誰にでも、ひとつぐらいは答えられない質問がある。
「……はい?」
 耳に入ったばかりの問いがうまく把握できなくて、シグマは目の前の男に聞き返した。彼はベイカーさんと呼ばれる人で、シグマたちが所属している研究所の事務員をやっている。前々からそれなりに親しく雑談などをしてきた、人当たりのいい人間だ。
 しかし、なぜか、今日の彼は意味ありげな笑みを満面に浮かべていて、いかにも何か企んでいるような気配が痛いほどに伝わってくる。彼は笑顔のままに言った。
「いや、だからね。エイネスさんとはどういう関係なのかなって。最近ずっと一緒にいるでしょ、なんだか仲が良さそうだね」
「はあ、まあ……そうっすね」
 確かに、あの無表情で謎だらけな魔法好きの先輩とは、魔力塔に閉じ込められて以来ずいぶんとよく話すようになった。それどころか休日のたびに彼女の家で魔法についての研究をしているのだ。仲が悪いはずがない。シグマは深く考えずに答えた。
「まあ、仲がいいことはいいかもしれません」
「恋人として付き合ってるの?」
「こっ」
 すかさず出された質問に思わず言葉が大きく詰まる。いやに意外な問いを投げかけられたような気がして、なんだか妙に動揺した。恋人という単語があまりにもかけ離れた次元にあるような気がして困惑する。うろたえれば怪しまれてしまうと思い、懸命に平静を装って答えた。
「や、あの、別にそんなわけじゃないです。はい」
「じゃあ、どういう関係?」
「ど、どういうって……」
 シグマは改めて自分と彼女の間にある糸の形をたぐりよせて見つめてみたが、考えれば考えるほど回答に窮するばかり。
 単純に言えば先輩と後輩だ。学生時代、まだ出会ったばかりのころはほとんど話をしたこともなかったが、数年すると所属の講座が一緒になった。卒業しても就職先は同じ建物内だった。腐れ縁とも言えるため、仕事の部署が別々でも所内で出会えば話をする。
 その程度の知り合いのはずだった。あの日、二人揃ってノリスに拉致されるまでは。
 それが今では相手の家でほぼ半日以上を過ごし、手製の料理をご馳走になる関係である。だがその間に、いい雰囲気になるどころか色恋沙汰に繋がるようなきっかけすら皆無なのが現状だ。
 さて、それをどう説明すればいいだろうか。
「なんというかですね、友達……とは違うような気もするし、でも恋人ではないわけで。ええと、知人ってほど遠いわけでもないんすけど」
 考えてみればかなり奇妙な関係だった。既成の言葉が何ひとつあてはならない。どれも、ほんの少しずつだけずれているような気がする。友達ではない。恋人でも、他人でも。
 もやもやとした未消化の気分が体中に広がっていく。納得のいかない気持ちが胸を満たす。
 結局は、間違いではない単純な事実を主張した。
「まあ、先輩と後輩ですね」
 二人の気配を何もかも削ぎ取って、最後にぽつんと残ったような寂しげな言葉だと思った。
「そう。じゃ、今付き合ってる人はいないんだね」
「え、俺ですか? ……はい。一応」
 はっきりと断言するのに一瞬だけ躊躇した。しかしそのひと言だけでも相手にとっては十分に安心のいく結論だったらしく、ベイカーの親しみあふれる表情はにっこりと笑顔を作る。
 ただし、若干の好色じみたものを交えて。
「やあそれは丁度良かった。いやホラ今そこの美術館でアントニウム展やってるでしょ。そのチケットがあまってて。うちの娘を連れて行くには向いてないし、家内は興味ないって言うし。それで明日までなんだけど誰かあげようかって言ったら、うちのポリーくんが行きたいって言ってねえ。でもチケットは二枚あるし、女の子一人で行かせるのも寂しいかなと思って。ね? いやあ彼女ものすごく恥ずかしがりやでねえ、僕も直接誘えとは言ったんだけど、それならいいですなんて顔真っ赤にしちゃって可愛くてねえ」
 あっはっは、となんだかやけに楽しそうに笑いながら、彼は小さな紙を出した。
「で、明日予定がないんだったら、どうかな」
 すみませんこれは何かの罠ですか。
 シグマは呆気に取られた気分で差し出されたチケットを見る。
 そういえば事務室に行くたびに、ポリーという子がやたらとチラチラ視線を送ってくるとは思っていたが。どうせただの思い上がりか考えすぎだということで、あえて甘い期待などは抱かないようにしていたのだが。事実、思い違いで痛い目にあった経験もあるため気のせいとして処理していたのだが。
「そんな重く考えなくてもいいんだよ。気楽に受け止めてもらえれば。遊びに行くだけ、ね?」
 ベイカーは男女の仲を取り持つもの特有の絶妙な笑みを浮かべている。
 あのやっぱりここまで言われても何か裏があるようにしか思えないんですけど。俺はちょっとかわいそうなひとなのでしょうかベイカーさん。
 悪友によって起こされた学生時代のあれこれを脳裏に浮かべながら訊きたくなるが、それを形にする前に一つの事実を思い出した。
「あ、でも明日は空いてなくて……ちょっと、用事が」
 明日もまたミハルの家で魔法の研究をする予定になっている。
「えー、でもこれ明日までなんだよ。どうしても空けられないのかい?」
「はあ、そっちの方が先約なんで……」
 その先約の内容を尋ねられたらどうしようかと悩んでいると、聞きなれた声に呼ばれた。
「シグマ」
 ぎくりとして顔を向けると、すぐ側にある曲がり角からミハルが顔を覗かせていた。相変わらずの無表情で、ちょっと、という風に手を招く。シグマはベイカーにすみませんと囁くと、彼女の元に駆け寄った。
 手招きで曲がり角の向こう側まで呼び込まれる。ベイカーからは死角になる場にたどりつくと、ミハルは手を下ろして言った。
「明日の約束は取り消せ。気にせずに行ってこい」
「はい?」
 周囲を気にする囁き声にこちらも自然と声を落とす。ミハルは真面目な顔をしている。
「折角なんだから。断るのも勿体ないだろう」
「聞いてたんすか」
「聞こえたんだ。あんな廊下のど真ん中で話し込むな。邪魔になる」
 その無表情に見える顔に、ほんの少し不機嫌な色が混じるのを感じることができる者は、おそらく何人もいないことだろう。シグマは彼女の言わんとしていることを察し、気まずいままに苦笑した。確かに通り抜けようとした場所で自分が話題に上っていれば、おちおちと出て行くこともできない。
「すみません、なんか乗せられちゃって。でも明日は」
 言いかけた言葉をさえぎり、ミハルは静かな口調で告げる。
「いいから。どうせ急ぐことでもないんだ、新しい発見もそろそろ出尽くした。第一、ここ最近の休みは全部これで潰しているんだろう?」
「でも」
「気にする必要はない。別にお前はそう毎回来なくてもいいんだから」
 はっきりと言い切られたことで、いくらかの反発心が湧き起こった。
 シグマは顔が不機嫌に歪むのを隠しもしないで言い返す。
「要らないからハイそうですかと遊びに行けって言うんすか。別にそこまで先輩に指図される筋合いもないでしょう。休みの日に何をするのも全部俺の勝手じゃないすか」
「別に行けと強要したわけじゃないだろう。お前が行きたいなら行けばいいし、行かなくてもいいと伝えただけだ」
「言ったじゃないすか行ってこいって」
「それはそういう言い方をしただけで……折角の話なんだし、断るのも勿体ないだろう」
「ほら言ってる。じゃあ先輩は俺に明日あの子と遊びに行ってほしいわけですね」
 苛立ちのまま語尾がいやに強くなる。ミハルはいくらか戸惑う様子でこちらを窺うように言った。
「何を怒ってるんだ。嫌がるような条件でもないだろう?」
 何を、と言われても原因は一つでしかない。
「……なんでそんなに勧めるんすか」
 多分、もしかしなくても、こちらに好意をもっている女の子との一日を。
 ミハルはしばし黙り込むと、怪訝にこちらを見つめて言った。
「いい子じゃないか」
 どうして承諾しないのか分からないといった表情。
 それを見た瞬間に、なんだかとてもやるせない気持ちになって、シグマは言葉を詰まらせる。
「……じゃあ、わかりました。行ってきます!」
 押し出した言葉が荒れたのはなぜだろうか。吐き出した口が固く結ばれたのはなぜだろうか。
 言うまでもないその理由を痛いほどに感じながら、振り向きもせずその場を去る。
 明らかな形で浮かび上がった感情をどうしようもなく持て余しつつ、シグマは早足でベイカーの元へと戻った。




 早起きをする気分にはなれなくて、ミハルは彼女にしては珍しく二度寝をした。次に目が覚めたのは正午前だ。朝食を兼ねた昼食を取らなければと考えて、面倒な気分になる。
 一人分の食事の準備はどうしても手を抜きがちで、摂取するべき栄養をうまく取り入れることができない。何よりも切実な必要性を感じない。普段ろくなものを食べていない者に肉や野菜を食べさせるのなら、それなりにやりがいもあるのだが。
 考えても仕方のないことをつらつらと流しながら、ゆっくりと体を起こす。
 予定の消えた静かな休日。取り消したのは自分からだ。彼に起こった小さな縁を尊重し、大事にするよう本人に言い伝えた。縁談と言えるほどのものではないが、何らかのきっかけにはなるかもしれない。それはまっとうな生き方の形だ。少なくとも、こんな奇妙な実験や研究に引きずり込んでしまうよりは。
 適当な普段着に着替えながら、怒っていた彼の姿を思い出す。苛立ちの理由を言いたくても言えないような、喉の奥に何かが詰まったような表情。
 駄目だな、と心で呟く。そんな顔をしていては、駄目だ。
 ポリーという女の子に気を遣ったつもりはない。彼女だから勧めたというわけでもない。ただ休日のたびに彼の動きを縛るのはいいことではないと思った。だから約束を取り消した。
 自分が一般的な女性の道を踏み外している自覚はあるが、それを直すつもりはない。人を遠ざける性格や性質を改善しようとも思わないし、踏み外したなら踏み外したまま進もうと決めている。幸いにそれで困ることはない。生活も今のところは安定している。
 だが、シグマまで生き方をおかしくするのはよくないと考えている。
 ここ最近は職場でも同じ場所で過ごすことが多くなった。休日はこの家に集まって、それぞれが古代文字の解読や文献の調査に時間を費やしている。いつの間にか空いた時間のほとんどを二人で過ごしていることに彼は気づいているのだろうか。
 ミハルはまた心の内で、駄目だ、と呟いた。
 お前は休みの日ぐらい何か別の生き方に触れていなければならない。
 こんな、おかしな女に関わっていてはいけないのだ。
「…………」
 一日を無為に過ごす支度だけは整って、それでも何か行動する気にはなれなくて、結局はソファの上に寝ころんだ。気力があまりにそがれている。食事すら取る気になれない。
 いまさら一人で趣味の調査に打ち込もうとも思わなかった。書庫に繋がる廊下を見つめる。あの中に入ったところで彼のことを思い出してしまうだけだ。効率よく本を読めるような気がしない。今はいないもう一人が頭の中にちらついて、邪魔をするに違いない。
「…………」
 落ち着かない感情を抱えたまま誰もいない食卓を見る。誰もいない部屋を眺める。
 ミハルは手のひらで顔を覆った。呆れまじりの息をついた。
 ――寂しいのか。いまさら、こんな歳にもなって。
 自覚すると落ち着かなくてゆっくりと身を起こす。続く動きが解らなくて、またどさりと体を落とす。それでもじっとしていることができなくて、意味もなく起きたり寝たり、立ってみたり座ったりを繰り返した。
 馬鹿だな、自分が言ったことじゃないか。あの時ああして約束を取り消したから、こんなことになるんじゃないか。光のない思考が自責にまでたどりつくと、またひとつため息がもれる。
 窓から見える外の景色はいやに明るく晴れている。差し込む日差しはやわらかいが、暖かみは感じられない。想像は、彼がいま過ごしているであろう状況にまで伸びていく。
「…………」
 何よりも自分自身の思考回路が嫌になって、閉じた目を両手で覆った。
 だから、自分が、こういう状態になるようにしたんじゃないか。
 そうすることが彼にとっていいのだと思ったからこそああやって。
 だが、さっきから何度も同じ思考を繰り返している。
 まるで自分に言い聞かせでもするように。
「……駄目だな」
 ミハルは小さく呟いた。
 その時、唐突な人の気配が家の外から伝わった。
 がばりと身を起こすと同時、玄関の呼び鈴が鳴る。驚く心と裏腹に、体の方はほとんど勝手に動きだして素早くドアの鍵を開けた。
「……どうした」
 静かに開いたドアの向こうで、シグマは気まずそうに笑った。
「いや、まあ色々とありまして。入ってもいいっすか」
「ああ、うん」
 そう答えはしたものの握ったノブが手を離れない。ミハルはその気になればすぐにドアを閉じられる格好で立ちつくす。シグマは簡単なことで閉めだされてしまう位置で、複雑そうにこちらを見つめる。
 今自分がどれほど無防備な表情をしているか、ミハル自身は気づいていない。
 呆然としている自覚はむしろ胸のうちにあった。らしくもなく現状の把握に時間がかかっている。
「どうしたんだ」
 ぼんやりと固まった姿勢のままで、繰り返し尋ねてしまった。シグマは言いづらそうに答える。
「まあ、なんというか、一応行くことは行ったんですよ。美術館も見て回ったし。でも、なんかこう……居心地悪くて。気が重いような喋りづらいようなでやたらと疲れて。それで、まあ…………断りました」
 何をどう断ったのか訊かなければいけないほどに鈍感なわけではない。
「……それで、なんで今ここにいるんだ」
 だがこの場の状況と即座に繋げられるような、前向きな思考は持ち合わせていなかった。
「えー、いや、なんでと言われましても。なんででしょう」
 シグマにしても、ここで強く言い切れるほどの自覚もなく度胸もない。
 だから、結局は、何ひとつ確かな形にたどり着くことはなく。
「なんか、来たかったんです」
 あいまいにごまかすようなゆるい笑みだけが浮かんだ。
「いいっすか、上がって」
「あ、ああ」
 ミハルは今度こそドアノブから手を離し、シグマを中に迎え入れる。彼が近づいたとたん、遅まきながら暖かいものが胸のうちから湧き起こった。慌てて彼に背を向ける。一歩先を歩いていく。
 口元がどうしても緩んでしまってしかたがなくて、悔しい気分で頬を押さえた。
 彼女がなぜそうしているのか察しとり、シグマもまた嬉しそうに頬を緩める。できるだけそのことには触れないように、中核をわざと避けるように、気さくな言葉を投げかけた。
「押しかけてきて申し訳ないんすけど、なんか食べるものもらっていいすかー?」
「なんだ、食べてこなかったのか」
「や、ろくに食べられなくて。慣れない状況があまりにも居たたまれなくって。ベイカーさんかなり色々仕組んでましたよー。食べる店まで決められてて、ものすごく不自然でした。気ぃ遣いすぎてぎこちなくて大変で。だから、なんかこっちに来たいなー、と」
 ミハルはふと立ち止まる。
 軽くシグマの方を見ると、嬉しさをごまかすように、呆れまじりの笑みを浮かべた。
「駄目だな」
「駄目っすよねえ」
 シグマもまた同じように笑う。
 浮かぶのは同じ感情。表情も内心もぴたりと繋がる確かな共感。
「勿体ない。もっとうまくやればよかったのに」
「本当っすよね。あー、なんかすごく損した気がします」
 口を付くのは、本心からではないことを前提にした台詞遊び。
 言葉とは裏腹に、嬉しそうに笑いながら二人は部屋へと入っていった。