玄関が開くなり、挨拶より先に咳が出た。ドアノブを握ったままのミハルがわずかに眉を寄せているが、止まらないものはしかたがない。シグマは引き攣れそうな喉を押さえて咳を続けた。続けたというよりも、体が勝手にそう動くとしか言いようがない。にわかにひいた季節病は着実に悪化しつつある。 「……こ、んいちわ」 「酷い声だな」 なんとか口にできた言葉も、静かに言われてしまった通り相当の潰れようだ。ゴムホースをつまんだように、喉の奥も誰かの手で細くされているような気がする。ひゅうひゅうとかすれた音でなんとか続けた。 「もともと風邪ぎみだったんすけど、昨日、呑み、行って。さわいだから、余計にひどく」 「無理をするな、聞いている方が痛い。今日はもういいから安静に……」 だが押し返しかけた手は止められた。ミハルは考えを変えたらしく、無表情のままに言う。 「いや、少し調べさせてくれ。病気をしている時は魔力の様子が変化するかもしれない」 はい、おおせの通りに。降伏に近い気持ちで言葉のかわりにうなずいて、すでに家の奥へと進む魔法好きの後を追った。 ああやはり力の波長が乱れているな、だの、熱によって変化するかもしれないから調べさせてくれ、だのと頼み込まれて熱を測るが、自覚症状とは裏腹に体温は平熱とほぼ変わりがない。高熱に至らない風邪なのか、はたまたこれから上がるのか。今のところはわからないが、とりあえず魔力の波長は大きく揺れて不安定な状態らしい。血圧計を改造したらしき機械の針が、馬鹿みたいに振れている。 「今日は術を使わないほうがいいな。暴発しかねない」 「す、みません、せ、っかく」 「いいから喋るな。悪化するぞ」 言われた通りにまたもや咳が始まった。マスクでもして来るべきだっただろうか、と思う。風邪をうつしてしまいそうだ。ただでさえ今日は久しぶりに発見した、使えそうな術を試すいい機会だったのに。この頃はお互いに忙しくて予定が合わず、長期間のすれ違いを経たようやくの休日だった。 「こんな寒い日にすまなかった。天気も悪いから、下手をすると……」 ふと、ミハルが窓の外を見た。つられてそちらに目をやると、自然と肌に寒気を感じる。 「……遅かったな。雪が降り始めた」 この冬初めての雪が風に吹かれて舞っていた。ななめに飛ぶ白い粒。見ているだけでも気温が下がってしまいそうだ。この中をまた歩いて戻るのは、よほどのことがない限り、避けたい。 知らずうちに表情にも願いが出ていたのだろう。ミハルはかすかな息をつくと、諦めたように言った。 「もう少し休んでいけ。しばらくしたら、雪もやむ」 「あり、がとうござ、ます」 「いいから。花梨湯を入れよう。喉に効く」 うっかりと同じことを繰り返しそうになり、シグマは言葉をのんでうなずいた。 雪が降っている時は、どうしてこんなにも静かなのだろう。シグマはひんやりとした沈黙にいたたまれず頭を掻いた。せめて風でも鳴ればいいのに、かすかな音すら聞こえてこない。かろやかな雪を散らしていても、ガラスを越えて響くほどの力は持っていないようだ。ストーブからする蒸気の音と、遠くで響く時計の秒針。それだけが、この部屋にある音のすべてだった。 そういえば、いつもは自分が何かしら喋っていたのだ。もともと喋るのが苦ではないほうだから気にしたことはなかったが、よくよく思えば彼女の無言を埋めるように何倍も口を動かしていたのだろう。 だが今は、喉が痛くてろくに話すことができない。シグマは飲みほしてしまったカップを意味もなくもてあそんだ。動かなければ部屋の中の静けさに飲み込まれそうな気がする。落ち着かないのはミハルも一緒なのだろう、彼女は不自然に早い動きで広げた本のページをめくる。時おりちらりとこちらを見ては、気まずそうに視線を落とした。あまり、集中して読んでいる風ではない。 「……暇だな」 はい、と口の動きだけで答えた。実験もできないし、家に帰るわけにもいかない。おまけに会話が成り立たないので文句なしに退屈だった。次の言葉を促すように目をやると、ミハルは少しうろたえたようだ。表情からはほとんど窺い知れないが、なんとなくそう感じられる。 「いつもは、お前が喋ってくれるから」 そのあとで、言葉が消える。何を言おうか悩むように視線は本の上で揺れる。ミハルはたっぷりとした沈黙を落としたあとで、ようやく呟くように言った。 「……雑談は苦手なんだ。困ったな」 ――ですよね。説明するときとか、理論について語るときはすらすらと喋るのに、それ以外のことになると途端に無口になりますもんね。 ――でもまあ、先輩はそれでいいんじゃないすか。足りなきゃ俺が喋りますし。 そう言いたくても体が不調を訴える。口をあけてみたものの、咳しか出てこなかった。 声が出ないことがこんなにも苦痛だとは考えてもいなかった。シグマはどうしようかとしばらく悩み、ふと思いついて紙を取る。彼女の傍のペンを借りて、手早い動きで書き付けた。 <じゃあ筆談でいいですか?> 差し出された紙を見て、ミハルは目元を弱らせる。ため息をついて言った。 「腱鞘炎になるぞ。お前の話は長すぎる」 <先輩が喋ってくださいよ。質問書きますから> 「尋問か? ……何を訊きたいんだ」 思いつきで提案しただけなので、そう言われると困ってしまう。机の上を飛ぶようにして戻った紙を、悩みの目でじっと見つめた。下世話な話はやめたほうがよさそうだ。逃げようのないこの状況で雰囲気をますます気まずくするのは避けたい。下品な質問も、真顔で答えられてしまいそうな気がして嫌だ。無難な問いを探してみるが、なかなかすぐには見つからない。 <趣味はなんですか> 結局は、かなりどうでもいい質問に行きついた。 「…………」 怪訝な顔と沈黙があまりに痛くて逃げたくなる。だがミハルは律儀にも口を開いた。 「実験、調査、研究活動。仕事でも魔法関連でもどちらでも同じことだ」 そして、また静かな沈黙。ひととき動きが生まれた分、よけいに居心地悪く感じる。付き返された紙の上の失敗した言葉たちが恥ずかしい。破り捨ててしまいたいぐらいだ。次はもっとましなことを尋ねようと、ペンを構えて考える。訊きたいこと。彼女について、知りたいこと。 ――普段、どんなことを考えてますか。 ――ぼんやりすることはありますか。 ――魔法のこととか、仕事のこと以外で、くだらないことやどうでもいいことをずっと考えたりしますか。俺は結構しちゃう方なんすけど。もし今なんでも願いが叶うんだったら何を頼もうかなあとか、ばかばかしいことを真剣に考えて、それでやたらと頭を使っちゃったりして。気がついたらえらい時間が過ぎてたりするんすけど、先輩もそういうことありますか。 ――朝っぱらから雨だったらちょっと憂鬱になったり、気分がいい日によく晴れてるとなんとなく嬉しかったり、そのまま意味もなく鼻歌口ずさんだりとか、そういう時はありますか。 ――本当は、顔に出てないだけで、結構ふつうの人なんじゃないですか。 ――どうでもいいことで悲しくなったり、嬉しくなったり、すごくくだらないことに夢中になったりすることもあって、単にそれが外側に出ないだけとかじゃないですか。 ――俺、昔はこんな風に思ったことなかったんです。先輩はなんかそういう人じゃなくて、いつも意味のあることしか考えてなくて、それもちゃんと理屈っぽい論文みたいな文章だけで生きてるような、そんな人だと思ってたんです。 ――でも不安になったら涙も出るし、嬉しかったら笑うし、時々冗談も言うし。冗談に聞こえないから聞き逃すこと多いですけど、最近結構増えましたよね。ずっと表情同じだけど、何考えてるのか解らないこともまだ多いけど、でもなんか無表情のまま花に水やってたり、料理したり、掃除したり、そういう私生活みたいな姿を見てたらやっぱりこの人普通の人なんじゃないかって。 ――俺、ずっと失礼な思い込みしてて、人間じゃないみたいだとか人形みたいだとか思ってて。 ――それ、やっぱり間違いですよね。 ――でもやっぱり確証もなくて、どっちなのか時々わからなくなって。すごく気になるんです。 ――先輩は…… <あなたは、どういう人なんですか?> 訊きたいことは山ほどあるのに、結局はそれだけしか書けなかった。言われた通りだ。たしかに、言いたいことを全部書いたら腱鞘炎になりかねない。彼女へのくだらない質問は尋ねても尋ねても尽きないほどにあるのだから。 「……そう、言われても」 戸惑った表情が目に新しい。だがそれもすぐに消えていく。質問は逆にいくつも増える。 ――どうしてそうなんですか。 ――そうやって表情を引っ込めるのはわざとやっているんですか。それとも無意識なんですか。 出てこない声の代わりに紙を取る。ゆっくりと、ためらいながらペンを動かす。 <先輩のこと、いろいろ知りたいんです> 「……何故だ?」 ――わからないから。わからないままにしておけないんです。そういう性質なんです。 ――多分、あなたと同じで。 今はない魔法のかけらを求めるように。失われた幻の国を探すように。 証拠がなく、手がかりも掴めなければこんなにも気にならない。彼女は以前言っていた。お前に協力してもらえるようになってから、新たな手がかりが次々に現れた。だから調べたくなる。だから、知ろうとせずにはいられない。……それと、同じだ。前はこんなにも知りたいとは思ってなかったのに。 答えは出ている。だがこの想いを上手くまとめられるような器用さはどこにもない。 だから、結局は悩んだあげく。 <なんとなく> あまりにもどうでもいい一言で終わらせてしまった。 表情の変わらない彼女を見て、慌ててまた問いをつづる。 <じゃあ、もっと細かい質問で> そこで一度掲げてみせて、続けてペンを走らせた。 特に深い意味もなく、思いついたものを挙げる。 <もしも今、なんでも願いが叶うとしたらどうします?> 渡しながら、失敗したかもしれないと考えた。魔法についての手がかりが欲しいとかそんなところだろう。自分が魔法を使えるようになりたいと言うかもしれない。いや、もしかすると意外にも金持ちになりたいとか世界平和とか家内安全とか……。くだらないことをつらつらと考えていると、ミハルは近くのペンを取って紙に何か書きつけた。何を考えているのか解らない顔で渡されて、読んで、しばし止まる。 <今は、お前の声が聞きたい> 「そんな、『話したいことが沢山あるのに手が足りない』みたいな顔をされたらこっちが息苦しくなる。早く治せ。お前が喋らないと、調子が狂う」 なんだかやたらと嬉しくて勢いよく口を開く。 「は、い。すぐになお」 本当は喜びのまま元気に答えたかったのに、声はかすれておまけにまたもや咳が出た。顔を伏せてむせる咳を続けていると、吹き出すような小さな笑いが耳に入る。え、と顔を上げてみるが、ミハルはすでに笑いを内に隠していた。口元がほんの少しゆるんでいる。 ――そういう風に小出しにするから……。 ――というかせっかくなのに見逃してすげえ悔しいんすけど。 ――第一こっちは苦しいんだから笑わないでほし……いやもしかして、だから気を遣って? 言いたいことが山ほど溜まってもどかしいことこの上ない。口の中が膨れ上がっていくようだ。 「無茶をするな。話は治ってから聞かせてくれ」 わずかに苦笑の混じる言葉はどことなく暖かい。シグマは出ない声の代わりに力強くうなずいた。 いつの間にか雪はやみ、射しはじめた午後の光が外の気温を上げていく。 だが帰れと言う者も、帰りますと言う者もこの場にはいなかった。 ただゆっくりと暖められていく沈黙だけが、ふたりを包み込んでいた。 |