安っぽい木のドアを開けて、見て、そして思わず閉じようとした。 だが続いたのはバタンという音ではなく力強い無音の抵抗。予想外の地点で止まったドア越しに見つめられ、静かな声で問い掛けられた。 「なんで閉めるんだ」 「いやいやいやすみませんつい思わずっ。他意はないです本当です!」 焦る気分を感じつつもシグマはドアを離さない。ここで手を離してしまえば蝶番が外れるほどに勢いよく開かれてしまいそうな気がして、端を掴むカリアラの手とその表情を交互に見つめた。夕暮れの唐突な客人はいつものように平然とした顔をしている。まさか抵抗してもしきれないほど強い力で戸を引いているようには見えない。 「うわ強! なんでそんな力強いんすかカリアラさん!」 「お前が弱いだけだ。ミハルの方がまだまだ強いぞ」 「ああー、それはそうかも! ってそうじゃなくて離してくださいって!」 願うと同時に抵抗はふつりと消えて、出入り口は密閉される。勢いよく締まりすぎてしまったので、安普請の下宿の壁は不吉な音を立てて震えた。恐怖心と戸惑いが相乗効果で身に迫る。 さて、どうすればいいだろうか。 大人しく沈黙するドアの向こうから、コンコンコン、と礼に即した綺麗なノック。 まるで宥めかけるような、わざとらしい呼びかけが後に続いた。 「グイエン、入れてくれー」 この見た目にそぐわず二百歳近い男はなぜか彼を苗字で呼ぶ。シグマはいつも通りの耳慣れなさを感じつつ、どこか諦めたような気分になって、仕方なくドアを開けた。 「……入れますけど。なんすかその荷物」 カリアラは両手に抱えるほどの大きな袋を持っている。膨らみ方からいって、枕と着替えとその他諸々。どういうわけだか飲み物も持参のようで、色のついた瓶の先が小さく頭を見せていた。どちらにせよ、どう見ても今日明日帰るような荷物ではない。 「追い出されたんだ。しばらく匿ってくれ」 平然と告げられた要請で、憶測はぴたりと事実に繋がった。 シグマは面倒そうに眉をひそめ、まっすぐに見つめてくるカリアラの目と大きな荷物を確認し、部屋の中にどのぐらい空いた場所があるか、寝かせる場所はどうするか、見られて困るものはないかを素早く考え、最終的にはため息まじりの声で言う。 「……はい」 「そうか。助かる」 カリアラは普段はあまり動かない顔をぱっと明るい笑顔に変えると、嬉しそうに部屋の中へと入り込んだ。別にしていた小さな袋を狭い部屋の主に渡す。 「ほら、食糧と酒持ってきてやったから」 「あーもー全然呑めないくせに」 「お前は呑むだろ。手土産だ」 紙袋の中の酒は結構な値段のもので、更に言えば量もあった。この人は毎回毎回一体どこから資金を調達しているのかと不思議になるが、訊いてしまえばろくでもない事情を説明されそうで、恐ろしくて口にはできない。彼はいつも平然とこちらの常識からは予測できないことばかりしでかすような人なのだ。 シグマはその得体の知れないアーレル人を先導して歩きながら問う。 「追い出されたって、何やったんすか?」 カリアラは普段からミハルの家に入り浸っていて、泊まることも珍しくない。むしろ彼自身の住処にいることの方が少ないぐらいだった。いくら家が広いとはいえ男女揃って二人きりで平気なのかと尋ねてみても、特に何も、と呆気なく答えられるだけ。無表情でどこかよく似たこの二人の関係は、シグマには理解できない不思議な部分がいくつもあった。 とはいえ彼は普段から突拍子もないことをしてはミハルに文句を言われているし、また何か奇妙なことをやらかして、今度こそ愛想をつかされてしまったのだろうかと考えたのだ。 だがカリアラはあくまでも平然と、当たり前のように言った。 「俺がいると邪魔だから出てきただけだ。今夜は男が泊まりに来るからな」 少しの間、時と思考が停止した。 無意識の歩みを止めたのはゴンという鈍い音と熱い痛み。若干低い入り口にぶつけてしまった額を押さえて屈みこむと酒の袋が床に落ちた。 「いったたた、あーあーあー!」 小さめの瓶は音を立てて年季の入った床を転がる。カリアラが屈んだ側をひょいと越えて散らばったそれらを拾う。 「前から思ってたんだけどな、お前の家、身長に合ってないぞ」 「いや知ってますってそんなこと。ああもう痛ってぇ、久々に打った」 ぶつぶつと口の中で文句などを呟きながら、シグマもそれを手伝った。 酒の瓶はそれほどの数でもないが、一緒にして入れられていたつまみの類が予想外に遠くに飛んだ。二人揃って黙々と拾っては袋に戻す。 「……あの、その、泊まりに来る男ってのは……」 「父親だ。休暇だから両親揃って一週間ぐらい戻ってくるんだ」 「ああ!」 その声は安堵の息と共に出た。シグマはホッと緩んだ顔で独り言のように言う。 「ああそうっすよね、あーはいはいなるほど。なるほどー」 「そうだ。安心したか」 「はい」 同じように笑顔となったカリアラの質問に、迷いもなく答えたところで腕をがしりと掴まれた。 「さて。お前がどうしてそこまで動揺して安堵してるのか、今日はじっくりと聞かせてもらおうか」 「うわー! はめられた!?」 カリアラには普段からミハルをどう思っているのかしつこく問い詰められている。一時期とはいえミハルの父とも言える彼は、罠に掛かった間抜けな得物を見るような、優しい笑顔で強く腕を引いていく。 「グイエンは本当に面白いなあ」 「もしかしてそのために来たんすか今日! ねえ!」 「何言ってんだ、今日だけじゃないぞ。しばらくは覚悟しろよ」 「ああああしまったー、しまったー!」 入れてはいけない類の人を踏み込ませてしまったことに後悔を覚えながら、一番広い部屋の中へと連れて行かれて座らされる。向かい合わせにカリアラも座り込み、二人揃って対面する形となってしまった。シグマは心の底から逃げたいと感じるが、そうなれば痛い目に合わされるのは間違いない。 嫌な汗をかきそうなほどに追いつめられた彼を見て、カリアラは穏やかな調子で告げた。 「グイエン、これだけは誤解しないでくれ。別に俺は“昔のシグマ”に殴られたとか、刺されたとか、存在自体を根底から否定されたとか、手負いなのに蹴り飛ばされたとかそのまま坂道から落とされたからお前を苛めてるんじゃないぞ」 何やったんだ俺のご先祖。と感じる隙もなく、カリアラは真剣な顔できっぱりと言った。 「純粋に、お前の反応が面白いから遊ばせてもらってるんだ」 「真顔で!」 まっすぐに見つめてくる彼の目に曇りはない。心からそう考えている方が何倍も手に負えないことに気付いているのかいないのか。カリアラはそれだけ言うとあっさりと身を引いた。 「まあ長丁場だ。面談はじっくりと進めようか」 「一体いつからこんなことに……」 「お前は人が良すぎるからな。多分強盗が相手でも素直に従うんだろうな」 強盗ならここにいますが。と言おうかどうか迷ったが、口にしても何ひとつ有利にはならないことを知っているので黙り込む。そのかわり、ほとんど独り言に近い愚痴を吐く。 「別に先輩の家追い出されても、自分とこの下宿にいればいいじゃないすか」 「それはそうなんだけどな。でも、あそこは場所が悪かった」 カリアラは背を向けて、荷物を整理しながら答えた。淡々とした口調で続ける。 「山は駄目だな、静かすぎる。今度はもっと騒がしい所にしたい」 新しく暮らし始めた住処は昼間は人の気配がするが、夜になるとそれも絶えて、水の中に沈めたような無音になると聞いている。それを告げるミハルの顔が、いつになく心配そうだったことを思い出した。 百年以上独りきりで閉じ込められていた彼は、今でも静かな場所を怖れる。 ミハルは、その部屋の中にいると、まるで自分以外には誰もいないように感じるのだろうと言っていた。 何か言おうと口を開き、出すべき言葉が見つからなくてまた閉じる。どうすればいいのだろうと悩んでいると、カリアラはこちらを見て少し笑った。 「お前は人が良すぎるな」 呆れをひそめた暖かい表情だった。 幼いわが子を見つめるような、そんな優しい目をしていた。 「……あなたにだけは言われたくないんすけど」 あまりにも人が良すぎるこの男には、彼だけには、言われるべきではないと思った。 不機嫌そうに眉を歪めるシグマを見て、カリアラはまた笑う。 「少しの間、よろしくな」 「ええもう。どうせここ賑やかですから」 答えた口はほんの少し甘く緩んだ。 言ったそばから向かいの家の夫婦喧嘩が喧騒となって入り込む。夜になれば若者たちが往来を騒ぎながら歩いていくし、隣人はなにか奇妙な歌を歌い始めることだろう。何をどう間違っても孤独を感じることはない。 「すごいな。よく聞こえる」 「ここ、壁が薄いんで。昨日も大変だったんすよー。上の人がですね……」 そのひとつひとつを面白おかしく喋りだすと、カリアラは嬉しそうにそれを聞いた。 さまざまな生活の気配が空気と共に流れ込む。よその家の夕食の匂い、食事前の小さな喧騒。開いた窓から飛び込んでくる諍いの声、外で子供がはしゃぐ音、道を行く人の気配と話し声。 シグマの話を聞きながら、カリアラは薄い壁に背を預け、微笑んだまま目を閉じた。 まるで、今、人と共にいることを確認しているかのように、じっと耳をそばだてた。 |