人間が成長していくさまを目にするのは本来愉快なことなのだろうが、それが悪どい進化ならば不愉快以外の何物でもない。ジーナは何度罵倒しても絡みつくサフィギシルの腕に抱きしめられて、肺ごと外に飛びだしそうな最大級の息をついた。 「あれ。もう終わり?」 耳元に笑い声。肌にかかるささやかな息はそのままうなじに辿り着いて、くちびるの熱へと変わる。わざとらしい音を立てて柔肌を吸われたところで、ジーナは冷めた声で言う。 「……昼間だぞ」 「明るい中で、ってのも背徳感があっていいよね」 「涼しくなった途端にくっつき始めて発情期かお前は」 「夏の間はずっとさみしかったんだよー。久しぶりだし。いいだろ」 北国から降りてきたサフィギシルは熱に弱い。比較的温暖なアーレルの夏は、彼にとっては鍋でゆでられているかのようにつらいものだったらしい。冬場は始終つきまとっていたというのにぱったりと姿を見せなくなった。その穴埋めをせんとばかりに、サフィギシルは膝に乗せたジーナの体を嬉しそうに抱きしめる。そんな笑顔の彼を見上げてジーナもまた微笑んだ。 「馬鹿だなあお前は」 状況にそぐわない甘い顔。ジーナはゆっくりと人さし指を口に添える。 「季節の変わり目に何があるか、もう忘れたのか?」 「まっ」 まさか、と言いかけた時にはもう遅く、ジーナは曲げた指をくわえて強く息を吹きかけた。 甲高い音が鳴る。指笛に続いたのは階段を駆け上がる人の気配。 サフィギシルが身をこわばらせた瞬間、部屋のドアはいやに明るい調子で開いた。 「まいどー! お助け便デース!」 待ち構えていたかのように飛び込んだのは満面の笑みを浮かべる男。日に焼けた肌の浅黒さすら輝いて見えるほどの笑顔は見るものに強く訴えかけてきて、目がくらみそうになる。生まれ持つくせを限界まで四方に広げた黒い髪。目元に描いた蛇の紋様。自己主張の塊とも言える男の出現に、サフィギシルはぱくぱくと口を動かす。 「はっ、ハクっ……」 「はーいはいはいハクトル君ヨー。大丈夫こわくないヨー。アーレル人チョー友好的ネー」 それは普段は行商の旅に出ているために数ヶ月に一度しか戻らないジーナの弟、ハクトルだった。サフィギシルは天敵の出現に怯えてジーナの背に隠れこむ。 「いやなんか言葉変だし! 髪の毛また増えてるし!」 「男なら増毛ですよ愛と夢には必要不可欠。サフサフもたまには髪型変えてみれば?」 「なにその愛称!」 ハハハハハ。とわざとらしいほど爽やかに笑いながら、ハクトルは前回の帰郷より三割増しで暴発した髪の毛をぽさぽさと叩く。青ざめたサフィギシルを無視してジーナにニコリと笑みを投げた。 「はいはいはいそれはそれこれはこれ。お姉さま、ご利用はいかほどに?」 「朝までみっちり連れ出しで」 ぐっ。と拳を固める彼女にハクトルは弾けんばかりの笑顔を見せた。 「ありがとうございまーす! んでは夜間料金と特別出張手当込みでひのふのみの、はいこんだけ」 「じゃあビジス名義で。トルにはいくらでも使っていいって言われてるから」 「やったあ。んじゃ水増ししとこう」 「それ犯罪っていうか先生ー! なにさせてんだあの人ー!」 大方ハクトルに遊ばれるサフィギシルを見て楽しもうという魂胆なのだろう。ここにはいない師匠に叫ぶ彼の首に、ハクトルの腕が巻きついた。悲鳴すらあげかけたサフィギシルを見てハクトルは人懐こい笑みを浮かべる。 「よっしゃ。サフサフ女の子ひっかけに行こーぜー。夜はおねえちゃんのいる酒場に行くのだ」 「なんで僕がっ。ジーナ、こんなこと言ってるけどいいの!?」 「きばって女漁ってこい。そして他に彼女作って二度とここには戻ってくるな」 「ひど!」 「じゃあ行ってきマース。ご利用ありがとうございましたー!」 ハクトルはサフィギシルの首を抱いたまま廊下まで引きずり出して、元気よく手を振った。 「さて」 ドアが閉じられた途端、声は低く黒くなる。息を呑むサフィギシルに顔を寄せ、ハクトルは凄みを利かせて言った。 「てめぇ姉ちゃんにあんま迷惑かけんなって言っただろコラ。ああ?」 「ごっ、ごめんなさいすみませんかわいいのでつい」 青ざめながらも照れの入るのろけ顔に、ハクトルの声色はさらに重く腹から押し出すようになる。 「手足潰して内海に沈められてえのか。姉ちゃんはかわいいの一言で語れる女じゃねえんだよ。わかったか。わかったら外行くぞ仕事だかんな。ああ? 抵抗すっと親父の所に連れて行くぞ。嫌だろ? 嫌ならテキトーに女誘いに行くぞ。おら、取りあえず白通りからだ」 「そういうことは一人でやれよ……」 「何言ってんだよ。お前を餌に撒いておいて俺はその隣で『親友は女の子にきゃあきゃあ騒がれるのに、俺って結局は場を盛り上げるだけのお調子者で、いっつも貧乏くじなんだよね……でもガンバル!』みたいな健気な三枚目を演じて母性本能にドッキュン訴えかけようって俺の魂胆がわからねえの?」 「絶対わからない。なんだよその細かい上にあざとい設定……だから嫌なんだよ君と遊ぶの」 「いーじゃんひさしぶりに帰ってきたんだしー。お前友達いないんだからたまにはちゃんとふれあえよー」 痛いところをつつかれてサフィギシルは顔を曇らす。ハクトルはそれを見て笑う。 「お前と遊んでやる奴なんて貴重だぜー? トモダチは大切にしましょうネー」 「……だれが友達だ」 悔しまぎれのつぶやきは呆気なく黙殺されて、季節に一度の帰郷者はサフィギシルを抱えたままけらけらと明るく笑う。彼はこうして人を厭うがために積み上げたサフィギシルの壁を乗り越えて、踏み込んで、縦横無尽に掻きまわしては風のごとくに去っていく。まるで嵐のような男はサフィギシルを引きずって明るい昼間の街へと向かった。サフィギシルもまた毎度のことと諦めて、うなだれて、騒がしい季節風に流された。 |