“彼”はいつも同じことを呟いていた。
 会話が途絶えてしまったとき、眠りの夜が訪れたとき。彼は消え入りそうな声で言う。
 俺はもうひとりはいやだ。
 誰に聞かせるわけでもなく、冷たい空にとかすように、ただ静かに呟いていた。
 それなのに、また彼をひとりにしなければいけなくなった。自分だけがあの場所を離れられることになった。彼は、ほんの少し笑った。
 お前は生きろ。外の世界でしあわせになれ。
 そう言って、いつものように優しい仕草で頭を撫でた。彼女は泣いた。泣いても泣いても涙が出てきた。このひとをひとりにしてはいけないと、そう、強く思った。泣きじゃくりながらも彼に言う。
 絶対ここに戻ってくるから。絶対に、迎えに来るから。

 ――だから、待ってて。




 眠りから醒めた途端、夢は白く儚く消えた。
 ぼんやりとした目であたりを窺う。静かな部屋を覆うのは、夜の闇が少しずつ薄れていく明け方の色。
 随分と早く目が覚めてしまったようだ。ミハルは重い頭をずらし、壁にかかる時計を見た。醒めきらない思考の中で数字だけが正確に読みとられる。午前四時三十ニ分。もし二度寝をするのならば、追加される睡眠時間は正味三時間といったところか。悪くはない。だが、もう一度眠りにつく気分にはなれなかった。
 夢を、思い出せない。
 確かに見ていた感覚はある。だがどうしてもそれを思い出すことができない。
 覚醒する直前まで何かを見ていたはずなのに、それがどんな映像だったか欠片も浮かんでこないのだ。記憶の中で、夢の箇所だけ塗り潰されたように白い。紙のように平坦な色しか浮かばない。
 感情だけがいやに激しくざわめいていた。言いようのない焦りと不安に包まれる。すぐに動き出さなければいけないような、今すぐ何かに取り掛からなければいけないような気がしてしまう。こんなことをしている場合ではない、はやく、はやく。
 それなのに一体何をすればいいのか、何をしなければいけないのかがどうしても解らないのだ。
 今日が初めてというわけではない。昔から、こんな目覚めを何度もくりかえしてきた。
 閉じた目を両手で覆い、ミハルは静かに息をついた。気が重い。これからまた何日も同じことを繰り返すはめになる。一度こうなってしまうと、少なくとも三日は同じことが続いた。睡眠が足りなくなる。生活に支障が出る。
 何よりも精神的な消耗がつらかった。奇妙な焦りは目覚めどころか一日中まとわりつくのだ。何をしていても間違っているような気がする。こんなことをしている場合ではないと思い、落ち着かない気分になる。
 なのに、どうしても、一体何をするべきなのかが解らない。
 忘れていることがあるのだと思う。この症状に悩まされる時はいつも、大切なものをどこかに置いてきてしまったような気持ちになる。それは、外出先に鞄の中身を置き忘れてしまった時の不安に似ていた。取りに行かなくてはいけない。いますぐそこに戻らなければ。
 でも、その大切なものと場所が、どうしても思い出せない。
 まるで終わりの見えない迷路の中に放り込まれてしまったようだ。ミハルはまだ眠り足りない体を起こした。胃が重い。食べ物がちゃんと消化されていない気配がする。休息を求める脳からかすかに吐き気が伝わってくる。
 彼女はうつろな目で部屋を見回し、また力なく横になる。
 願うようにかたく目を閉じてみたが、結局は朝が来ても眠れなかった。



「あ」
 と声をかけられたのは、昼休みの中庭でのことだった。ミハルはベンチに腰掛けたまま、目線だけでそれに答える。人によっては無視されたとも誤解される、挨拶代わりのちいさな会釈。
 だが相手はそれだけでは物足りないのか、ごく普通に近づいてくる。
「隣、いいっすか」
「ああ」
 置いていた荷物を心持ち自分に寄せる。シグマはすぐ隣に座った。昼食を取り終わったあとにしては、財布ひとつ手にしている様子がない。何も持たない彼の両手をちらりと見つめ、ミハルは呆れた声で言う。
「……食べるか?」
 持参した弁当を差し出すと、シグマは嬉しそうに笑った。
「すみません、じゃあ少し」
 どうせ食欲がなくて食べられる気がしないから、全部食べてしまえばいい。と、言おうとして口をつぐむ。どうせこの男のことだ、それは余計に悪いとか、少しでも食べた方がいいとか言い出すにきまっている。今は余計な干渉をうけとめる気分ではなかった。
 すぐ隣でいそいそと包みが開かれる。ふと見ると、シグマは見るからに「どれとどれをつまもうか」という顔で弁当を見つめていた。こいつには思っていることを隠す気がないのかと思ってしまう。あまりにも解りやすすぎて気が抜けそうだ。
 ミハルはため息を一つついた。
「どうせたかるつもりだったんだろう」
 給料日の手前になると毎月同じことが起こる。シグマは気まずそうに言った。
「あー、いや、別にそこまでは。ほらちゃんと借用書とか書きますし」
「卵焼きにか?」
 口に入れようとした格好のまま手をとめて、シグマは言い辛そうに訊いた。
「えーと、あとサンドイッチも一ついいっすか」
「好きに食べろ」
 自分の不調を隠したままで、全部食べろと伝えるにはどうすればいいだろうか。ミハルはほんの少し悩んだ。その間にも表情は緩めない。重く胃にのしかかる負担と、胸のうちをじりじりと急かしていく不安は、人に悟られたくなかった。
 そういう時はできるだけ表情を消すことにしている。そうすれば人に不安を気取られることはない。
 だがその計算も崩すように、シグマがふと顔をのぞきこんで言った。
「あれ。元気ないっすね」
「…………」
 どうしてばれてしまうのだろうか。
 ミハルは頭を抱えたい気分になった。魔力塔に連れ去られて以降、なんだか色んなことが筒抜けになってしまったような気がする。今までは誤魔化せていたことも、シグマにはいとも呆気なく読み取られてしまうのだ。
「大丈夫ですか? 飯食います?」
 時間だけは山ほどかけて作った弁当を差し出される。だがその中身を胃に入れる気にはなれなかった。手の動きで拒否を示す。眠りが足りていないために、この場を逃れる言い訳が何ひとつ浮かばない。
「食欲がないんだ。全部食べていい」
 結局は、正直に告白するはめになった。
「いや、でもそういう時こそ食べなきゃだめすっよ。ほら、プチトマトだけでも」
 どうしてプチトマトなのかは解らないが、食べたくないので首を振る。
 ここでようやく「もう既に別のものを食べた」とでも言えばよかったのだと気がついた。思いつくのがいつもより数分遅い。脳の疲れが取れていない。
 ミハルは重い胃を抱え、無意識に目を押さえた。
「あ、寝不足とかですか?」
「…………」
 だからどうしてばれるのだろうか。目を押さえたからいけなかったのか。それともくまでもできていたのか。ミハルは降参の気分で呟く。
「少し、な」
 それでも意地をはるように、無表情はぴたりとも崩さなかった。
「また遅くまで家で仕事でもしてたんすか? あ、それか趣味の方の調べ物とか」
 シグマは一つ一つありがちなことをあげていく。だが返らない答えを探るように、無表情をつくるミハルを見つめたあとで、心配そうに口を開いた。
「……なにかあったんですか?」
 だからどうして解るんだ、と今度は口の奥で呟いた。
「どうしてそう思う」
「えー、いや、なんとなくそう思っただけで……。でも本当に大丈夫すか? 具合悪そうですよ?」
「お前には関係ない」
 突き放すように言う。だがここ最近みるみると打たれ強くなったシグマはあまりひるむ様子がない。
「まあそれはそうなんすけど。先輩には関係あるでしょう?」
 あっさりと、手に取ったサンドイッチを箱に戻しながら喋る。
「俺には関係なくても、先輩の体自身にとっては大変な問題じゃないすか。ちゃんと食べてくれよって文句言い出しますよそのうちに。だから労わってやらないと」
「…………」
 論点が微妙にずれたような気がした。
「先輩が関係ないって思うんなら関係ないですし、何も言いたくないなら言わないままでいいっすけど。何かをして楽になるならそっちの方が絶対にいいと思いますよ。当たり前のことですけど」
 微妙どころかとてもずれているような気がした。何を言っているのかが解るようで解らない。
 シグマはふたを閉じた弁当を、ミハルの手に戻して言う。
「だから、俺になんかできることがあったら言ってくださいね」
 その言葉と表情で、彼が自分を気遣ってくれていることだけは解った。
 ミハルはまたため息をつく。悩みを語って楽になれる性格であればいくらか助けになっただろう。だが人に何かを話すのは好きではなかった。自分のことを他人に知られてしまうのが、他の人間の記憶の中に残るのが嫌いだ。
 第一、人に話して解決する問題ではないのだ。自分でも解らないことをあれこれと取り沙汰されるのは嫌だった。自分でも忘れていたい悩み事を、改めて蒸し返されるのには耐えられない。
 そうしている間にも、原因の掴めない焦りだけが募っていく。
 頭の重みに負けたようにほんのわずかに俯いた。空気がやけに気まずくなる。シグマはどこか落ち着かなさそうに、困ったようにちらちらとミハルを見つめる。
「あー、ええと。いない方がいいんだったら、俺、戻りますけど」
 そう言いながらも腰は既に浮いていた。ミハルもまた、そうしてくれと言うはずだった。
 それなのに、手は勝手に彼を引き止めていた。
「え」
 呟きは二人の口から同時にもれた。
 シグマはやや意外そうに彼女を見つめる。ミハルは一瞬自分の動きがわからなくて、少ししてようやく気まずそうに手を離した。軽くうつむく。気にしないで行ってくれと言おうとする。
 だがその前に、シグマが隣に座りなおした。ちらりと見ると嬉しそうに笑っている。
「じゃあ、居させてもらいます」
 ミハルも、ほんの少しだけ笑った。気分が軽くなったような気がする。
「……何か喋ってくれないか」
 ミハルはわずかな笑みを浮かべて言う。
「どうでもいい話がいい。平和で、呑気で、もの凄くくだらない話が聞きたいな」
 誰かに話してどうにかなる問題ではない。自分でもどうすれば解決するのかわからない。
 だが、平和で、呑気で、暖かいものに触れていれば、少しだけ楽になれるような気がした。
「あー、いっぱいありますよそういうの。俺が子供のとき木から下りられなくなった話ってしましたっけ?」
「初耳だな。教えてくれ」
 じゃあ、と言って咳をして、シグマはどこかのんびりと話をはじめる。
「うちの田舎の山の中に、とてつもなく大きな木があってですねー……」
 まだ子供だったとき、従兄弟たちと競争でその木に向かって走ったこと。木につくだけでやめればいいのに、一番になったからと調子に乗って登り始めてしまったこと。そしてはじまる夜遅くまでの救出劇と、後日談。
 そんな話を、飽きもせずにいくつも聞いた。シグマも呑気に話し続ける。
 小さなベンチに二人で並び、ぼんやりと聞きながら。
 ミハルは自分を照らす日差しが暖かいことに、そのとき初めて気がついた。




「ここは、外とは違う」
 泣きじゃくる彼女の頭を撫でながら、彼は静かに言い聞かせた。
「ここには俺しかいない。でも、外には人がたくさんいる」
 ゆっくりと、一言ずつ彼女の体に染み渡らせるように言う。
「お前はまだ何も知らない。もっと、たくさんの人の暖かみを知るべきだ」
 優しく彼女の頭を撫でた。しがみ付く体をそっと抱きしめた。
 かすかに震える耳元に、強く強く語りかける。
「お前は生きろ。外の世界でしあわせになれ」
 彼女は小さく頷いた。彼は満足そうに、また、彼女の頭を撫でて言う。
「忘れるな。人間は、この世で一番あたたかい生き物だ」




 朝の日差しが満ちる中、ミハルはふと目を覚ました。
 時計を見ると、平常時の起床時刻の一分前。まだ醒めきらない頭で時計を止めて、ふと、さっきまで見ていた夢を思い出す。
 とても大きな木のある山で、小さな子供と一緒になって走らされた。いやに長い山道を登りきると大木がある。ようやく辿り着いたと腰を下ろしかけると、唐突にシグマが現れて、せっかくだから登りませんかとよく解らない誘いをかける。
 馬鹿だな、お前、それで降りられなくなったばかりじゃないか。
 いつもそうだ、そうやって何回も何回も同じ間違いをして、この前も……。
 と、彼自身の粗忽さについて説教をはじめたところで目が覚めた。
 とてつもなく下らなくて、どうでもよくて、呑気で、ひどく馬鹿げた夢だった。
 思い出して、思わず顔が緩んでしまう。くすくすと静かな声を立てて笑う。
 いやに楽な気分だった。馬鹿みたいに暖かかった。
 このことをシグマに話してやろうと思う。
 そして昨日のことに礼を言って、給料日一日前の救済に、何か奢ってやろうと思った。


 閉じ込められた思い出は、今はまだ、思い出すことができない。