過去編目次


 それはまだアーレルに来て二日目の、目眩も取れない夕方のことだった。
「一振りの杖をやろう」
「え?」
 ペシフィロは先を行く老人の言葉を聞き逃して顔を上げる。急な坂道と街の方から押し寄せる魔力にやられて気分が悪く、歩くだけでも一杯の状態だった。だがビジスは気を遣う様子も見せずに軽々と先を行く。身長差から来る歩幅の違いが二人に距離を開けていた。ペシフィロは、坂道の上を行くビジスを見上げるように訊く。
「すみません、聞き取れなくて……杖、ですか」
「そう、杖だ。正式な物はすぐには用意できないが、ひとまずの制御用なら一つ手持ちのものがある。わしには殆ど無用だがお前には丁度いいだろう。いつまでもそうして力に呑まれていては生活すらできないからな、すぐに慣らしに入るといい」
「あ、ありがとうございます」
 這うように歩きながらでは、それだけ言うのが精一杯だった。アーレルに来てから、体の調子が少しでもまともだった試しがない。港にたどり着いた時点で既に船酔いに負けていたというのに、陸に上がれば今度は魔力の応酬だ。
 流通国家と呼ばれる通り、この国には港から大量の人や物が流れ込んでは陸の奥へと去っていく。流れては消える動きに合わせて多種多様な魔力もまた同じように移動した。土地の力、人の力、物の力。あふれるそれらは様々な色や匂いや音をもってペシフィロの体を混乱させる。街の中にいることは、巨大な渦の中央に飛び込んでいるのと同じことだ。それなのにビジスに街中を連れ回されて熱を出し、ペシフィロは到着早々郊外の宿で休養するはめになった。
 そうしてようやく歩けるほどに回復し、今はビジスの暮らす家へと向かっている途中である。
「ほら、あそこだ。どうだ分かるか?」
「はい……」
 再び高く顔を上げて、ペシフィロは行く先に見える物の様子を確かめた。
「封印が、ええと……四重、ですか。すごい厳戒態勢だ」
「そう見えるか。悪くないな」
 立ち止まるビジスに追いついて息をつく。気を抜けば崩れ落ちそうな体を支えるように膝を掴み、情けない声と共に深い呼吸を繰り返す。ビジスが笑っている。弱々しい姿に対してだろうか。
「もうあとどれほどもない。さァ、行こう」
 腕を引かれ、重心を崩してよろけた体を引きずられて歩きだす。確かに目指す家は目の前だ。封印の壁に遮られてその形は分からないが、重ねられた術の中に何かがあるのは察し取れた。
 近づくほどに体が楽になるのがわかる。ひやりとした冷気が漂い、まだ熱の残る体を冷ました。足元だけは未だにどこを歩いているのか、地面がどんな感触なのかも分からないが、腕を引くビジスの手のひらだけははっきりと感じ取れた。一歩先に進むたびに体を覆う熱が抜ける。迷いのようなぼんやりとした感覚が一枚ずつ剥がれては足元に抜け落ちていく。
 ああ、もう既に封印の中に入っているのか。気がついたのははっきりと目が覚めてからだった。ペシフィロは今眠りから醒めた気分でまばたきをする。ここ数日のぼやけた思考が抜け落ちて、再び大きな息をつく。今度こそ、正常な体に戻った。
「涼しいだろう。ここには余分な波がない」
「はい。……膜で覆ってあるんですね。あまりにも薄いから、気づかなかった」
「存在を理解しただけでも大したものだ。さて、家に帰るとするか」
 掴んでいた腕を離してビジスは先に歩きだす。彼は立ちはだかる薄白い霧の壁を術で解き、次に現れた炎の渦を軽くいなして飛んできた岩をも砂に戻す。氷のつぶてにうねる洪水。幻であるにも関わらず確かな温度を伝えるそれらをひとつひとつほどいては消していく。どうやら、四重どころかその倍近くも厚い封印だったようだ。鮮やかなビジスの手際に見惚れながら、ペシフィロは先ほどの彼の言葉を訝しむ。
 一振りの、杖。魔術用の杖ならば数える単位は「本」のはずだ。だがビジスの腰に目をやって納得がいく。使い込んだ旅装束に馴染む質素な剣と黒い杖。並ぶそれらは彼の手にかけられては同じように使われる。複雑な溝を持つ黒い杖には昆のように細かな握りがついていて、魔術用のものというより多く打撃に利用された。一応、魔力を増幅させる機能もあるらしいが、この老人は魔術を発動させる時にほとんど杖を使用しない。本当に実力のある術師とはそういうものだと魔術に詳しい者は言うが、ペシフィロもそれに同感だった。彼にとって杖などと言うものは術を扱うものではなく、人を殺さずに倒すための武器なのだろう。だから、剣と同じく「振り」と言ったに違いない。
「ペシフィロ」
「はい」
 招かれた先には既に封印の壁はなく、こじんまりとした一軒家が佇んでいた。見る限り木製ではあるがアーレルの建築様式とは違うようだ。漆喰のない壁はそのまま木肌を晒していて、未完成のようにも見えるがそういう形式なのだろう。ビジスは何故だか一歩下がり、ペシフィロを玄関の前に立たせた。
「先に行ってもらおうか。面白いものが見られるぞ」
 はあ、と気の抜けた返事をして促されるままノブを取り、疑いもせずに扉を開いたその瞬間に視界が白く輝いた。粉だ。大量の細かい粉がこちらに向かって浴びせられた。肺まで埋まったような気がしてたまらず苦しく咳き込むと、その弱みを衝くかのように攻撃的な気配が飛び込む。
「ビジス、ターウェンラー!」
 絶叫にも近い怒声と共に額を棒で一撃されて、視界はまた熱く光った。ペシフィロは言葉もなく崩れ落ちて玄関にへたり込む。額を押さえてうめいていると、頭上から楽しげなビジスの笑い声。
「ローゼンハ、リム!」
 快活に吐き出される現地語は喜びと親しみにあふれている。だが向かい合う気配は戸惑いをもち、すぐにそれを怒りに変えた。何を言っているかも聞き取れないほど早口でビジスに罵声が浴びせられる。甲高く響く声は若い女のものだった。ペシフィロはそこでようやく痛みから立ち直り、耳鳴りがするほどの声の主を確認する。
 細く長く伸びた手足がまるで棒のように見えた。定規を当てているかと思うほどにまっすぐで平らな身体。背に流された黒髪もまた針のようで、同色の瞳はきつく上がるまなじりに憤りを際立たせている。彼女はペシフィロを見てぎょっと目を丸くすると、ビジスに向かってさらに何かを訴え始めた。だがビジスは鷹揚に笑って受け流すだけ。娘はくっきりとした顔立ちを赤く歪めてビジスに飛びつく。大きな腕が娘を抱いた。直線でできたような身体は、力を入れればポキリと折れてしまいそうに見えた。
 だが実際には彼女はビジスの腕の中にやわらかく受け入れられる。娘は途端に弾けるような笑みを見せ、声を立てて笑いながらビジスの体に抱きついた。ビジスもまた笑いながら彼女の頭を雑に撫でる。きゃあきゃあと上がる楽しそうな声を聞きながら、ペシフィロはどうすればいいのか解らなくて、とりあえず立ち上がる。そうすると娘と自分の身長にはそれほどの差がないことに気がついた。
「……あの、ビジスさん」
「ああ。紹介をしなければな」
 完全に置いてきぼりを食らった気分で尋ねると、ビジスは娘の頭を撫でて答える。
「これはわしの弟子だ。これから長い付き合いになるだろうから、まァ仲良くやってくれ」
 驚いて目を見張るとビジスは面白そうに笑う。
「ちなみにこれでも十三になったばかりだ」
「じゅっ……」
 彼女ほどの体格ならば、ペシフィロの故郷では女としては大人でも大きすぎるほどだった。だが言われてみれば女らしい肉付きはまだ見えず、体の線はひたすらにまっすぐに伸びている。
「アーレル人は背丈の伸びが随分早い。まァ肉がつくのはこれからだがな。将来はいい女になるぞ、予約しておいてやろうか?」
 人を食った笑みを浮かべてビジスは娘を抱き上げた。大人のような体の“弟子”は、嬉しそうな悲鳴を上げてビジスの首を抱きしめる。ビジスは行くぞとペシフィロに告げて、娘を軽々と抱えたまま家の中へと入ってしまった。その余裕ある身のこなしがどうしても老人の物には見えなくて、そのまま娘をベッドまで運んでいくようにも思えてペシフィロはかぶりを振る。きっとまた笑われてしまうだろうから、二人の姿がいやに不純に見えたことは口にしないでおこうと誓った。

            ※ ※ ※

 ――二週間。それだけ待たされたのだ。彼女は自分の憤りをなんとか相手に訴えようと、抱きついたビジスの顔を見る。だが怒りよりも喜びが勝ってしまい、どうしても頬がゆるむのを止めることはできなかった。彼女はせめてもの抵抗として小さく口をとがらせる。
「閉じ込めて、ひどい。ずっと外に出られなかった」
「お前が帰りたくないと言うからそうしてやったんじゃないか。家には連絡してあるよ。散々文句を言われたがな」
 涼しい顔で流されるのはいつも通りのことだった。彼女の顔は不満に曇る。
「そんなことするから、お父さんに嫌われるんだ。また『ビジスには近づくな』って言われる」
「あれはわしのことを嫌っているわけではないよ。ただお前が好きすぎるだけさ」
 いけしゃあしゃあと答えられるが、それは多分に真実だった。彼女の父は普段口には出さないけれどビジスのことを尊敬している。彼女に対するビジスの行動だけを別として。彼女はふと後ろからついてくる男のことを思い出した。大人なのに背が低いのは異国人によくある特徴だから、今さら驚くことはない。だが腰まで伸びた髪の色と瞳については別の話だ。
「あれは誰? あんな色、見たことない」
 物陰の草の葉にも似た深く暗い緑色。髪も目も全く同じ色をしている。緑の瞳は薄いものならわずかに存在するという。だがあれは、自然な人の色としてはあまりにも異質なものだ。塗料を被せたような色は強い魔力の証だった。彼女は確認の意を込めて訊く。
「……変色者なの?」
「ああ。それも滅多にない稀少品だ」
 囁くような言葉には企みが滲んでいた。彼女は不気味に思いながら、そっと男の気配を探る。だが別段何かしなくとも、彼からあふれる大きな力は彼女の肌をざわめかせた。生まれ持つ体の色を塗り変えるほどに濃い魔力なのだ、解らないはずがない。
「何する気」
 不審な顔で見上げると、一筋縄ではいかない師匠は面白そうに笑って答える。
「お土産だ。好きなだけ遊べ」
 そのにやりとした表情にとてつもなく嫌なものを感じて、彼女はうんざりと目を閉じた。

           ※ ※ ※

 居間らしき広い部屋に入ると同時に、ペシフィロは思わず声を上げた。
「どっ、どうしたんですか! 泥棒!?」
 カーテンは無惨に引きちぎられてぶら下がり、飾り物の鉢植えは倒されて土と木をばら撒いている。不自然にずらされた家具の傍では絨毯が不器用に丸められていた。引き出しは全て開けられている。壁に掛けられていたらしきものは全て床に落ちていた。
 だが動じるペシフィロとは裏腹に、ビジスは声を上げて笑う。
「なんだなんだ、生温いなァ。心配ない、全てこれがやったことだ」
 そう言って娘の頭に手をやると、彼女はどこか気まずそうにペシフィロを窺った。既に床に下ろされてはいるものの、彼女は師から離れないようぴたりと纏わりついている。低い位置から見上げるような視線は確かに子どものものだった。言い訳のように何事かを呟くが、現地語を知らないペシフィロには内容が掴めない。代わりにビジスが通訳をした。
「全てわしが悪いのだそうだ。まァ間違いでもないな、この娘を閉じ込めたのはわしなのだから」
「閉じ込めたって……いつですか?」
「二週間ほど前に別行動を取っただろう。その時に、一度ここに戻ったんだ。お前を待たせてあるからすぐに出て行く予定だったが、この娘は強情でなァ、付いて行くといって聞かん。連れて行くまで帰らないと言うものだから、望みどおりこの中に閉じ込めてやったんだ」
 あっさりと説明されるが尋常な話ではない。あれだけ厳重な封印を施して小さな子どもを閉じ込めていたというのだろうか。だがペシフィロは納得もした。彼女が恨みがましい目をしているのはそういう理由があったからか。だからこそビジスを殴ろうとして、粉を仕掛けて目くらましをした挙句に棒で襲いかかったのだ。現実にはそれは外れてペシフィロが被害をこうむったのだが。彼ははたいてもまだ残っている粉を気にしながら言う。
「ということは、住み込みの弟子ではないんですね」
「ああ。だが毎日押しかけてきては入り浸るから、似たようなものだがな。しかしリム、お前にしては珍しく優しいな。足の踏み場があるじゃないか」
 わざとらしく頭をなでるビジスに向かって少女は腕を振り上げる。言葉を指摘されたのだろうか、ビジスは現地語で似たような台詞を繰り返した。リム、というのはハイデル語では女の子全般の呼称なのだろうか。宿屋の娘も同じように呼んでいたから、個人の名前ではないはずだ。そんな推理をしていると、自己紹介を求められた。
「あ、ペシフィロです。ペシフィロ・ネイトフォード。……わかるかな」
 戸惑いながらも名乗ってみると、少女は不審に眉をひそめる。遠慮のない喋り方で、短い単語を繰り返した。
「変な名前と言っている。リム、これはわしの名でもあるんだぞ?」
 多分に同じことを現地語で繰り返すと、少女は不満そうに言い返した。
「どうやら、だからこそ気に入らないらしいな。お前に嫉妬しているようだ。リム、メイザ?」
 聞き返されて彼女は言葉を詰まらせる。窮した顔を赤くして、しぼり出すように答えた。
「……ジーナ」
「ほう?」
 言った後でビジスの顔は笑みに歪む。彼はくつくつと楽しそうな音を立てて言う。
「どうやらこの娘の名は今日からジーナと言うようだよ」
 愉快にはずむ声を聞いて彼女の顔はますます赤く染められた。わけが解らずきょとんとするペシフィロの肩を叩き、ビジスは笑いながら言う。
「さて。お互いに名も知れたことだし、わしはしばらく席を外すよ」
「え?」
「城に顔を出さねばいかん。色々と口うるさいのがいるものでな。だが二週間も閉じ込められた姫君を放っておくのも気の毒だ。お前が家まで送ってやれ」
「僕がですか!? そんな、だって道もわからないし……」
「自分の家だ、こいつが自分で案内するよ。実はな、ここまでの経路で知れている通り、わしの周囲はどういうわけだか物騒でなァ。無謀な輩が武器を掲げて付き纏ってくれるのだよ。弟子であることは隠しているが、わしに近しいこの娘もしばしばその身を狙われる。ま、家に着けば問題ないからそれまでせいぜい守ってやれ」
 確かに、ビジスと旅をしてきた約ひと月で、彼の周囲の不穏さは身をもって知っている。何しろ奇襲は毎夜のことで、落ち着いて眠ることも難しいほどだったのだ。大半はビジスが処理をしてくれたが、ペシフィロも幾度となく戦闘に巻き込まれている。だが、それはあくまでもまともに術を使える地でのことだ。
「無理ですよ! こんな場所じゃ、ろくに術も……それどころか歩くのも精一杯で」
「運良く今夜は新月だ。日が暮れれば街に漂う魔力は落ちる。夜を待って出るんだな」
 確かに新月の夜は動きやすいが、暗がりに飛び出すなどよほど危険なことではないか。批難しようと口を開くが、それよりも早くビジスは背を向けてしまう。
「じゃあ頼んだぞ、初仕事だ。奥の部屋に辞書があるから好きに使え」
「ビジスさんっ!」
 それを聞いて、ジーナとは言葉が通じないことを思い出すがビジスの足はいたく速い。同じことを言われたジーナが騒ぎながら駆け寄るが、あっさりといなされて無責任な師匠は外に出てしまった。
 諦めずに追ったジーナがしばらくして戻ってくる。彼女は泣きそうな顔でペシフィロを見て、逆恨みをするかのように力いっぱい舌を出した。その仕草の持つ意味は正しくは解らないが、とりあえず嫌われたことだけは伝わってきて、ペシフィロは心の底から深くうなだれた。

           ※ ※ ※

 ジーナは直線のような手足を振って廊下を先に進んでしまう。家の中の隅々を知り尽くしているのだろう、迷いもなく歩いていくがペシフィロはそうはいかない。同大陸であるとはいえ故郷からは随分と離れた国だ。内装や家具を取っても文化の違いが目に見えて、心細い気持ちになる。
 心に余裕がある時ならばその差異を楽しむこともできるが、今は別だ。事の左右も分からない異国に取り残されて、言葉の通じない少女の相手を任された。おまけに、その相手の機嫌はひどく悪い。ため息をつく力すらなくのろのろと歩いてゆけば、前方から叩きつけるようなジーナの声。多分、早く来いと言っているのだろう。ペシフィロは逃げ出したい気持ちを抑えて彼女の方へと足を速めた。
 呼び寄せられた部屋は見るからに書庫だった。元はそれなりに広い部屋だったのだろうが、現在では大量の書棚や床に積み上げられた本、そして図面らしき紙や皮や布の類が敷地を埋め尽くしている。足の踏み場は細く長く一本しか残っていない。ジーナはその終着地にある机の上に次々と本を積んでいた。巨大なもの、小さなもの。どうやらどれも辞書らしい。
「ラジカ、ウィアッ」
「え、ええと……選べってこと?」
 尋ねても相手に通じるはずはなく、彼女は苛立つ顔で並べた辞書を指差した。そういえばどの言葉を使うのかはまだ教えていなかった。ペシフィロは慌てて自国語と現地語を結ぶ辞書を探す。
「これっ。ほら、わかるかな。キシズ語なんだ」
 汗をかく気分で掲げてみせると素早く奪い取られてしまう。ジーナは相変わらず矢継ぎ早に喋りながら、辞書の中を探っていく。彼女の言葉は叩き付けられるような早口で、想定していた模範文よりも短く聞こえた。アーレルの住民はよく言葉を略すらしい。多少は学習してきたのだがあまり意味はなさそうだ。
 本に飲み込まれる勢いで没頭していた彼女の顔が上げられる。
 ジーナはペシフィロを指差した。
「ミドリ!」
「は?」
 確か今、緑、と言われたような気がする。早口の上に発音が違うので聞き間違いかと思ったが、ジーナは辞書の一点を指して同じ言葉を繰り返す。
「ミドリ、ウィナハ! ミドリ、イーハウ?」
 そこにはキシズ語では緑色のことをなんと言うか説明が記されている、ようだった。ジーナはペシフィロに向かって同じ言葉を繰り返す。どうやら「お前のことをミドリと呼ぶ」と言われているらしきことに気づき、複雑ながらも承諾した。
「えー……はい。ミドリ。僕は、ミドリ、です」
「イーハウ」
 それが「よろしい」の意だということは、幸か不幸か知っていた。いや幸運と言うべきだろうが、主に目下の者に対して使われる語だということだけは知らないほうが幸せだった。
 ペシフィロは自分自身に「めげるな」と言い聞かせる。外見を呼び名にされるなどいつものことだ。学生時代のように、カエルなどと呼ばれないだけましじゃないか。
 頭の中で鼓舞していると、ジーナは次々とページをめくっていく。掲げて、示して、記されている語を何回も口にした。ミギ、フィダリ、マヘ、ウスロ、ウヘ、スタ、ナナミェ、ツギ、アト、エイクワク、ドンクワク。全て方向を意味する言葉だ。どういう意図かはわからないが、彼女の鋭い眼差しに気圧されて同じように復唱した。右、左、前、後ろ、上、下、斜め、次、後、鋭角、鈍角。
「イーハウ。ツギ!」
 次と言われて続いたのは魔術用語の数々だった。こちらは多少の差異はあるが、大陸中では共通の物が多い。特に基本的な呪文には通し番号が付けられているので、それを使えばうまく通じた。ただし数の数え方が違うため、ジーナは自ら一桁の数字の読みを調べては紙に書き写し、イチ・ニイ・サンと繰り返す。ペシフィロも一・二・三と復唱した。
「イーハウ」
「はい、ありがとうございます……?」
 教師のような態度なのでうっかりと敬語になりかけた。情けなくてため息が出る。
「ミドリ、コウ。コウ、イーハウ?」
 求める目で問いかけられて急いで手元の辞書をめくる。コウ、とは広く明かりの意。明かりをつけろということか。ペシフィロは戸惑ってあたりを見渡す。薄暗く闇が訪れつつある乱雑な部屋。照明道具がどこにあるか一目でわかるわけがない。多分求められているのは魔術の明かりだ。だが制御の効かないこの状況で術を使っていいのだろうか。
「ええと……制御。ディクハビィ、だめ。だめってのは……」
「コウ、ジィモン、チャントヨン・サンサンゴ」
 確かにチャントの記した四冊目の呪文書の三百三十五番は明かりを灯す手法だが……とそこまで考えてペシフィロは目を見張る。学院で術を学んできた彼には当たり前の知識だが、術師でもない少女が諳んじることができるとは。
「イーハウ? フェスキナ・バトフ……」
「あ、あ、知ってる。平気。コウ、イーハウ」
 呪文の中身まで挙げられては偶然のはずがない。ペシフィロは彼女を止める勢いでつい承諾してしまい、術を使わないわけにはいかなくなった。発言を取り下げればいいだけなのだが、そのための言葉がわからない。おまけにジーナは期待する目でじっと熱い視線をよこす。自分では術を扱えないのだろうか。それとも、変色者ということで過剰に期待しているのか。
「……あー、じゃあ。点けます」
 通じないと分かっていても自国語で宣言し、周囲の力を肌で探った。幸いにもこのあたりの力の流れは凪いでいる。街中のように飲み込まれて混乱するおそれはない。
 魔術とは引き寄せる技のことだ。世界に無数に漂っている力の元をたぐり寄せ、しかるべき支点を中継させて複雑な路を描く。呪文の文句は支点の名前だ。ここを通り、あの点を突き抜けて手もとにまでやってこいと念じる力を持っている。より遠くから引き寄せれば強力な効果をもたらし、より複雑な路を走らせれば術の奥が深くなる。
 だが明かりをつけるだけなら初歩的なものでいい。範囲は狭く、路はゆるやかな四回転と直線交差。大丈夫、基本的な技のひとつだ。そう言い聞かせながら目を閉じて、呪文を唱える。おのれの中に漂う魔力を手繰る手の形に変えて、近くにある力の元を引き寄せて動かして……。
 誘導した力は二回転したあたりで急激に膨張した。空に向けた手が引きつる。増幅した力は速度を上げ、辿るべき路を外れて部屋を取り巻くように回りながら光の濃度を高めていき――白く爆ぜた。
 自らの悲鳴もかき消される爆発音と酷い熱風。それらは一瞬で焦げ臭い煙に転じ、鼻と喉を曇らせた。咳き込む音は二人分上がっている。ペシフィロはまだ視界が混濁する中ジーナの姿を探したところで甲高い悲鳴に耳を打たれた。
「アー!!」
 絶叫に近く叫んだあとで咳き込む気配。ジーナは紙の舞う部屋を駆け、床に崩れた本の山にしゃがみこんだ。本棚に直撃したのだろう、大量の本が無惨な形で転がっている。焦げた棚の残骸があちこちに散らばっていた。ジーナは山の奥から取りあげた塊を抱いて言う。
「アー、アー、アー! リリ、リリ!」
 墨色に焦げたそれは鳥の剥製のように見えた。だがよく目を凝らしてみれば、引きつるような形の脚も、わずかに広げられた翼も木製であることがわかる。本物によく似た鳥の模型だ。あちこちに隙間が見えるから、組み立て式なのだろう。
 ジーナはペシフィロを睨みつける。鋭く上がるまなじりは涙に潤み、赤々と燃えていた。
「ディーバ! ディーバっ!」
 ペシフィロに駆け寄る時点で大粒の涙がこぼれる。ジーナは泣き叫びながらペシフィロを拳で叩いた。
「ごめん、ごめんなさい! 悪かった!」
 だがそれで通じるはずがなく、理解されても許すような気配はない。わあわあと泣きながら背を叩く彼女に押されてペシフィロは部屋を出た。ドアはすぐに力強く閉ざされる。その後で、よりいっそう激しい嗚咽が部屋の中に響き渡る。ペシフィロはただひとり廊下に取り残されて、とりあえず呆然とした。ディーバというのは罵倒だろう。リリというのは鳥の模型の名前。多分、魔術技師の作る鳥形細工とかいうものに違いない。彼女が作ったものなのだろうか。せっかくの作品を台無しにしてしまったから、あんなにも悲しんで。ペシフィロは力なく座り込んだ。泣き声を聞くほどに罪悪感が募っていく。叩かれた胸や背が今さら鈍く痛み始めた。
 ――またやってしまった。
 ため息をつく気にもなれない。目を閉じて、天を仰ぐ。術の制御が効かないのは昔からのことだった。簡単な術でさえ高い確率で暴走させて周辺に被害を及ぼす。そのため、大量の魔力を持つのに魔術師として仕事をすることができない。せめて基本は、と呪文だけは正しく暗記しているが、それでも自分の力を止めることはできなかった。
 ペシフィロはおのれの手のひらを見つめる。この力は何のためにあるのだろうか。いつもそう考えて、結局は答えが出ない。使えない力のために体を痛め、常に具合を悪くする。いっそなくしてしまえばどんなに楽になれるだろう。これがなければ燃料として扱われることもなかった。魔術兵器の一部として、人を殺すこともなかった。
 ジーナはまだ泣いている。それが別の誰かのものに聞こえて、ペシフィロは耳をふさいだ。

           ※ ※ ※

 見上げる空に月はなく、星でさえ雲に隠れている。ペシフィロは明かりで道を照らしながらジーナの隣を歩いていた。魔術ではない生の火がカンテラの中で揺れている。時おり激しく燃えるそれは、空よりも、人よりも、よほど変化に富んでいた。
 ジーナはあれから一言も口を聞いてくれない。口をきつく結んだまま視線すら合わせない。ペシフィロは勝手に帰ろうとする彼女を追って来たのだが、撒かれて何度も見失いかけた。今はもう街灯のある大通りを逸れたためか、逃げ出すような気配はない。だが光の届くぎりぎりの範囲まで距離を開けられている。近寄りたくない、見たくもない。そんな無言の意志を感じてペシフィロは胃が重くなった。こんなことなら、まだ罵られていた方が楽だ。
「この辺りは道が細いね。さっきまでは広かったのに」
 通じないことも聞き入れてもらえないことも、頭ではわかっている。だが気分として何か口にしなければ居たたまれなくてしかたがなかった。舗装された通りを外れて今は民家の裏道だ。家庭の会話がもれる傍を早足で歩いていく。
 細い道、太い道、現れる小さな広場。それをまた突き抜けて別の道へと進んでいく。街の中に漂う魔力は新月の夜らしくおとなしかった。太陽光も月の光も消えた中では力は膨らむことはない。ペシフィロは安堵に胸を撫で下ろす。こんなにも狭くて複雑な道、日中ならば走る魔力に負かされて倒れるに違いない。心配していた敵とやらも現れないし、ビジスはただからかっていただけなのだろうか。
 だが呑気な想いは一瞬で打ち砕かれる。
 風が鳴る音を感じて避けると、刃物の軌跡がその場を裂いた。
 照らされて光る刃を持つのは黒服を纏う人間。
「スーヴァ!?」
 叫んだ後で、違う、と判断する。彼がここに居るはずがない。そもそも使影であるならば人間の形すら見せないのが常のはずだ。ペシフィロは素早く状況を見渡す。闇に沈む小さな空き地。続く道は二本ある。目に見える敵は三人。武器を持ち、間合いを詰めようとしている。
 冗談じゃない、丸腰だ。ジーナを慌てて追ったせいで護身の武器すら持っていない。
 ペシフィロは漂う殺気に気圧されながら、なんとかジーナを庇おうとした。だが引き寄せようと伸ばした手は叩くように弾かれる。ジーナは明かりの範囲を越えて暗がりへと飛び込んだ。
「ジーナ! 馬鹿っ、危ない!!」
 ペシフィロもまた闇へと駆け出す。それに合わせて敵の影も動いたが考えている余裕はない、とにかく彼女を追いかける。がむしゃらに走る数歩先で敵の影が彼女に向かい、刃物が高く振り上げられた。
 瞬間的に様々な呪文が脳裏を駆ける。口先までこみ上げる。
 だが怯えるジーナの顔が見えた途端、ペシフィロは呪文を捨てて彼女を抱きしめていた。
 肩口に熱と激痛。腕の中のジーナが驚く。彼女が何かを言う前にペシフィロは走り出す。
「どっち!?」
「ミ、ミギ!」
 叫んだ途端に後頭部を殴られて視界が光る。よろめく体を支えるように力いっぱい足を踏み、とにかく前に進もうとするが殴られる斬りつけられる。ペシフィロはわめくジーナを抱き寄せて腕を振り、砂を投げ、殴られながら斬られながらもとにかくジーナを庇い続けた。自分でも何をしているのかわからないぐらい必死になって、全力でその場を逃げた。

              ※ ※ ※

 撒くことが出来たのは奇跡的だったかもしれない。ペシフィロは傷の手当を受けながら、深いため息をついた。転がり込んだジーナの家はあちこちでろうそくの火が揺れている。普段使っている照明器具は、ペシフィロが仕掛けを壊してしまったのだ。別段何かしたわけではなく、近寄っただけで破裂した。動力である魔力を与えすぎてしまったらしい。変色者は気が昂ぶっているだけで力が抑え切れなくなる。
「……ああ、ここにも傷! ここにも!」
 暗がりの中、ジーナの母は次々と傷を見つけていく。必死になっていたときは痛みなど感じなかったのに、言われてみるとだんだんと痛みはじめるのは何故だろう。ペシフィロは自分の体のあちこちにある、すり傷や腫れや刃物の痕を確かめて眉を寄せた。一番酷い肩の傷は応急処置を終えているが、痛いことに変わりはない。魔術で治癒をかけてもらって軽傷にはなっているが、完治とは言えなかった。
「でも命に別状はなくて良かったわ。血を見た時はどうなることかと思ったもの。ああ大丈夫、そんな顔しなくていいのよ。うちの人も若い頃は色々とやっててねえ、血まみれで飛び込んでくるなんていつものことだったのよ」
 なるほど、手際が良いのはそのためか。胸のうちで呟きながら先ほどのことを思い出した。食い込むようなジーナの目。泣きそうになりながら、顔を赤く染めながら、それでも涙をこぼさずにずっとこちらを見つめていた。ペシフィロの顔ではなく、血を流す肩を。手当を受ける傷口を、熱を感じてしまうほどにじっと見つめ続けていた。くちびるは言葉をもらすこともなく、きつく結ばれ続けていた。
 だが今は彼女も部屋に戻っている。ジーナの母は何度目かもしれない礼を言った。
「ありがとうございます。本当になんて言えばいいか。あ、この薬しみますけど我慢して」
「はい。……あの、キシズ語、お上手ですね」
 今さらながらに尋ねると、彼女は明るく笑って答える。
「上手も何も、わたしそっちの人間ですもの。同盟戦争が始まる前になんとか脱出してきました。随分昔のことだけどね。あなたは変色者だから都に閉じ込められていたんでしょう。聞いたことがある。国中で変色者を集めてるって。それぐらいしか手段のない国だものね」
 ペシフィロは曖昧に頷いた。ジーナの母は手早く包帯を巻いていく。
「もう十年以上帰ってないからどうなってるかも解らない。お上は相変わらず?」
「……ええ、さらに酷い。いつ倒れてもおかしくないです」
「まったくどうしようもない。それに比べてこの国は平和でいいわよ。でもビジスさんの周り以外ってことになるのかしら。おかしいわねえ、今までこんなことなかったのに」
「彼に近づいているから、ジーナもしばしば狙われると聞きましたが……」
「まさか。そんな危険な人間なら子どもを預けちゃいませんよ。もう、怖いわね。離れさせたいけどあの子きっと聞かないわ。今まで散々お父さんに叱られたのに、それでも遊びに行くんだもの。でもすごいのよ、死んだ鳥も生き返らせちゃうんだから」
 話の齟齬が気になるが彼女は喋ることをやめない。相づちを打つ暇もなく、一方的に話を続ける。
「うちで飼っていた鳥がいてね。もう寿命と病気で今にも死にそうだったんだけど、あの子、魂を移動させてもう一度生かしちゃったのよ。木で組み立てた鳥としてね。本当はそんなことしない方がいいんだろうけど、ずっと可愛がってたし……どうしたの?」
「その鳥、もしかしてリリっていう名前ですか?」
「そうよ。もう聞いてたの?」
 血が凍る気がした。ペシフィロは恐る恐る問いかける。
「“ディーバ”って、どういう意味なんですか」
「え? そうねえ直訳すると“殺人者”ってところかしら。でも大体『人殺し!』とか『殺す気か!』とか罵る時に使うわね。それが何か?」
 体が冷えていくのがわかる。視界が揺らぎそうになる。自分が何をしてしまったのか、ジーナが何を言っていたのか今さらながらに理解して、目の前が暗くなった。
「あらいけない、お父さんそろそろ帰ってくるわ。ごめんなさいね、ちょっとここで待ってて頂戴」
 ジーナの母が部屋を出るのを意識の片隅で感じるが、反応する力もない。
 ペシフィロは弱く立ち上がり、歩きだす。ろうそくの火に照らされて、壊れてしまった照明器具が生気なく浮かび上がっていた。他の部屋に近づけばまた同じように物を壊してしまうのだろう。魔術技師の道具が多くあるために、そちら側には近づかないでと頼まれていた。
 ただ生きているだけなのに、それだけで被害を生みだす。
 泣きわめくジーナの声を思い出して胸が痛む。謝りに行きたいが、近づけば迷惑がかかる。この部屋を出るだけでいくつ物が壊れるだろう。せめてしばらくのうちは術を諦めようと考える。敵に襲われた時にしても、暴走することを恐れて呪文を口にできなかった。むしろ、制御できないこの国にやってきたのは良いことだったのかもしれない。調子に乗って取り返しの付かないことをするよりは、せめて無害な人間として生きていくことができれば。
「…………」
 ペシフィロは言葉もなくうなだれる。
 魔術師として生きることも、人として生きることでさえも、自分にはできないのだろうか。
 戻ろう、と考えた。これ以上ここにいては迷惑がかかる。第一、こんな街の中央部で朝を迎えれば、力の量に押し負けてまた倒れてしまうだろう。ビジスの家に戻ろう。ジーナは無事に送り届けたのだから、問題はないはずだ。狙われているのは彼女の方なのだから。
 声をかけて行こうにも家人がどこにいるかわからず、結局は何も言わずに家を出た。壊れてしまった外灯を仰ぎ見て、玄関の傍に記された家名に気づく。ハイデル語で書かれた下にはキシズ語で「ジーナハット」と記されていた。
 不可解に思いながら庭を出て、道を行く。明かりがないので民家の光を頼りにしていくしかない。夜の色に落ちた景色の先に、黒い塊が見えた。何かと思う暇もなく、塊は立ち上がって人間の形を作る。黒い服を着た人間。目には殺意の光があった。ペシフィロは息を呑む。
「見つけた」
 人影は、母国語で口をきいた。

              ※ ※ ※

 血の色がまぶたの奥にこびりついて、目を閉じても離れなかった。ジーナはベッドの上で体を丸めてペシフィロのことを想う。流れる血、体中についた傷。緑の髪も砂にまみれてうす汚くなっていた。
 守ってくれたからだ。ジーナを庇い、守り、抱きしめて腕の中に確保した。どんなに殴られても蹴られても、斬られても、絶対に離さないよう力を込めて抗った。彼が守ってくれたから、ジーナの体に怪我はない。その代わりにペシフィロが負った傷を思うと、ジーナは喉の奥が熱くなってどうしようもなくなった。苦しくて、腕の中の枕を抱いた。
 ――土産だよ。欲しいと言っていただろう。
 耳の奥でビジスの言葉がよみがえる。
 ――好きに慣らして使えばいい。しばらくは、お前にやろう。
 貴重なものだから大事に扱え。どうするべきかは言わなくても解るだろう。そう言ってビジスは去った。師匠に対して腹は立ったが悪い気はしなかったのだ。ずっと望んでいたことが叶うかもしれないのだから、せめて真面目にやろうと思っていた。……リリが燃やされてしまうまでは。
 術を見せろと言い出したのは自分だと解っているが、ジーナはそれでも怒りを止められなかった。ずっと可愛がっていた鳥なのだ。不自然な形でも生かしたいと思うほどに。それを殺したペシフィロが許せなかった。絶対に“手伝って”やるものかと決意した。だからこそ敵が来たとき一人で逃げ出したのだ。それなのに、ペシフィロは身を投げ出してジーナを庇った。傷だらけになってまで、守り抜いた。
 泣きそうな気分で枕を抱きしめていると、弟が部屋のドアを開けた。
「ねーちゃん、ねーちゃん!」
「っさい。なに」
「緑の人どこ行ったのかってかーちゃんが」
 ジーナはがばりと顔をあげる。
「いないの!?」
「うん。黙って帰っちゃったのかなあ。迷子になるんじゃねーの?」
 外に出てしまったのならそれどころの話ではない。ジーナは近くの鞄を掴んで廊下に飛び出す。だがその動きは弟に止められた。
「バカ、父ちゃんすぐ帰ってくるぞ!」
「いい! 適当にごまかして!」
 だが弟は腕を離さず打算的な笑みを浮かべる。
「ホーシューは?」
 殴りたくなるのを堪えて、ジーナは身を切る思いで答えた。
「おやつ三日分!」
「っしゃあ!」
 自由になった体を動かしジーナは階下へ逃げていく。
 騒がしさをごまかすために、弟が大声で歌い始めるのが遠く聞こえた。

              ※ ※ ※

 助けてと叫びたくとも声が出るはずもない。ペシフィロは呼吸すら危ういほどに全力で足を動かした。聞こえるのは不安に鳴る心臓と呼吸音と足音のみ。土を蹴っていくほどに疲労と痛みが増していく。道にある闇が全て恐ろしいものに見える。どこからか人が現れて襲われるのではないかと思う。
 前方に不安な影。杞憂であれば良かったのにそれは人の形となって、刃を振りかざしてくる。狙いは捕獲だ、殺されることはない。だがここで掴まればまた人殺しの道具として燃料として閉じ込められて。
 黒服を着た男の腕が首を掴む。自分でもどこから、と思うほどの悲鳴を上げると全身から熱が放たれた。輪郭を緑色に染める光。敵の影を吹きとばす。焦げ臭い煙が漂う中、飛び掛ってきた男が倒れて痙攣するのが見えた。
 ペシフィロは悲鳴を飲み込む。これで、四人目。明らかに増えているがあとどれだけいるのだろう。あと何人倒せばいいのだろう。暴発は数を追うごとに規模が大きくなっていた。今はまだ殺さないで済んでいるが、次はどうなるか解らない。最悪の場合は一瞬で相手の四肢をもぎ取りかねない。
 崩れ落ちそうな体を奮い立たせて明かりの見える方へと逃げた。広い道、せめて大通りに出れば。人気がないのは解っていたが、今はただ見通しの効く場所に出たかった。暗闇を恐れながら全力で走り抜け、広場にも見えるほどの大通りへと転がり込む。
「終わりだ」
 一番に目に飛び込んだのは、街灯に光る剣だった。
 ペシフィロは剣先を突きつけられて、呆然と立ちすくむ。目の前の男には見覚えがあった。
「……教官」
「久しぶりだな。随分と手間をかけさせてくれたものだ」
 かつて魔術の手法を教わり、直属の上司ともなった人間がそこにいた。
 力尽きて膝を崩し、石敷きの道に座り込む。低くなった姿勢に合わせて剣先も動かされた。間違いなく喉元を衝けるように狙われている。教官の背後には今までと同じような黒服の人影があった。光の下で目を凝らせば布の下に隠れた顔は、同じ国の者だとわかる。馴染みのある肌の色や目の色に愕然と肩を落とした。
 逃げられなかったのだ。ビジス・ガートンの力を借りて、追っ手に後をつけられないよう複雑な旅程を辿ってきた。途中、不審なことはいくつもあった。襲われることも多々あった。だがその度に別件だとビジスに言われ、お前にはそうまでして追わなければいけないほどの価値はないと言われて納得していた。甘かった。ビジスは嘘をついていたのだ。
「僕を、連れ戻しに来たんですか」
「当然だ。ただでさえ変色者は数が減っている。他国に逃すわけにはいけない」
 減らしたのは誰だ。そう訴えられるのは言葉ではなく視線だけ。人外の扱いを受け、その身を壊して“魔力無し”へと転じてしまった者もいる。戦場に放り出されて野垂れ死んだ者もいる。攻撃の要となる変色者を守るために、何人もの兵が犠牲となった。それだけ被害が増えるというのに軍は方針を変えようとしない。そんな所に戻れというのか。
「……嫌です」
「認められない。忘れたのか? お前はもう人間ではない。物として軍が買ったんだ」
 切先が脅すように円を描く。ペシフィロは息すら呑めずにそれを見つめる。
「戦場で名誉の死を賜ったはずの人間が、生きているはずがないだろう。案ずるな、故郷には死亡通知を出してある。今さらお前がどうなろうと家族に知られることもない。ペシフィロ・ネイトフォードという人間は存在しなくなったのだから」
 既に教えられてはいたが、改めて聞かされると頭の芯が鈍く痺れた。涙も出ない悲しみが全身を揺るがしていく。冷ややかな声が頭を殴る。
「――二年間。祖国を裏切り、敵国の女と暮らした罪人にしては軽い罰だと思わないか?」
 叫びたい喉の代わりに敷石に爪を立てた。鎮まれと頭で唱える。叫ぶな、怒るな。そうすればまた力を抑えられなくなる。
「いいか、お前に選択する権利はない。考えるな、夢を見るな。何も感じなくていい。そう、だがどうしても……お前が拒絶するというのなら。家族か、あの隔離病の憐れな女をどうかしてもいいんだぞ?」
 粘りつく嗤い声を聞いた途端、自制心は無惨に裂けた。
 目の前が赤く染まり体中が沸騰する。意識外で口が動き呪文を唱え始めたところで、視界が白く輝いた。――粉だ。大量の細かい粉が、頭上から降ってきた。
「ミドリ!!」
 混乱のまま咳き込む体を引かれて立つと、泣きそうな顔のジーナが腕を握り締めていた。
「ミドリ、ミドリっ! イーハウ!? イーハウ!?」
「い、いーはう」
 そうかこの言葉には「大丈夫」という意味もあるのか。困惑の中で気がつくと、ジーナは安堵に顔をほころばせる。初めて笑ってもらえたことに喜びを覚えるのと、視界の隅に白い鳥を見つけたのは同時だった。まばゆいほどに輝く鳥が頭上を大きく旋回している。その腹の蓋が開いて宙にぶら下がり、動きと共に揺れていた。鳥型細工というやつだろうか。多分、彼女が作り上げた。感心して見上げていると、ジーナは強く腕を引く。
「ミドリ、マエ! ツギ、ジィモン!」
「じゅ、呪文はだめ! 暴発、爆発。イーハウ?」
「ブー。イーハウミェン! ツギ、ジィモン!」
 ブーってなんだと問いかける暇もなく、ジーナは背後からペシフィロの体を抱きしめた。
 ぎょっとして逃れようとするがジーナは強く腕を締める。そうしている間に粉による霧が晴れ、体を折って咳き込んでいる敵方の姿があらわになった。ペシフィロは今のうちに逃げようと考えるがジーナが離れようとしない。それどころかペシフィロの腕を取り、子どもに術の使い方を教えるように基本的な動作を示した。
「ジィモン。ヤゴールゴ・ニイナナサン。ミギ、ナナミェマエ、エイクワクウエ!」
「だから呪文は……」
「イーハウ!」
 やれ、という意図を汲んで捨て鉢となって指示に従う。右手を斜め前に振り上げる。角度は鋭角。抱きついて離れないジーナがずれを直すとぴたりと腕が固まった。ペシフィロは、えっ、と呟く。
 体内を流れる魔力が右手の先に集結したのだ。まっすぐに、これほどなくなめらかに。ペシフィロはこれが今ここで術を使う最善の角度なのだと悟る。少しでもずらせば流れが途切れる。だから動かすことができない。棒を通されたかのように間違いなく腕が伸びる。
 指示された呪文を唱え始めると、全身の力が右手へと集まった。揺るぎない一本の道を速やかに駆けてゆく。手の中に力が篭る、攻撃の光を纏める。敵たちが恐れるように一歩引き、教官は逆に剣を構えて踏み込むが届かない、先に術が発動する。
「アト、シタウエ!」
 言われるがままに腕を引いて下から上へと旋回させると周囲の風が唸りを上げた。
 発動の声を上げて溜め込んだ力を放つ。それは鋭い光となって教官の剣を砕き、胸元に直撃した。弾けるように遠くまで飛ばされて、部下たちが悲鳴を上げる。
 ごう、と音を立てて光は体を抜けていく。術の後に残るのは、頭に穴を開けたような、そこから何かが抜けたような奇妙なまでの爽快感。ペシフィロは呆然と光の消えた跡を見つめた。焦げるという二次被害もなく、人を殺すほどの力もない。だが確実に攻撃を排除して相手の意識を吹きとばした。教官は立ち上がらない。だが死んでいるわけではない。
「ミドリ、ツギ! ミギ、エイクワクシタ! ヤゴールヨン・ニイゴ!」
 迷う間もなく指示に従い言われた通りに術を扱う。今度は周囲に漂う力が指の先へと集結する。風のように流れるそれらを縒り集めて矢に変えて解き放つ。指示の通りに動かすと、面白いほど間違いなく敵の足に命中した。まるで初めから糸でつながれていたかのように確実に、逃げる彼らの動きを封じる。ひとり、またひとりと縫いつけて指を弾けば全員が気絶した。
 ぞく、と快感に肌が震える。こんなにも正確に術を放てたのは初めてのことだった。何もかも間違いがなく体が動いた、力を使えた。ペシフィロは口を閉じることも忘れて余韻に浸る。ぎゅう、と何かが腹を苦しく締めて、我に返るとジーナが背に顔を埋めていた。
 ――そうか。
 目の前が鮮やかに拓けていくような気がした。深く、感嘆の息をついた。
 一振りの、杖。魔力の流れを読み取って正しい位置へと力を導く。確かに暴発しがちな術者にとっては制御用と言えるだろう。通常の杖のように力を封じるのではなく、素早く、間違いのない道程への導き手になるのなら。たとえ、それが生きた人間の少女でも、杖と呼べるのではないだろうか?
「……ジーナ」
 さすがに恐ろしかったのだろうか、彼女は背に顔を埋めたままぴたりとも動かない。ペシフィロは不安になって、巻きついてくる腕を剥がして手を握る。すると逆に勢いよく引かれたかと思うと、ぶんぶんと上下に揺らされた。きゃあきゃあと甲高い笑い声。ジーナは心の底から嬉しそうにペシフィロの腕を振り、今度は正面からぎゅうと抱きついてきた。
「ミドリ! ミドリっ!」
 喜びがこぼれ落ちるような、満面の笑みで飛びついてくる。
 ジーナは興奮あらわな顔で、力強く言い切った。
「イーハウ!」
 それは多分「よくできました」を意味する言葉。ジーナは少し背伸びをしてペシフィロの頭を撫でる。
「……い、いーはう?」
 呟いた口が引きつるのは仕方がないことだろうか。ペシフィロは喜びのまま騒ぐジーナに髪をひどく乱された。ジーナはそんな彼を見て嬉しそうに笑っている。まるで遊びがいのある遊具を与えられた時のような、わくわくと輝く笑顔。ペシフィロは自分が完全におもちゃ扱いされていることに気づき、深く長い息をついた。「一振り」の振りは「振り回される」の振りなのだと、嫌というほど実感していた。

            ※ ※ ※

 目覚めると冷ややかな敷石が頬に張り付いていた。男は痛む胸を押さえ、うめいて身を起こそうとする。だが何者かに踏みつけられて、体はまた道へと落ちた。彼は敵意のままに声を上げる。
「誰だ!」
「さァ? 誰だと思う」
 いやらしいほどに甘い声。愉しげなそれに合わせて、喉元に黒い杖が向けられる。彼は声の主を見上げて全身を引きつらせた。
「ビっ、ビビっ」
「あァ言わずとも分かっているさ、長年親しんだ名だ。さてキリグフ・カーン、交渉だ。ちょっと時間をくれないか」
 尋ねながらも無防備な喉元を脅すのだから、彼に選択肢などない。青ざめた顔で頷くと、老人は恐ろしいほどにっこりと笑ってみせた。不気味に凍る相手の頬を杖で撫で、歌うような声で言う。
「変色者を一体、アーレルに売って欲しい。なに金は惜しまんさ。お前らと違って貧乏はしとらんからな」
「ふ、ふざけるなっ。あれがないと、我が軍は……」
「その軍を国ごと潰して欲しいか? あァ?」
 冷ややかな笑みを浮かべて胸元を踏みつける。よく磨かれた鉛の重りが靴の裏で光を見せた。ビジスは無慈悲に男を踏みつけて彼の上にしゃがみこみ、ぴたぴたと頬を叩く。
「いいじゃないか国家機密のひとつやふたつ。あれが何を知っていようがわしがどうして構おうか。そんなもの、人の口を使わずとも全て知っておるのだよ」
「じゃあ、なぜ、あれを……」
「お前には説明しても解らんよ。そうだな、可愛い娘のおもちゃとして買い取ったことにしようか。不満なら、あれの故郷の家族だろうが女だろうがまとめて買おう。案ずるな、悪いようにはしてやらんよ。お前たちはまだこの世界に必要な存在なんだ」
 ビジスは息を呑む彼に向かって極悪な笑みをもらす。
「諦めろ。あれはもうわしのものだ」
 低く言い聞かせた後で、うって変わった明るい顔でわざとらしく言い捨てた。
「手間がかかるというのには同意だな。ここまで持ち込むのにひと月もかかってしまった。長かったなァ、だがこれでもう決着だ。近いうちにアーレルから正式な通達が行く。いい買い物をさせてもらったよ、感謝しよう」
「……そのために、不可解な旅程を取っていたのか」
「お前たちをここまで生かしておいたのも新月のおかげなんだ。暦には感謝しておけ」
 月のない空を見上げてビジスは口を笑みに歪めた。
 それを最後に男の体を杖で撃ち、気を失わせたところで、さて、と立ち上がる。
「今度こそ城に行かんとな。寄り道が長すぎた」
 面倒そうに頭をかいて、やる気のないあくびをする。この時間ならば重臣たちは眠りについたころだろう。彼らを起こしてやるのもまた一興。ビジスは杖で肩を叩きながらゆっくりとその場を去った。


 アーレルの国庫記録簿に「変色者:数量一」と記されるのは、それから三ヵ月後のことである。



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