おとーさんと おかーさんは、どこで であったの? それはね。お魚さんが連れてきてくれたんだよ。 「……意味わかんないと思わない?」 「うん、まあ、同意はするよ」 あからさまな明言を避け、ピィスはぬるい水を飲んだ。カレンの思い出話はかなりの私怨を含みながら、延々と続いていく。幼い頃の質問に対する父親の回答と、彼女がそれに対してどれほど彼の頭が悪いと感じたか。大まかなあらすじはそんなところで、結局は親に対する愚痴を吐きたいだけらしい。時間の無駄とわかってはいるが、大人しく聞いてやるのが友情というものだろうか。気がつけば始まっていた女同士のつきあいに、ピィスは沈黙してその身を捧げた。 「でぇ、実際のところは観賞魚愛好会の会合に同席したのがきっかけで、その後は我が子を巻き込みながら魚まみれの夫婦生活ってわけよ。どうなのそれって。なんっていうか、もうちょっと色気があってもいいと思わない? 情熱的な要素っていうか……ちょっと聞いてる?」 「うん、じっくりと」 「よし。問題はね、子は親に似てしまうってところなのよ。親の恋愛がそんなんじゃ、私の今後もたかが知れてるかも。ほらよく言うじゃない、娘は結局父親に似た人と結婚するものだって。あー嫌だ、あんな魚バカは選びたくなーい」 うんざりと伏せるカレンを避けて、ピィスはグラスを机に戻した。 「そういえば、お母さんによく言われたな。大きくなったらお父さんみたいな人と結婚するのよ、って」 「あんたはいいじゃなーい。優しくてわがままも許してくれて、家事もできてついでに経済力まであるなんて、絵に描いた理想の旦那よ。私だってペシフィロ先生みたいなお父さんが欲しかったー」 「みんなそう言うけどさ、そんなにいいものでもないぞ。あれで結構だらしないところもあるし、馬鹿みたいに呑気というか、なんというか……」 何もないところで転ぶし。とてつもなく運がないし。背が低くて童顔だからいつも子どもに間違われて、もう三十六なのにどこか頼りないというか。基本的に貧乏臭いし、暇さえあれば畑仕事ばかりしてて、あれのどこが王室付き魔術師なんだか……。それにそれにと続く文句をさえぎって、カレンが無闇に結論づけた。 「で、あんたのお母さんはそんないい人をどこで見つけたの」 「へ?」 反論することも忘れて、ピィスはただ訊き返す。 「どこで、って」 「ペシフィロ先生と、あんたの母親。一体どこで知り合ったの?」 訊ねるのが当然という顔で問われても、答えられる言葉はひとつ。 「知らない」 ピィスは初めてその事実に直面し、ぼんやりとまばたきをした。 「なんだ、聞いたことないの?」 「というか考えたことすらなかった。そういえばどうなんだろう。住んでた国も違うし……あれ」 改めて考えて、その奇妙さに気づかされる。 「親父の出身がクスキで、お母さんはヴィレイダのはずなんだけど」 「そんなわけないでしょ。戦争ばっかりしてるじゃない、その二国」 「だよな。でも、えー? そうだよ、時期的にも戦争してた頃のはずだし、あれ?」 カレンには言いたくないが、ピィスの母親は結構な家柄でお嬢様として育ってきた。生まれてこの方力仕事などしたことがなく、世の中のことを何も知らない、ごく狭い世界の住人だったのだ。ピィスの肌は、今でも母の荒れのない手を思い出せる。まるで赤ん坊のように薄い指先で、そっと頬を撫ぜてもらった。 対する父は土から生まれてきたような人で、出身は貧しい農家。普通に暮らしていれば、母方のような貴族とはすれ違いもしない生活をしていたはずだ。しかも、彼らの国は古くから戦いを続けていて、宿敵と言えるほど仲が悪い。 ピィスは父親似になりつつある手で計算して、眉を寄せる。 「ちょっと待って。オレが生まれた時、親父は二十二歳で、お母さんは三十二……十歳も離れてる」 「そんなに歳の差があったんだ。意外」 「オレもだよ。全然知らなかった」 今まで考えにも至らなかった疑問に、ピィスは思考を転がされる。彼女の知る父と母の情報が次々と頭を巡り、消えては謎を色濃くした。 ピィスは怪訝に空を睨む。 「本当に、どうやって出会ったんだ……?」 答えがあるはずもない天井は、静かに彼女を見下ろした。 |
「……で、なんで私にそれを訊く?」 「いや、ジーナさんだったら知ってそうだなって……」 真っ向から跳ね返された質問に、ピィスは思わず目をそらす。それは向かい合う彼女の睨みが恐ろしかったせいでもあるし、まずい部分に踏み込んだという自覚からでもあった。この、ペシフィロの親分を自称するアーレル人は、九つ上の友人に誘いをかけてはことごとく流されてきたのだ。少なくともそんな女性に尋ねるべきではなかっただろう。――ペシフィロと自分の母親がどうやって恋仲になったのか、など。 「なんか、あの、ごめんね?」 「気を遣うな。余計に痛い。大体そういうのは本人に訊けばいいだろう。お父さんとお母さんはどうやって知り合ったの? とか、かわいーい顔して首でも軽く傾げてみれば一発だ」 「他のことならそれでいいけど、今回はなあ。赤ちゃんはきゃべつ畑から来たとか、堂々と語る人だぞ? 自分の恋愛ざたなんて、とても口を開きそうにないというか……」 訊ねた途端に真っ赤な顔で手を振るに違いないと、ピィスはその声色ですら明確に想像している。そんな父を見ていると、こちらまで首筋がむずがゆくなるのだ。できるだけ、避けるに越したことはない。 「本当に何も知らないの? 少しでも聞いたこととか、ない?」 「そのナイアさんとやらについては、ペシフもあまり喋ろうとしないから……いや、一回だけあったな」 視線が、過去を探る位置で止まる。ジーナはあらぬ場所を見て思い出をたぐり寄せた。 「お前がまだこの国に来る前、ペシフがそのナイアさんの訃報を聞いた後だ。まあ、とにかく号泣してだな、三日ほど人として使い物にならなかった。その涙もようやく乾いて、大滝が小川にまで収まったころ、熱に浮かされたようにナイアさんの思い出を切々と」 「切々と……」 「そして延々と」 「え、延々と……」 あまりにも違和感なく想像できてしまい、ピィスは首を振りたくなる。だがそこにジーナがとどめを刺した。 「ひと月ぐらいずっとそんな感じだったな」 「長あ!」 長、長っ、とそればかりを繰り返しつつ、どういうわけかピィス自身が恥ずかしくてしかたがない。みるみると赤くなる顔を隠して穴の中に逃げたくなる。おとうさんのばか、ばか、と心の奥で罵倒した。 「まあとにかく大好きだったんだろう。もう、泣きすぎで弱ったのかやせ細るし、何をしなくとも後を追いそうで心配したものだ。よほどの大恋愛だったのは間違いないだろうな」 「その後も恋人作ってたけどね」 気を取り直すつもりで言うが、ジーナは叱る顔で返す。 「何を言ってるんだ。随分と長い間、周りからの告白を断り続けていたんだぞ? あれで女からの人気だけはあったのに、お前の母親が死んでから数えて、六年も独りでいたんだ」 「えっ、そんなに?」 「当時、わざわざ調べて騒いだから間違いない。六年目の脱出おめでとうケーキとか食べたし」 「毎度人の父親で何やってんの」 この自称親分は、小さな頃からペシフィロにまとわりついては彼で遊び続けているのだ。非難されるのにも慣れているのか、ジーナはピィスを無視して続ける。 「まあ六年と言っても、その間はビジスに世界中連れまわされていたから、そんな暇もなかったという考え方もある」 「それだ。絶対そっちだよ、理由なんて」 「わからないぞ。あれはとにかく馬鹿みたいに純粋だからな」 「えええー」 ジーナは恥ずかしがるピィスを笑っていたが、ふと、思い出したように遠くを見つめる。 「二十代の若くて遊びたい盛りに、亡き恋人を偲び続けるペシフ……それはそれで良かったなあ」 「何がどういいのかわかんないけど、とりあえず大変なことはわかった」 ジーナさんの頭の中が。と、口にする度胸はないので咎められることはない。さんざん想像で楽しんだらしい親分は、子分の娘に話を投げる。 「そこまで熱く燃えたぎった、らしい、お前の母親との恋愛については、暑苦しいから本人に教えてもらえ。何が哀しくて他人の恋話を語らにゃならんのかとむなしくなる」 「うん、えっと、ごめんなさい」 「謝るほどのことでもない。他の相談事でもできたら、また遊びに来い」 「ありがとう」 自然と口が緩むのは、彼女がいつもそうやって入り口を開いてくれるからだ。どんなに仕事が忙しいときでも、ジーナは実の姉のようにピィスを迎え入れてくれる。普段は冗談としか考えていないが、そんな時、ピィスはジーナが本当にペシフィロの親分なのかもしれないと一瞬だけ思うのだ。 「あれ?」 いい気分で建物を後にして、ふと、思索が奇妙に躓く。指折り数えて首をかしげた。レナイアが他界したとき、ピィスはまだ四歳だった。その後、各所を転々と流されながら生活し、ペシフィロにめぐり逢えたのは八歳のときである。当時ペシフィロの婚約者だった女性は、たしか、二年の交際があったと言っていたような気がする。そう考えて数えてみれば、六年というジーナの言葉は。 「計算合わないんだけど……」 もう一度訊きに戻るべきだろうかと考えて、ピィスはそっと窓を見上げた。 |
おとうさんはもしかしたらこの石の裏にいるかもしれない。 いや、この黄緑の葉っぱをきれいに切り取ることができたら、隙間からふくらんで顔を出してくれるのかも。あの木の上に隠れていて、ほんとうは今もこっちを覗いているのかもしれない。振り向いたら、わからないように隠れちゃうんだ。 よし、そっと覗いてみよう。三つ数えたら、逃げられないうちに後ろを見るんだ。 ひとつ。ふたつ。みっつ…………。 そんな遊びを、毎日のようにしていた。今となっては恥ずかしいほどに馬鹿らしい思い込みだが、まだ幼かったピィスにとって、「おとうさん」はどこかに隠れているもので、変幻自在でどんな大きさにもなれて、いつか必ずめぐり逢える素晴らしい存在だった。 母が、そう教えてくれたのだ。幼い頬を繰り返し撫ぜながら、彼女は執拗に続けた。 ――あなたは、おとうさんに逢うのよ。 今はまだ叶わないけれど、あなたはいつか必ずおとうさんにめぐり逢えるわ。おとうさんはね、とてもやさしくて、強くて、ほんの少し泣き虫で。とても素敵な人なの。どんなにつらいことがあっても、きっとあなたを助けてくれる。だから泣かないで、ピィスレーン。そんな顔をしていると、おとうさんまで悲しくなってしまう。 泣きじゃくるたびにそうたしなめられるので、ちいさなピィスはすっかりとおとうさんを「いつもどこかで見張っていて、隙さえあれば一緒に泣こうと企むいきもの」だと思い込んでしまっていた。母が語る父の姿が、どこか物語に出てくる妖精に似ていたからかもしれない。そういった理由から、ピィスにとって「おとうさん」は物陰で見つけるものであり、どこか別の不思議な世界に連れて行ってくれるものでもあった。 やはり、ペシフィロは「おとうさん」ではないのかもしれないと、ピィスは疑念に絡まれている。疑いは蜘蛛の糸のようにどこまでもまとわりついて、払っても、忘れようとしても後から後から現れた。 人違いなのではないか。母は、別の男の話をしていたのではないだろうか。ペシフィロは確かに優しいし、戦う力だけでなく芯の強さも持っている。泣き虫らしき気配もあるし、ヴィレイダ人からすれば小ぢんまりとしたたたずまいは、妖精と言えなくもない。 それでもピィスは憧れていた「おとうさん」が、ペシフィロだとは確定しがたかった。 なんとなく、もっといい人がいるのではないかと思ってしまう。それに、やはり母と彼が恋をしたとは思えないのだ。どんな二人だったのか、想像することができない。それどころか、知り合いだったのかさえ疑わしい。 愛してる、などと言ったのだろうか。口付けをしたりもしたのだろうか。具体的に思い浮かべようとして、やめる。そんなペシフィロは絶対に見たくなかったし、あの色気のない男がそんな風にしていたなど、ピィスにとってはありえないことだった。 そもそも、どうやって出逢ったのかという根本的な疑問に戻る。母はあの屋敷を動けなかったのだから、ペシフィロから行ったことになるのか。だが漬物作りを趣味とするほど所帯じみたペシフィロが、あの、いかにも貴族風な屋敷の中にいたなどと、それだけでもう想像が限界になる。招待されてやってきたのか。それとも忍び込んだのか。それは犯罪なのではないか……。延々と悩みながら歩く足が、やわらかな葉に触れた。 「あ」 つい、声が出てしまう。つつくと折れるようにしぼむその葉は、小さいころからピィスのお気に入りだった。見つけるたびに、すべてしおれて針金のように細くなるまで触ってしまう。今もまた、癖として同じ遊びを繰り返した。 (懐かしいなあ) 歳を経た今でも、ふわふわとした喜びは小さなときと変わりがなく、まるで四歳の子どもに戻ってしまった気分になる。あのころは、まだ地面が近かった。いつだっていろんな虫や種を見つけることができたし、手のひらいっぱいに花を持って母に届けたりもした。そんなとき、母は何よりも嬉しそうな顔をして、よかったわと笑うのだ。 ピィスは母の喜ぶ顔が見たくて、何度でも花を集めた。水につけると色が溶けてしまいそうなほどに赤い花びらをつまみ、雪粒のようにかすかな白を根から引き抜く。庭にはいつだって明るい色があふれていて、手を伸ばせば必ずきれいなものに触れた。星の形をした黄色の花。頑丈な茎に支えられた小さな実の数々。釣鐘のように下がる赤紫の花の群れ……。 まぼろしから醒めきれずピィスはまばたきをする。今、ちょうど思い出していた花たちが、目の前に並んでいた。絵の具のように赤い花弁。先の尖った黄色の花。細やかな白い花に、なだれのごとく連なっている、赤紫の花の群れ。視線の位置が変わったために見下ろす形になってはいるが、これらはすべて幼いころ集めていたものだ。それが、今しがた戻ってきた、自宅の庭に咲き乱れている。 今になって唐突に現れたわけではない。花たちは今朝も昨日もその前も、庭にいた。ピィスがアーレルにやってきたその年から、ずっと、この家に。 呆然と立つ先で、緑の頭が揺れている。帽子を被ることも忘れて、草むしりをしているのだ。しゃがみこんだその姿は今にも草にまぎれそうで、彼は熱心に続けては時おり花にみとれている。 ふと顔を上げて、ペシフィロはいつものように微笑んだ。 「お帰りなさい」 ピィスは思わず声を上げる。 「おとうさん、みつけた!」 歓喜に突き動かされて駆け寄る。驚いたペシフィロがわけもわからず抱きとめる。ピィスは彼にしがみついて、くすくすと笑みをこぼした。 「なぁんだ」 呟いても息を吐いても、楽しい気持ちがあふれだしてそのままこぼれてしまいそうだ。 「なぁんだ。そうか」 「何がですか? あれ、どうしたんですか?」 「あのさ」 困惑する父を見上げて笑う。 「お母さんの家の庭に、花、植えただろ」 「えっ。はい、そうですけど……憶えてました?」 「うん。ここにあるのと同じだ。あれも、これも、全部あの家にもあった。親父が植えたんだね。あの庭で土いじりして、毎日水をまいて草むしりもして。それで咲いたらにこにこ笑って、お母さんに見せたんだ」 今ならばその光景が問題なく想像できる。突然に過去を問われて父は固まる。 「み、見せました。はい」 赤くなる彼はあまりにもいつも通りのペシフィロで、出会ってからの数年間見てきた彼そのままで、ピィスは脱力と共に喜びが止まらなくなる。 「なんだよー、もー。そのまんまじゃないかー……」 ひねりなどなく、別人のようになるはずもなく、ペシフィロは今と同じ彼のままあの屋敷に存在していた。そうして、母と共にいた。 ピィスは大きな息をつく。 探して、探して、探して、ようやくここにたどり着いた。 母が亡くなり、あちこちの家に引き取られ、居場所を見つけられないまま独り膝を抱えてきた。この世界のどこかに「おとうさん」がいる。いつか必ず彼に逢える。そう信じて生きてきたのだ。 ピィスは抱きついたペシフィロの背を握る。 「大丈夫ですか? 疲れましたか」 「ううん、元気。全力疾走だってできるよ」 口にして、ふと気づく。 (ああ、そうか) 母が、庭で遊ぶピィスを見て、あんなにも嬉しそうに笑っていたのは。よかったわと繰り返したのは。 ――あなたは、お父さんに逢うのよ。 『おとうさん』 彼の故郷の言葉で囁くと、ペシフィロは目を丸くする。同じ緑色を楽しくゆるめて、ピィスはいたずらっぽく笑った。いつか出逢えたときのために、母から教えられた一言。おとうさんに伝えてね、と頼まれたそれには続きがある。 『おとうさん』 『はい。なんですか?』 あいしてる。 「……なんでもない!」 笑いかける彼を見てみるみると赤くなり、ピィスはぴょんと飛びのいた。ごまかすように元気よく駆けていく。 「腹減ったー。ごはん食べよう!」 「はいはい。すぐに準備しますよ」 土を払いながらペシフィロがついていく。その手をしっかりと握りしめてピィスは二人の家に帰る。触れあう肌が熱くなるのを感じながら、考えずにはいられない。いつか、恥ずかしくなくペシフィロに伝えられる日が来るのだろうか。時間がかかるかもしれない。だけどいつか、お母さんから頼まれた伝言を、この口で。 「明日は仕事ないんだろ? 遊びに行こう」 「そうですね。久しぶりに遠くまで行きましょうか。お弁当作りますよ」 「卵入れてね、ゆでたやつ!」 「はい」 ペシフィロは微笑んで飛び跳ねる頭を撫ぜる。ピィスは、母と同じ顔立ちに父と同じ瞳を浮かべ、しあわせに笑った。 [終わり] |