思い出にも似た夢から覚めると、かすかな呼吸を頬に感じた。驚いて開いた目が捉えたのはやわらかな影を被る寝顔。ペシフィロは触れ合うほどに傍で眠るジーナの顔をぎょっと見つめた。混乱する記憶を整理しつつも視線は彼女のまぶたから頬を辿り、わずかに開いたくちびるまで下りていく。あまりにも無防備な様子に疲れを感じて目を閉じた。 「こら。起きなさい」 だがジーナは動きもしない。仕方なく身を引きながら、二人の頭に掛かっていた薄手のブラウスを取り除くと太陽が目を焼いた。中天に座る夏の陽は熱をもって肌を照らす。こんな場所で眠るなんて、と自分自身を批難しつつ重くだるい体を起こした。陽を浴びた鮮やかな緑が目に眩しい。森のように生い茂る菜園の植物たちは、夏にも負けず力強く空に向かって伸びている。 ひとつあくびをして、ペシフィロは首を回した。朝の水やりを終えたところで睡魔にやられてつい横になったのだ。その時はまだ空気も涼しく寒いほどだったので、熱帯夜で損なわれた眠りを補うように深く寝入ってしまったらしい。 もうひとつあくびをして、傍で眠るジーナを見る。いつの間に来ていつの間に眠り込んだのだろう。とりあえず、陽が高く上ってからのことには違いないようだった。ペシフィロは掛けられていたブラウスを彼女の頭に戻してやった。この気温では、日射病になってしまう。 「ジーナ」 起こすために揺すろうとした手が止まる。彼女はほとんど下着に近い服しか身につけていなかった。肩などは細い紐が頼りなく張り付くだけで、白い肌と胸元をあられもなく見せている。布からこぼれ落ちそうなそれを見ると触れるのはためらわれ、気まずく手を元に戻した。 先ほど以上に疲れを感じて苦しげに目を閉じる。一気に眉間に皺が寄る。 ペシフィロは情けない息をついて、力なく肩を落とした。 こういった彼女の“女”の部分を見るにつけ、彼は重荷を感じてしまう。まるで棒のようだった彼女の体はいつしかやわらかな肉付きを帯び、生まれ落ちた性別を誇示するように膨らんだ。体からも顔つきからも幼さは消えうせて、代わりに仄かな色香を纏う。普段は隠されているそれらを目の前に出されると、取り扱いに、ひどく困る。 「ジーナ。起きなさい」 触れる代わりにいくらか強めの声をかけると、ジーナはようやく目を覚ました。 「……ああ」 なんだ起きたのか、とでも言いたげな顔をしてのろのろと目をこする。汗で貼りつく感覚が嫌だったのだろうか、薄い服を煽ぐように動かしたので胸元がさらにあらわになった。ペシフィロは視界からそれを払うように、ブラウスを押し付ける。 「はしたないですよ」 「あー……まあ確かにこれはなあ」 まだ眠たそうに口を開くと言葉尻はあくびに消える。ジーナは頼りない動きで服を着ると、ペシフィロの目をちらりと覗いた。 「そそられた?」 「そういうことを言っているわけじゃありません。もっとちゃんとしなさい」 「お前がこの炎天下に馬鹿みたいに寝てるから、親切に服を掛けてやったんだ」 感謝しろと言わんばかりの顔をされたので、呆れながらも礼を言うことにする。 「ありがとうございます。……しかしどうしてまた隣で」 息が触れるほど近くで眠るなど何年ぶりだっただろう。彼女が大人になってからは触れ合いも少なくなった。互いの熱を感じることも、体に流れる魔力の筋を探り合うことも、取り決めたわけでもないのに自然とやめてしまったのだ。 ジーナは恥のないあくびをして、眠たそうな目で笑う。 「お前が気持ち良さそうに寝てるから、つられたんだ。お前、眠りながら笑ってたぞ?」 「えっ」 「女の夢でも見てたんじゃないのかー?」 楽しむような表情はビジスの真似をしたものだった。彼女が昔、偉大な師匠に憧れて自主的に覚えたものだ。女性らしいとはいえない語り口も行動も、すべてビジスを求めるあまりに身に染み付いてしまったもの。ペシフィロは懐かしい目で彼女を見て、苦笑した。 「なんだ。何か言いたそうだな」 「いえ。いつまで経ってもジーナはジーナだなあと思って」 微笑を浮かべて言うと、彼女はあからさまに不機嫌に顔を歪めた。 「なんだそれ。もう私も二十七だぞ、少しは大人扱いしたらどうだ? ほら胸チラリ」 「やめなさい」 挑発的に胸元を開けられて途端に顔が渋く染まる。たしなめるペシフィロの顔つきを見て、ジーナはして得たように笑った。 「いいじゃないかこれぐらい。むしろ見て欲しいぐらいだ」 「そうやって軽々しく肌を出すのはやめなさい。嫁入り前なんだから」 「嫁に行くあてがないのにそんなこと言ってもな。お前が嫁に貰ってくれれば何の問題もないだろう?」 にやにやと笑う表情はあまりに無邪気で恐れを知らない。相手への視線が昔から変わらないのはジーナの方も同じだった。無防備に隣で眠る。警戒もなく肌を見せる。嫁にしろとことごとく口にしながらも、本気で迫ることはない。ジーナはわざとらしい真顔をしていつも通りの台詞を言う。 「というわけで結婚してくれ」 「いいですよ」 造作なく受け取ると、彼女の顔はぽかんと呆けた。 「…………え?」 「しましょうか、結婚」 彼自身も驚くほどに落ち着いた声が出た。ペシフィロは平然と彼女を見返す。 「どうしました?」 「お、お前がどうしたんだ。なんでそんな急に、えっ、本当?」 「本当ですよ、結婚しましょう。……その代わり」 細い彼女の肩を掴み、ぐいと顔を近づける。息が触れる。自分の影が相手にかかる。身じろぎすれば触れ合う距離で、ペシフィロは囁いた。 「夫婦となるからにはそれなりの行為が必要ですが、問題は?」 赤らんだ彼女の顔は、真剣な彼の目つきにこわばった。揺れる瞳に様々な感情が浮かんでは過ぎていく。ペシフィロが頬に手を添える。そっと、顔を近くに寄せる。 「だ、だめ」 ジーナは泣きそうな目をして彼の体を遠ざけた。 ふっ、と息のもれる音がする。風はそのまま明るく跳ねて、たちまちに笑いとなる。 ペシフィロは体を屈めて声を立てずに笑い始めた。 「なっ、ばっ、からかったのか!? お前、こっちがどれだけ真剣に……っ」 「す、すみません。冗談でもなかったんですけど」 苦しげに声を出すが、笑いに途切れてろくな台詞にならなかった。ジーナは顔を真っ赤にしてペシフィロの体を揺さぶる。問い詰めるために背中を叩くとペシフィロがその手を奪った。びくりとして引いたジーナにペシフィロは苦笑する。 「私とは、嫌でしょう?」 「……うん」 うつむいた彼女の顔はあの頃のように幼かった。ペシフィロは彼女の手を膝に戻し、やわらかい笑みを浮かべる。 「そういうものですよ。分かったら、もう軽々しく口に出さないこと」 返事の代わりに彼女は口をとがらせる。厚みのあるくちびるが、つまらなさそうに歪んだ。 「できると思ったのになぁ」 「案外に狭いものですよ、許容範囲というものは」 「っあー悔しい。いい機会だったのにー!」 ジーナは寝乱れた髪をさらに乱すと空に向けて拳を振った。 「でもちょっと色っぽかったー! ドキッとしたー!」 「……生まれて初めて言われましたよ」 少なからずビジスの仕草を意識したせいだろうか。本気で口説こうとする時には小細工など吹き飛ぶが、企みの下で動く時には頭の芯が静かに冷える。もしかするとビジスが人を陥落させるのが上手かったのは、常に相手に対して冷静であったからだろうか。今さらながらに気がついて、ペシフィロは空を見上げる。雲ひとつなく広がる青は目の奥をちりりと焼いた。 「昔は、雲の上に天の国があると少しは信じていたんですけど」 「私も。上にいる人たちがツバを吐いたらどうなるんだろうとか、川の水がこっちに落ちてくるんじゃないかと心配してた。親に言われなかったか? 『俺が死んでも上でずっと見張ってるからな。悪さをしたらツバぁ吐きかけてやる』って。間違って当たったらどうするんだと思ってた。……こんなに晴れてちゃ意味もないな」 見渡す限りに雲はなく、ただ澄んだ青色だけがどこまでも続いている。高く、高く、遥かに目を凝らしてみても、雲の影も天の国もかけらすら見当たらない。馬鹿馬鹿しいことをしていると知りつつも、二人でただ空を見上げた。 「ビジスは、空に消えましたよ」 「うん。それで地上に散ったんだろう。もう何回も聞いた」 「きっとこの土にも含まれてますよ」 見上げたまま呟くと、ジーナは地面を叩きながらやる気なく呼びかけた。 「ビジスー。こんの馬鹿師匠ーっ」 打ち付けていた手のひらは固められて拳となり、そのうちに、土を握る。 「置いていくなよ……ばか」 彼女は乾いた地面をただ見つめた。ペシフィロは、その土に支えられた野菜の茎と葉を眺める。 この地はいつか彼らを埋めた暗い土に繋がっている。共に過ごした身体も骨も植物に取り込まれているのだろうか。ペシフィロは意識して呼吸をし、足元の土に触れる。まだ生きている体はそのどちらにも混じることはない。ジーナもまた同じこと。 空に溶けることもなく、土に埋もれることもなく、二人だけが取り残された。 世界には沢山の人間がいるというのに、それを考えるとペシフィロは自分たちが二人きりでここに居るような気がしてくる。 「ビジスがいなくても世界は続いていくんですね。当たり前のことなのに、それに少し驚いているんです」 「うん、私も。これから生まれた子どもはきっとビジス・ガートンなんてよく知らずに育つんだ。その世代が子どもを生んで、またその子どもが大人になって……すぐに、ビジスは文字の中にしか存在しない人間になる」 ジーナはため息混じりに吐き捨てた。 「世界が変わる。ビジスがどこにもいなくなる。……嫌だな、そんな世界」 嫌だな、と口の動きで繰り返して彼女は弱く目を閉じる。ペシフィロは力なく揺らぐ肩を抱き寄せた。彼女の重みが彼へとかかる。頼るように体を預ける。ペシフィロは生い茂る葉を眺めながら口を開いた。 「どんな世界になったとしても、私はあなたの傍にいますよ」 撫でていた彼女の頭が驚いたように彼を見る。ペシフィロは微笑みながら続ける。 「つらいことがあればここに来ればいいんです。私はビジスを知っているし生涯忘れることもない。さっき、冗談でもないと言ったでしょう。それはね、恋人にはなれなくとも夫婦にはなれるのではないかと思ったからなんです」 もし彼女が数十年後も独り身で路頭に迷う立場であれば、戸籍の上で嘘をついて二人で暮らすぐらいはできる。ペシフィロが冗談めいて説明すると、ジーナは反論もなく恥ずかしげに下を向いた。ペシフィロは赤い彼女の耳に言う。 「でも別に、傍にいるだけなら恋人や夫婦でなくても構いませんでしたね。あなたはまだ若いんだから、いつか誰かと結ばれて幸せになればいい。でもその暮らしの中でつらくなったらいつでもここに来てください。私はずっと私のまま変わることはありませんから」 励ますように背中を叩いてペシフィロは優しく微笑む。ジーナは逆に彼を見てみるみると顔を渋くする。 「……なんでこんないい男がだめなんだろう。勿体ない」 「人の好みというのは不思議なものですからねえ」 「本当に、なんで私はどこか駄目な男しか相手にできないんだーっ!」 ジーナは不満を飛ばすように腕を空に突き出した。 「自分でも分かってるんだ。どこまでも優しい男じゃだめ。何かしら黒い部分やドロドロとした怨念のような気配がないと本気にはなれなくて、結局ろくでなししか残らないんだ! 悪食にもほどがある!」 「まあ美食家の中には毒を好む人もいるようですし。いつの間にそういう嗜好になったんでしょうね」 「これはもう生まれつきだな。血筋だ血筋。うちは代々どうしようもない奴しか相手にしたがらない家系なんだ。ああもう、呪われてるんじゃないのか。もし私が子どもを生んでもそいつの相手はろくでなしだ。その子どもが相手にするのも絶対にろくな相手じゃない! うちは末代までお先真っ暗だ」 「そんな仮定の中で絶望されても」 呆れてしまったペシフィロを睨みつけ、ジーナは口をむうと曲げる。 「どこかでお前のようないい奴と結ばれたがる子は出ないのか。そうだ、薄めればいいんだな。男運のいい家系の血を少しずつ取り込めば、いつかはこの憎らしい性質も消えるはずだ。そうやって何十年後だか何百年後には、お前の血を奪ってやる」 「は? 私の……家系をですか?」 「そう。いいじゃないか大量の魔力を持つ変色者の血筋だなんて。おまけにお前のところは呆れるぐらいのお人よしで善良な人ばかりじゃないか。ぜひうちの家系に織り交ぜたいね」 「いえ父はああいう人ですが、母は結構……自分でどんな話をしているか分かってますか?」 「分かってるとも。今が改善できないなら子孫に夢を託すまでだ」 ジーナはいたずらめいた笑みを浮かべ、ミドリ、と懐かしい名で彼を呼ぶ。 「何百年後かの私と、何百年後かのお前で恋をしよう。そしていつか二人で暮らすんだ」 あの頃と変わらない、まるで子どものような笑顔。ペシフィロもまたつられるように笑みを浮かべる。 「そうですね」 穏やかな承諾を耳にして、彼女は得意げににやりと笑った。 「よーし決まりだ。未来のお前の嫁の席は未来の私のものだからな。他の女に渡すなよ」 「どうかお手柔らかに」 二人は契約の成立を祝うように、互いの手のひらをぶつけた。祝福の音は耳に軽く、やわらかい熱を伝える。ジーナはそのまま指をからめて力比べにもつれこんだ。 「趣味の畑仕事に幸せを感じるような、笑顔でそのまま居眠りするような性質を維持してくれよ」 「努力してみます」 「ちゃんと魔力も残しておけよ。実験に使うんだから」 「はいはい。……いつまでこうしているんですか」 絡みつく彼女の指は彼の腕をひねろうと、力を込めて震えている。だがペシフィロは苦労なくジーナの手をひねり返した。彼女が子どもだった頃は、こうしてよく力比べをしていたものだが。 「チッ。もう一回!」 「あなた本当に二十七ですかっ」 呆れのままに返しながらも彼の口には笑みが浮かぶ。彼女もまた同じほどに。 二人はいつかしていたように無邪気な遊びを繰り返した。戻らないことを心配したピィスたちが呼びに来るまで、そうやって楽しげに笑い続けた。 |