初めて見た時は、正直に、すごく綺麗な人だと思った。 それは正確には「すごく綺麗な彼女だな」で、本人よりもむしろ隣に立ってにこにこと笑っている知り合いに向けた感想だった。彼は昔から随分と自分に良くしてくれる学校の先輩で、今日にしてもたまたま道で出くわしたと思ったら、あちらは恋人連れだったのだ。 こちらといえば色気もなく男ばかりが三人連れで、夏の日差しに焼かれるばかり。 溶け出しそうにだらけた空気が急激に色めきたち、それぞれが盛んにひやかしの言葉と視線を浴びせかける。先輩はまんざらでもなさそうに笑っていた。だが彼女の方はにこりともしていない。 初めは、暑さから不機嫌になっているのかと考えた。束ねもせずに背に流した黒髪が、随分と暑そうに見えたのだ。若干長く思えるスカートもこの気温には適さない。 斜めに差された黒い日傘が眩しい光を遮っている。レース模様に形取られた影の中で、彼女は物言わずこちらの目を見た。道に並んだ三人を、一人ずつ順番に。 まっすぐに向けられた瞳は何も語りかけてこなかった。ただの、黒い石に見えた。 先輩に、それでこっちは――と突然名指しで紹介されて、慌てて軽く頭を下げる。そしてまたふと目をやって、ひどく違和感を感じた。やはり、表情がない。綺麗に整った顔はぴくりとも動かない。 こういう場では笑顔なり何なりを見せるものだという、自分なりの常識が不可解に歪んでいった。 先輩は少し苦笑して、「まったく……」と呟くと彼女の肩を軽く叩く。諦めたようなそれを見て、ああこの人はこういう人なのか、とぎこちない納得をした。こういう、少し変わった人なのだ。 二人が遠く去ったあとで、連れ立っていたうちの一人が「人形みたいだ」と呟いた。 どこか怖れを含んだそれに、その場にいた全員が一斉に頷いた。 一年後、それとは全く無関係に父親が他界した。 それもただで消えるのではなく、大量の借金と親戚間の問題を押し付けて。 その日を境に生活が、住む場所が、ついでに名前までもが変わった。新しい名前はシグマという。平凡な字面のくせに、どういうわけだか世襲制で百年以上も継がれてきた鎖のような名前だった。 この時ほど兄弟がいないことを忌々しく思ったことはない。役所にまで申請してしまったので、今までの名前はこの世から消えてしまった。初めは混乱していた友人たちも、何年かすると前の名前のことなんか忘れてしまったように思えた。 そんな風にいろんなものが時を経て馴染んでも、生活は楽にならない。 赤貧のまま訪れた夏の始めの日照りの日。空腹と疲労の体は日光の力に負けて、とうとうばったり倒れてしまった。柔らかい芝生も熱を受けてやたらと暑い。時間帯が災いしてか人の姿は見えなかった。 ああ俺は校内で干からびる、せっかくここまでやってきたのに。とめまいの中で思っていると、す、と日差しが急に消えた。目の前が真っ暗になる。ひんやりとした感覚は貧血か、しまったとうとう気絶して……。と、考えるか考えないかのうちに今度は水が降ってきた。大量の、冷水が。 ざばあと派手な音を立てて頭からずぶ濡れになる。驚いて目を見開くと薄い影が日を遮ってくれていることに気付いた。見上げた先には黒い日傘とどこかで見た顔がある。動かない人形のような顔、物言わぬ黒い両目。以前と違って短く切られた黒髪が輪郭の側でさらりと揺れた。 久しぶりに出くわした“先輩の彼女”は空になったバケツを抱え、こちらの顔を見つめて言う。 「なんだ、お前か」 もしかして確認もせずにやったのかと考えて、頭がとても痛くなった。 「暑気あたりか」 「はあ、多分」 びしょ濡れのまま近くの木陰に避難して、どういうわけだか向かい合わせで地面に座り込んでいる。よくわからない状況に頭がうまく回らなかった。水差しを出されて受け取って、飲んでみるとわずかに塩が混じっていた。あらかじめ用意された適切な処置に困惑する。 ぼんやりと彼女の名前を思い出そうと努力したが、どうしても確信が持てなくて口にできない。 「……先輩」 「何だ」 あっさりと返されて、この呼び名で十分なのだと安堵した。だが続いて何か言わなくてはと気がついて、苦し紛れに口を開く。 「なんでこんなの持ってるんすか」 水差しをよく見てみると、達筆な字で「生理食塩水」と記されている。 彼女は顔色一つ変えず、当たり前のように言った。 「教室の窓からお前が倒れているのが見えた。バケツの方は防火用水だから飲用には向いていない。とりあえず側にあったこれを飲ませようと持ってきた」 よどみもなく迷いもなく、筋道を的確に追う安定した喋りだった。全くの説明口調だ。 「それなら普段から飲んでるだろう」 いや普通は飲みませんが。 と言おうとして、そういえばこの人にはそんな噂があったようなと今更ながらに思い出す。 物を食べているところを見たことがない、生理食塩水だけで生きているのではないか。表情がない、どこに住んでいるのかも解らない。年数からして卒業しているはずなのに校内で見かけるし、やたらと神出鬼没なためにどこかの教授が製造している機械人形なのではないか。そんな馬鹿げた冗談が学年内では横行していた。 そういえば本当に機械みたいだ、と改めて冷や汗をかく。初めてまともに聞いた口調もなんだか女性らしくなく、ぴくりともしない顔もやはり人形じみている。 あまり動きを見せない瞳がじっとこちらの顔を見つめた。 「顔色が悪い。栄養が摂れていない」 「あ、はい。ちょっと……色々と」 「借金があるんだったな」 誤魔化そうとした語尾をあっけなく覆される。 唐突な切り返しに、ささやかな自尊心を爪で弾かれたような気がした。 「なんでそれ……」 「よく喋るやつがいる。もうただの他人だが」 表に浮かびかけた嫌悪はその発言で意気を失う。今日、始めて聞く事実だった。 「え。別れたんすか、先輩と」 「この間な」 ぶしつけな質問かと言った後で気付いたが、彼女は気にする様子もない。 面倒そうに、短くなった髪を掻いた。 「おかげでいやに涼しくなった。忘れていた、髪を切れば涼しいのか」 もしかして、そのせいで暑いという自覚もなく髪を伸ばしていたのだろうか。そんなばかなと言いたくなるが、目の前の人に冗談を言っている気配はない。今日はいつかの服装の何倍も涼しげで、ついでに言えば適当だった。そのあたりのものをどうでもよく着込んだような、楽そうなシャツとズボン姿。人形じみた、まるでたんすの上に並べられていそうだった以前の服とは大きく違う。 無意識のうちにじろじろと見つめていたのだろうか、静かな目で見返されてぎくりとする。 「……あれは、昔からあんな趣味だったのか? 着せ替えじゃあるまいし、自分好みの服や何やをとっかえひっかえ持ってきて……」 あれ、というのが別れた男を指していると把握するのは一瞬だった。ここにはいない彼をかばうような、気まずい苦笑いを浮かべる。 「あー。そういえば、前にそんなこと言ってました。『彼女が出来たらいろいろ着せてみたいなあ』とか」 何気ない発言だったために今の今まで忘れていたが、なるほどそういうことだったのか。 しかし何年もその遊びに付き合っていたということは、この人は意外にも惚れた相手に従順に尽くす女なのだろうか。 「そうか。今度会ったら『涼しくなったのはいいが、毎朝服を決めるのが面倒だ』と伝えてくれ」 そうではなくて単にとても無頓着なだけなのだと知らされた。 なんだかとても色々と言いたいことが渦巻くが、知人と言えるかどうかも怪しいほどの間柄で、あれこれと口を出すのはどうかと思って心の中に閉じ込める。そういえば、話すことも特にない。 「あの、ありがとうございました。そろそろ行きます」 居たたまれない沈黙が降りる前にと立ったところで、血の気が引いた。景色が眩む耳鳴りがする、足元が柔らかく沈んでいく。またたく小さな光と共に重い闇が降りてくる。やばい立ちくらみだまたもや倒れる。と感じた瞬間柔らかい腕が胴に回り、気が付けば体は彼女にしっかりと抱えられていた。 いやなんでそんな力強いんですか先輩。 「無理をするな、どうせ空腹なんだろう。何か食べさせてやろうか」 確かに昨日からろくなものを食べていない。だがそう言われて素直にハイと頷くのは間違っているような気がした。よく知らないただの通りすがりの他人に、年上とはいえ二つしか離れていない女に、と吹けば飛ぶよな自意識が頷くなと咎めている。 なんだかろくな食べ物を出されないような気もするし。機械用のオイルとか。 「いや、だいじょぶです」 まだくらくらとする頭を横に振って言うと、呆れまじりの息をつかれた。 「奢られるのが嫌でもとりあえず何か食べろ。意地を張って死んでどうする」 「うわあああ、先輩、ちょっ、引きずっ、うわあああ〜?」 ものすごく強い力で有無を言わさず腕を引かれ、ふらつく足でなんとかそれを追いかける。 「金がないならいい場所を教えてやる。行こう」 それは教えるというより強制連行なのではないか、と言いたいけれども出ない言葉が頭の中をぐるぐる回った。 到着したのは学校裏のささやかな野原だった。夏の眩しい光を浴びて、青々とした雑草がこれでもか、これでもかと言わんばかりに伸びている。触れたらとても固そうだ。ゆるく垂れたあたりを曲げればぱきりと折れて、緑色の汁が出てくるような気がする。 くっきりと濃い建物の影に座らされ、広げた日傘を渡された。 「落ち着くまでそこにいろ。ひとまずは見本を摘むから」 摘む、と聞いて現在の趣旨を理解した。もしかして、もしかしなくても。 「草食えって言うんすかー?」 「そうだ。金はかからないだろう」 そうだけどそれはあまりにも貧窮が過ぎるというか。そう反論しようとしたが、現在の自分の経済的な状況が、確かにそこまで切羽詰っていることを思い出して黙り込む。 意味もなく日傘の柄をもてあそぶ。傘自体をくるくると回してみる。 名前も知らない先輩は、真昼の日に照らされながら草の中にしゃがみこみ、相変わらずの無表情で雑草たちを見極めていた。真剣な目つきをしているわけでもなく、ただ当たり前のことをしているだけというように。 その中は焦げるような熱気に満ちているはずだ。 物陰で開いた日傘が、どうしても手に馴染まない。 白木の柄を握りしめて立ち上がった。 「平気か」 訪れた影にこちらを見上げ、彼女は感情の見えない目を向けて言う。 「はい。大丈夫です」 それを見て、やっぱり人形みたいな人だ、と思いながら傘を渡した。 「じゃあよく見て覚えろ。これはニツバソウ、根っ子以外は茹でさえすれば食べられる。この黄色い花が咲いているのはハヤシグサ、こっちは球根が比較的食べやすい。これは……」 名前も知らない人形みたいな先輩は、一つ一つ摘んではこちらの手に渡す。夏のせいかやわらかい印象の花はなかった。青く強く繁る葉に負けないように、小さいながらも鮮やかな色を見せている。青、紫、濃い黄色。彼女にはよく似合って見えた。ふわふわと広がるような、淡い色の花よりもずっと。 夏の花は一つずつ、確かな手つきで摘み取られる。 同じぐらいにはっきりと聞こえる声が全ての名前を呼んでいった。チダ、ヒスジ、マツヨソウ、センカバナ、ミスガヤツイ、ハンノイデ……。 こんなにも色んな種類が生えていたのかと思う。雑多な緑色の塊から、名前のある植物が一つ一つ判別と共に現れてくるような気がした。ただの雑草などではなく、一つの確かな存在として。 「先輩、ちょっと訊いていいすか?」 並んで手元を眺めていると、たくさんの花と同じぐらいに聞きたいことが増えていく。 どうしてこんなに食べられる草に詳しいのか。この場所を知っているということは、摘みに来たことがあるのか。まるで料理ができるような気がしないけど、意外にできるものなのか。 生理食塩水以外のものも口にするのか。卒業しているはずなのに、なんで毎日学校で見かけるのか。別れた理由は何なのか。この日傘もあの人にもらったものなのか。 ……あなたはどういう人なのか。 「何だ?」 様々な質問は、その目で見つめられた途端に口にする候補を降りた。 「すみません、名前、何でしたっけ」 「ハンノイデ」 「いや花じゃなくて、先輩の」 気まずいままに訂正すると、ああ、と心得たように言う。 「ミハルだ。ミハル・エイネス。知らなかったのか」 「いや、俺人の名前覚えるの得意じゃなくて。何年も前に一回聞いたきりですし」 校内では大抵の場合『あの人』だの『歩き人形』だので通じていたので改めて耳にすることもなかったのだ。ミハル、と頭の中で何回も復唱する。 名前を知れば、今までとは違う存在として浮かび上がるような気がした。 彼女は嫌そうな顔をするでもなく、平然と受け止めている。 「それもそうだな。私は覚えているが」 そして自分でも忘れかけていた名前を呼んだ。――耳を疑う。 「どうした。違ったか?」 彼女はこちらを見てわずかに怪訝な顔をする。 驚いた顔をなんとか静め、呑んだ息を押し戻すようにして言った。 「……あー……今は、それじゃないんです。家庭の事情で、改名して」 まさか、ここで、前の名前を呼ばれるとは思ってもいなかったのでやたらと驚いてしまった。心臓が落ち着かない。脈拍が速まっているに違いない。 「そうだったのか。それは聞いてなかったな。新しい名を教えてくれるか」 質問と共にあの瞳で見つめられ、思わず名乗ることをためらう。 この人にはいつまでもその名で呼んでほしいと思った。生まれてから十数年使い続けた、他の誰でもなく自分自身をあらわしていた名前を。 だがそんなたわけた願いを告げることはできなくて、結局は今の名を口にした。 「シグマです。シグマ・グイエン」 「そうか。短くなったな」 「あの」 呼びかけて、草へと戻った彼女の視線を引き戻す。出した声はどこか必死な色を持った。 「覚えていてくれませんか。俺の、前の名前。頭のどっかで覚えてるだけでいいんです。じゃないとほら、もう書類にもどこにも残ってないし」 この世から自分と共にそれが消えてしまうようで。 「……俺自身が忘れちゃいそうなんで」 恥ずかしくてさすがにそれは言えなかった。 彼女は意表をつかれたようにじっとこちらを見つめると、ふ、とかすかに息を吐く。 そして呆れたような笑みを見せた。 「忘れるわけがないだろう。お前のために誰かがつけてくれた名だ」 初めて見せた表情らしい表情に、失礼だとは解っていても、 あ、人間だ。と思った。 「どうした?」 思わず笑うと不思議そうな顔をされる。別に何もと軽く答え、今までよりも解りやすく明るい声で食べられる草の解説を促した。彼女もまたそうかと言うと、一つ一つ草を摘んでは調理法を並べていく。 不思議なことに、その喋り方も、仕草も、変わらない表情でさえも印象が変わってみえる。 ただ名前を教えあっただけなのに、彼女の姿が今までとは違うように見えはじめた。 もう、人形のようには見えなくなっていた。 それから数年後、彼と彼女は奇妙な探検をするはめになるのだが、彼らはまだそれを知らない。 |