その季節は土地の旧い言葉では《夏余月》と呼ばれていて、言葉通り、夏の熱波も使い果たした余りしか残っていない、過ごしやすい時季だった。 「あれ、二人ともまだ0歳なんですか?」 猫を倒し、ビジスが天へと昇りつめて事態がようやく片付いたころ。手渡されたそれぞれの『人間申請仮登録書』を見て、シラが不思議そうに問う。カリアラの書類も、サフィギシルの書類も、年齢の項には「零」と記されていた。サフィギシルは運ばれてきた料理を取り分けながら、ああ、と曖昧な返事をする。 「まあ、そうするしかなかったっていうか……技師作品の生年月日は、ちゃんとした規定がいまだにできてないんだよ。木組みの本体ができた日が誕生日だって人もいるし、そうじゃなくて魂が目覚めた日から数えるべきだとか、中には作品の設計が完成した日がそうだって言う人もいる。いつまで経っても論争が終わらないから、技師協会は作品登録時の生年月日申請は、各技師の判断に任せてるんだってさ」 「それで、どうして0歳なんですか?」 「いや、カリアラの誕生日なんてわかんないから」 サフィギシルは肉を呑む元ピラニアを、匙の柄で示して言う。 「十九ってのも正確じゃないって言ってただろ? 俺だっておんなじで、誕生日がいつかちゃんと覚えてないからさ。でもなにか書いて埋めておかなきゃってことで、今日の日付にしておいたんだ」 「あ、ホントだ。お前ら今日が誕生日かよ。あれ、シラもだ」 覗き込むピィスにあわせてシラも書類を見直した。 「ほんとう。私も今日なんですね」 「だって生まれた日がいつかなんて訊いてる暇なかったしさ。シラは義肢付加生物としての登録だから、実年齢にしておいたよ」 「私も0歳にしてくれればよかったのに」 彼女の年齢項目は、しっかりと三十六になっている。不満げな様子にその場の空気がなごんだ。 「もっと若い方がよかったって?」 「違いますよ。それもあるけど、でもそうじゃなくて……ねえ」 不名誉な顔でカリアラを見ると、彼はいつも通りの真顔でうなずく。 「うん。おんなじが良かったな」 サフィギシルもピィスも、ああ、と納得した。群れや同じものへと向かう想いはカリアラカルスの本能であり習性である。あくまでもこだわるカリアラを見て、ピィスが優しい笑みを浮かべた。 「ああそっか、どうせなら一緒がいいよなー。二人だけずるいっていうか、オレも混ぜろよー。いいなあみんな同じ誕生日。毎年同じ日に歳を取るんだぞ?」 「じゃあピィスもおんなじにすればいいんだ。お前も今日がたんじょうびだ」 「え?」 後半は冗談のつもりだったのだが、カリアラはそうするのが当たり前だと言わんばかりの表情で、仲間たちをぐるりと見回す。 「だめなのか? ピィスも群れだからおんなじがいいだろ?」 濁りのない目で尋ねられて、サフィギシルは考えるように腕を組んだ。 「まあ、気の持ちようだから……いいんじゃないか? 同じってことにしとけば」 「そうですよ。ひとりだけ別の日にするよりも、いっぺんにみんなお祝いした方が便利ですし」 ああそれに。とシラが微笑う。 「祝福の歌はもう歌われてしまいましたしね」 皆の耳によみがえるのは壊れた猫の祝福歌。まさしく今日この時を謳うそれに、誰もが頬をゆるめていく。 「その話はするなよ、もー」 恥ずかしげに赤くなるピィスもまたどこか嬉しそうで、四人は同じ気持ちとなってくすくすと笑みをこぼした。 かけがえのないあなたに 出逢えたよろこび この世の奇跡 今日という素晴らしい日に よろこびのうたを 祝福を 生を受けたこのよろこびに 惜しみない祝福を 祝福を 風は歌い光は踊る 水と大地は語り合う かけがえのないあなたと出逢えた奇跡に 生を受けたこのよろこびに 素晴らしきうたを 祝福を よろこびのうたを 祝福を 焼けつくような日差しもやわらぎ、風はかるく天は遥かに澄みわたる、素晴らしい季節だった。これからやってくる冬の気配はまだ足元にも見えていない。凍てつく時の近づきすら感じられない、夢のような。 「……二十三、か」 薄暗い部屋の中、サフィギシルは窓の外を見つめている。カリアラは彼の呟きと同じ言葉を繰り返した。二十三。外見の変わらない彼らには丁度いい年頃ではある。中身はもうその数歩先を歩んでいたが、書類に刻まれた年齢は時の流れに寄り添うだけ。二十三。カリアラはもう一度呟いた。 サフィギシルが笑う。 「若いよなぁ」 カリアラはうなずいた。そうするより他にやり方が見つからなかった。サフィギシルは残された時を探るように、カリアラの顔を覗く。 「なぁ」 カリアラは動かない。 「なんで、よりによってこの日なんだろうな」 カリアラは答えるべき言葉を知らない。 「なんで……わざわざ、この日に……」 手のひらで覆われた肌は、土くれのような色をしていた。 彼らは毎年同じ日に集まって祝いあった。 それぞれの生まれた日を。彼らの出会いを。皆のはじまりとなったその日を。 歳を取り、別々の家庭を持ち、顔を合わせることが少なくなっても、その日だけは時間を作り食卓を囲む。 今日にしても、二十三度目の祝いをするはずだったのに。 それなのに、これから丁度一年後、彼らは。 「なぁ」 もたれかかるサフィギシルの肩は震えている。カリアラはそれに触れることができない。 「なぁ……」 言葉が嗚咽に消えていく。それを止める手立てはない。 とても良い季節だった。まるで彼らが祝うためにあるような。 まるで、彼らの最期の場所を用意していたかのような。 海が遠いからだろうか、その街の風はいつも乾いていた。山のふもとであるために秋という季節は短く、すぐに寒さが来るらしい。ロイヘルンでは、その時季はもはや冬と変わりない。 「そうだ。俺、明日は来ないから」 カリアラは枯れ色の庭を眺めて呟く。窓の映りこみ越しに、シグマの不思議そうな顔が見えた。 「でも誕生日なんでしょう? 先輩だってケーキとか準備するって……」 「だって、俺、泣くから」 カリアラは振り向かずに続ける。 「誕生日会なんてしたら、俺は絶対号泣する。恥ずかしいだろ。いい歳してわあわあ泣いて、それでばかに疲れるんだ。お前たちの前でこれ以上そんなことできるか」 「そんなことって」 薄らと透けるシグマの像が困惑する。カリアラはそれですら直視できず、乾いた土に目を落とす。 「誕生日って言っても何もめでたいことなんてないんだ。ミハルにも言っておいてくれ」 シグマはまだ何か止める言葉を探していたが、それが耳に届く前にカリアラは部屋を出た。ここしばらくの間、住んでいるのと変わりないほど長くいた場所。自分でも近くに部屋を借りてはいたが、カリアラは結局はこのシグマの部屋に居座り続けた。薄い壁は周囲の人の気配を伝える。もうひとりきりではないのだと、再確認することができる。 カリアラは数日ぶりにそこを離れた。静かな自分の部屋へと戻った。 そこでなら、十分に泣けることを期待して。 昔から泣くことが何よりも苦手だった。涙をこぼしたが最後、感情は制御の手を離れてまるでこの世の終わりのように激しい嗚咽にもまれていく。水が枯れるほどに泣き、終いには声がかすれて泣き声すらまともに吐くことができない。カリアラは泣くことが嫌いだった。だから、逃げる癖がついた。 明日は一日何もすることがなく、そんな時に昔のことを思い出さないわけがない。カリアラは深く眠るための薬を飲んだ。目覚めたときに明日が終わっているように願いながら目を閉じた。 ――四人でこうして過ごすなんて、まるで誕生日みたいだ。 カリアラの言葉に皆は笑った。それは強がりだったかもしれないし、自嘲の意味を含んでいるようでもあった。サフィギシルの家にそれぞれの荷物を運びながら、昔のように暮らし始める準備をしながら、カリアラは言う。 ――もう、誕生日を祝うこともないんだな。 寂しげな声は場の空気すらも沈ませて、皆の言葉を奪ってしまう。しばらくの間、誰もが何も言えないまま、ただ荷解きを続けていた。別々に暮らした日々が彼らの世界を広げたのだろう。以前とは比べ物にならない量の荷物は、並べても、並べても、まだ箱の中に眠っている。日が暮れても終わらない作業を続けながら、サフィギシルが呟いた。 「明日も、誕生日にしようか」 それぞれの目が彼を向く。サフィギシルは真面目な顔をしていた。 「どうせ、最初から正確な日付じゃない、勝手につけた生年月日だ。それならまた勝手に変えてもいいだろう。明日も誕生日で、明後日も誕生日。その次も、その次もずっと誕生日にすればいい」 「何それ。じゃあ、みるみる老けていっちゃうね」 「ああ。俺たちはな」 サフィギシルは戸惑うカリアラを見つめて告げた。 「お前はそのままだ。明日からは俺たちだけが誕生日ということにする」 動揺するピィスとシラにも構わずに、彼は冗談のない顔で言う。 「俺は今、二十三だ。明日は二十四、明後日は二十五。一年後には三百八十七歳になる。でもお前はそこでようやくひとつだけ歳を取って、二十四歳。俺のほうが三百六十三も年上だ」 無言で作業を続ける間に計算していたのだろうか。サフィギシルは迷わず数字を出す。 「お前は、俺たちの後をゆっくりと歩いてくる。そうやってひとつずつ歳を取っていく。なぁ、俺が何を言っているかわかるか?」 首を振るカリアラを、サフィギシルはまっすぐに見つめて言う。 「お前だけが歳を取っていくことはないんだ。俺たちは、先に行って待ってるから」 カリアラはびくりと揺れた。見開かれる瞳の先で、サフィギシルが笑う。 「だから、お前はゆっくりと歩いてこい。俺たちは、ずっと先で待ってるから」 サフィギシルはあたたかい声で続ける。 「待ってるから」 カリアラの目の中でその姿が白く霞む。嗚咽の中に溶けていく。 目が覚めると、泣いていた。カリアラは息を呑んだまま手のひらで顔を覆う。深く、肺をしぼるような息をして、力なく寝返りを打った。枕元は大量の涙で水びたしになっている。布が頬に貼りついていくが、それを剥がす気力もない。 絶望的なことに、まだ日付は誕生日のままだった。カリアラは確かめた時計を壊したくなる。時刻は夜。この特別な日が終わるまで、まだ三時間も余っている。 ため息と共に計算をする。いったいこれで何歳になったのだろう。正確な数は忘れたが、少なくとも二百は越えた。 まだ、あの時の彼まで百以上の空きがある。 ――俺たちは先で待ってるから。 遠い、遠い、道の先で彼らが手を振っている。笑顔の彼らを思い出すとまたしても涙があふれた。これから何度こんな日を迎えることになるのだろう。ただひとり残されて、幸福だった光景を繰り返し思い出して。 もう、再び眠ることもできないだろう。カリアラは失った水分を取り戻すために蛇口をひねった。夜に落ちる部屋の中、こぼれる水の音がいやに響く。カリアラはふと窓を見た。その姿勢で、固まった。 いつもならば見えていた人家の明かりが消えていた。グラスを放り出して窓に取り付く。大きな音を立てて開くが、沼にも似た暗闇はその気配すら吸い取った。見回しても人気はない。カリアラは冷たい空気に呼びかけるが誰の声も返ってこない。うるさいと怒鳴る声も。なんなのだろうと訝る姿も。 何も。誰も、存在しない。 カリアラは悲鳴を上げて駆け出した。息も白む夜の中を裸足のまま走りぬけた。向かうのは昨日切り捨てるように去った部屋。 「グイエン! グイエン!!」 出入り口にしている窓に取り付くが、部屋の中は夜をそのまま閉じ込めたように暗く、遠くを見通すことすらできない。鍵をこじ開ける手が震えて道具を落とす。カリアラは窓を叩いた。だが割れるほどに鳴らしても、シグマのいる気配はない。 目の前に闇が降りる。知らずうちに膝をついた。 カリアラは、呆然と空を見る。 「ミハル」 その方向には彼女がいるはずだった。カリアラは引かれるように立ち上がり、月すらない夜道を走る。進んでも進んでも明かりはなく、人気もなく、ただ自分自身の呼吸音と土を掻く足音だけが暗闇に消えていく。カリアラはひたすらに走った。黒髪の少女の元に。唯一の縋ることができる場所に。 足を止める。ぽつりと灯る、遠い月のようなひかり。闇の中、まるで道しるべのように、小さなランプが据えられている。植え込みの傍に立つそれに導かれ、カリアラは影のように暗い彼女の家へとよろめきながら歩いていく。玄関の敷石にも小さなランプ。だが室内の光は見えない。 もう、呼ぶ力も残っていない。カリアラは震える手で入り口のベルを押した。 ほどなくしていやにあわてた足音が騒がしくこちらに向かう。 喜びを感じる間もなく玄関の扉が開けられて、カリアラは目を丸くする。 ノブを握るミハルの目はそれ以上に見開かれていた。 「あー! やっと来た!」 その後ろからひょこりと顔を覗かせて、シグマが安堵の息をつく。 「もう遅いしどうなることかと思ってたんすよー。ああよかった。ほら、ケーキ食べましょうケーキ! 料理はちょっと食べちゃったんすけど、ケーキはちゃんと手付かずで待ってたんですよ。料理も取り分けてますし。ほら、入って入って」 気まずいほどに動揺している二人に構わず、シグマはカリアラの腕を引く。 「ずっと待ってたんですよ。先輩も俺も」 その言葉が、まぶたの裏を穿った。自分でもわからぬうちに涙が飛び出して、向き合うシグマが悲鳴を上げる。彼は止まらないカリアラの涙にわあわあと騒ぎながら奥に消え、大量のタオルを抱えて戻ってきた。 「はいっ! 大丈夫ですちゃんと用意しときました! もうどれだけ泣いてもいいっすからね!」 そしてカリアラの顔に押し付ける。その布があまりにも暖かくて、カリアラの目からはまた涙があふれて止まらなくなる。嗚咽が喉を鳴らし始めた。カリアラはこれ以上泣くまいと堪えながら、よろよろと外に向かう。いけないいけないこのままではあまりにも情けなくて、無様すぎて。 だがその胴に腕が回る。背にからだが押しつけられる。 ミハルが、しっかりと抱きついてカリアラを止めていた。 「せ、せんぱ」 絶句するシグマを頭の隅でかわいそうに思いながらも、カリアラは逆らいがたい熱が弾けるのを感じた。緊張にこわばる彼女の腕は、もう逃しはしないと叫ぶように彼のからだに食いついてくる。カリアラは息を忘れた。涙が、声が、堰を切ったようにあふれる。 カリアラは泣いた。子どものように、雄たけびにも似た嗚咽と共に顔中を涙に濡らした。二人がふらつく体を支えて中へと導いてくれる。暖かく、光にあふれた人の家に。いつかのような祝福の用意された席に。 「な、なんで、これ」 きれぎれに尋ねると、シグマが背をなでてくれながら言う。 「いや、先輩が、カリアラさんは絶対誕生日をしなきゃいけないからって。待ってたら絶対ここに来るって言うから。でも本当に来ましたね。何でわかったんすか?」 「だって」 ミハルが強く手を握る。 「泣いたあとひとりだと、とても耐え切れないだろう?」 カリアラは息を吐いた。だがそれはまた涙を伴いタオルをひどく濡らしていく。止められずにわめく背を、シグマがずっとなでている。 「そうっすよね、だってもう冬至ですもん。どこも雨戸閉めちゃうし」 「な、んだ、それ」 「この季節になると、このあたりの家は全部防寒用に雨戸を閉めちゃうんですよ。だから夜道が歩きづらくなるって、この前教えたじゃないすか……って痛! なに、なんで叩くんすか!」 カリアラは安堵とこのやろうという気持ちが混ざってどうしようもなくなって、勢いのままシグマを叩く。本気の攻撃ではないがそうでもしないと感情の行き場がなくて、泣きながら、人の熱を感じながら。 「ああもう……とりあえず俺たちはいつまでも待ちますから、好きなだけ泣いていいっすよ」 ね、先輩。と言いかけた声が驚きに呑まれるのがわかる。タオルに覆われてわからない視界の奥で、シグマはおろおろとしているのだろう。ど、ど、ど、とあからさまな動揺をこぼしていく。 「なんで先輩まで……!? ちょ、タオル! とりあえずはいっ!」 カリアラの手を握ったまま、ミハルも声を震わせている。二人は同じ姿勢でタオルを顔に押し付けたまま、止まらない涙を流していく。シグマですらそれを見てなぜだかもらい泣きをして。二百と五十少しを越えた祝福の日は更けていく。 「俺たちは、待ってるから」 サフィギシルは震える声で告げた。 「だから、お前はそれまで歩き続けろ。ゆっくりでいい。休んでもいい。だけど最後まで諦めるな」 皆もまたそうなのだと言うように、カリアラを見てうなずいていた。 サフィギシルは涙に目を揺らして言う。 「俺たちは待ってるから。ずっと先で、待ってるから」 カリアラは泣いた。自分でもわけがわからなくなるほどに泣きながら、ようやくつかんだ人の熱を、両腕に抱きしめた。 [終] |