落ち込んでいる夜に限って風はつめたく冷えるもので、まだ冬には少し早いというのに身震いが絶えなかった。空には小さな月が浮かび、流される闇色の雲をうっすらと照らしている。だがそれも、家路を行くシグマの目には映っていないようだった。 うつむくという程ではないが、それでも気が晴れない時に空を見上げるはずもない。疲労と眠気と空腹の三大要素に足元をよろめかせつつ、彼は家へと歩いていく。帰宅が遅い時間になっても、別に同居人がいるわけでもないから文句を言われる不安はない。その代わり、ドアを開けても冷えきった暗い部屋が待ち受けているだけだ。あとは何かしらの食糧を胃に詰め込んで、特に何かするわけでもなく就寝の時を待つしかない。 普段ならば仕方がないと諦めもついているが、今夜ばかりはさすがに侘しいものがある。 今日は誕生日だった。少なくともあと数時間は祝福の日のはずだった。 だがこんな時に限って手持ちの仕事が叫びたいほど忙しく、友人どころか同僚との会話すらままならない状況だった。世間から断絶されてもう何日経っただろう。ようやく余裕ができたものの、幸せ気分で浮かれるだけの気力は残っていなかった。それどころか注意力が散漫になっていたせいで手帳を落としてなくしてしまい、気分としては最悪だ。知らぬ間に黒猫でも横切っていたのだろうか。 (誕生日なのにな……) 子供の頃や学生時代のような、仲間との騒ぎ合いを期待しているわけではない。そんな大したものはいらないのだ。ただ、ちょっとした喜びにありつくことが出来さえすれば。 夜はどんどん更けていく。過ぎていく時間と共に体の疲労も程度を増すように思えた。今にも潰れそうな門をくぐり、他の住民を起こさないよう暗い庭を横に抜けた。年季の入った階段はどう頑張っても騒がしく軋んでしまう。諦めきった足取りで風吹く二階の通路に上がり、自分の部屋の前まで来て思わずそのまま立ちつくした。 表面が剥がれつつあるぼろのドアに、紙袋が下げられている。それなりに大きなものだ。ノブにかかるそれを取ってその場ですぐさま開いてみると、小さな包みと大きな包みがひとつずつ入っている。シグマは瞬時ためらうが、好奇心に背中を押されてまずは小さな包みを開いた。 中からは細いリボンのかけられた平べったい箱がひとつ。店で包装してもらったものなのだろうか、寒さでうまく動かない指先で開封すると、中には革の手帳が入っていた。見開いた目で凝視するが、落ちついたつやを浮かべたそれは、幻のように消えるでもなく手のひらに収まっている。今日落としてしまったものとは比べるのも恥ずかしいほど立派だった。 ひゅう、と吹き込んだ風にハッとして手帳を袋の中に戻す。そのかわりにもうひとつの大きな包みを取り出した。こちらはいやに質素な箱で、飾りのようなものはない。あせる手つきでふたを開くと、甘い香りがかすかに鼻をくすぐった。 パウンドケーキだ。香ばしい色をした長方形の焼き菓子。生地に練りこまれているのだろう、しっとりとした表面には小さな木の実がいくつも散らばっていた。いかにも手作りらしいそれはずっしりと手に重い。箱の隅には小さなカードが添えられていた。少し油じみてしまったそこには見慣れた字で短く一言。 “非常食に。” 片隅にはいつもいつも無表情な先輩の名が記されていた。 シグマは月明かりに照らされたカードを見つめ、何日分もの食糧になりそうな手作りのケーキを見つめ、立派な手帳の箱を見つめた。 (そうだ。俺、この前、ケーキの話して) 意外にも料理上手な彼女に向かって、菓子の類も作れるのかと尋ねたのはいつのことだっただろう。必要があればまあ出来ないことはない、と答えられたが、その時は彼女がケーキを焼く姿など想像もできなかった。だから、つい、笑いながら言ったのだ。 ――じゃあ誕生日になったらケーキ作ってくださいよ。十月の十日ですから。覚えやすいでしょ。 そして今日は約束の十月十日、誕生日だったのだ。シグマは思わず「うわ」と呟き、そのまま続けてうわあ、と同じ言葉を繰り返した。完全に忘れていた。そもそも、まさか本当に作ってくれるとは考えてもいなかったのだ。 飽きもせずに立ち尽くしたまま「うわ、うわ」とそればかり繰り返していると、すぐ隣のドアが開いて隣人が顔を出した。彼はシグマとケーキと足元の袋を見ると、意味ありげににやりと笑う。 「差し入れ?」 「あ、え、はい。そう……みたいです」 「早く帰ってこなきゃだめでしょー。この寒い中ずっと待ってたよ、彼女」 「えええ!?」 驚きの声は下宿中に響くほど巨大となった。 「そんな驚かなくても」 いやだってこの寒い中待ってたってあの人があの人があの人が。シグマは若干の混乱と多大な焦りに急かされるがまま彼に尋ねる。 「その人っ、なんかこう髪黒くて短くて背ぇ高めで人形みたいな無表情で異様に姿勢が良かったですかっ!?」 「あ、うん。その通りだけど」 そんな女性が彼女以外に存在するならそれはそれで見てみたいが、ひとまずはミハルに間違いなさそうだ。口を閉じるのも忘れて呆然としていると、隣人は不気味そうに部屋へと戻る。 ――待っていた。この寒い中。 (ど、どのぐらい!?) プレゼントを手に殊勝に男を待ち続ける女、というと雪の中でも雨の中でも何時間も立ち続け、冷えた手を寂しい吐息で温めたりするそんな絵しか浮かばなくてますます混乱してしまう。いやまさかそんなはずは。そんなことをする人では。 だが想像の中でのミハルは無表情でありながらもはっきりと悲しそうで、寒い中震えてみたり、暗くなる夜空と時計を交互に見つめてため息をついてみたり、つまらなさそうにドアにそっともたれかかってみたりしたので、自分で妄想しておきながらものすごく切ない気分になってしまう。 (あああなんなんだこの想像! あ、ありえないありえないありえないけどあって欲しい!) シグマは小さな手書きのカードを見つめた。そしてそれを箱に戻してふたをして、手帳も何も一緒に袋の中に戻した。腕の中に抱えると、なんだかとても居たたまれない気分になって、足元が浮ついて浮ついて仕方がなくて。 落ち着きなく月を見る。今は夜、時間としては就寝にはまだ早いが訪問にはやや遅い。 だが、約束だったのだ。何よりもこのままでは自分の気持ちが落ち着かない。 今日は誕生日だ。少なくとも、あと数時間は。 シグマは袋を抱えて走り出した。全力で足を動かした。 ミハルの家はかなり遠くて更に風もひどく冷たい。頬は凍るように冷えるが体はぐんぐん熱くなる。本気で全力疾走したのはどれぐらいぶりだっただろう。運動不足と溜まった疲労が容赦なく体を打って、普段の距離の何倍にも感じられる道のりを終えたころにはすっかり息が上がっていた。手足ががくがく震えている。震えるがまま呼び鈴を押す。 両親が一時的に他国で暮らしているために、ミハルは小さな一軒家に一人きりで住んでいる。真っ暗な夜の景色にぽつりと浮かんだ家の明かりは見るからに暖かかった。その暖かい家のドアが開く。暖かい人が出てくる。 「……シグマ?」 その顔を見た瞬間に張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れて、シグマはへたり込んでしまった。上がる呼吸がゆるゆると伸びていく。体の方もすっかり脱力してしまい、ぐったりと玄関の植え込みにしなだれかかる。 「ど、どうした? 大丈夫か、しっかりしろ」 「た」 「た? た、がどうした? 何があったんだ」 「た、た……」 気遣うように添えられた彼女の腕をがしりと掴み、シグマは精一杯の声で言った。 「誕生日ありがとうございましたあっ!!」 沈黙。 たたずむ夜と同じぐらい静かな間。 痛々しいそれを破ったのはかすかな空気音だった。 「……何かと思えば」 ミハルは小さく吹きだすと、呆れまじりの微笑を見せた。シグマは途端に自らの行いと発言がとてつもなく恥ずかしくなり、みるみると顔が赤くなっていくのを感じながら口ごもる。 「い、いやあのちょっと間違えて。ま、間違ってますよねこれ。うん」 「まあ、完全に間違いというわけでも。……まさか、それを言うためだけに走ってきたのか?」 はい、と消え入るような呟きで肯定すると、ミハルはふいと顔をそむけた。 口元に手をあてている。肩がわずかに揺れている。 「こ、こんな夜遅くにわざわざ走って、ここまで……っ」 「わっ、笑うなら堂々と笑いましょうよ! そんな同情いらないっすよ!」 だがミハルは背を向けたまま苦しそうに声のない爆笑を続けている。シグマはますます恥ずかしくなってしまって、焦るように言葉を重ねた。 「だって居ても立ってもいられなかったっていうか! ちょ、そんなに笑わなくてもいいじゃないすか! 俺かなり本気で走っていま死にそうなんですよ!?」 「わかった、わかったから。中に入ろう、近所迷惑だ」 まだ笑いの引かない彼女に引き寄せられて、玄関へと足を踏み込む。こんな時間にいいのだろうか、とためらうこちらを気にもせずにミハルは家の奥へと進んだ。仕方なく、お邪魔しますと呟きながら後に続く。結局はいつも通りに居間の中へと通された。シグマは定位置となりつつある一人掛けのソファに座る。ミハルはまだ少し笑いを残した顔でもう一つのソファに座った。 「ああ、もう。あまり笑わせるな……慣れないことをすると疲れる」 「いや、ですからね。俺はね、もうかなり感動してぐわーっと来るものがあったんですって」 「感動されるほどのものでもないだろう。そんな大したことはしてない」 「大したことじゃないすかー。俺、今日手帳なくしたんすよ。それでへこんでたまさにその時この手帳が! いいんすかこんな立派なの貰っちゃって。高くなかったですか」 「そんなに高いものでもない。お前が今まで使っていた手帳が安すぎただけだ。そもそも今日だけじゃなくてもう何回もなくしてるじゃないか。ぼろの使い捨てだから出先で忘れることになるんだ。ちょっとぐらいいい物を持てばなくさないようになる」 そういえば以前からなくすたびに彼女に愚痴を言っていたような気がする。シグマは抱えていた奇跡感が薄れていくのを寂しく思い、できるだけ深く考えないようにと話を逸らした。 「ケーキもありがとうございました。わざわざ作ってくれて……」 「いや、混ぜて焼くだけだ。時間も手間も掛かっていない」 「でもわざわざ家まで届けさせちゃって。こんな寒いのに、外でずっと待ってたって……」 「私が行った時はそんなに寒くもなかったし、どうせ帰るついでに寄れる場所だ。それにそこまで待っていない。帰りが遅くなるのは課の雰囲気で解っていたし、物を置いてすぐに帰った」 あまりにもあっさりと妄想を壊されて、シグマは思わず熱く叫ぶ。 「そんな! じゃあ俺の感動ってなんだったんすか!?」 「いやそんなことを言われても」 拍子抜けた反応はもっともなことなのだがそれでもやはり虚しかった。シグマはがっくりと肩を落して視線を低くうつろわせる。息のもれる音がして、いやに楽しげに聞こると思えばそれは彼女によるものだったらしい。反射的に顔を上げると、そこには、滅多にない貴重なものがあった。 「誕生日おめでとう」 優しく笑うミハルを見て、シグマはしばしぼうっとする。だがすぐに今すべきことに気づいて実行した。 「何故頬をつねる」 「……いや、だって」 笑顔が引きつるのを見てああ本物だと実感する。頬も痛い。それに何より全身がくたくただし空腹で倒れそうだ。物欲しげに持ってきたケーキを見るとミハルがさっと取りあげる。ああ、とこぼれた哀しい声にミハルは少し苦笑して、切り分けよう。クリームも添えると言った。無論反対するはずもなく、シグマは出されたケーキと夕食の残りを飢えたのら犬のようにがっついた。むさぼる姿を眺めるミハルはいつも通りの無表情に、ほんの少し見守るような優しい笑みが見えるような見えないような。 「それを食べたら帰るんだぞ」 先輩、俺もしかしなくても餌付けされちゃってますか。口の中がいっぱいでなければ尋ねてしまいそうだった。 「帰りたくないなー……」 「何時だと思ってるんだ。疲れてるのは分かるが、長居すると余計に面倒になるぞ」 まあ疲労もあるんですが他にもちょっと意味があるというかなんというか。だがそう素直に告げる気にもなれなくて、相手に気づかれないようにこっそりとため息をつく。あと数時間は祝福の日。シグマはこの時がいつまでも続きますように、と無茶なことを祈りながら幸せをかみしめた。 |