過去編目次


 唐突に響いた罵声は明らかにジーナのものだった。ペシフィロは机上の本から顔を上げて、壁を見る。階段を挟んでいるとはいえ、隣室の声は騒がしければここまで届く。もっともそれはよほど酷い場合であって、日常的な会話などが漏れることはないのだが。
 ペシフィロは壁を見つめて眉を寄せる。彼女の声は興奮を増すほどに甲高く激しくなり、こちらの部屋だけでなく下宿中によく届くようになる。もう夜もだいぶ遅い。女将や他の住人が目を覚ましかねない。
 だが止めにいこうかと上げた腰はまた椅子へと落とされた。浴びせられるジーナの言葉をかき消すほどの怒声が響く。建物がかすかに震える感覚がして、即座に耳が痛むほどの静寂が訪れた。
 沈黙。叩きつけるようなドアの開閉。不自然に激しい足音が近づく。そしてまた、沈黙。
「……サフィ?」
 ペシフィロは扉の向こうの気配に宛てておそるおそる声をかけた。
 鍵の外れた入り口は沈黙のまま開かれる。切り取られたような夜の廊下に白く浮かぶ青年は、酒の瓶を抱えたまま眩しそうに室内を見回した。いつもはきつく束ねてある白髪は乱れたまま肩に落ち、同じく白いはずの頬は手の形に腫れている。サフィギシルは乱闘で荒れた服装を直しもせずに部屋の中に入り込んだ。
「……喧嘩ですか」
 それだけ言うのが精一杯のペシフィロを睨みつけて、面倒そうに口を開く。
「泊めてください」
 吐き出されたのは緩んだ声と酒の臭い。思わず引くペシフィロを見てサフィギシルは舌を打った。冷ややかな蔑みの目と忌々しげに歪む顔。完全な拒絶の表情にペシフィロは目を瞬かせる。サフィギシルがこんな顔をすることが意外だったのだ。
 彼がアーレルに来て一年。ペシフィロはその前の交渉時からずっとサフィギシルに触れてきたが、彼は人の良い笑みをほとんど絶やすことがなかった。時おり困惑や驚愕を見せることはあったが、それでも不満を口にせず素直に人に従った。先ほどの怒声も彼の発した物だろうが、ペシフィロはあまりにも意外に思えて耳を疑っている。珍しいものとしてまじまじと見つめると、サフィギシルはさらに機嫌を悪くしてベッドの上に座り込んだ。抱えていた瓶の中身を呷り、荒れた仕草で口を拭う。
「ここ借りるよ。今日は床で寝てください」
「ああ、はい」
 ぼんやりと答えるとサフィギシルはさらに顔を歪めてしまう。ペシフィロは彼の苛立ちの原因を探して周囲を見回し、傍に置いた読書灯を指差した。
「眩しいですか? すみません、まだ調べものがあるんです。壁を向いて寝てください」
「仰向けじゃないと眠れないんです」
「そうですか……どうしましょう。カーテンがあればいいんですけど。下から借りてきましょうか」
「ペシフさん」
「天井で留めてしまえば……でも釘を打つべき時間じゃありませんね。ええと」
「怒れよ!」
 荒れた声に目を見張る。サフィギシルは見慣れない顔をして、聞きなれない調子で続けた。
「いきなり押しかけてベッド占領してあんたは床で寝ろって言われてなんで受け止めるんですか! 馬鹿かあんたは!」
「す、すみません」
「だからなんで謝る! 第一これヴィレイダ語なのに解るのかよ!」
 ペシフィロは頷いた。隣室から響いた怒声の時点でアーレルの言葉ではなくなっていた。
「以前少し学ぶ機会がありまして」
「敵国の言葉を? 何それ、諜報?」
「いえ、そうではないんですが。……今は休戦中ですし、敵というのはやめませんか」
 事情を隠しながら提案すると、サフィギシルは馬鹿にした笑みをもらす。その目に人種的な差別を見つけてペシフィロは眉を寄せた。ヴィレイダの国の民は長らくの敵であるペシフィロの母国の民を蔑んでいる。全ての者がそうしているわけではないが、百年以上続く歴史の因縁は、二年かそこらの休戦で拭い取れるものではない。ペシフィロが気分を損ねたことを愉しむように、サフィギシルはさらに笑った。
「あんたでもそんな顔するんだ」
 いい肴だとでも言うように、不躾に眺めながら酒を呷る。ペシフィロは粘りつく視線から逃れようと手もとの本に目を落とした。中断した仕事の中身は上手く頭に入らない。意味がないことを知りながらも、サフィギシルから逃れたくて変わらない文字列を繰り返したどる。
「ねえ」
「……なんですか」
 声だけを向かわせるとサフィギシルはかすかに笑う。弾む息は酒によってかすれていた。
「ほんとに床で寝るの?」
「どうせ終わるのは明け方になりますから」
「じゃあ、あっちの端の方で寝てよ。一番離れた所にして」
 言葉の意味を掴みかねて顔を上げると、汚らしげに吐き捨てられる。
「見るなよ。気持ち悪い」
 憤るよりも先に痛みを感じて弱い顔をしてしまう。サフィギシルの表情が、酷薄に歪んだ。
「そんな顔するなよ。しょうがないだろ、ぶわぶわ出てくるあんたの魔力が気持ち悪いんだから。体が嫌がってる。近寄ると吐きそうだ。いつもそうだ。変色者の近くにいるだけで体の具合がおかしくなる。そういう体質だからね」
 後天的な“魔力無し”はその身に近づく全ての魔力を拒絶する。彼らは先天的な者とは違い、大量の魔力を所持していた肉体が何らかの要因によって相反する作用を起こし、それまでとは逆に魔力を一切受け付けなくなった者だ。日常的に魔力を放出している変色者のペシフィロは、確かにサフィギシルにとっては嫌な存在なのだろう。酔いのせいで体の調子が狂っている今の彼にはことさらに。
「……わかりました。そうします」
「わかるんだ。へえ」
 絡み付く言葉に眉を寄せるとその分相手は笑みを浮かべる。いつもは病人のように青白いサフィギシルの顔は酒に赤く染められていた。元の色素が薄い分異常な色彩に見える。視界が霞んでいるのだろうか、サフィギシルは細くした目をしつこく瞬かせていた。よく見ると小脇に抱えた酒瓶はもう残りいくらもない。それ以前にも大量に呑んでいるはずだ。今夜は酒盛りをすると言って、ジーナと共に何本も買い込んでいたのだから。
「ペシフさん、呑まないの」
 作業を再開していると眠たそうな声がかかる。文面を追いながら答えた。
「言ったでしょう。明日までに終わらせたいものがあるんです」
「なんで断ったの。ジーナが誘ったのに」
 繰り返される質問に気分がささくれるのを感じる。告げる声は少し荒れた。
「だから、仕事があるんです。相当酔っているんでしょう。もう寝なさい」
「ジーナがー、ミドリも一緒にって言ったのにー、なんで来なかったんですかー」
 わざとらしく伸ばされる口調に困り果てて顔を上げる。サフィギシルはうつぶせの姿勢で顔だけをこちらに向けていた。
「なんであの人酔っぱらうとあんたの話しかしないんですかー。途中からペシフじゃなくてミドリって呼ぶようになるのはなんでですかー。僕が傍にいるのに、ミドリがミドリがってそればっかりなのはなんでですかー。なんで『ここにいるのがお前じゃなくてミドリだったらなあ』って言われなきゃなんないんですかー」
 サフィギシルは喋りながらのろのろと起き上がり、ペシフィロに歩み寄る。絶句する変色者の襟を掴み上げ、低く落とした声で告げた。
「腹が立つ。あんたがいなくなればいいのに」
 見下した静かな目にペシフィロはぞくりと震えた。
 睨むでもなく、憤りに燃えるわけでもない激しさを見せない目。衝動に駆られた怒りよりもずっと深く彼に根付いているのだろう。普段は見せないその色が剥き出しになっている。
「……サフィ」
 言うべき言葉が見つからず、ただ彼の名を呼んだ。青く冷えたサフィギシルの顔が少しずつ伏せられて沈んでいく。掴み上げられた襟は下がり、握りしめる彼の手は逆にぶらさげられた。
「サフィ?」
 屈んだ頭が胸元に押し付けられる。体重をかけて寄りかかる彼の背に触れたところで、こぽ、と弾けるような音がした。飛び出した据えた臭いの液体が薄暗がりを明るく見せる。驚いて声を上げるペシフィロには構わずに、サフィギシルは死にそうな顔をしてペシフィロの服の上に嘔吐した。
「だっ、大丈夫ですか!?」
 治まったかのように見えたところでまたしても次の発作が来る。ペシフィロは容器を探して見回したがサフィギシルは手を離さない。縋るようにしがみつき、苦しげな息を繰り返しては胃の中身を吐き出した。生理的な涙がこぼれて嘔吐物の中に混じる。悲痛な息ももれる呻きも泣き声のようだった。
 ペシフィロは彼の背をさすろうとして取りやめる。魔力を持つ体で触れれば余計にひどくなるだろう。離れるのが一番だが、サフィギシルは子どものようにこちらにしがみついてくる。ペシフィロは触れる代わりに声を掛けた。揺れる背中をさするように、俯いた彼の頭を撫でるように、大丈夫、大丈夫と繰り返した。サフィギシルの呻きが、少し嗚咽に近づいた。


 サフィギシルは虚ろに彼を眺めていた。借りた服が身丈に合っていないのだろう、難しそうに身じろぎしてはまた元の姿勢に戻る。清潔な服を着せられて、ベッドの上に座り込み、先ほどから忙しく働き続けるペシフィロの様子を見つめる。
 ペシフィロは、意思があるかどうかも明らかでないサフィギシルに目を向けては心配そうな顔をした。だがすぐに慌ただしく作業に戻る。彼はあれから落ち着いたサフィギシルを着替えさせ、魔力を抜いた水を飲ませるなどの処置をした。服の上や床に散った嘔吐物を片付け、再びに備えて洗面器と清潔な布を用意する。階下と部屋を行き来しているとジーナが様子を見に来たが、自分の部屋に戻ってもらった。彼女なりに責任を感じて引き取りに来たのだが、サフィギシルが顔をあわせることを拒否した。惨めな姿を見られたくなかったのだろう。
 女将や他の住人たちに断りを入れながら、ペシフィロは一人で後処理を終える。
 ようやく全てを片付けて、ペシフィロは俯いたサフィギシルの顔を覗き込んだ。
「気分は楽になりましたか?」
 サフィギシルは弱く頷く。ペシフィロはほころぶような笑みを見せた。
「よかった。また気分が悪くなったら言ってください。次はここに吐いてくださいね。脱水症状が起こるといけませんから、喉が渇いていると思ったらすぐにこの水を……」
「……なんで怒らないんですか」
 呟きに顔を上げると、サフィギシルは俯いたまま口を動かす。
「絡まれて。酷いことを言われて、おまけに吐かれて。どろどろになってたじゃないですか。人に服渡す前に自分が先に着替えろよ。子どもみたいに顔まで拭いて、自分は髪に散ってるのにも気づいてないし。これだけ迷惑掛けられてなんで笑えるんですか。なんでそんな顔ができるんですか!」
 上げられた彼の顔は苛立ちから赤く染まり、睨みつける目は泣きそうに歪んでいた。サフィギシルはひとつひとつ吐き出すように続けていく。
「僕にはできない。他の人に押し付ける。片付けたとしてもその間ずっとこのやろうと思うだろうし、相手を気遣うふりをして叩いたり、足を引っ掛けたり、水を忘れたふりをしたりわざとぶちまけてやる。それでも気が収まらなくて、あんたみたいには笑えない」
 信じられない顔で見つめるペシフィロを鼻で笑い、サフィギシルは自嘲を吐き出す。
「そういう人間なんだ。愛想よく笑いながら、心の中ではいつも相手を馬鹿にしてる。優しい人になんてなれない。すぐに誰かに嫉妬するし、欲しいものは自分のものにしなきゃ気が済まない。僕以外の人間が全部不幸になればいいのにと思ってる。腹の底ではそういう風に考えながらにこにこ笑って優しい人に見せかけてる。だってそうでもしなきゃ僕はどこにもいられないんだ。僕には帰る家もないし、親もいないし、みんなから嫌われたらいる場所がなくなって、もう生きていけなくなる。だから嘘をついて、優しい人のふりをして、みんなから好かれるように……」
 語る声は次第に湿り、か細く喉の奥へと消える。うなだれた彼に触れることができなくて、ペシフィロはせめてもの例を出した。
「院長先生は、いつでも戻ってきていいと言っていたでしょう」
「あの人は僕がこんな奴だって知らないから、そんなことが言えるんだ」
 では彼は施設で過ごした十年以上を嘘に固めていたのだろうか。弱っていくペシフィロの顔をサフィギシルは涙目で睨みつける。
「そんな顔するなよ。なんであんたはそうなんだ。僕だったら聞きながらざまあみろと思う。そんな悲しそうな顔はできない。そんな、何かしたいと思ってるのがわかるような、本当に優しい顔は……」
 こぼれた涙の粒を拭い、サフィギシルは咳き込んだ。
「どんなに優しいふりをしても、あんたみたいな人には敵わないんだ。近寄るなよ。虫唾が走る。本物が傍にいたら嘘がばれるじゃないか。なんであんたみたいな奴がいるんだよ……僕にはできないのに」
 彼は顔を両手で覆い、掻き消えそうな声で言う。
「僕が欲しいもの……あんたは全部持ってるんだ……」
 ペシフィロは彼に手を伸ばしかけて、やめる。やり場のない手で自分の髪についていた嘔吐の跡をこそぎ落とした。
 サフィギシルは力なく布団を被り、背を向けて横になる。震える背中が触れられることを拒んでいた。
「ビジスは」
 ペシフィロは机に戻りながら言う。
「ビジスはあなたがどんな人間でも絶対に見捨てませんよ」
「……気休めはやめてください。僕は技師に向いてるわけじゃないんだ。ジーナやあんたみたいに特別な力もないし、能力も魔力もない。弟子としている意味が解らないんだ。他にも技師になれる奴はいるはずなのに、なんで僕が……」
「確かに、あなたの能力はあの人には必要がありません」
 容赦のない肯定にサフィギシルの肩が揺れる。ペシフィロは穏やかに言いきった。
「でもね、だからこそあなたはビジスにとって特別な存在なんですよ」
 問いかけるような沈黙。ペシフィロは息をついて、ゆっくりと話し始める。
「あの人の行動には無駄なものがないんです。それこそ、近くで見ていて息苦しくなるほどに。何気なく歩く方角にすら何らかの理由がある。私がこの国に連れて来られたことにも、ジーナを弟子にしたことにも、全て彼なりの利点が存在するんですよ。でも、あなたにはそれがない」
 窓を見つめる彼の目は遠い記憶を辿り始める。六年前、ビジスに出会った時のこと。それから起こった様々な事件のことを。丁寧にたぐり寄せた思い出に確信を強めて続ける。
「何の利用価値もない人間を引き取るなんて、ビジス・ガートンらしくないことだったんです。ましてや養子にして同居を始めるなんてとんでもない。街の人によると、今まで彼が誰かと暮らそうとしたことなんて一度もなかったそうですよ。ジーナだってずっと通いの弟子でしたし、私もこの国に来たばかりの頃はあの家にいましたが、職が見つかるとすぐこちらに移されました。それでも当時の最長記録だったそうです」
 サフィギシルを引き取ると告げた時のビジスの顔を思い出す。唐突な発言に驚く周囲を気にもせずに話を進めた。初めから相談などするわけがない。意図が読めないのはいつものことだが、サフィギシルに繋がる行動の中には彼らしくない切実な気配があった。時おり、一瞬だがもしや悩んでいるのかと訝しく思うような、迷いのある顔を見せた。
「私たちは道具や駒として利用されているに過ぎないのだと、時々感じます。彼にとっての利用価値がなくなれば呆気なく捨てられてしまう。あの人は捨てる時には本当に簡単に視野から外してしまいます。でもあなただけは捨てられない。……道具でも駒でもなく、一人の人間として傍に置いているんですから」
 ペシフィロはかすかなため息をつく。
「それを思うと……時々、ひどく妬けます」
 呟くと、自嘲的な笑みがもれた。
 なんだか急に気恥ずかしくなって、ペシフィロは照れくさくサフィギシルの方を向く。だが相手は布団を被ったままぴくりとも動かなかった。
「サフィ?」
 立ち上がって覗き込むと、かすかな寝息が耳を打つ。ペシフィロは苦笑して隅に転がる酒瓶を床に置いた。サフィギシルは涙の跡を顔に残し、疲れたように眠っている。ペシフィロは笑いながら机に戻り、進まなかった本の続きを読み始めた。

           ※ ※ ※

 真昼の光が差し込む中、サフィギシルは愕然と顔をこわばらせていた。肌色は吐いていた時よりも悪く、目は彼方を凝視している。閉じることを忘れた口が震えた。
「ご、ごめんなさい……」
 それが口火を切ったようで、途端にがばりと身を起こすと泣きそうな顔で謝る。
「ごめんなさいごめんなさい申し訳ありません! 昨日、僕、あんな……っ、ごめんなさい!」
「いいんですよ。それよりも体の方はどうですか」
 ペシフィロが顔を上げさせると、大丈夫だと言いかけて呻きながら目を閉じた。
「……二日酔いです……」
「そうでしょうねえ」
「僕、何本呑みましたっけ……」
「ジーナによると、二人で四本だそうですよ。彼女もつらそうでしたが、仕事は大丈夫でしょうか」
 よろけながら出ていった彼女の姿を思い出し、ペシフィロは苦笑する。結局はサフィギシルのことが気になってなかなか寝付けなかったらしい。本人は「あいつじゃなくてお前が苛められてないか心配だったんだ」と反論していたが。
 サフィギシルは痛む頭を押さえながら、おそるおそる質問する。
「……ペシフさん。まさか本当に床で寝たんですか」
「はい。あ、いえ毛布もありましたし、慣れているんですよ。野宿に比べれば安全ですし」
 多分に予想通りだったのだろう回答を耳にして、サフィギシルはがっくりとうなだれた。
「なんでそう……もう……」
 消え入るような呟きは俯いた表情と同じくほとんど聞き取ることができない。サフィギシルは文句らしきことを呟いていたが、ふと気づいたように顔を上げた。
「あの。このこと、先生には内緒にしてくれませんか。他に何でもしますから!」
 そもそも彼がジーナの部屋を追い出されて自宅に戻らなかったのは、師であるビジスに腹を立てて家を出ていたからである。いつも通り一方的な喧嘩とは言え醜態を知られたくないのだろう。切実な眼差しを受けながら、ペシフィロは額を押さえる。
「そうできれば良かったんですけどねえ」
 ため息混じりの発言に、サフィギシルの表情が引きつった。同時にがちゃりとかすかな物音。
 静かに開いたドアの奥から現れたのは、噂のビジスその人だった。
「おはよう、ぼうや」
 彼は嫌味なまでに甘い声でにやりといつもの笑みを浮かべた。
「なんでいるんですかー!」
 たまらず叫んでそのまま自分の声にやられ、サフィギシルは頭を押さえる。痛みから来る涙目でペシフィロを睨んだが、連絡もなくやってきたビジスをどうして止められるだろうか。ペシフィロはビジスに場を譲りながら無言で隅に避難する。サフィギシルの目が、裏切り者、と訴えた。
 ビジスは三色の錠剤が転がる小瓶を掲げてみせる。
「お前のためによく効く薬を持って来たよ。ひとつは二日酔い用、もうひとつは下剤、さらにひとつはしびれ薬だ。さァ好きなものを飲め。おや、しまったどれがどれだか解らなくなったなァ」
「絶対わざとだー! 三択の意味ないし。いりませんよこんなもの!」
「残念だなァ、せっかく愛情を込めて作ったのに」
「しかも手作りですか! ああもう毎回毎回無駄に手間かけてこの人はーっ」
 叫ぶほどに頭に響いてしまうのだろう、サフィギシルは痛々しく頭を抱える。うずくまる彼に腕を伸ばしたかと思うと、ビジスは抱きかかえるようにしてサフィギシルを担ぎ上げた。
「うわあ!? なにすんですかッ」
 暴れる荷物にわざとらしくよろめきながら、ビジスはおどけた声で言う。
「可愛い息子が着替えもなくて帰れないようだからなァ、運んでいってやるのだよ」
「このまま外!? 馬鹿ッ、ふざけんなー!」
 青ざめた顔色は即座に赤く染め上がる。思わず飛び出た本気の怒声を余裕で流し、ビジスは声を上げて笑った。
「なんだ、横抱きの方がいいのか? わがままだなァ」
「嫌ですってせめておんぶせめておんぶ! このまま大通り行くつもりでしょう!」
「そろそろ腹が減ったなァ、港側の旨い飯屋にでも行くか」
「すっごい遠いよ! ペシフさん、止めてくださいっ」
 だが求める目で見つめられても彼を助ける手段はない。ペシフィロは目を逸らして告げた。
「……誰もが一度は通る道ですよ……」
「うわああ目ぇ遠ッ! ペシフさーん!」
「大人しくしていた方が得ですよ。抵抗すればするほど酷くなるので」
「そんな重みのある助言いらねえー!」
 もはや頭痛のことも忘れてサフィギシルは声を荒げる。ビジスはそれを聞く度に逆に笑みを強くする。彼が何を楽しんでいるのかに気がついて、ペシフィロは苦笑した。これならば安心だ、と口には出さずに独りごちる。彼が傍にいるのだから、サフィギシルもこれからは。
「世話になったな」
 ペシフィロに向けられたビジスの笑みは、いつものように全てを見通すようだった。
 彼はサフィギシルを支え直し、ひょいひょいと弾むような足取りで外へと向かう。
「階段っ、階段あります、って走るな――っ!!」
 サフィギシルは悲鳴を上げて背中を叩くがビジスに効くはずがない。段を飛ばして豪快に飛び降りると悲鳴も抗議もひと時やんだ。だがすぐにまた絶叫じみた怒声と笑いが交互に続く。ペシフィロはたちまちに小さくなる親子の姿を見つめて笑った。もう一度口の中で、大丈夫。と独りごちた。

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