過去編目次


 この村の春は遅く、年が明けてもなお寒い。
「イリィ。もう寝るのか、あと少しだろう」
 陽が暖かく緩みだすにはあとどれだけかかるだろうか。
「イリィ、起きろ。もうすぐ今年が終わる」
 もうすぐ。そう、すぐそこまで迫っているのかもしれない。
「去年も寝過ごしただろう。ほら、早く目をあけろ」
 脆弱なこの身の終わりは。
「イリージャ!」

「……うるさいわよ」
 目を開かなくとも、そこにどんな顔があるかは嫌というほど知っていた。壁に向けて寝返れば、執拗な声の主は苛立たしげに舌を打つ。そろそろ限界かもしれない。あともう二回、彼の言葉に答えなければ機嫌を損ねてしまうはずだ。
「イリィ。五歳のガキじゃあるまいし、どうして起きていられないんだ」
「十五歳も十分ガキよ、親愛なる兄上。さっさと帰って寝たらどう? 眠いのよ、ほっといて」
「兄上ねえ。それが本当なら泣いてもいいな。お前が俺の妹なんて!」
 馬鹿にしたような笑いが耳と頭を揺さぶった。確かに、彼と自分が本当の兄妹ならばこんなにも悲しい想いはなかったはずだ。わずかでも彼の顔に、髪に、瞳に、自分と同じ形のものを見出すことが出来たならば。せめて体の強さだけでもいいから似てくれればよかったのに。
 彼が、ベッドの端に腰かける。古びたばねがかすかに軋む。
「お前みたいな女と血が繋がっていたら、俺はそれだけで破滅だな。ただでさえ同じ日に生まれた男女は近しい命を持つんだぞ? 一日以上外を歩くことも出来ない死に損ないに近しいなんて、それだけで災難だ。反論はあるか妹よ」
 言い返す言葉はない。言われなれた暴言に答える気にもなれなかった。同じ年の同じ日、おまけにほぼ等しい時間に生まれた二人の子ども。片方の母はすぐに没し、取り残されてしまった彼は彼女と共に育てられた。同じベッドに眠らされ、同じ服を着せられる。まるで双子のように生きてきたのに、どうして姿は似ないのだろう。彼女は決して美しいとは言えなかった。だが彼は成長していくほどに人の目を集めていく。すぐに病気にかかってしまう彼女は外にさえ出られないのに。
「きっと俺がお前の分まで運を奪い取ったんだろう。何しろ俺たちは“片割れ”だからな」
「……静かにして。見つかるわよ」
「おじさんもおばさんも神殿だ。俺はお前を連れてくるよう頼まれた。さあ行こう妹よ」
「嫌な兄さん。病人を殺す気ね?」
 隣町の神殿に行くは雪深い道を越える必要がある。村の端にもたどり着けない弱い体で、どうしてそこまで歩けるだろう。だが彼はいつも通りの自信に満ちた声で言う。
「死にはしないさ。稀代の名医がここにいる」
「修業をしたこともない、本でしか学んでいない無認可のね! 人の体で実験するのはやめてくれる」
 その笑みを見ないようにさらに固く目を閉じた。すぐ傍で、腕を組む衣擦れの音。
「お前を治せもしない奴らに学んでも仕方がない。そうじゃないか、妹君?」
「しつこいわよ」
 だが彼の腕は悔しいけれどどの医者よりも上だった。いつもそうだ。ただいくつかの本を読み、手がかりを得ただけで彼は全てを習得する。彼女が部屋から一歩も出られない冬の間に、彼はどれだけの技を身につけるのだろう。どんなに遠くに行けるのだろう。
「神殿まで行ける方法はある。ないのは時間だけだ。でも今ならまだ……」
「足りない」
 拗ねた声が口をついた。
「神殿までなんて嫌。もっと遠くに連れていって」
 その途端、まるで堰を切ったように要求が流れ出る。次々に言葉があふれる。
「ずっと遠くよ。暖かい、もう春が来てる場所。花が見たいわ。両手いっぱいに抱えてもこぼれるぐらいの花が欲しいの。そんな場所じゃないと嫌。神殿で蝋燭を並べて何になるの。配られるワインなんて呑めないわよ。きっと外は吹雪いてるわ。そんな中で震えながら数を数えて、新しい年を迎えてなんになるの。そんなの、寝ていた方がましじゃない」
 喉がかすかに震えたのは泣きたくなったせいだろうか。いつからか涙は枯れてしまったが、それ以外の器官は素直に感情を外に出してしまう。彼女は歪んだ顔を隠すため、頭の上まで布団を被った。
 ここで承諾してしまえば、きっと、彼に抱きかかえられて行くことになる。村や町の住民がことごとく集まる場所にそんな姿で現れたなら、一体どうなることだろう。彼目当ての女の子たちは、不釣合いな自分を見て噂を立てるに違いない。そんな惨めな想いをするのは絶対に嫌だった。
 木の軋む音を立てて彼が立つ。ひとつ間を置いて、ゆっくりとした声で言った。
「……なんだ。ちょっと焦りすぎたな」
 靴の音を立てて歩く。壁に掛けてある時計を外す気配。それを、彼女の頭に立てかけた。
「まだ来年まで一と半時間もある。仮眠をしても十分に眠気が取れる時間じゃないか」
 この世の全てを楽しむような笑い声が喉をつく。
「わがままな病人は休んでろ。今年中には戻ってくる」
 駆け出した足音を追って頭を起こすが彼の体は既に窓に掛かっていた。冷たい夜風が部屋に吹き込む。流れ込んだ雪が舞う。長く伸びた彼の手足は颯爽と窓枠を飛び越えて、二階であるにも関わらず軽やかな音で落ちた。彼女は慌てて窓に取り付く。だが見えたのは駆けていく彼の背中だけ。それもすぐに闇に消えて、風に躍る赤い髪はたちまち夜に掻き消えた。



 ……四十二、四十三、四十四。ゆっくりと、秒針に合わせて数える。彼が姿を消してから、約一と半時間が経った。あともう少しで今年が終わる。彼女は古びた時計を抱え、ささやかな針の音と同じく口を動かす。四十七、四十八、四十九、五十。――あと、十秒。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……。
 家の壁が壊れるような衝撃が窓を開けた。彼女は時計を取り落とし、飛び込んできた黒い塊を見つめる。土と雪に固められた背がほどけ、長い手足が絨毯の上に投げ出された。
「――二百ロウガ!」
 疲労にあえぐ喉を絞り、彼は怒鳴るように言う。
「二百ロウガは歩いたぞ! ふざけるな、寒いにもほどがある。体中雪まみれだ!」
 言葉通りに絡みつく雪を憎らしげに振り落とし、癇癪を起こした子どものように空に向けて拳を振るう。いつもならばつやのある赤銅の髪も、今ばかりは見目の悪い白まだらになっていた。苛立ちをこれほどなくあらわにして神を罵る。彼女は呆れてそれを見下ろす。
「……何なの、一体」
「歩いたんだ、山の中を! お前の言う通り結構な吹雪だったさ! 見ろ、体中から雪が出てくる!」
「だからどうしてそんな……何のために」
 あからさまな舌打ちの音。彼は腹に抱えていた布の鞄を取り出した。そこにもまた保護もむなしく雪がこびりついている。彼は愚痴を呟きながら、乱暴にふたを開いた。
「ほら、花だ」
 不機嫌に言い捨てて、彼女の上で鞄を反す。音もなく落ちてきたのは、少量の土と、雪と、いくつかの小さな花。彼女は目を見開いた。小さなそれは縮れながらも雪にまみれて咲いている。今にも崩れ落ちそうなほど脆く思えて指の先でつまんでみるが、意外にもしっかりとした硬さがあった。そっと、雪を払う。青みがかった白い花弁は、今まで見たどの花よりもきれいに見えた。
 彼女は花をかき集める。みっつ、よっつ、いつつ。彼は山の中の花を摘み占めでもしたのだろうか。珍しいものであるはずなのに、花は三十七もあった。どれもつめたく冷えていて、火照った頬に心地いい。
「これ、あなたが摘んできたの」
「そうだ! 悪いか!」
「この吹雪の中、ひとつずつ?」
「山中を歩いたんだ! ありそうな場所を全部回って、ひとつ残らず取ってきた!」
「ひどい人。花が可哀相じゃない」
「俺だって可哀相だ! どれだけ大変だったと思ってるんだ!!」
 弾けてしまった癇癪は止まらないまま加速する。彼は顔が赤くなるほどに怒鳴った。
「悪かったわ、ごめんなさい。……ありがとう。すごく嬉しい」
「そりゃあよかったな! ああよかったとも!」
 礼を言っても彼は怒声を続けるばかり。興をそがれた気分になって、呆れきった声で訊いた。
「……何怒ってるのよ」
 彼は何かを憎むように言う。
「寒いんだ!!」
 その体はがたがたと大きく震え、小刻みに床を揺らしていた。奥の奥まで見開かれた目のふちには睫毛が凍りついている。唇も肌も白く冷えて、まるでうっすらと氷を貼っているようだ。うまく動かないらしい指でハンカチを取り出して、几帳面に鼻をかんだ。
 その姿があまりにも情けなくて惨めなので、彼女は思わず笑ってしまう。吹きだしたささやかな笑い声はすぐに大きく明るくなって、最後には身を折って苦しいほどに笑い転げた。
「何がおかしい!」
「全部よ、全部! ば、ばっかじゃないの!?」
「うるせえ」
 彼は雪に汚れた服を脱ぎ、苛立ちのまま部屋の隅に投げつける。薄い中着だけになって、ベッドの中に潜り込んだ。
「寒い。暖めろ」
 氷のように冷たい体が彼女を壁へと押し付ける。喉まできた罵声は彼の震えに触れて消えた。胎児のように丸まる体を抱きしめる。昔はこの腕だけで暖められた気がするのに、今となっては足りなかった。力強い手が熱を求めて背中を這う。彼女も同じようにしたが、大きさが違いすぎて不恰好だ。
「ああ、いい懐炉だ」
「つめたすぎるわよ。こっちが凍えちゃうわ」
「熱があるんだろ。丁度いい、冷ましてやるよ」
「ひどい医者」
 だが、隠していた不調を見抜く程度には名医だろう。
 かすかに笑うと、彼もにやりと笑みを浮かべた。それを見てすっかりと呆れてしまう。
「……ばかねえ。結局間に合わなかったじゃないの」
 もう、時計は新年の訪れを告げていた。一緒に年を越そうと言い出したのは彼のほうだったのに。
 すぐ傍の喉が笑みに揺れた。彼は企みに満ちた声で言う。
「いや、まだだ」
 雪に冷えた懐中時計を取り出して、盤面を彼女に見せつけた。
 長針は、深夜零時にほんのわずかに届かない。
「こんなこともあろうかと、時計の針をずらしておいた。本当はこっちが正しい」
 呆れて言葉を失うと、彼はいたずらに成功した子どものように笑った。
「……ばかねえ」
「喜べよ。わざわざ仕掛けてやったんだ」
 押し付けがましいところは昔から変わらない。嫌な気分ではなかった。外の者に対しては見栄えのいい猫を被る彼が、彼女にだけはありのままに接してくれる。いつまでも変わらないその態度が、言い表せないほどに、好きだ。
「……ヴィージス」
「それは呪文だ」
 抱きしめた背がこわばった。彼はうなるように言う。
「音を抜け。気がふれる」
 そっと、囁くように呼びなおす。
「ビジス」
 冷えた体が安堵に緩んだ。彼は満足げな笑みを浮かべる。
「それでいい」
 沈黙の中にかすかな針の音が響く。古い年が逃げていく。
 三、二、一……年が変わったその瞬間、二人は同時に目を閉じた。
「遥かなる主の下で、我らの誇る善き年になりますように」
 神に捧げる、形式にそった祈り。その後に続くのは、自由な言葉で囁きあう二人だけの秘密の誓い。
「俺はお前、お前は俺だ」「あなたは私、私はあなた」
 二人は手を取り合って声を揃える。
「共にこのまま過ごせるのなら、神にでも、悪魔にでも」
 わずかな声ももれないように、頭から布団を被る。摘み取られた白い花が二人の間に舞い降りた。冷え切った彼の指が、彼女の耳に花を添える。かすかに甘い香りがした。
「ねえ、あと何回こうして一緒に誓えるかしら」
「何度でも。五十でも、百でもいい。俺がお前を治してやる」
 だがそれが叶わないことは、彼が一番よく知っている。彼女もまた同じほどに。
「……そうね」
「ああ。そうだ」
 新しい年の始まりを絶望に染めるのは嫌だった。彼女は彼を抱きしめる。彼は彼女を抱きしめる。余計な音も風もない。あるのはただお互いの存在だけ。あとは、全て、ゆるやかに溶けていく。
 二人はそのまま新たな時を貪るように、共に暖めながら眠った。限られた時間を少しでも共に過ごせるように、何度も静かに祈りあった。

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