番外編目次 / 本編目次


 “お嬢様”の懐妊が発覚したのは、彼女がこの屋敷に住まわせていた恋人と永遠の別れを交わした七日後のことだった。呼び戻そうにも腹の子の父親はすでに祖国に連れ戻されて、生死すらわからない。もとより敵国の男である。本来ならば彼女とはいがみあうべき立場であり、子をもうけるなど誰の口にもとんでもないと言わせるところだ。
「産むわよ」
 だが彼女は言いきった。
「お母様がなんと言おうと、お兄様が止めたとしても。わたしは彼の子を産みます」
 透き通る彼女の声は、たとえ地が裂けたとしても、空の月が落ちてきても揺らぎなく立ち続けているようで、唯一この屋敷に残されたスーヴァは止める言葉を失った。そもそも、名もなき使影である彼に主人を諌める権利はない。ただ足元に跪く影を見て、お嬢様――レナイア・ポートラード嬢はゆっくりと首をかしげた。
「ところで、赤ちゃんってどこから生まれてくるのかしら」
 いくら感情の薄い使影といえども、これには悲鳴をあげかけた。



「ねえスーヴァ、わからないことがあるの」
 彼女の質問はいつも必ずこの台詞から始まった。スーヴァは彼女の座る寝台のそばに首を下げる。平伏の姿勢のまま、やわらかな絨毯の上ですら音が立つほどに額を打って、そこでようやくわずかにだが視線を上げることができた。レナイアは使影の儀礼など気にもせず慌ただしく口を動かす。
「いま気づいてしまったんだけど、赤ちゃんって一体何を食べるのかしら」
 瞬時、引きしめた表情が困惑に迷いそうになるのも恒例だった。この深窓のご令嬢は若くして隔離病の餌食となり、もう二十年も俗世を離れて生きている。書物などで知識を得ることはあるが、育児に関することなどは見たこともないのだろう。スーヴァは失礼にならないよう、恐る恐る口にする。
「やはり、乳ではないかと」
「そうね、そうよね。でもどうしましょう、わたし、ミルクをあげるだけの胸がないわ。ほら、どこにも入っていないんですもの」
「お嬢様。僭越ながら申し上げます」
 薄い胸を押さえている不安な顔に説明する。
「お子に飲ませる乳は、時が来れば自然と発生すると聞き及んでおります。ご心配なさらずとも、必要な時期には膨らみが生まれるかと」
「そうなの? まあ、人間の体ってすごいわねえ」
 驚いた顔で頬に手を添えるのも、恒例のことだった。



「ねえスーヴァ、わからないことがあるの」
 その台詞で片付けの手を止め、車椅子の裾まで駆け寄ったスーヴァにレナイアが問いかける。
「赤ちゃんは生まれてきたら何を着ればいいのかしら。ほら、この家には小さな服がないでしょう? だからこの子のために靴下を編もうと思ったのだけど、まだどんな大きさなのかわからないじゃない。買ってくるとしても、生まれてこなければ丈を測ることができないわ。どうしましょう、赤ちゃんってどのぐらいの大きさなのかしら」
 スーヴァは自分の記憶にある赤子の姿を想像したが、一歳を越えたものしか見たことがなく、乳児とは一体どのようなものなのかがどうしてもわからない。困り果てて、芝生に深く頭を垂れた。
「そう、わからないのね。ではどうしたらいいのかしら。……そうだわ、いろんな大きさの服を作ればいいのね。ああ、でもひとつ作るだけで随分とかかるんだもの、丁度いいものができる前にこの子が生まれてきてしまうわ。ねえスーヴァ、手伝って頂戴」
 主人に絶対の服従を誓う若い使影は、迷いもなく了承した。



「お嬢様。僭越ながら申し上げます」
「あらどうしたの」
 十五足目の靴下を編むレナイアに、スーヴァは震える口で伝える。
「生まれたばかりの赤子は、どうやら靴下をはかないようです……」
「ええっ」
 真っ赤な毛糸の靴下が寝台の上に転がった。レナイアは頬に手を添えておろおろと首を振る。
「あら、あらあらあら。まあ、困ったわ。じゃあどうやって足を暖めるの?」
「このあたりの町の者は、厚手の布で体を巻いておりました」
「ああ! 昔見たことがあるわ。そう、そうよね。ああ、わたしは何も知らないのだわ。ねえスーヴァ、もっといろんなことを教えて頂戴。このままではこの子が生きてゆけないわ」
 使影に否定の権利はない。スーヴァは深く頭を下げた。



 その町では恐ろしい噂が広まっていた。幼い子どもに乳をやる時、またはおしめを換えてやる時、得体の知れない人影を見ることがあるという。徹底して鍵をかけても、カーテンをぴたりと閉じてもどこからか視線が忍び入り、その家の猫や赤子は驚いて、または興味深げに部屋の隅を見つめるという。時おり、子ども用の玩具などが消えてしまうこともある。暗闇でなにか書き付けているような音を聞いたものもいて、町人の間では妖精の仕業かとひそやかに囁かれていた。



 さすがにこの時だけは、と病すら移す覚悟で産婆を呼ぶはずだったのだが、想定していたよりも随分早く陣痛が始まって、しかもそれがよりによってひどい吹雪の真夜中で、取りあげるのはスーヴァだけ、助けるものは書物で得た知識だけという極限の状態で、その子は産まれた。
 赤子というだけあって全身を熱に燃やす子は、その髪ですら母親から赤い色を受け継いで、ぎゃあぎゃあと動物とさほど変わらない騒がしさを見せている。しわだらけにした目元を覗いて驚いたのは、スーヴァだけではない。彼ら二人が見つめる先で、生まれたばかりの赤ん坊は緑の瞳に澄んだ涙を乗せている。物陰の草の葉にも似た緑。平凡な人間にはまず出てこないであろう、ここにはいない“彼”と同じ不可思議な色。
 レナイアは痛みから解放されて呆然とした後に、泣いた。子どもよりも激しいのではと思うばかりに泣いた。それが、彼と別れた日以来初めての涙だと知っているのは、彼女とスーヴァだけだった。



「ねえスーヴァ」
 レナイアはたちまちに慣れた手つきで子に乳を飲ませながら、ねえ、と甘えるように繰り返す。相変わらず平伏の姿勢を続ける影に、透き通る声で囁いた。
「あなたが、この子の父親になってくれないかしら」
 彼は思わず頭を上げる。その後で、慌ててまた床に戻す。だがレナイアは薄らかに微笑みながら、そっと子の髪を撫でた。
「わかってるわ、無理な話なのでしょう。でもね、あなたならきっとこの子も安心すると思うの。だってわたしよりもあなたの方が、世話をするのが上手いでしょう」
 くすくすと笑うその目元には痛ましい影が浮かび、微笑みは哀しげに暮れている。
 あなたの方が、と彼女は言った。だがそれは事実ではない。あんなにも頼りなかったレナイアも本能に助けられたのだろうか。自然と子を抱く仕草は落ち着き、母親の顔となっている。まだおぼつかないことは多いが、ピィスレーンと名付けられた子がスーヴァよりもレナイアを好いているのは明らかだった。
「……考えておいてね」
 そう、選択肢を出されても、名も無き使影に拒否をする術はない。
 スーヴァは答えることができず、ただ深く頭を下げた。



 腕の中で、生まれて間もない赤ん坊がじっとこちらを見つめている。スーヴァは放り投げたくなるのを堪えて、必死に彼女の視線に耐えた。普段、影の中に潜む使影は注目を何より嫌う。特に外部へ行く指令を受けず、屋敷勤めばかりしてきたスーヴァにとって、まっすぐに見つめてくる人の目は心身を砕きかねない嫌悪感をもたらした。
 スーヴァはわずかに腕を揺らしつつ、庭を歩き続けている。一体どこで理解しているのだろうか、一歩でも止まっただけで赤子はたちまち声を上げ、涙を流した。それ以外どうすることもできなくて、スーヴァはただ歩き続ける。かすかに揺らした腕の中で、ピィスレーンは緑の瞳をじっと彼に向けていた。
 スーヴァはこれと同じことを一年前にも経験している。彼が、同じ瞳をしていたのだ。重傷のままこの屋敷に転がり込み、隅にあるスーヴァの小屋で仮暮らしを始めた男。手当をするスーヴァに興味を持ち、笑いながら話しかけてはじっと見つめてきた人間。顔立ちもその他の色彩もレナイアそのままだというのに、この子どもはどういうわけか瞳だけは彼と同じ色をしている。だから、スーヴァはピィスレーンに見つめられる度、彼のことを思い出した。まるで本当に彼がそこから呼びかけているような、奇妙な気もちを味わった。
 そんな子どもをどうして自分の娘だと思えようか。見るたびに彼のことを思い出すというのに。
 スーヴァはこの子どもにどう接していくべきか、使影らしく変化のない顔で悩んでいる。この子はきっと、“彼”に似た人間になるだろう。スーヴァを探し、影の中からたぐり寄せ、明るみの中へと無理やり導き出そうとする、お節介で人の良すぎる人間に。それを思うと、スーヴァはこの子と生きることを随分と重荷に感じた。
 だから、父親になどなれるはずがないのだ。それどころか共に生きることでさえも。
 スーヴァは何度目とも知れない周遊を止め、暴れ始めたピィスレーンを抱え直した。あうあうと声を上げて、幼き子は天を掴みたがるかのように必死に手を掲げている。スーヴァはそれをしまわせようと、何気なく手を添えた。
 ぎゅう、と予想外の力を感じたのはその時だ。目を瞠る先でピィスレーンはスーヴァの人さし指を掴み、これだけは離すものかと必死に握りしめている。この小さな体のどこから、と驚くほどに強い力。スーヴァは動揺のまま指を振った。ピィスレーンは緑の瞳でじっと彼を見つめている。目と目が道で繋がるほどに、彼の顔だけをひたむきに。
 スーヴァは、ぎこちなく笑う真似をした。感情の失せた彼に愉快という気持ちはない。だがレナイアがそうしているのを思い出し、なんとか、笑みの形に近いようなものを作った。
 ピィスレーンはきゃあと声を立てて笑った。言葉にならない言葉を上げて、楽しげに笑いながらスーヴァの指を強く振った。
 心臓を掴まれる感覚にスーヴァはたまらず目を瞠る。息が止まった。指と同じくその予想外に強い力で腑を握られたようだった。スーヴァは突然に振り湧いた感情がなんなのかわからなくて、困惑と苦しみのあまりに咳き込む。腰に力が入らず、倒れ込みそうになるのを必死に堪えた。ピィスレーンは緑の目を弓形にして、機嫌よく言葉にならない言葉を続ける。もっともっとと腕を振るので、握られた指ごと小さな手を振ってみると、ますます楽しく笑い転げる。何がそんなにおかしいのか笑いすぎて咳き込むほどで、スーヴァには何ひとつ理解できない。
 抱く腕に力がこもる。どうしてだかはわからない。だが、この小さな子どもを離してはいけないと、心の奥底にしまったはずの己の声が叫んでいた。ピィスレーンは笑っている。スーヴァは笑うことができない顔で、生まれて初めて欲しいと感じてしまったものを、深く腕の中に抱いた。

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