飽きるほどに繰り返した魔法的な実験にどうやら疲れていたらしい。部屋の鍵をミハルの家に忘れたと気づいたのは、下宿に着いて、大家から呼び出され、最近設置されたばかりの電話機越しにミハルに言われてからだった。取りに来るかと訊かれたが、体の端々に重りを括りつけられているようで、シグマは思わず否定する。すると今からそちらに向かおうかと提案されたが、それも薄紫に暮れていく空を見て遠慮した。大丈夫っす、合鍵がありますから。そう言いながら大家を見ると、笑いながら管理用の鍵を差し出してくれる。ありがたく受け取りながら、それなら明日職場に持って行けばいいな、という電話越しの声を聞いたところで何かしらの魔が差してしまったらしい。気がつけば、何気なく口にしていた。
「それ、先輩が持っててもいいっすよ」
 多分とても疲れていたからいつもは足を止めてくれる緊張やためらいがよそに逃げていたのだろう。発言の後の沈黙でシグマはようやく我に返り、ごまかそうと慌てて言葉を探したところで怪訝なミハルの声がした。
『何で?』
 いやなんでと訊かれてもこちらこそ困るというか。そう言いたくても言えないせいで今までどんなに苦労したか。だが分かっていて直せるものなら、今このように居心地の悪い空気を感じることもなかっただろう。シグマは嫌な汗をかきそうな手で受話器を握り、顔の高さで発言を待つ受声器に話しかけた。
「や、あの、なんか便利かなーと。ほら返すのでわざわざ手間かけるのもあれですし、どうせ鍵はもう一個ありますし。だったら別に先輩が持っててもいいんじゃないかなー、って」
 自分でも何を言っているか危ういほどに不審な挙動で答えると、耳にあてた受話器からはちょっとした説教が流れてくる。そんな防犯意識でいいのか、だの、もっと注意深くなった方がいい、だの。注意深く言葉の意味を考えて欲しいのはあなたですがと言いたくても言えなくて、結局はいつも通り半笑いでごまかした。わざわざすみませんでした。そうすると実験への協力と疲労を優しく労われて、通話はそこで終了する。何か希望のようなものも幕が下りたような気がして、肩の重みがどっと増えた。いつもと同じ独白が胸のうちに浮かび上がる。
「馬っ鹿だなあ」
 一言一句同じ言葉を耳で聞いて、シグマはぎくりと振り向いた。家人用の小さな椅子に腰かけてため息をついているのは、カリアラだ。彼は大家に貰ったらしい茶の器を手のひらでくるりと回すと、音を立てて飲み干した。
「お前、そういうの何回やれば満足なんだ?」
「俺だってやりたくてやってるわけじゃ……というかなんでここにいるんすか」
「仕事が早番だったから遊んでもらおうと思って」
 冗談めかすわけでもなく、愛想笑いをするでもなく、あくまでも真顔で言うのでどんな顔をするべきなのか相変わらず迷ってしまう。カリアラは丸みのある茶色の目を向けたままで空手を出した。
「合鍵、いらないなら俺にくれ。時々掃除しといてやるから」
「いりませんよそんなの。第一勝手に入れるじゃないっすか」
「こじ開けて入るたびにぶつぶつ文句言われるだろ。今日だって疲れてるだろうから晩飯作って待ってたのに、どうせ怒られるんだろうな」
「丸焼き以外の料理だったら礼ぐらいは言いますけどね」
 どんな手法を使うのかいまだによく分からないが、カリアラはどんな鍵がかかっていてもたちまちに開けてしまう。これまでも数えるのに飽きるほど部屋の中に侵入されて、勝手にくつろがれていた。今さら鍵がどうこうと考えるのも馬鹿らしい。
 二階の自室へ歩いていくと、当然のようにカリアラもそれに続いた。空にした茶碗を置いて大家に礼と愛想を放つ。いやに親しげな雰囲気が気にかからないでもないが、カリアラはいつだろうが誰だろうがあっという間に親しくなるので今さら尋ねることでもない。謎の多い若い姿の老人は、うん、とひとりごちて言った。
「それにしても、合鍵を渡すのはちょっと早すぎたかもな」
「すみません傷抉るのやめてくれませんか」
 自分でも何を口走ったのか、と猛省している最中なのだ。改めて聞かされると痛々しくて敵わない。だがカリアラは無表情で意味もなく両手を伸ばす。
「何言ってんだ。この痛みを覚えていれば次はどーんと行けるはず。その後でばばんと来て最終的には子ども作れ」
「あんたそればっかりか」
 もはや口癖と言っていいほどに繰り返された彼の願い。始めのような動揺もなく軽く流すと、カリアラはシグマの両肩を掴んだ。眼鏡の奥から真剣な目がまっすぐにこちらを刺す。
「……グイエン」
 カリアラはいっそ悩ましげなほどの声で、きっぱりと言いきった。
「俺が一番好きな言葉は『子孫繁栄』だ」
「知ってます」
 その理由も願う事情も彼については何もかも。だが分かっていても簡単に聞き入れるわけにはいかない。シグマは大家から借りた鍵で部屋の中へと踏み込んだ。カリアラもつまらなさそうについてくる。
「そんないきなり子ども作れとか言われても、聞けるわけがないっすよ」
「じゃあもっと具体的に手伝えばいいのか? 二人きりで閉じ込めるとか」
「それはこないだので十分です」
 思い出すだけで気まずい記憶を掘り起こされて、知らずと声が不機嫌になる。カリアラはそれにも構わず真面目な顔で宣言した。
「いや、今度は交尾するまで外に出さねえ」
「訴えますよ。そういう即物的なことじゃなくて、もっとこう雰囲気とか……あるでしょう。俺の何倍も生きてるんだから、色々知ってんじゃないっすかー?」
「いや俺は嫁さん一筋だったから、かけひきとかわかんねえ」
 じゃあそのヨメとやらにどーんと行ってばばんと来たのか。と尋ねたところで肯定されるに違いないので聞かなかったことにする。シグマは部屋の片隅に、確かにカリアラ製の丸焼きが鎮座しているのを確認すると夕食の準備を始めた。カリアラは切り分けることすらしないので、ナイフぐらいは出さなければ。
「そもそもですねー。俺は別に、そんな先輩とどうこうとか思ってるわけじゃないんすよ。そのへん誤解して勝手に盛り上がってくっつけようとか言われたら、余計に嫌になるっていうか……」
「大丈夫。恥ずかしがらなくても俺はちゃんとわかってるから」
「だーかーらー。それが誤解だっていうんすよ」
 変わらない彼の姿勢にうんざりしながら食器を漁る。そうしていると床でくつろぐカリアラがのんびりと声をかけた。
「グイエーン。合鍵くれ」
「だから嫌ですって。なんでそんなに欲しがるんすか」
「お前ので鍵の数がちょうどよく揃うんだ。ミハルのはもう持ってるから」
 ぴた、とフォークを握る手が止まる。もう一度頭の中でミハルのはもう、と反芻し、驚いた顔で振り向くとカリアラはにやりと笑っていた。固そうな人差し指が、まっすぐにシグマの心臓のあたりを示す。
「じぇらしい」
 鮮やかに増した笑みを悔しい顔で見返して、シグマは口を横に結んだ。
 カリアラは嬉しげににこにこと微笑みをこぼしながら、鉄色の鍵を見せる。
「ミハルの家の合鍵。あげようか?」
「いりませんよっ。何に使えっていうんすか!」
「不法侵入」
「あんた犯罪者か!」
 たしなめるとカリアラはいつも通りの真面目な顔で、ぶらぶらと鍵を揺らした。
「これはちゃんと本人がくれたんだ。羨ましいだろ」
「羨ましくないですー。そんなのいらないっすー」
「自分に素直にならないと人生は大変だぞ?」
 拗ねた口で言ってみても相手が揺るぐはずもない。カリアラは口元を緩めてはからかうようにシグマを見上げる。その余裕をいつかなんとか打ち崩したいと考えながら、シグマは侵入上手な男の前に丸焼きの皿を置いた。そうして彼が握る彼女の鍵をちらりと見ては、やはり忘れた自分の合鍵は受け取らずにおこうかと、真剣に考えだした。