していた。目線は何度もかすめているのだ。それなのに、ハクトルはサフィギシルを発見しない。音のない“魔力なし”は彼にとって空白のようなもの。初めから人のいない場所に隠れていれば、気づかれることはない。
 それにしても、見つけられないにもほどがある。サフィギシルはなんだか腹が立ってきて、同時にひどく虚しくなって、このまま帰ろうかと思う。自ら姿を現せば、気を逆撫でるようなことを言われるに違いないので。
 ハクトルが、あ、と呟いたのが目に見えた。彼は途端に笑顔になって、全力で走り出す。
「ミドリさーん!」
 到着した場所には、ペシフィロがいた。
 買い物にでも出たのだろうか、ペシフィロは紙袋を抱えたまま慎重に距離を置く。ハクトルと対するときはいつもこうだ。ペシフィロは微笑みをわずかにこわばらせ、いつ攻撃されても平気なようにさりげなく構えている。だがハクトルは相手の警戒など気にもかけず、にこにこと笑っている。
(子どもだ)
 サフィギシルはこんなハクトルを見るたびに、思う。彼がペシフィロに向ける目にはいつも、小さな子どもが特別なおもちゃを見るのと同じ輝きが潜んでいた。どんなに大人びた話をしている時でも、ペシフィロを見つけるだけで彼はただの子どもになる。ジーナにも似たような傾向はあるが、相手を異性と考えているせいだろうか、無邪気さは薄かった。手放しで飛びつくハクトルとは違う。
(そんなにいいかな、あの人)
 楽しそうなハクトルを見ながら、サフィギシルはその隣にジーナの姿を並べていた。
 ハクトルと過ごしている時のペシフィロは、いつもはない緊張感をぴりぴりと放っている。サフィギシルにとっては愉快な光景だった。のんびりとしたペシフィロを見ていると、苛立ちを感じるのだ。いつもこのぐらい警戒していればいいと思う。ペシフィロは無防備で穏やかで、あまりに平穏すぎるから。
「おや」
 と、ペシフィロが言った瞬間胸のうちがぎくりと冷える。なぜだか、ハクトルの顔もこわばった。ペシフィロは予想通りサフィギシルのいる路地を覗きこみ、予想外のことを言う。
「どうしたんですか、二人とも」
「なに、少々遊びをな」
「おわあ!?」
 耳元でやたらといい声がしてサフィギシルは飛び上がる。しりもちをついた視線の先には、ビジスがしゃがみこんでいた。くつくつと喉を鳴らして愉しそうに笑っている。
「ちょ、なっ、いつから!?」
「随分と前からだ。いつ気づくかと思っていたが、いや、長かったな」
「驚愕で死ぬところでしたよ!」
 弾けんばかりの心臓を押さえていると、ハクトルが呆れて言った。
「なーにやってんだか。かくれんぼしたいってか?」
 声が、わずかに震えている。恐怖心を隠すような強がりに裏返る響き。サフィギシルは、ハクトルがビジスから必死に目を逸らしていることに気づいた。顔色は瞬時に青ざめ、指の先まで緊迫に固められているのがわかる。まるで無邪気な子どもが化け物を見つけてしまったかのように。
 ビジスはハクトルを見ないようにして、普段通りに冗談を言う。
「そうだなァ、退屈ならそれぐらいして遊んでやれ。これも毎日暇を持て余しとるようだから」
「先生!」
 サフィギシルの抗議にビジスは声を立てて笑った。睨みつける顔が暖かいのは図星のせいだ。友達がいないのは本当だった。することがなくてつまらない思いをしているのも。見かねたビジスやジーナたちが、ハクトルをわざわざ紹介してくれたのは、有り難がるよりもむしろ屈辱でしかない。ハクトルの誘いを断ると、他に友達もいないのだからとからかわれる現状が憎らしかった。もうすぐ十八になるというのに、と幾度となく愚痴をこぼす。あくまでも心の中で。
 ふと見ると、ハクトルはビジスから随分と距離を置いていた。何が恐ろしいのだろう、とサフィギシルは不思議に思う。会話ではビジスのことも普通に話に上げるのに、彼は実際にビジスと対面することを奇妙なまでに避けている。
「ああ、そうだ」
 ペシフィロが、しゃがんだままのビジスに尋ねた。
「ビジス。あの政策の件、処理してくれましたか」
「いや、まだだ。なんだ急ぎの用だったか?」
「何よりも早くと言ったでしょう。今から終わらせてください、皆の仕事に響きます」
 ペシフィロは仕草で立て立てとビジスをせかす。ここまで彼に堂々と物を言える人は、本当に数えるほどしかいない。ビジスはもったいつけるように時間をかけて腰をあげ、つまらなさそうに首を回した。
「体がなまってきたなァ。終わったら遊ぼうか」
「遊びとかそういう軽い言葉で済まさないでください。こっちは瀕死になるんです」
「じゃあ稽古か」
「稽古では真剣を使いません」
 長らくの仲がそうさせるのか、彼らの会話は小気味良い。この人たちもよくわからない関係だよな、とサフィギシルは去っていく二人の背を見送った。時々、庭で剣を交えているのを見かけるが、まるでじゃれる獣に小さな人が振り回されているようなのだ。獣としては楽しく遊んでいるだけでも、振り回される側からすれば生きるか死ぬかの戦いである。それでも完全には拒否をしないペシフィロの心境が、サフィギシルにはわからない。
 対照的な二人の背が雑踏に消えたところで、またしても頭に引力を感じた。
「うーし。じゃあ俺らは第二弾行くか」
「……もう諦めようよ……」
 サフィギシルは掴まれた髪を外そうとするが、ハクトルは今度こそはと離さない。残念ながら顔色は回復していた。
「こんな人の多いところで離したら、本気で視えなくなるんだよ」
 じゃあ見えなくていいのに。とは無駄なことなので言わなかった。逃げないから、と掴む手を押しのける。
「子どもじゃないんだからさー……そっちの方が子どもみたいなくせに」
「ああ? 俺様のどーこがコドモだっつうの」
「ペシフさんを見つけた瞬間」
 ハクトルの目が丸くなる。サフィギシルはあきれて続けた。
「気づいてないんだ。ペシフさんに駆け寄るとき、ものすごく無邪気な顔をしてる。あれだ、ほら、誕生日にプレゼントをもらった時の子どもの顔。いまにもわーいとか言い出しそうな表情だ」
「妙に実感こもってるな」
「施設には子どもがいっぱいいたからね。僕はその面倒をよく見せられてた」
 ああ、だからいやにはっきりと子どもの顔に見えるのか。言いながら自分で気づく。院長が贈り物やお土産を買ってきた時の、あの子たちの顔と同じなのだ。
「あー、でも確かにそんな感じかもな。ミドリさんは俺にとって宝物みたいなもんだから」
「あの人が?」
「おう。ま、お前らにゃ一生わかんねーけどな」
 きっぱりとした言葉。不可解に見上げると、ハクトルは笑っていた。
「俺あの人すきなんだ。すげえいい音がする」
 彼は語ることそのものに喜びを感じるように、嬉しそうに説明をする。
「魔力が多ければ多いほど音量はでかくなるんだ。普通、あの人ぐらいの魔力量じゃ俺は到底近寄れない。あまりの音に耳が壊れちまうからな。けどミドリさんは違う。あの人の音は整備されてる。魔力で身体が潰されないようにって、ビジス爺が整えたんだ。世界から内へと入る膨大な魔力を、素早い動きで外へ逃がす。恐ろしくきめ細やかに、間違いのない地図を描いて。……いや、譜面かな」
 ハクトルの指が空を掻く。まるで五線譜を示すように。
「細やかな譜面を、巨大な魔力が一瞬で駆け抜ける。壮大な和音だ。あんなきれいな音は世界中どこにもない」
 囁きにも似た声は、恍惚を含んでいた。ハクトルは思い出したかのように笑う。大切なものを両腕に抱えたような笑顔。今にもくすくすと笑いそうなそれがあまりにも無邪気なので、サフィギシルは訳がわからなくなる。なにしろ、好きと言ってもハクトルがペシフィロにしていることは。
「じゃあ、なんで売り飛ばそうとするわけ」
 攫って独り占めしたい、というのなら異常ではあるがまだ分かる。だがハクトルが再三ペシフィロを拉致するのは、あくまでも国外へ売却するためなのだ。何を思ってか、ビジスはハクトルに対してだけは、上手く盗むことができれば罪を問わないなどと言っている。本人の意志が尊重されていないのは今さらのことなのだそうだ。何しろ、ペシフィロはそもそもが物としてアーレルに購入された国家資産なのだから。考えれば考えるほどペシフィロの周辺事情のおかしさを思い知り、サフィギシルは眉を寄せた。
「……まさか国家資産だの備品だのって扱いが可哀相だから、外に売って逃がそう、とか?」
「あー? 違う違う。もっと単純な性分。俺、いい物を見ると流通させたくなるんだわ」
「は?」
 心からの言葉を放つが、ハクトルはすでにここではないどこかを見ていた。
「なんかさー、すっげえいい商品が世界各国を渡るのってすごくねえ? 誰が手にするかわからない。どんな運命を辿るのかも未確定。もしかしたらどこぞの富豪に買われるかもしれないし、そのまま泥棒の手に渡って闇に売り払われるかも。オークションに出されたり、いつの間にか失われて、幻の逸品として伝説になったり! でも実はうらぶれた屋敷の奥に眠ってたり、死期を迎えた老人がひっそりと愛でてたり……」
「いや、あの、……ハクトル?」
「そんでその老人の面倒を見ていた、たったひとりの理解者が可愛い孫娘でさ。老人の死と共に彼女の手に渡り、その遺産を狙う醜い親族たちの争いに巻き込まれながらも、彼女は必死に祖父の形見を守ろうとがんばって……」
「でもそれペシフィロさんなんだろ」
 身もふたもない発言に、ハクトルは妄想を取りやめて考える顔をする。
「そこなんだよな。やっぱ生身の人間だと、売却後の可能性が縮まるっていうか。でもどちらにしろ流通によって世界を渡るミドリさんを想像すると、いてもたってもいられなくて睡眠薬とか盛っちゃうわけだ」
「それはもう病気なんじゃないの」
「かもな。俺は今の俺が大好きなので完治なんて必要ないけど」
 ペシフィロからすれば、お願いだから治ってくれと祈りたいぐらいだろう。サフィギシルはよりいっそう変人に見えてきたハクトルと距離を置く。初めから変態で訳のわからない人間だとは思っていたが、まさかここまでだったとは。
「あー、ミドリさん売りてえなー」
「…………」
 言葉もない。ハクトルは清々しい表情で腕を振り上げている。
「なんだよサフサフ。だってさ、あれだけの人がずっとここに留まるなんて勿体なくねえ? なんかさー、ビジスだけが独り占めしてるみたいでさー」
「先生と、あと君のお姉さんもだろ」
「そう。そうなんだよ、姉ちゃんばっかりミドリさんと遊んでさ。ミドリは私とビジスのもの! とか言って、俺いっつも仲間はずれだったんだ。つまんねーよなー。早い者勝ちってひでーよなー」
 そもそもビジスはずるいんだよ、と長年の愚痴を始めたので鬱陶しく感じられて、サフィギシルは話を逸らす。
「そういえば、先生はどんな音がするの」
 ぴた、とハクトルの足が止まる。空気が冷えたのは表情が失せたからだ。サフィギシルは唐突な気まずさを誤魔化そうと、早口になる。
「前、ジーナの音ははっきりしてるとかそういうこと聞いたから。だから、先生はどんなのかなって。言いたくないなら言わなくても」
「どんな音、ねえ」
 かき消したのは、彼もまた気まずく感じたからだろうか。ハクトルは不安げに口を切る。
「……あれは、」
 だがその後が続かず、あれは、と口の中で繰り返す。そのうちに首を振った。何かから逃れるように、ゆっくりと、執拗に。
「あー、だめだ。なんっか、上手く言えねえ。表現がどうとかじゃなくて、わからねえっつーか……ない」
 ハクトルは頭を抱える。
「なにも、ない。そんな気がするんだ」
 呟きは顔色と共に青ざめていた。
「音がないってこと?」
「いや、ある。あるんだけど……っあー! もうわかんねー! 変なこと考えさせんなよ!」
「自分で勝手に考えたんだろ」
 突き放すと、ハクトルはひとりでうだうだと暴れていたが、急にびしりと指をさす。
「あれだ、一番近い解は、“ミドリさんの逆”ってやつだ」
「ペシフィロさんの?」
「おう。あの二人は対照的だ。もし世界の端っこにビジスが立っているとしたら、その逆端にはミドリさんがいる。近いようで、絶対的に遠いから互いに手は届かない」
「何それ。性格論?」
「……いや。視えるんだよ」
 下唇が不満げに突き出される。ハクトルは限界まで顔を歪め、疲れたように力を抜いた。
「お前の位置はビジスに近い。……お前らはよく似てる」
 近すぎるぐらいだ、と呟いたような気がした。サフィギシルはいつか感じたペシフィロとの差異を思い出す。彼と、自分は、あまりにも違いすぎる。絶対に交わらない存在なのだと考えたことがあった。何をしても正反対で、もし世界中の人間を一列に並べたなら、片方にはサフィギシルが、その逆端にはペシフィロが立つことになるだろう、と。
 だが、自分と同じ位置にビジスが立っているなどと考えたことはなく、サフィギシルは初めて気づいた存在に戸惑いを感じている。まるで、先ほどのようにいつの間にかビジスが背後にいたかのようだ。
 呆けていくサフィギシルを横目で眺め、ハクトルは虚空に向けて呟いた。
「近すぎる」

      ※ ※ ※

「ああ。そうだ」
 城へと向かう道、ビジスは突然にささやく。隣を往くペシフィロが不思議そうに顔を覗いた。
「何がですか?」
「いや、独り言だ。……あれは聡いな」
 名前を出したわけでもないのに、ペシフィロは嬉しそうに笑う。
「ハクトルですか? ええ。あの子はとても頭がいいし、細かいところにまで気が回る。ただ、その賢さがもう少しまともな方に向いてくれれば、と思うんですが」
 再三の拉致に思うところがあるのだろう。笑顔は苦笑まじりだが、ペシフィロはまるで自分が誉められたかのように喜んでいる。ビジスは遠くを見つめるように、彼の歓びを眺めた。
 ペシフィロには聞こえぬよう、吐息のような声で言う。
「知りすぎるのは、毒だ」
 遠くに震えを感じて嗤う。そのまま、まだ嬉しそうにしているペシフィロを見て、口元を苦く染めた。

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