開け放たれたガラス戸から午後の光が差しこんでいる。木敷きの廊下を明るく照らすそちらに向かって足を伸ばせば、触れる日差しの暖かさに思わずほっと気持ちが緩む。シグマは幸せそうな表情でのんびりと空を見上げた。
 給料日を目前にしてここ数日の食糧事情は最悪なものだった。それにあわせて仕事の方も忙しくなっていたので、これはもう死ねと言われているのだろうか。と真剣に悩むほど辛い日々を送っていたのだ。だが今は満腹で、休息もたっぷり取っている。
 久々の連休を寝て過ごしたのが昨日のこと。睡眠だけは山ほど取って、あとは栄養をどうしようかと困っていると、運良くミハルに呼び出される。死にそうな顔で彼女の家に転がり込んで、心ゆくまで手料理を満喫したのがついさっきのことだった。意外なことにミハルはそれなりに料理が出来る。栄養価に関しては素人ながらに完璧だ。ただ席でへばっているだけで、温かい家庭料理を次々に出してもらえる。片付けもやってもらえる。くたびれきった今の彼にはそれが何より嬉しかった。
 おまけにこうしてあたたかな陽に照らされて、のんびりとくつろげる。穏やかな気分でいられる。
「……この家の子になりたい……」
 何かが違う呟きをもらした後で、はあ、と幸せな息をついた。
「くつろいでいるところ悪いが、そろそろ働いてもらうぞ」
 冷静な声がして、シグマは首だけをそちらに向ける。ミハルはいつも通りの無表情にやや呆れた色を乗せ、小さな机に古ぼけた紙袋を置いた。
「もうちょっと。あともうちょっと、こののんびりとした午後を過ごさせてください」
「さっきから何十分そうしてるんだ。見つめても庭は変わらない」
「そりゃまあ変わったら怖いっすけどー」
 すぐ側にはちょっとした広さの庭があり、ほどほどに手入れされた芝生が敷き詰められている。物干し竿も立っているが今は洗濯物はない。空いた景色を埋めるように、周囲には様々な花の生える植木鉢が並んでいた。赤、黄、紫。春の花は今にもこぼれ落ちそうなほど盛大に咲いている。
「満開ですねー。花育てるの好きなんすか?」
「いや、頼まれて管理しているだけだ。母がどこかに行くたび次から次へと買ってきては無責任に置いていくから、いつのまにかここまで増えた」
 さして興味もなさそうに言われるが、両親が長らく留守にしている間、ずっと世話をしているのだから嫌いなわけでもないのだろう。これだけの量になれば、水をやるだけでも一苦労のはずだった。
「大変っすね」
「枯らすとこちらが悪人のように言われるからな。住まわせて貰っている分、そのぐらいは義務だろう。……休憩はもういいか?」
 だからお前も義務を果たせ。そう言外に含む声色に、シグマは緩んだ体をひきずり彼女の方へと近寄った。机の向かいがわに座り、紙袋から何が出るのか興味深い視線を向ける。ミハルは無駄のない動きで中身を机に並べていった。
 ノリスで販売されている魔術仕込みの古物だ。本当に術がかけられている物は滅多にないが、それでも時たま紋様として描かれた呪文の類が実際に使えたり、そうでなくとも別の呪文の穴埋めとして役に立つ場合もある。ミハルはそれに期待して、休みの日には暇さえあれば単身ノリスに通っているのだ。昨日もそうして買ってきたに違いない。
「あれ、これだけっすか」
 並べられた土産物は、結局は三つだけだった。小さな万華鏡が二つ、よく解らない筒が一つ。ミハルは特に残念そうな気配も見せず、表情を変えずに答える。
「ああ。いい加減買い尽くしてきたらしい」
「そりゃまああれだけ調べれば……なんだこれ。コショウ入れ?」
 用途の知れない木の筒をつまみあげる。中央に切り離せそうな溝のあるそれは香辛料を挽く道具に見えた。だが回そうとしても動かないし、挽いた粒を外に出す穴もない。
「溝の近くに呪文帯があるだろう。読めるか?」
「あー、えーっと……だめだ、潰れちゃって……」
 言葉にしたがい記された古代語を指でたどるが、そもそもが数十年前のものだ。表面の色自体が深い茶色に沈んでいるので、文字列の輪郭すら目で確かめるには危うい。彫りこまれたそれをせめて皮膚で確かめようと、指先で執拗に撫ぜたその時。
 向こう側からふわりと押し返されるような、ささやかな抵抗を指に感じた。驚いて体から放した途端、握りこんだ手の中で筒が二つに分離する。中からは大量の茶色い粒。あふれるように流れたそれは、指の間をさらさらとこぼれ落ちていった。
「……もみがら?」
 あまりに軽く乾いたそれは種の殻のように思えた。床に落ちた粒をつまみ、ミハルは近くで見つめて呟く。
「いや、種だ。まだ中が詰まってる」
「え、じゃあこれ昔の花の種っすか? 何十年前だかの」
「花というより農作物かもしれないな。昔のものかどうかは怪しい。ごく最近戯れに詰めてみただけという可能性もある」
「でもこれ、なんか術かかってませんでした?」
 そう言いながら改めて手の中の木筒を調べてみると、さっきまで確かにあったはずの文字列が跡形もなく消えていた。ミハルはこちらの様子を察したのかにじり寄ってじっと見つめる。顔つきは変わらない。だがその目には喜びが、かすかに赤く染まる頬には興奮があらわれている。
「……先輩。今ものすごくわくわくしてるでしょう」
「あ、いや」
 ハッとして取り繕うように距離を置くが、離された顔がどこか照れくさそうなのは図星という証拠だった。シグマはなんだか嬉しくなって、笑いながら筒を掲げる。
「これ、もしかして植えたら芽が出るかもしれませんよ。ダメモトでやってみます?」
「そうだな。……うん、試す価値はあるかもしれない」
 何気なく言った後で、ミハルはふと考え込むようにうつむく。何かに思い当たったように、顔を上げるとすらすらと推論を口にした。
「生まれ持つ属性にもよるが、魔力を直に与えることで植物の生育を早めることが出来るそうだ。お前の力がもしそれに向いているなら、この種もいつかは芽が出るかもしれない」
「お、いいっすねー。もしそれが成功したら、色々と便利そうじゃないすか」
「上手く行ったら、その時は庭の花を育ててくれ。管理の手間が省けそうだ」
 冗談なのか本気なのかわからないことを言って、ミハルは薄い紙の上に散らばる種を集めはじめる。シグマも筒を机に置いて、その作業を手伝い始めた。



「そんで今やるんすか」
「いつやるつもりだったんだ?」
 平然と尋ねられても確かな答えは出てこない。シグマは小さく唸りながら、面倒そうに庭の芝生に座り込んだ。目の前には耕された黒土を詰め込まれた植木鉢。その中には既に先ほどの茶色い種が撒かれている。ミハルは目に見えて嬉しそうというわけでもなく、相変わらずの無表情で淡々と水をやった。土が湿って準備万端。後は魔力を込めるだけ。
「……せっかく体力充填したのに……」
 逃げたくなるほど嫌というわけではないが、魔力を外に出すというのは結構な疲労を伴う。せっかく日々の疲れを癒して幸せ気分でいたというのに、こんなところでまたしても疲れるはめになるなんて。
「そのための報酬だろう。食べた分はきちんと働け」
「ああー、あれやっぱりそういうことかー!」
 シグマは昼に与えられた数々の食事を思って頭を抱えた。どうもこの先輩にはいいように使われているような気がする。よく食べものをくれるのも、親切心からではなくただ単に実験道具に燃料を補充しているだけのような……。
「先輩。先輩にとって俺って一体なんなんすか」
「泣き言を言うな。ほら、やれ」
「無償の愛が欲しい……」
 へこたれた気分で呟いて、シグマは袖をまくり上げた。右腕の付け根にある傷跡を指でなぞり、魔力の調子を確かめる。燃料だか餌だかのおかげさまで力は満タン。諦めにも似た覚悟を決めて、鉢に向かって腕を突き出す。呪文は要らない。力を与えるだけなのだから、目を閉じて流れる魔力が体の中から外へ外へと出て行くようにうまく想像してやるだけ。
 腕の中を何かがするりと通り抜ける気配がすると、その後は水が流れていくように次々と魔力が出ていく。悪寒が薄く肌をなでた。血の気が引いていくような、嫌な冷気が心臓から腕にかけて痺れをもたらす。
 もうそろそろいいだろうか、と閉じていた目を開くと、驚いたミハルの顔がまず見えた。珍しい表情に何事かと彼女の視線を追ってみると、自分のすぐ足元に緑色の塊が置かれていることに気づく。これは何だと一瞬悩み、その後で、若い芽が山となって溢れだした植木鉢なのだと解る。種が発芽したのだ。それもありえない速度で。
 しかも、今もまだ伸び続けている。
「止めろ! 手を離せ!!」
 焦りを含んだミハルの声が聞こえるか聞こえないかのうちに、足元で蠢いていた細かな緑がぞわりと大きく盛り上がった。動いた。と思った瞬間、大量に生えた緑の茎が一気にこちらに向かって伸びる。
「うわ、わああっ!?」
 まず始めに腕が取られた。向けていた右腕に伸びた茎が素早く巻きつき、瞬時に緑に覆われる。これは茎というよりツタなのだと気づいた時にはもう遅く、緑の手は肩を這って首の上まで到達していた。もがきながら振れば振るほど取り付かれた腕は重く、動きが制限されていく。服の上を毒々しい真緑のツタが飛び交い、全身が重くうずめられる。ツタは擦れ合う音を立てて次々と分裂し、増殖しながら丸い葉を生み出して生み出して体を緑に染めていく。
「シグマ! シグマ!!」
 ミハルはただこちらの名を呼び必死に草を剥がそうとする。だがまるで生き物のように動くツタは彼女から逃れながらシグマの体を覆っていく、緑で包み込んでいく。顔が全て侵食されて視界は緑の闇に落ちた。ミハルが側で必死に名を呼んでいるが口も顎も動かない。息ができない。口の中までツタが、葉がいっぱいに溢れている。
「やめろ!!」
 絶叫に近い声は草への一喝だったのだろうか。ぶつりと濁った音を立てて顔の上のツタが千切れる。今まで見たこともないほど取り乱したミハルの顔が目の前に現れた。
「シグマ、聞こえるか!? 魔力を全部外に出せ! 餌をやりきるんだ!」
 怒鳴りながらシグマを覆う植物を必死に千切り取っていく。不思議なことに植物は彼女の手を拒むように逃れていった。ミハルはそれを利用して、首や顔に絡むツタを乱暴にはねのける。
「魔力がなければ取り付かれない! こいつらが満足するだけ力をやるんだ!」
 前面の緑があらかた外れて体が空気に触れたところで、ミハルはシグマを抱きしめる。植物は魔力のない身を厭うため、彼女と密着している箇所にはツタは伸びてこなかった。植物の圧迫から逃れてシグマの呼吸は楽になる。うつろになりかけていた思考もなんとか息を吹き返した。
「早く! 魔力を!」
 ミハルは彼の頭を守るように抱きかかえ、伸びるツタを打ち払う。シグマは植物に固められた手の先に全身の魔力を込めた。全て、全て、体の中の隅々の魔力が外に流れ出るように。このはびこる緑を満たすように。
 すっ、と右手がいやに軽くなった。それはすぐに腕の上から全身を伝っていき、まるで紐が解けたように一気に体が楽になる。呆然と見上げた視界に緑の粒。あちらこちらにぽこぽこと生まれたそれはあっという間にふくらんで、赤い色を滲ませた。
「つぼみ」
 顔を上げたミハルが呟くのと同時、数え切れないほどのつぼみは瞬く間にその身を開く。
 赤、赤、赤。鮮やかな赤い花弁が次々とあらわれては力の限りに咲いていく。ようやく出逢えた日光を体で受け止めるように。陽の光を浴びることが嬉しくて仕方がないというように、花たちは真っ赤な花弁を光に晒した。
 一面の緑から一面の赤となった景色がまたしても色を変える。あちこちに咲く花がほろほろと頭を落とし、鮮やかな赤い色は力ない音を立てて二人の上に降ってきた。ぽさ、ぽさ、とかろやかな音と共に、頭や肩や腕や足に外れた花が落ちてくる。まるで首をもがれたように、きれいな形をそのまま残して。
 花が落ちるとツタは見る間に生気を失う。緑は乾いた茶色に変わり、葉は弱く枯れ果てては花と同じく落ちていった。ツタはみるみる細くなる。そうして力を失って、しわがれた後には花の残した実が残る。乾いたそれは最後の力を振り絞るようにはじけた。
 ぱ、と視界が白く輝く。枯れ色を隠すほどの白、白、白。ふわりとした綿毛が一面を白く染める。
 だが、待ち構えていたかのように強い強い風が吹いて、綿毛は見る間に吹き飛んだ。
 二人とも、呆然と青空に舞う綿毛を見上げる。まるで雪が躍り上がったようだった。綿毛は種を携えてあちこちに飛んでいく。この小さな庭を出て、もっと遠くに安住の地を求めて。
「……近所迷惑だ……」
 全てが過ぎ去った庭に、どこかずれた言葉が響く。残されたのは枯れてしまったツタばかり。ミハルは疲れきったようにぐったりと力を抜いた。自然と、抱きしめていたシグマの体にもたれかかることになる。シグマは今更ながらに自分たちの姿勢に気づき、密着した彼女の体を肌で感じてうろたえる。
「あ、すまない」
 ミハルもまた我に返って彼の上からどこうとするが、その動きはぴたりと止まる。
 シグマの腕がいつの間にか背に回り、離れないようしっかりと彼女の体をとどめていた。
「……どうした?」
「あ、いや。ツタがまだ絡んでて……」
 彼の腕にはもうツタは這っていない。だが背中が見えないミハルは素直にそれを信じたようで、ため息を交えて呟く。
「しょうがないな」
 そして迷いの見えない動きでシグマのみぞおちを殴った。
 ぐう、とくぐもる声をもらしてシグマはぱたりと腕を落とす。ミハルは自由になった体をやれやれと彼から離すと、そこら中に落ちているツタの残りを手に取った。
「なるほど。やはり宿主が衝撃を受けるとこちらも力を失うらしい。あっさりと外れたな。もっと早く気づいていれば、初期段階で成長を止められたのに……シグマ?」
 だが彼は講釈を聞く余裕もなく完全に伸びている。意識のない体を見下ろし、ミハルは呆れたように言った。
「なんだ、また気を失ったのか。これしきのことで伸びていたらいざという時助からないぞ」
 その言葉も今の彼には届かない。ミハルはどうしたものかと伸びたシグマを見下ろした。



 まず始めに感じたのは日光の暖かさ。その次に顔を覆う布の感触。更に続けて柔らかい芝生を肌で感じたところで、シグマはようやく目を覚ました。覚ました途端に白い布が目に入る。タオルだ。どうやら顔に掛けられていたらしい。手でどけながらいやに重い体を起こすと、はらはらと赤い花が膝に落ちた。
 体の方にもタオルが掛けられていた。それは風邪をひかないためだとか、頭の方は日射病にならないためとかそういう理由があるのだろう。だが、庭で眠る大の男にこれはどうかと思ってしまう。
 布団のようなタオルの上には、赤い花と枯れたツタで唐草模様が描かれていた。庭に咲く別の花もさまざまに添えられている。ただ摘んで並べただけではなく、わざわざ花飾りとして編まれているのがまたにくい。頭の上には花冠が載せられていたらしい。黄色い花で編まれたそれは今は腹の上にある。ふと髪に手をやると、さされていた小さな花がはらはらと地に落ちた。
「…………」
 シグマは全身を花で飾られた状態のまま、ゆっくりとうなだれる。やはりこれは彼女がやったものなのだろうか。こんな遊びをするような人だとは思わなかった。というかどうしてあそこで殴るのだろう、そのせいで伸びたのに庭に放置されたのか……つらつらと考えながら見回すと、予想に反してミハルはすぐ側にいた。
 家の壁に背中を預けて地面に座り込んでいる。だが編みかけの花を持つ手は力なく垂れていた。
 ミハルはいつになく無防備な表情で、穏やかに眠っている。
「…………」
 声を掛けようとした口を閉じ、そのまま呆れた息をつく。暖かい日差しの下で眠る彼女がやけに幼く見えたのは、その手に掴んだ赤い花のせいだろうか。まるでいたずらを仕掛ける途中で眠りこけてしまったようだ。
 あれだけ大変な目に遭わされて、文句の一つも言わなければ気がすまないというのに、こんな風に眠られてはわざわざ起こす気も失せる。起きたら絶対抗議しようと心に決めて、今はひとまずそっとしておくことにした。自分に掛けられていたタオルを引いて、彼女の体に掛けてやる。
 シグマは思いついて転がった赤い花をかき集める。黄色いものも、紫色も。そうして両手いっぱいになった花飾りを、眠る彼女の上に撒いた。花たちははらはらとかろやかに降り積もる。そうして彩る赤、黄、紫。シグマは彼女の頭の上に黄色の花冠を載せた。落ちてしまった赤い花を、その側にいくつか並べる。鮮やかな色の花は黒髪によく映えた。
 シグマはやけに嬉しそうな顔をして、花を纏う彼女を見つめる。だが体の疲れを思い出すと、またもや眠気に襲われた。ぽかぽかと照らす陽が余計に睡魔を呼び起こす。シグマは大きなあくびをした。
 そして眠る彼女に倣い、それでも少し距離を置いて、壁にもたれて目を閉じる。
 魔力が抜けて疲れた体はすぐに沈み、彼は呑気な寝息を立てて幸せそうに眠り始めた。

 穏やかな春の陽気、遠くで聞こえる鳥のさえずり。
 暖かい午後の光を浴びながら、今はしばし花とまどろむ。