過去編目次


「トルー。いるのはわかってるんだぞ、出てこーい」
 通い慣れた階段が、年季の入った音を立てる。ジーナはあえて気配を伝えながら、ペシフィロの借り部屋がある二階に上がった。緑色をした年上の子分はまだ城にいるのだろう。王城で働くようになった彼は、毎日をビジスにこき使われて生きている。ペシフィロの、ため息と疲労に彩られた顔色を思い出しながら、ジーナは腕まくりをした。
 今、この下宿にいるのはジーナと弟ハクトルだけで、女将も他の住民も買い物に出ているらしい。それならば、力いっぱい喧嘩をしても問題はない。ジーナはふてくされて逃げ込んだ弟を捕獲するため、腰まで伸びた黒髪を高く括った。きりりと吊ったまなざしでペシフィロ部屋の扉を見る。彼女から二つ下、十三歳の弟は、喧嘩ごとに負けるたびこの中に飛び込んで、ジーナが迎えに行ってやるまでタンスの中から出てこないのだ。
 引きずると噛みつくので気をつけないと、と覚悟をした時。突然に目の前の扉が開き、黒い毛玉が飛びついた。
「ね、ねねねねえちゃ、ねえちゃ」
「あぶっ、ないだろうバカ! 階段落ちるとこだった!」
 ふさふさと揺れるそれはくせの強い髪の毛で、ハクトルは伸び放題のそれを押しつけてジーナの体にしがみついた。危うく足を踏み外しそうになった憤りから背中を殴ると、ハクトルはそれにもめげず訴える。
「中になんかいた! タンスの中! ぐにゃってした!」
「はあ?」
 張りつめた弟の顔があまりにも蒼白なので、つられてジーナも不安になる。今、ペシフィロはこの部屋にはいないはずだ。ビジスが遊びで隠れているにしては、種を明かすのが遅すぎる。あのふざけた老人ならば、すぐにでも現れて怯える二人をからかうだろう。
「猫でも飼ってるんじゃないのか? ほら、拾ってきたとか」
「ちげーよそんなんじゃないって! ミドリさんと同じか、それよりもおっきかった!」
「ひ、人なの?」
「びくってしたもん! ぜってーヒトだよ!」
 興奮しているのだろうか、話すほどに弟の顔は赤々と照っていく。ジーナの腕をしっかりと握り、遠巻きに扉を眺めた。
「泥棒だったらどうする?」
「どうしよう。金庫には鍵かけてるけど、壊されたら意味ないよね」
「強盗だったらおれたち殺されるよ。なんとかしないと」
 具体的にどうすればと訊ねる目で見下ろすと、ハクトルはにんまりとポケットをまさぐった。腰から腹から次々と細長い束が出てくる。丸いものも、賑わしく彩られたものも。それは彼がいつも持ち歩くいたずら用の花火だった。さっきまでの怯えようはなんだったのだろう。ハクトルはすでに楽しい遊びを見つけた顔で、かんしゃく玉をジーナに渡す。握らされたそれを見つめて悩んでいたが、ジーナもまた意を決して入り口に近づいた。
 扉をそっと開けたところで、二人は一気に火薬をぶつける。
「どろぼーたいさーん!」
「気絶しろ気絶しろ気絶しろー!」
 子どもたちの騒ぎ声と破裂音が部屋に響き、咳き込むほどに激しい煙がたちまちに立ち込める。勢いよくタンスが開く音がして、なにか、大きな生き物が暴れる気配がした。おそろしくなったジーナは爆竹の束に火をつけて、扉を固く閉じてしまう。姉弟二人の背中で脱出口を封じると、破裂のやまない室内からもんどりうつ揺れが伝わり、ハクトルがひゃあひゃあと甲高く笑い転げる。
「すっげーすっげー。もっとやろうよ」
「し、死んじゃったらどうすんの。仕返しとか……」
 さらなる武器を探すハクトルの肩を揺すったところで、慌てて駆けてくる足音がした。
「どうしたんですか! 火事ですかっ」
「ミドリさーん!」
 その姿が見えたとたん、ハクトルは怯える顔に切り替えてペシフィロにしがみつく。背丈の足りないクスキ人は、発育の早いアーレル人に飛びつかれて転びかけた。それでもしっかりとへばりつく弟を、ジーナはなんとかはがそうとする。
「こらっ離れろ! ミドリ、泥棒だよ! 中にいるの」
 取り合いの最中にもまれるペシフィロは、すぐには意味を理解できない。ようやく音の止んだ部屋を、怪訝に見上げた。
「泥棒って……この中に?」
 火薬の臭いが充満する危険地帯を指し示す。姉弟は悪びれもせずうなずいた。
 それは果たして生きているのだろうか、と確かめる目でペシフィロが段を上がり、慎重に扉に近づく。一応は持ち歩く護身の剣を抜き取って、子どもたちに「待っていて」としぐさで伝えた。
「誰か、いますかー」
 囁いて、扉を開ける。ジーナがきゃあと声を上げたが、何ひとつとして飛び出したり、武器を振りかざしたりはしなかった。代わりに、白煙と、焼けた臭いが廊下に流れる。咳き込むほど濃厚なそれらの向こうに、暗い、人影があった。
 のたうちまわったのだろうか、棚に並べていたものがそこら中に散乱している。そんな痛ましい床の中央に、倒れ伏してぴくりともしない男がいた。ペシフィロは目を見開く。
「スーヴァ……!?」
 駆け寄ったペシフィロを見て、姉弟は首をかしげた。



「わ、悪い子たちでは、ないんだよ」
 ようやくそれだけ口にして、ペシフィロは頬を引きつらせた。
 スーヴァは、何か大切なものを失わされた表情で、部屋の隅に逃げ込んでいる。本来ならば、いつものように黒い布で姿を隠したいのだろう。だが、爆竹から身を守ったらしき衣服はあちこちがこげていて、鼻につく異臭を放っていた。往生際悪く布団のように布を被り、スーヴァは息すら薄めている。そんな痛々しい姿を見ても、ペシフィロは顔が笑うのを止められない。
「でも、まさか会えるなんて……。びっくりしたよ。来てくれて、ありがとう」
 告げた後でしまったと考えるが、今日のスーヴァは礼を言ってもびくりと怯える様子はない。レナイアの屋敷を出て二年弱。その間に成長したのかと、ペシフィロは喜びを強くする。
「本当に、考えもしてなかったんだ。どうしてだろう、すぐにでも思いつくべきだったのに。そうだよね、僕はもうアーレル所属になったんだから、ヴィレイダに行ってもいいはずなんだ。アーレルとヴィレイダなら仲もいいし、ビジスに訊けば……あっ、僕が今お世話になってる人なんだけど、その人に教えてもらえば、君たちの住む場所だってすぐにわかったはずなんだ。なにしろ、世界中のあらゆることを知りつくしている人だからね」
 語り続けてもスーヴァは顔色ひとつ変えず、あらぬ場所を向いている。ペシフィロは、彼が呼吸を忘れたのではと考えて、覗き込んだ。厭がる様子もなく、スーヴァはまばたきひとつしない。ペシフィロは気まずく口を走らせた。
「どうしてだろうね。君たちのことを嫌いになったとか、どうでもよかったわけじゃないんだ。たしかに、ビジスに拾われてから色々と大変で、毎日忙しかったけど、ナイアさんのことだって、君のことだって、思い出してたし……。あれ、本当にどうしたのかな。逢いたかったのに……」
 これまでとはあまりにも違う環境に慣れず、眠れない夜もあった。そんなときは故郷のことや、レナイアの屋敷でのことをいつも考えていたのだ。レナイアが笑ってくれるだけでどんなに助かるだろうかと。スーヴァがここにいてくれたらずっと心強いのにと、毎晩のように考えては胸を痛めた。
 広がり行く不安から逃れたくて、ペシフィロは話を続ける。
「ナイアさんはどうしてる? 体の具合はどうだろう」
 スーヴァの肩が、びくりと揺れた。
「え」
 嫌な予感などという曖昧なものではない。絶望じみた確信がペシフィロの手を伸ばさせた。言葉もなく、スーヴァの体を揺する。違うだろうと縋る想いをもって、何度でも、繰り返し。声にならない懇願から目をそらし、スーヴァはひどく静かに告げる。
「お嬢様は、先月にお亡くなりになりました」
 彼を揺するペシフィロの手が、止まった。
「ご遺体は本家に戻され、葬儀も終了致しました。報告が遅くなり申し訳ありません。ようやく、あなたに伝えてもよいとの許可が下り、参上致しました」
「……そう、か」
 冗談だろうと問いただす気にはなれなかった。これ以上無意味な願いをする必要もなく、ペシフィロはそれを現実として理解している。彼女は、もうこの世にいないのだ。長らくの病に体を渡し、二度と戻れない場所へと消えてしまった。
 当然だ。あれから二年も経ったのだから。
 一度は回復に向かったとはいえ、限界に近く冒されていた彼女の体が、そんなに長くもつはずがない。ペシフィロは手が床に当たるのを知る。そこまで肩が落ちているのに、まだ沈み足りなかった。
 知っていたはずなのだ。すぐにでも逢いにいけると。そうしなければ、彼女がいつ死んでしまうか危ういとまで理解していたのに。ビジスに訊けば、病の治療法も明らかになったのではないか。そうでなくとも、魔術に詳しいアーレルの資料で調べることができたはずだ。なぜそれをしなかった。どうして思い至らなかった。
 ぐらぐらと足元が揺らいでいく。レナイアが死んだという事実にではなく、二十四年間共に生きてきたはずの自分自身が信じられなくなって、ペシフィロは倒れそうなほどに頭が白むのを感じた。
「……あなたは、悪くない」
 気絶するか否かの耳に、スーヴァの声が聞こえた。確かめることはなかったが、彼が、呆然と垂らした手の甲を睨みつけているような気もした。どうしてだろうか。そんなところには、はじめから何もないのに。
 ペシフィロは彼に構うことができず、ただ呼吸を求めている。いつも通りの自分の部屋にいるはずなのに、随分と暑くて、同じだけおぞ寒いのだ。青ざめているのか、発熱しているのかもわからない顔でスーヴァを見る。彼は泣いていない。ペシフィロも涙はない。レナイアが死んだというのに。
「生前、お嬢様からお預かりした物があります。今日はそれをお持ち致しました」
 子どもらの火薬から必死に守り抜いたのだろう。抱え込んでいたそれには焦げの跡などなく、おそらく彼女が渡したままの形で差し出される。ペシフィロは震える手で受け取った。
 淡い花の色に染められた、いくつもの封筒。表にはレナイアの字でペシフィロの名が記されている。力の入らない指で数をかぞえる。十、二十、三十……。スーヴァがさらに追加する。もう百は越えたのではないだろうか。それぞれに日付があった。あるものは一日おき。長くとも十日をおかず次の手紙が現れる。
 ペシフィロは消え入りそうな体でかろうじて封を開けた。

 ――愛しいあなたへ。

 文字が、白く霞む。続きを読むのはひどく苦労なことだった。ペシフィロは、こぼれていく涙を拭きながら懸命に文面をたどる。懐かしい彼女の字がペシフィロに語りかけて、温かな手のひらで彼の胸を包み込んだ。
 彼女は二年前と変わらない様子で話しかける。庭の花が綺麗に咲いていること。今日の食事について。窓から見える空の色。あのころ、彼女が隣で囁いてくれたたわいもないおしゃべりが、今こうして時を経てペシフィロに届いている。
 彼女はずっと話してきたのだ。遠く、生きているかもわからないペシフィロに、届く保証もない手紙として。
 文字上の彼女は囁く。
 さみしいと。逢いたいと。また、あなたがいなくなって、この屋敷は凍えてしまいそうなのだと震える線で訴える。ペシフィロはどうすることもできない。もう、二年も前の出来事なのだ。
 号泣していることに気づくが堪えることすらできなかった。制御があるのをいいことに、体を壊してしまうほど泣き喚くしかなかった。
 どうして。どうして。どうして。
 理性など消えて嗚咽しか残らない。どうして、どうして。
 逢えないのだ。今さらに気づいても、もう二度と彼女の痛みを癒すことはできないし、ひとり寂しく泣く傍に座っていることもできない。手紙の中で彼女は嘆く。もし魔法が使えたら今すぐあなたに逢いに行くのに。日付を見ると一年半も前のことで、どうしてとまた涙を流す。
 死ぬのなら今しかないと迷いもなく考えた。罪を犯した罰として殺されなければならなかった。スーヴァは、そのために現れたのだろうか。だが見上げると彼は青ざめて口を開く。

  あなたは、悪くない。

 かすかに動いた形がそう読めたのは、ただの願望だったのだろうか。わからなくとも涙があふれて、どうしようもない子どものように無様な嗚咽を隠せない。ペシフィロは鼻水まで流しながらスーヴァの服の裾を握った。何かに縋らなければ、身を起こしていられなかった。
 スーヴァは逃げようとしたが、ペシフィロに服を引かれておそるおそる元に戻る。動かないペシフィロは、スーヴァの裾を床に縫いつけたまま大量の水をこぼしている。
 一瞬だけ、スーヴァの手が彼に触れようと動き、止まる。どうしてもペシフィロに近づくことができなくて、それでも逃げるわけにもいかず、スーヴァはその場にとどまった。日が暮れて、すっかりと暗くなるまで、二人はそれ以上距離を詰めず、声をかけることもなく、ただ同じ部屋にいた。


※ ※ ※

「優しくなったじゃないか」
 スーヴァはまたびくりと揺れた。夜に沈む廊下には老人が立っている。壁にもたれる彼の顔を誰が忘れられるだろう。世界を組み敷く巨大な存在。スーヴァが、何よりも怖れる生き物はビジス・ガートンという名のままにわずかな笑みを浮かべている。
 逃げようと思う間もなくスーヴァはビジスに抱え込まれた。そのままわしわしと撫でられて全身に鳥肌が立つ。ビジスは高らかに笑いながら、固まる彼を犬のように可愛がった。
「まァ逃げるな。どうした、そんなにわしのことが嫌いか?」
「き、き、き、」
「言ってみろ。逃れたければ抵抗をすればいい。その気になれば放してやろう」
「や、やめ、」
 声にならず詰まる息がさらに顔を青くする。ビジスは手を止めず囁いた。
「お前も、随分とあれを気に入っているようだなァ。残念だ。立場が違えばお前のおもちゃの一つとして与えることもできただろうに。どうだヨル、再びわしの元に来ないか。そうすればお前にもペシフィロを分けてやろう。今はわしとジーナで使っているから、都合三分の一にはなるが」
 あんまりな言われ方をしてもペシフィロは出てこない。扉の向こうで彼はレナイアの夢を見ているのだろう。スーヴァは腕の中でビジスを仰ぎ、その白んだ面立ちに初めてわずかな濁りを見せた。
 彼は締めつけるビジスの腕に噛みつく。頬骨が音を立てるほどに強く。だが、彼の口が血の味に汚されてもビジスは力を緩めなかった。状況に反してやわらかな笑みをこぼし、心から嬉しそうにスーヴァを撫ぜる。
「生意気になったじゃないか。育て方が良かったか?」
 スーヴァが強く歯を立ててもビジスはにじり動きもしない。まるで痛みなど感じない体であるかのように、平然と影を可愛がる。目を細め、ビジスはくしゃりと髪を乱した。
「わしは今でもお前のことを可愛い息子と思っているよ」
 噛みしめるあごが止まる。抵抗を失う体はゆっくりと降りていく。ビジスは支えることをやめて、くずおれるがままに彼を落とした。人影のように溜まる黒は、老人を見ようとしない。物体にも似た熱のなさでただそこに留まるだけだ。
「望むものを見つけたら、いつでもここに来ればいい。手助けぐらいはしてやるさ」
「……我々は、主の言葉しか耳にすることはできません」
 聞きとめもせずビジスは笑う。
「待っているよ」
 たとえどんな反応をしても、彼がたじろぐはずもない。
 踵を返す足音に、スーヴァはただ首を落とした。


 そのまま戻ればいいことだった。ペシフィロに手紙を渡した時点で、任務は終わっていたのだから。だが、夜が更けても、朝になっても、スーヴァはペシフィロの部屋の前を離れなかった。見つからないよう厳重に隠れて、中の気配を探っている。
 こんなことはいけないのだと、スーヴァは痛いほどに理解していた。それなのに、ペシフィロがいつか身を投げてしまうのではないか、剣で喉を裂くのではないかと壁から耳を離せなかった。室内では寝息が目覚めと共に終わり、何か動いているらしき物音が伝わってくる。それが徐々に膨らんで、もしかしたらと思う前に、入り口の扉が開いた。
「あ」
 開いているかも分からないほど腫れた目つきでペシフィロがスーヴァを見つける。逃げようとした影を掴み、彼は懸命に取りついた。
「ちょっと待って! お願いがあるんだ!」
 必死になってしがみつかれて、スーヴァはまたびくりと震えた。

※ ※ ※

 温暖なアーレルとは違い、ヴィレイダの辺境にはいまだ雪が残っている。スーヴァは入り口で靴を洗い、衣服の汚れを払い落とした。病気の種がつかないように、と、敷地に踏み込んだ時点で消毒を済ませてある。いつも通りの作業を終えたところで、遠くから幼い呼び声がした。
「なんなー。なんなー」
「はい」
 答えて、すぐさま駆け寄る。暖炉によって暖められた端部屋の扉にすがり、ようやく立っていられる子どもが空に手を伸ばしている。幼子は飛び込んだスーヴァを見つけ、満面の笑みを浮かべた。
「なんな!」
「只今戻りました、ピィス様」
 抱きとめるとしがみついて甲高い笑いを転がす。それでも緩むことのないスーヴァの頬をつまみ、引き、おもちゃとして遊びながら、ピィスは彼に運ばれた。空気の違ういくつもの部屋を過ぎていく。早い歩調をまるで歌とするかのように、着膨れたピィスの手足は楽しげに揺らされた。
「なんな。なんな」
「はい」
「なんなー」
「はい」
 たわいない呼びかけにも返事を忘れることはない。やわらかな茜色の髪を撫でながら、スーヴァは奥の部屋に向かった。一度、扉の前で鈴を鳴らす。何年と繰り返された儀式は、彼女の声に受け止められた。
「入りなさい」
 深く礼をして、扉を開ける。ピィスがきゃあと声を上げて手を伸ばした。まだ上手く走れない体を抱え、スーヴァはむずかしそうに暴れる子どもを寝台へと送り届ける。
 我が子を受け止めて、レナイアが微笑んだ。
「そう。そんなにななに逢いたかったの」
 ピィスはそうだと言わんばかりにレナイアの服を引き、満足そうに腕の中に収まった。
「只今、戻りました」
「ご苦労さま。どうだった?」
「滞りなく」
 叩頭した姿勢のままでスーヴァは報告を始める。ペシフィロに、レナイアが他界したと虚偽の知らせを終えたこと。彼に疑う気色はなく、心から彼女の訃報を信じたこと。手紙を受け取り、すべてに目を通したと伝えたところで、レナイアはそっと訊ねた。
「……泣いていた?」
「はい」
 初めからわかっていたのだろう。泣きたいような顔で笑う。
「そうね」
 呟きが諦めによるものだとスーヴァは既に理解している。涙を流してわめいたのは数ヶ月前までで、覚悟を決めてしまった今は、彼女の瞳は乾いている。潤むことも、怒りに赤らむこともない。そんな激情は初めのうちに捨ててしまった。子どもを育てていくために。
 ペシフィロとの子を傍に置くのであれば、彼との接触を絶たなければならない。そう本家から指示が下ったのは、レナイアとスーヴァが初めての育児にようやく慣れたころだった。ピィスの存在を知ったレナイアの母が、その子を渡せと言い出したのだ。何年も前に他家に嫁いだレナイアの妹が、子を授かることができず苦しんでいる。ピィスはレナイアによく似ていたし、養女として迎え入れても違和感はないだろう。
 あまりにも勝手な命令は、レナイアを苦しめるために出されたものではない。本来ならば、どこの馬の骨とも知れない、しかも敵国の変色者の娘など受け入れられるはずがないのだ。母がそれでも縁を組もうとしたのは、レナイアには子どもを育てる力がないと判断したためだろう。スーヴァ以外手助けをする者もいない孤独な屋敷で、病気でいつ死ぬとも知れない娘が、母親として生きるなど。
 それでもレナイアはピィスを手放すわけにはいかなかった。どんなに無理な状況だとわかっていても、我が子と共にいたかった。わがままだと自覚はしている。それがこの子どもにとって良くないことだと理解もしている。己の選択が悪であると分かりながら、レナイアは主張した。何があったとしても、この子を自分で育てるのだと。
 そのためにはペシフィロを断ち切らなければいけなかった。条件に従わなければ、ピィスは奪われてしまうのだから。レナイアは顔を上げる。
「きっと、すぐに私のことなんて忘れてしまうわ。よかった。いつまでもここを引きずられても困るものね。あの人ならあちらでいい人が見つかるわ。よかった。きっと、幸せに……」
 続きは滲みかけた涙に消される。レナイアは背筋を伸ばし、笑った。
「よかったわ。本当に、よかった」
 強く我が子をかき抱くと、ピィスはその緑の瞳で不安に母をうかがった。
 スーヴァは叩頭した姿勢のままわずかにも動かない。レナイアが何を思っているか、彼は誰よりもよく知っていた。だが手を差し伸べることはできない。卑しい身である使影が、主の一族に深入りするなど決してあってはならないことで、レナイアもまた奴隷に縋るなど考えてはいけなかった。頭の芯まで叩き込まれた心得が、二人に距離を作っている。他に頼れるものはない。ペシフィロはもういないのだから。
 あのころの出来事は、もはや幻であったかのように彼らから薄れている。屋敷の中は、昔のように戻ってしまった。
 ――そうだろうか。スーヴァは懐に手を入れる。忘れてしまったはずがない。この体は久しぶりに触れたペシフィロの熱を知っている。震える手が、隠しきれない彼の気配を離さない。
「お嬢様」
 スーヴァは顔を上げてレナイアを見た。
「ペシフィロさんから、伝言を託っております」
 目を見開くレナイアにスーヴァはすぐさま口を開く。彼女が待ってと呟く間もなく、彼は腰を上げて言った。
「手紙よりも口頭の方が聞きやすいだろうから、とあの方は仰いました。ですから、卑しい身ながら私が代わりにお伝え致します。どうか、ご容赦下さい」
「どういうこと。信じてくれたんじゃないの。どうして」
「墓があればどうか土に語ってくれと、あの方は仰いました。天に昇ったのであれば空に向かって話してくれと。まだ地上に在るのであれば、できる限り近い場所から囁くようにと頼まれております。これを、傍に置いて語るように、と」
 手渡したのは小袋で、彼女がおそるおそる開くと花の種がこぼれ出る。大量の、様々な形をしたそれを手に、レナイアは固まった。
 彼女の前に立ちつくしてスーヴァは告げる。
「ナイアさん。たくさんの手紙ありがとう」
 肩が、大きく揺れる。見開いた目が呆然と緩むほど、その声は彼に似ていた。
 スーヴァは、まるで本物のペシフィロのように語る。
「全部読みました。どんなに寂しい想いをさせたのか伝わって、いくら謝っても足りない気持ちです。後悔をしています。こんな言葉では伝わりきらないぐらい。僕はあなたに酷いことをした。本当にごめんなさい」
 何年もペシフィロの傍にいたスーヴァは彼をよく知っている。しぐさも、その呼吸のしかたでさえも。伝えることを頼まれたそのままの声で続けた。
「謝って赦されることではないでしょう。僕だってこれだけでおさまるわけじゃない。だから、僕は決めました」
 ひとつ、息を飲む。彼と同じ笑みを浮かべる。
「たとえこの手に触れなくても、必ずあなたに逢いにいきます。だから、この花と一緒に待っていてください。何年もかかるかもしれません。だけど絶対に行くから、待ってて」
 涙を流すレナイアにペシフィロは語りかける。間違いのない彼として、二年前と変わらずに。
「何度でも行きます。あなたが目に見えなくても、話す言葉が聞こえなくても、何度でも逢いに行きます。歳を取ってしわしわになっても、たとえ命を失くしても、繰り返しそちらに行きます。もういいよって言われてもやめないから。しつこいぐらいに繰り返して、僕はあなたを想います。何度でも、いつまでも」
 笑みはふと男のそれになり、彼女に深く囁きかける。
「ずっと、あなたを愛しています」
 伝言は、そこで終わった。スーヴァはもとの影に戻り深々と頭を下ろす。泣きじゃくるレナイアは、ピィスに心配されながらそれを止めることができない。大粒のしずくが次々と頬を伝い、娘の髪に落ちていった。
「ばかね……もう」
 ばか、ばか、と繰り返す。続けるほどに彼女は笑い、今はいない彼に答えた。
「待っているわ。ずっとずっと待っているわ。たとえこの身がついえても、いつまでも、あなたのことを」
 何もない空に愛しい人の笑顔を見て、レナイアも微笑んだ。
 歪んでいく表情で、愛娘の頬に触れる。
「ねえピィスレーン、聞いて頂戴。あなたのおとうさんは本当に素敵な人よ。こんなにも素晴らしい人は、この世にたったひとりだけ。誰にも敵うことはできない」
 幼子は不思議そうに母を見上げる。向かい合う母娘の顔立ちは、そのまま時を変えたかのように似通っていた。鼻筋も輪郭も何もかも同じ娘は、それでもその瞳の色に彼の姿を残している。レナイアは、彼と同じ緑色の眼に語りかけた。
「あなたの命の半分は、おとうさんからもらったの。なんて素晴らしいんでしょう」
 きょとんとしたそれがまっすぐに母を見つめる。レナイアは泣きそうな顔で言う。
「あなたはいつか、おとうさんに逢うのよ」
 彼女のものとまったく同じ茜色の髪を撫ぜて、続ける。
「いろんな街を見て、素敵な人たちと出逢って。そうしてたくさん笑うのよ。こんな体に似てしまうことなんてない。あなたはきっと丈夫な体で、ずっと元気に生きていくの。私なんかとは違うわ。悲しいこともあるでしょう。つらいときもあるでしょう。でもいつかおとうさんに逢って、あの人と同じぐらい素晴らしい人にめぐり逢って、ずっと、幸せに……」
 肌をなぞる手が止まる。震えるそれを握りしめ、レナイアは顔を歪めた。
「こんなところにいてはいけないの……あなたは、こんなところにいては」
 涙をこぼす彼女に、スーヴァは近寄ることができない。
低く床に張りついたまま、ただ影としていることしか。
 彼の正式な主人はレナイアではなく彼女の母や兄であり、レナイアがどんなに嘆いても、彼女のためだけに行動することはできない。主人を裏切るなど使影にできるはずがない。彼の心がどんなに彼女に添っていても、上から指示が下る限り、スーヴァは従わなければいけなかった。たとえそれがレナイアを苦しめる命令でも、必ず。
 こんな主でなければと思うことは、反抗とされるだろうか。今目の前にいる人でさえ救えない主人に仕える苦しみは、使影として生きるのならば、感じてはいけないだろう。だが考えずにはいられなかった。今のスーヴァには、これ以上何もできないのだから。
 うつむいた頭にビジスの言葉がよぎる。高らかな声が、望みがあればと持ちかける。上げかけた顔は、しかし忘れられないペシフィロの姿に伏せられた。彼があんなにも嘆かなくてはいけない限り、そちらの路に行くことは。
 どうしても動けない体で下がろうとして、止まる。ちいさな手が彼の服を床に縫いつけていた。
「なんな」
 いつのまに来たのだろう。ピィスは泣きそうな顔でスーヴァの体を引き止める。おかあさんが泣いているから、たすけてくれと訴える。
「なんなぁ……」
「申し訳ありません」
 声が震えるのは泣きたい気持ちだったのだろうか。わからないまま、繰り返す。
「申し訳ありません……」
 ピィスは大声で泣きながらスーヴァの服の裾を引く。
 動くことのできない影は、ただ、謝罪した。


[終わり]

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