過去編目次


 目を開くことすら忘れた。たとえまぶたを開いても見えるのは闇だけで、目を凝らしても自分の手の形すら解らなかった。放りだした手足を少し伸ばしただけでも爪の先が壁に当たる。そのかわり、天井は呆れるほどに高いはずだ。随分と高い場所から気まぐれに、ごうごうと魔力のうなる音がする。
 この場所に閉じ込められて一体どれほど経ったのだろう。どこまでも真暗な檻の中では時間を知るすべはなく、生死も不安なこの体では、夢にいるのか現にいるのかそれすらも解らない。
 自分は眠っているのだろうか。それとも、もう死んでいるのだろうか。
 夢ですら日の光を見なくなった。願望の夢も悪夢も見ない。本当はもう力尽きて、永遠の闇に落ちたのだろうかとすら思う。
 だがその思いを打ち消すように、肌を寒気が覆いはじめた。羽虫にも似た耳障りな音が足をつたい、背へとまわり、首を渡って耳まで流れる。空気の震えるむずがゆい感触が耳の奥へと侵入し……数拍して、どろりと熱い液に変わった。脳の奥から溢れるようなその液は、確かな熱を感じさせつつ体の外へと流れ出る。部屋の空気が張りつめた。収縮を繰り返すように、ゆっくりと、体からそれを奪っていく。凝縮して液状化した人の魔力を吸い上げていく。
 耳から流れた液化魔力は空中で霧へと変わり、部屋を満たす特殊な空気に引き寄せられて、上部へと昇るはずだ。体を去ったそれらの気配がうすく輝く。無論目に映るはずはない。だが、どの方向を向いているのかすら解らない闇の中で、彼は確かにそれらの持つ気配を“視た”。音もなく引き寄せられて天へと上昇する力。それらの色や形さえも。
 まぶたは開いているのだろうか。それとも、閉じた中で夢を見ているのだろうか。その答えも解らないまま、思考すらままならないまま、彼はゆっくりと気を失った。

    ※ ※ ※

「こんなところにいたんですか!」
 聞きなれた小うるさい男の声に、ビジスは軽く振り向いた。その顔に走る皺をより強く眉間に寄せて、不機嫌そうにまたカウンターへと向き直る。入り口からずかずかと入り込む相手を無視するように、近くで食器を並べる店主に酒を追加するよう頼んだ。ラックルートはその顔を覗き込んで軽く睨む。
「何を企んでいるんですか、“相談役”殿」
「ほう、今度はそう来たか」
 まあ座れ、と隣の席を軽く指して、ビジスは面白そうに笑う。からかうような笑みを受けて、ラックルートは不満を浮かべた。
「様をつければ何者かと思われるでしょう。……そんな、浮浪のような格好をして」
 その格好は遠目で見ればごみのように見えただろう。古びた灰色の上着は背丈の高い彼には合わず、手や足を長く出す。覘く中に着ているものももれなくぼろのようにすり切れ、捨てられていた雑巾を無理にあわせたような風情。いつもとは明らかに違う彼の服装に、ラックルートは不快を隠しもしない。
「不老ならばあながちは嘘ではないな。お前は潔癖か。臭いのなら離れておけ」
「そういうことでは……」
 だが完全に否定しきれるわけでもなさそうに、ラックルートは身を引いた。それでもまだ批難の気もちを捨てきれず、他人を気にして声をひそめる。
「名前を呼ぶわけにはいかないでしょう。何か役職に就いてください。呼称がないのはどうしていいかわからない」
「様づけをすれば不自然にもほどがあるし、か?」
 その通りだとでも言いたそうに口を結んだ彼に向けて、ビジスはにやりと笑みを浮かべた。
 どう見ても乞食にしか見えない老人と、清潔な身なりの若い男。彼らがひととき話すだけでも違和感は漂い始め、盛況とは言えない店にぽつぽつと座る客は彼らを気にして視線を送る。だが彼らの素性までは見抜くことができないだろう。
 まさか、この乞食のような老人が、一国を建て世界を揺るがす化け物じみた男だとは。
「解っているのなら出歩くのを控えてください。……私の役目が何なのか解っていますか?」
 ラックルートも身分こそ隠しているが、整った立ち振る舞いは隠せない。まだ実戦を知らないだけに、徹底して教え込まれた兵士としての堅苦しさが全身に行き届いているようだった。
「警護だろ。わしの」
「周辺の、です」
 ラックルートは伸ばした背筋と同じように、正しくぴしゃりと言い切った。ビジスは声を上げて笑う。集まった注目を気にする連れには構わずにぐいと酒を飲みほした。
「なんだ、大分きさくになったじゃないか」
「当たり前です。半年ですよ? 半年もあなたにつかされているんだ、慣れないほうが間違っている」
「慣れるまで半年もかかるのは十分異常と言えるだろうよ。ほら、言わんのか? 『何も言わず姿を消して他国に行くのをやめてください』『喧嘩するのはやめてください』『その剣をしまってください』」
 ビジスの腰には質素な剣と魔術師の杖が一本ずつ並んでいる。全身に纏うぼろの中で、使い込まれた風情のそれらはひどく浮いた。
「……結構です。この国では武器もそうそう珍しくはありませんし、護身としては逆にあった方がいい」
 そう言うラックルートの腰にも支給の剣が佩かれていた。彼はビジスの差し出した酒を手で戻し、どこか疲れたように言う。
「どうしてこんな国に来たんですか」
 ここは彼らの母国アーレルからは随分と離れた国だった。元々不穏な話ばかりが絶えず続いている場所だ、犯罪率はかなり高い。この酒場も一見すれば平穏だが、裏の裏までそうなのかは言い切ることはできなかった。客たちの目つきが鋭い。深夜の闇に紛れ込めば、何をするか解らない。
 ましてや彼が世に名の知れるビジス・ガートンと判明すれば、いつ不穏な動きがあってもおかしくない。国から命じられたラックルートの任務は、そんな老人の警護役だったはずだが。
「いいですか裏通りを歩くのはやめてください。わざと弱いふりをして誘い込むのもやめてください。悪人といえど他国の民を半殺しにしないでください。ご自分の立場を心得て、くれぐれも勝手な行動は謹んで……」
 くどくどと続く説教を右から左へ流しながら、ビジスはつまみを口にした。
「“相談役”殿」
「ご隠居殿というのはどうだ」
「大陸を自力で横断する人にその言葉は似合いません」
「口が達者になってきたな」
 齢七十五にして相当の健脚を誇る彼は、いまだに若い頃のように、ふらりと国を飛び出しては世界中を廻ってしまう。それは時には政治的な意味を持つが、気まぐれな物見遊山の場合も多い。もっとも、本当にただの遊びとしての旅行なのかは本人にしか知り得ないことなのだが。この底知れない老人の考えを読みきることは、誰であろうと不可能と言われていた。
「……何を企んでいるんですか」
 ラックルートは声をひそめた。聞き出すには場所が悪いが、どちらにしろ計画を他人に伝えない男だ。せめて何か意味があるのかそれだけ解れば上等だった。もっとも、無意味な旅行のはずがないとは解っていたが。そうでなければ、わざわざ入国証を偽造してまで入り込むはずがない。
 ビジスはちらりと横目をやると、酒に手を伸ばして言った。
「あの塔がなァ」
「は?」
 怪訝な声には構いもせずに、ぐいと瓶ごと酒を呑む。
「あの塔が、どうも気に食わん。目障りだな」
 ラックルートは不可解な目でしばしビジスを見つめていたが、少しして思い当たった。
「あの、灰色の塔ですか」
 それは街の隅にひっそりと建つ、目立ちもしない建物だった。特に高さがあるわけでもない、目立つ形もしていない。何のためにあるものなのか、誰が所有するものなのかはその周囲の住民ですら知っているかは危うそうな打ち捨てられた風情の塔。
「そうだ。あれがわしには邪魔でなァ、どんなものかとこの目で見に来たのだよ」
「邪魔?」
 ラックルートはいかにも理解しがたそうに眉を寄せる。ビジスはそれを横目で眺め、どこか歪んだ笑みをもらした。
「まァ、お前には解らんでもいいことだ」

    ※ ※ ※

 魔力を吸われてどのぐらい経ったのだろうか。ドアの下に設けられた小さな通用口が開いて、食事の皿が現れた。細くもれた光が消えるとあとはただただ闇の中。
 皿ですら見えないが、いつもと同じ食事が置かれているはずだった。栄養だけの薬のような、濁った色の冷たい液体。スープという料理名ですら当てはまらないただの水に近いもの。
 もう手を伸ばすこともできない。力が全く入らない。空腹や喉の乾きも感じられなくなっている。彼は弱々しく頭を上げたが、それ以上動くことができなくて、ざらりとした石の床に頬をつけた。
 ――突如、視界が暗転する。
 これ以上の闇がまだ存在したのだろうか。そんな驚きが麻痺した胸にゆるゆると落ちてきた。闇。これは闇なのだろうか。今までこの目で見ていたものより明らかに深く、底の見当たらない漆黒。ただ平坦な黒色ではない、気が遠くなるほど広く、遥かに続く無限にも思える暗闇。
 彼はぼんやりと“目”を凝らした。自然とそうすることができた。肉体ではないその箇所を動かすと、ぼんやりと、小さな光の点が“視え”る。頭の奥で静かな理解をかみしめた。
 これは、もの、だ。
 召喚の術を使う時、ごく稀に感じることができる感覚。遠く離れた世界のどこかに、呼び寄せることが可能なもの、物質、けものなどが存在している。小さな光の点にも見えるそれらに向けて“手”を伸ばし、引き寄せるのが召喚術の根本だった。
 呪文や陣を覚える前に、心身に叩き込む初歩の理念。習得できるものはあまりいないと言われるそれは、彼にとっての数少ない特技だった。だがそれでもここまではっきりとした光景は初めてだ。死に近しい状況が、異常なまでに能力を高めてくれたのだろうか。
 それでは、と彼は思う。この体の状態で“呼び寄せ”ればどうなるかは解らない。だがそれでも何か起こすことはできないだろうか。なんでもいい。ものでも、力でも、けものでも。彼はその“目”で懸命に闇を探った。するすると小さな光をかき分けていく。探れる限りどこまでも都合のいいものを探る。
 ちらちらと瞬くような粒の合間に、目を焼くほどの光が現れた。彼は思わず眩しさに“目”を閉じようしたが、気づいてすぐにそれをやめる。これだ。これを呼び寄せれば何かが起こる、何かが変わる。光はまだ強く強く全身を焼き続ける。彼はもはや痛みも解らなくなったように、言葉どおり死に物狂いでその光に “手”を伸ばした。

    ※ ※ ※

 いやに派手な音を立てて、ビジスはいきなり椅子から落ちた。
「相談役殿!」
 突然のことに驚いてラックルートが近寄るが、ビジスは呆然と倒れた床を見つめている。
「おう、どうしたあ? 酔いが回ったか、爺さん」
 近くにいた酔っ払いが現地語で声をかけるが、ビジスは目を瞠ったまま食い入るように床を見るだけ。
「大丈夫ですか、どうなさっ……」
「誰だ」
 言葉を遮る彼の声は、恐ろしく低かった。ラックルートが迫力に身を引く。ビジスはしばし床板を見つめていたが、体を起こすと目を閉じて、ゆっくりとその場に座りなおした。
 ふつふつと笑みがもれる。ビジスは内から湧く衝動にかられたように、突如高らかな声を上げて笑い始めた。空気すら震わせるほどの大声で、人々の言葉を奪うほどの凄みをもって。
 ビジスは目を開けて座り直し、右手のひらを床に貼り付けた。口元を笑みに歪める。
「面白い。このわしを呼ぼうとはな」
 そして余った左手で腰にさした杖を握る。漆黒のその先を、トン、と床に突きたてた。
「相談役殿?」
 ラックルートがおそるおそる声をかけるがビジスは顔すら向けないままに、楽しむような声で言った。
「用事ができた。酒代はお前が払っておいてくれ」
「用……何をするおつもりですか!」
 ビジスは笑いながら言う。
「呼ばれたのさ。どこぞの無謀な馬鹿者に」
 そして床につけた指を開くと、老いた体を低く低く屈ませる。ビジスは床に、その奥に囁きかけるように言った。
「行ってやるさ。お前が望むままになァ」
 誰の耳にも聞きなれない奇妙な呪文が紡がれる。
 ビジスの体がどろりと融けて、輪郭を床に流した。
 客たちが悲鳴をあげる。ラックルートが何かを叫ぶ。ビジスは確かに融けゆきながら、窓すら振るわす大声で、聞き取れない言葉を叫んだ。
 部屋の明かりが一挙に消える。騒ぎは闇の中に紛れる。
 腰を抜かしかけた店主がなんとか明かりを直した時には、ビジスの姿は跡形もなく消えていた。

    ※ ※ ※

「……どんな馬鹿が呼んだのかと思えば、死にかけか」
 闇の中に光が灯る。手のひらに魔術製の明かりを乗せて、ビジスはつまらなさそうに言った。幅がなく、足場も少ない部屋の中にはただならぬ異臭が漂っている。天井がはるかに高いのが救いだろうが、それでもこの場の凄惨さは拭えない。腐敗の臭いと処理もない排泄の後腐れが死臭じみた陰気をつくる。狭く冷たい石の床にはやせ細った男が一人、死人のように横たわっていた。ビジスは衰弱した相手に遠慮することもなく、無造作に髪を掴む。
「変色者か」
 汚れきった緑の髪は、長くのびてその体を覆っている。ビジスは髪を引っ張りあげて、男の顔を自分に向けた。生きているかも解らない顔を検分するように見る。
 その表情はおそろしく冷たかった。まるで自分の庭に入り込んだ鼠でも掴むように、ビジスは男の頭を髪でつり下げて言う。
「お前が、このわしを、呼んだのか?」
 一言一言強く告げていく声は、低く冷たい音で響いた。
 男は茫洋とした目でビジスをみとめ、わずかにその口を動かす。音にもならないかすかな肯定。ビジスは顔を笑みに歪めた。男の髪から手を離し、死にかけの体を慈悲もなく床に落とす。
「面白い」
 くつくつとかすかな笑みをもらしながら、手のひらの汚れを払った。
「助けてやろうか変色者。死地の無謀にご褒美だ」
 叩きつけられた床の上で、男はかすかに口を開く。ビジスはそれを肯定と受け取った。ぼろ雑巾のような上着を脱いで、男の顔にばさりと被せる。
「ならば、耳を塞げ目を閉じろ。今からわしが起こすことを決して記憶にとどめるな」
 ビジスは杖を腰に戻し、堅く厚い壁を見やる。浮かせた明かりに手を伸ばし、淡いそれを握りつぶした。
「ここから先は世界の禁忌だ」
 訪れた闇の中で口元が笑みに歪む。ビジスは左の手のひらを、そっと石の壁に当てた。

     ※ ※ ※

 途切れ途切れに目を覚まし、その度に誰かに世話を焼いてもらったような気がする。口にしたのは流動食だっただろうか。水差しで有無を言わさず送り込まれるその感触には覚えがあった。死にかけたのは二回目だ。こうして、誰かに助けてもらうのも。
 また、命を救われたのだとうつろな頭で考えて、彼は静かに眠りについた。


 閉じているまぶたにも光は眩しくふりそそぐ。外から聞こえる子供の声がうるさくて、夢を引きずるぼんやりとした頭のままに、彼はゆっくりと体を起こした。
 清潔な部屋だった。一瞬、病院に寝かされているのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。そこはほどよく質のいい、宿屋の一室のようだった。質素だがところどころに使い古したあとが見える。懐かしみすら感じさせるそれらが、心を少し落ち着かせた。
 だがすぐに、目覚めた思考は混乱を伴っていく。ここはどこだ、今はいつだ、自分は一体どうなって。
 彼はふと自分の体の異変に気づいた。髪が、長い。いつも短く刈っていたはずの髪が、今は膝に辿りつくほど長く長く伸びている。そのため今まで鏡でしか見られなかったその色が、嫌というほど目に飛び込んできた。どこか濁りを含んだ緑。深く濃いが、決して黒には見えない髪色。あまりにも強い魔力は本来の色すら奪い、不可思議な色を体にもたらす。これもまたその一種だった。生まれつき強い魔力は肉体の許容量を超えて、髪や瞳に緑色をあらわした。変色者と呼ばれるのは場所によっては賛辞となる。強い力を生まれ持つのは、魔術師としてこれほどない幸運だからだ。
 しかし、自分の場合は。
 暗く沈みかけた思いをふと断ち切るように、部屋のドアが開けられた。彼は思わず身をすくめる。入ってきたのは、身なりのいい老人だった。皺から読める歳の割には腰が曲った様子はなく、むしろ正しく伸びた姿勢が立ち振る舞いをよく見せる。髪の色は白髪に隠れて見えないが、顔つきからして西の方の人種だろうか。高い背丈に威圧を感じ、彼は思わず頭を下げた。この国の大半を占める人種は、彼を含めてほとんどが小柄である。いかにも異人といった風情に緊張が余計高まる。
「起きたか」
 口を出たのは耳慣れたこの国の言葉だった。彼は少し安心する。老人は水の入ったグラスを一つと、薬らしき紙袋を手にしたまま遠慮なくベッドへと近づいた。
「あの……あなたが、助けてくださったんですか?」
「そうだ。なんだ、覚えておらんのか? お前はあの塔の中で、魔力源にされていた」
 ぴくりと震える彼に構わず、老人は水の入ったグラスを差し出す。彼は無言でそれを取った。
 老人は椅子に座り、袋の中から薬を選り出しながら言う。
「不便なものだな。それだけの魔力が“器”にさえ合っていれば、魔術師としては怖いものもなかったろうに」
 その言葉に同情は感じられなかった。憐れみもなく、老人はただ事実を並べる。
「使いこなせないのだろう。体の方が魔力に負ける。まァ変色者というものは大概がそんなものだ。下手をすれば、人間ではなく兵器として利用される……なんだ、図星か?」
 手に持つグラスの水が震えた。老人は青ざめた彼を楽しむように、かすかに笑いながら言う。
「心配せんでも内乱は終わったよ。お前が塔の中にいる間に鎮圧された」
「そう、ですか」
 手の震えが止まらない。この国のことだ、鎮圧といえば本当に跡形もなく殺したに違いない。そして、その武器となった魔術兵器に力を送り込んでいたのは。
「僕が、殺したんですか」
 怯えた様子で呟くと、老人はたいして興味もなさそうに言う。
「そうだな。そうかもしれない」
 彼は二重の意味で震えた。多くの人を殺してしまったことへの恐怖と、普通ならば知ることはできないはずの、この国の事情を知る老人への恐れ。
「初めてではないだろう? それだけの変色者が対外戦に投与されないわけがない。ほら、飲め。栄養だ」
「あの」
 渡された栄養剤を手のひらに乗せたまま、彼は老人に向けて尋ねる。
「あなたは……誰、なんですか」
「それはわしが訊きたいな」
 老人はつまらなさそうに言い捨てた。途端に、真剣な目で彼を見つめる。
「お前は誰だ。何者だ。自分がやったことを覚えているか? お前はわしを“召喚した”」
 え、とかすかな声がもれた。彼はまじまじと老人を見つめる。
 召喚した? 自分が、この人を?
 まさか、と口にした。だがすぐに忘れていた記憶にぶつかり驚きの声をあげる。
「ああ! よ、呼びました! はい、呼びました!」
 素っ頓狂な大声にふいをつかれてしまったように、老人はしばし言葉を失い彼を見つめた。
 その顔が、笑みにほぐれる。高らかな大声で笑い始める。
「ははは! 呼びましたときたか! こともあろうにこのわしを召喚して『呼びました』か!」
 腹を抱えて笑われて、彼は顔を赤くした。老人は可笑しそうに笑って言う。
「お前はとんでもない馬鹿か、底知れない大物だな」
「……はあ」
 明らかに彼を面白がる顔で、老人は短く尋ねる。
「名は」
「ペシフィロ・ネイトフォードです」
「ほう」
 恐る恐る告げた名に、喜色を濃く浮かべられた。
「奇遇だな。それはわしの十八番目の名前だよ」
 一瞬、相手が何を言っているのか解らなかった。だが自分の名前の確かな由来に思い至り、ペシフィロは思わず身を引く。
「ビっ」
 百名。その通り名は、言葉通り数多くの名を持つことから付けられた。各国を廻るたびに違う名を名乗って暮らし、字の通りに百ではないが五十近くの名を持つ男。彼の偉大な功績にあやかって、その名を子供に付ける親は少なくなかった。ペシフィロの親もまたその一人。
「ビジス・ガートン、様、ですか……!?」
「ああ、そうだとも」
 明らかに畏れを抱くペシフィロをからかうように、ビジスは面白そうに言った。
「ビジスでいいさ。これから長いつきあいだ」
「はい!?」
 目を丸くするペシフィロに向け、ビジスは人の悪い笑みを浮かべる。
「なにしろお前はわしを召喚したんだからなァ。言うなれば主従関係、お前はわしにとっての“ご主人様”というところだろう。なァ、主人よ」
「えええええ、いやいやいや、そんな、そんなそんなそんなっ、滅相もないです滅相もないです!」
「いやあ、召喚獣はおとなしくご主人様に従うのが宿命ゆえ、これからはよろしくお願いします」
「うわああそんなこと言わないでっ。頭下げないでください!」
 わざとらしい仕草でうやうやしく頭を下げられ、ペシフィロは錯乱じみて何度も強く首を振った。
「一度呼ばれてしまったからには、一生主に従うのが世の定め。行く先短い老いぼれですが、存分に使ってくださいませ」
「じょじょ冗談はそのぐらいで! そのぐらいでやめて下さいーっ!」
 哀れなほど蒼白になったペシフィロをちらりと見上げ、ビジスは笑みを浮かべて頭を上げた。
「まァ、あながち冗談でもないさ。呼ばれたのに違いはない。……アーレルに来る気はないか?」
「え?」
 ペシフィロがぽかんとして見つめる先で、ビジスは続ける。
「知っておるだろう、アーレルだ。わしが住んでいるところだよ。丁度なァ、お前のような存在が要るところだったんだ」
 その顔は笑っているが、冗談を言っているようには見えなかった。確かに本気を感じる口調で続ける。
「何しろわしも歳をとってな、いくらなんでも長旅はつらくなった。これからますます大変になることだろう。……だが、お前がいればそうでもない。その召喚術を、なんとかして“転移の術”に導くことができたならば……人間が、自由に各地を行き来できるとは思わんか」
 信じられない話だった。ペシフィロは、呆然と言う。
「……そんな。人間を運ぶなんて、まさか」
「お前には出来ただろう。わしが進んで“呼ばれていった”のも事実だが、あの手法を研究して極めれば、一瞬で長距離を移動するのも夢ではない。生活はわしが保証するよ。研究も手伝おう。……試してみないか」
 嘘ではないのだろうと思った。この人は自分に機会を与えてくれる。だが、ペシフィロは弱々しく呟いた。
「いいんですか」
 ビジスは静かにこちらを見ている。ペシフィロはその視線を受けきれず俯いた。
「いいんですか、そんな。僕は……沢山の人を殺したのに」
 いいはずがないと心で叫ぶ。自分自身を責めたてる。
「それなのに罰を受けなくていいんですか。僕は人を殺しました、数え切れないほど多く! それなのにいいんですか」
 涙すら混じる言葉にもビジスは表情一つ変えない。こういう者の相手には慣れているのか、どうでもよさげに息をついた。
「さァな。わしは別に構わんよ。たまたまそういう人間に当たっただけだ」
 つまらなさそうに言い捨てて、ゆっくりと腕を組む。
「助けたのが聖職者なら何か言われただろうがな、わしは生憎お前以上の人殺しだ。お前がいくら人を殺したといっても、わしの手にかかった命の三割にも満たんだろうよ」
 ペシフィロはビジスを見つめた。言葉を探すが何ひとつ形にならず、結局は、苦しそうに自責を呟く。
「どうして僕は助かったんでしょうか」
「それはわしが助けたからだ」
 ビジスはこともなさげに言う。
「そして、お前がわしに助けを求めたからだよ。ペシフィロ」
 それは、本当に当たり前のことに聞こえた。ペシフィロはまた俯いて、透明なグラスを見つめて喋る。
「……あの塔に閉じ込められた時、僕はもう死ぬんだと思ったんです。今度こそ死んでしまうんだって。でも、それでいいと思っていた。死んだほうがいいと思ってたんです」
「心はな」
 ビジスはぞんざいに言い捨てた。
「だが体はそんなことなど知りはせん。自分がどれだけ死んでもいいと思っていても、体は勝手に生きようとする。お前のその髪が、何故伸びたか知っているか?」
 尋ねるように見つめると、ビジスはその答えを告げた。
「魔力を一度に奪われないよう、体の外に逃がしたんだ。閉じ込められた期間にしてはあまりにも伸びすぎだろう? それは体が髪に乗せて、一時的に力を避難させたからだ。だから、ありえないほど早く伸びた」
 髪を指さした手は、またゆっくりと腕を組む。ペシフィロは伸びすぎた髪に触れた。意志として望んだわけでもないのに、自分を助けてくれた体に。いたわるように、そっと優しく。
「お前が何を思おうが、体は生きるために動く。……わしらはそういう生き物だ」
 ビジスはそれを見つめると、話を仕切りなおすように、おもむろに口を開いた。
「さて、どうする? わしとしては力のある魔術師が早急に欲しいんだが。今は国の兵士が警護としてつきまとっているんだが、そいつの頭が固くてなァ。煩わしくてしょうがない。お前ぐらいのやつならまだ気も楽だ。研究を続けながらも、形だけは警護役としてついてきて欲しいんだが?」
 ペシフィロはじっとビジスを見つめた。しばらくの間、そのまま彼を見つめ続ける。
「はい」
 そして、深く頭を下げた。
「これから、よろしくお願いします」
 上げた顔を見合わせると、二人はどこか気さくに笑った。

    ※ ※ ※

 街の端に行けば行くほど並ぶ景色はすさんでいた。ラックルートは人気すら少なくなった街の外れで、一人ただ佇んでいる。呆然と見つめる先には、この間までは塔があったはずだった。まるで打ち捨てられたような、灰色の小さな塔。
 だが今は、そのかわりに四角い空き地が広がっている。
 今まであった物の素材をあらわすように、灰色の細かな砂が巨大な山を作っていた。隣接する民家から、指一本ほどの隙間を開けて。少しでも触れれば大量の砂に飲み込まれてしまうだろう。塔が崩壊する際に、少しでも位置がずれれば民家は被害をこうむっていただろう。だがそれは起こらなかった。ほんの少し、ぎりぎりの隙間を開けて、残骸は静かに佇んでいる。
 石積みのそれをどうすれば、一つの残りもなく砂に変化できるのだろう。どうしてこんな人外めいた破壊が行えるのだろうか。ラックルートはビジスの姿を思って震えた。
 隣接する民家の中から、腰の曲った老女が出てくる。彼女はいかにもつまらなさそうに、砂の山を一度見上げた。
「あの」
 慣れない言語で声をかけると、老女は怪訝に睨んでくる。
「これ、このやま、なんですか」
「ああ。もうずっとあるんだよ。アタシが子供の時からね。風が吹けばほこりくさいし、邪魔で邪魔でしょうがないよ」
 現地の単語を思い出しながら、たどたどしい言葉で尋ねる。
「塔、は、知らない、ですか?」
「塔? なんだいそれは」
 ラックルートは息をのみ、そのまま老女になんでもないと手で示した。ぶつぶつと続く老女の愚痴を耳にしながら、もう一度積まれた砂の山を見る。数日前までは、確かに塔であったものを。ビジスの言葉を思い出す。

 ――あの塔がどうも気に食わん。目障りだな。

 彼は大きく息をついた。無駄だ、と強く悟った。
 暴れないよう、騒ぎを起こさないよう言っても、所詮あの男にとっては手のひらの上のことなのだろう。アーレルも、この国も、世界でさえも。
 ラックルートはビジスと病人の待つ宿へと向かう。冷たい風が背を押した。砂山が、さらさらと音を立てて崩れ始めた。

    ※ ※ ※

 アーレルに渡ったペシフィロが、召喚術を応用した転移法を開発するのは数年後のこと。気の弱い召喚主とその“召喚物”は、この後、十四年を共に過ごすこととなる。


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